先生の黒板消し

先生の黒板消し
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 先生の黒板消しが好きだ。
 授業が終わり号令も終わると、先生はゆっくりと私たちに背を向ける。チョーク置きのどこかにあるスポンジを探すでもなく、見つけるでもなく、始めからその場所を知っていたかのようにごく自然に手を伸ばす。背中に付いている輪に手を差し込むことはせず、長い指でそれごとつかんで持ち上げる。それから先生の黒板消しが始まる。
 右から左まで書かれた文字を、やはり右から左に向かって消していく。一行一行、文字に沿って縦の方向に。
 消す前に、行の一番上に黒板消しを置き、一息つく。その時、先生は、自分の書いた文字を見つめている。これでお終いです、よくここにいてくれました、と、文字たちを労うように。寂しいですが消してしまいますよ。
 左端の行まですべてを消し終えると、一度教壇から下りてスポンジを機械にかける。掃除機に似た音を立てるそれは先生にはまったくそぐわないけれど、先生は先生らしい丁寧さでゆっくりとスポンジをきれいにする。
 きれいになったスポンジで、今度は黒板を横にこすっていく。残っていた白い消し跡が、左右に散らされて消えていく。隅のほうにある粉の塊さえ、先生は放っておかない。律儀にすべて拭い去り、それでも落ちない時はもう一度スポンジを機械にかける。ざわついた教室に白い煙が舞う。
 すべてを消し終えると、先生はスポンジを置き、教卓から全体を見渡す。そうして先生の黒板消しは終わる。教科書や備品を手にし、私たちにぺこりと会釈して教室を後にする。
 私の一日で、もっとも名残惜しい瞬間だ。

笹野(ささの)さん」
 最近、授業の合間に大塚(おおつか)君がよく話しかけてくる。
「昨日の帰り道、すすきを持っている子どもを見たよ」
「すすき?」
「女の子と男の子でね、きょうだいに見えた。お姉ちゃんは犬のロープを持っていて、弟はすすきを手につかんでいた」
「家でお月見をしたのかな」
「きっとそうだろうね」
 大塚君は楽しそうに笑う。私も一緒に笑う。
 反すうしながら思い浮かべてみる。片方は犬を連れ、片方はすすきを持って家に向かう姉弟。夕飯と一緒に月見団子を用意するお母さん。ウサギが見えるだろう、とうきうき語るお父さん。
「次は芸術の授業だね」
 大塚君との会話はいつも突然始まり、突然終わる。
「うん」
 お月見一家を頭の中に住まわせたまま、私は立ち上がる。大塚君もそれに倣う。
「笹野さん」
 立ち上がる過程で顔の高さが重なった時、待っていたかのように大塚君がささやいた。
「このあいだの話、考えておいて」
 それが済むと、大塚君は本来の高さに顔を持ち上げる。私も背筋を伸ばして完全に立ち上がる。
 わざわざ耳打ちで、考えておいて、などと言う話は一種類しかない。
 私はうなずくと、机に出しておいた教科書を手に取った。大塚君は自分の席に戻る。
 私は美術を、大塚君は書道を選択している。

 美術室に向かうには長い廊下を通る。職員室のある廊下を。
 教科書とスケッチブックを抱えた私は、その前で何気なく足を止めてみる。職員室の戸は半分開いている。先生の姿が見えないかと無意識に探す。
 目に付いた先生は、立ち上がって自分の机を離れるところだった。目の前の戸に向かって歩いてきたので、慌てて目をそらし、偶然を装う。
「笹野さん」
 先生はどの生徒のことも、必ず苗字にさん付けか君付けで呼ぶ。
「次は芸術ですか」
 そして必ず敬語を使う。
 先生の疑問文が好きだ。上がり調子にならない、文字に置き換えれば記号が付かない語尾。それでいて決して断定にはならず、気長に返事を待っている声の色。
「はい」
「美術でしたね」
「はい」
「今はどんなことをしているんですか」
「風景画を描いています。私は駐車場の植え込みの木を」
「つつじですね」
 先生がすぐ返してくれたので、思わず声が高くなる。
「はい」
「僕もあそこの風景は好きです」
 先生は微笑み、私の肩をすり抜けて歩いていく。
 先生の歩き方が好きだ。すっと姿勢を伸ばしてだらしなさはまったくないのに、近所の公園を歩いているようなのどかさがある。思いのほか広い背中。音をたてない足取り。
 私はスケッチブックを抱きしめて、再び美術室へと向かう。

 先生のことはよく知らない。
 週にたったの三時限おそわるだけで、担任でもない。目が合えば誰でも話しかけてくれるけれど、にぎやかに打ち解けるほうではない。
 はじめに好きになったのは先生の手だった。
 穏やかな雰囲気に似合わず大きく筋張っていて、先生ではなく大人の男の人の手だった。そのくせ何に触れる時も骨董品を扱うみたいに丁寧で優しい。目は口よりも多くを語るというけれど、先生の場合は目よりさらに多くを手が語る。
 一度だけ、あの手に触れたことがある。
 ほんの一瞬だったけれど、どんなに長い年月よりも大きなものを私に残した。
 私は一人で教室の掃除をしていた。机と椅子をすべて後ろに下げ、いつもより広く見える床をほうきで掃いていた。
「笹野さん」
 先生が私を呼ぶのは、これが初めてだった。
 床から顔を上げると、半分開いていた戸のところに先生が立っていた。
「掃除ですか」
 例の疑問文を聞くのも初めてだった。
 物静かだけれど引き締まった声で、少ない言葉で多くを語る人だと思った。
「はい」
 先生は視線をめぐらせ、下げた机のところを一周させてから私に戻した。
「一緒にやりましょう」
 ほうき一本と二本の差ははっきりとしていた。あっという間に掃き掃除は終わり、先生と私は机を今度は前に動かした。
 教科書やノートがぎっしり詰まり、横には鞄もかけてある机の重さは予想以上だった。
「笹野さん、椅子を運んでください」
 先生は率先して机を持ち上げ、残った椅子を私に目で示した。
 私は先生に続いて椅子を運んだが、気遣いに甘えて楽な仕事ばかりはしていられない。一列分の椅子を運び終えると、先生より先に次の列の机に触れた。
 先に、と思ったのはやや見当違いだったらしい。
 実際は私と先生の動きにほとんど差はなく、一瞬だけ遅れて先生が手を伸ばした。先生も私とぶつかることは計算外だったのだろう。手を伸ばした先にはすでに私の手があり、机の端で積み重ねられるようにそれらは触れ合った。
 反射的に手を離したのは私のほうだった。
 どちらも机を持ち上げるには至っていなかったので、取り落としたりする事故にはならずに済んだ。だが私は大きな失敗をしてしまったように、手を引いたままの姿勢でしばらく固まった。
 先生は心なしか呆然と見つめていた。
「すみません」
 沈黙を破らなくてはと思い、とっさに飛び出したのは謝罪の言葉だった。不注意で手に触れてしまったことと、その手をあからさまに引っ込めてしまったことと、二つについて詫びるべきだった。だがこんな片言みたいな台詞では何も伝わらないだろう。わかっていても、それ以上の声は出てこなかった。
「いいえ」
 先生はうすく微笑んで言った。
「こちらこそすみません」
 その後は、私は机に触れようとはせず、先生に付いて椅子だけを運び続けた。
 右手中指の、付け根の骨のところが、微かに熱を持っていた。先生の手のひらが触れたところだ。
 一瞬触れ合っただけですぐに離れてしまった。自分から離したはずなのに、後になるとなぜか名残惜しかった。
 今、その手は机を運んでいる。両側に丁寧に指をかけ、人を運ぶみたいに一つ一つゆっくりと片付けていく。
 長い指。広い甲。ついさっきあれは私に触れたのだ。少しだけ高かった熱がはっきりと残っている。
 好きだ。この人の手が。
 はっきりそう思った。


「笹野さんの家には犬か猫はいる?」
 教科書を鞄に詰めていると、大塚君が来てそう尋ねた。
「ううん。いない」
「鳥や金魚は?」
「ううん。何も飼っていないの」
「うちは昔、犬を飼っていたんだ」
 私は待った。大塚君が話を続けるのを、自分の手を止めて。
 だが大塚君はしばらく沈黙を置いた後、改まって口を開いた。
「笹野さん」
「はい」
「一緒に帰らない?」

 大塚君と、教室の外で一緒にいるのは初めてだった。
「犬の名前はトーストっていったんだ」
「トースト」
「毛の色がね、きれいに焼けた食パンの焦げ目に似ていたから」
「柴犬だったのね」
「そうなんだ。おいしそうで可愛い犬だったよ」
 大塚君と私は相性がいいのだと思う。言葉のやりとりが、こうして一緒に歩くのと同じくらい自然に進む。大塚君がまとう空気の温度はわたしのそれとぴったり同じで、無理に上げたり下げたりする必要がなくとても居心地がいい。
 けれどその中にいても、私は先生を思い出す。
 先生の手。先生の疑問文。先生の歩き方。
 先生の黒板消し。文字を消す前に一息つくあの一瞬。
「大塚君、ごめんなさい」
 歩き続けながら前を見て言うと、隣で大塚君がうなずく気配がした。
「うん、わかった」
 いつまでも待つよ、毎日一緒にいられなくても構わないと言ってくれた。
 この人の気持ちは私にとって大切すぎる。一番の宝物にできないのに、宝石箱の片隅に置いておくなんてできるわけがない。
「ありがとう」
 そう言ったきり、何も聞かずにいてくれた大塚君を見つめ、私は小さく決意した。



「先生」
 あくる日の放課後。職員室を出てきたところで呼び止める。
「連れて行ってください」



 ――連れて行ってください。
 少しだけでいいから、学校ではないどこかへ。
 私の言葉に先生は微笑し、首を傾げた姿勢で言い聞かせた。
――今日だけですよ。
 それから、学校近くの神社の前で待つように言い、自分はロッカーに向かった。
 指示された場所で再び落ち合うと、黙って一緒に歩き出す。
 先生の鞄が好きだ。ありふれた上質の皮製で、先生の手によく似合う。だいぶ使い込んであるのにくたびれた感じがしない。ほどほどに傷んだ蓋のところが愛着と信頼を感じさせ、先生が必要とすればどんなものもすぐに出してくれそうに見える。任せてください、私は何でも持っていますよ。
 十分ほど歩いた後、先生が足を止めたのは個人経営の喫茶店だった。民家の一階を改造して店舗にしてあり、煉瓦の壁に蔦が絡む古めかしい外観を持っている。
 中に入ると、紅茶よりもコーヒーの香りがふんわりと漂っていた。いらっしゃいませ、とにこやかに声をかけた主人は、けれどそれ以上話しかけてはこず、先生と顔見知りではないようだった。開き戸に付いていた鈴がしばらく揺れて鳴っていたが、やがて静まり店の中には沈黙が残った。他にお客はいないようだった。
 先生と私は、奥の席に向かい合って座った。背の高い観葉植物が遮って、カウンターとはお互いがよく見えない。私が通路を背に、先生は壁を背に座った。
「何にしますか」
 先生が差し出したメニューを見て、私は初めてここが飲食店だと言うことを思い出した。
 私は少し時間をかけて、しばらく飲んでいなかったミルクティーを選んだ。先生は主人を呼び、ブレンドコーヒーと一緒にそれを頼んだ。主人はお冷やとお絞りを置いていった。
「お絞りって、一番内側の部分がびっくりするくらい熱いですね」
 思った以上に緊張していたのか、気がつくとそんなことを口走っていた。
「小さいころ、不用意に触れて泣かされたことがあります。外側とはぜんぜん温度が違いましたから」
「わかります」
 先生は頷いた。
 先生の頷き方が好きだ。肯定を意味するその仕草は、邪心のない人がするとどこまでも限りなく優しい。
 注文したものが同時に来て、先生と私は一緒に手をつけた。ミルクティーは砂糖を入れなくてもとろりと甘かった。先生も、香ばしそうな色をしたコーヒーを砂糖なしで飲んでいる。
 二つのカップが空になるまで、いろんな話をした。
 物静かで口数の少ない先生は、意外にも話し上手だった。他のクラスの授業で起きた愉快な脱線、職員室で先生同士で話したこと、学生時代のくだらないけれど素敵な思い出。どの話もその光景が目に見えるように生き生きとして楽しかった。
 私もまた、美術のスケッチをしていて野良猫を見かけたこと、雨宿りに入った店でレジのおばさんと仲良くなったこと、小さいころ旅行先で迷子になったことなどを楽しく語った。
「こんなに長く話したのは初めてですね」
 コーヒーをすっかり飲み干した後、先生はゆっくりつぶやいた。
「先生は、学校ではあまり話しませんね」
「言われてみればその通りです」
「今日はとても楽しかったです」
 先生は穏やかに頷き、穏やかな表情のままで続けた。
「これで良かったですか」
 私は頷いた。
「はい」
 先生の鞄。先生の頷き方。先生の言葉。先生のいる気配。
 私の好きな先生のすべて。
 きっと一生忘れない。
「これで気持ちを入れ替えて、新しい学校に行けます」
 今日からちょうど一週間後、私は先生のいる学校から去ることになる。つつじの風景画はたぶん間に合わないだろう。
 大塚君はそれでもいいと言ってくれた。いつまでも待つよ、毎日一緒にいられなくても構わない、と。転校した後も与え続けてくれる彼を切って、今日一日だけの先生が欲しいなんて、私は傲慢でみっともない子。
 それでも、先生の黒板消しが好きだ。
 右から左に向かって一行一行消していく。直前に一息つく表情には、優しさはあってもためらいはない。役目を終えた文字たちは一瞬で消し去られる。
 一体どれだけの文字を、言葉を、先生は消してきたのだろう。きっと私も、その中の一行に過ぎないのだ。
「先生、好きです」
 先生は頷く。これでお終いです、よくここにいてくれました。
「ありがとうございます」
 ――寂しいですが消してしまいますよ。
 すべての行を消した後、先生は白い跡さえ見逃さずに拭い取る。きれいになった黒板にはもう何も残っていない。


 転校するその日まで大塚君とは毎日話した。私が『ごめんなさい』と言ったあの時以来、大塚君は一切その話には触れなかった。今までと同じ心地よい温度で接してくれた。
 私は新しい学校へ行く。大塚君は私のいない学校へ行くことになる。
 何かが終わり、何かが始まるたびに、私は先生の黒板消しを思い出す。
 すべてを消し終えた後は、きれいになった黒板を見渡してみる。新しい言葉を書き込むために。



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