夜の水族館

夜の水族館
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 夏休みにはまだ早いとはいえ、週末の水族館は混んでいた。小さな子どもを連れた家族、二十代くらいの恋人同士、もう少し年若の少女たち。
 その群れをかき分けながら進んでいくと、イルカのオブジェの前でワンピースの女性が手を挙げた。私もすぐ手を振り返した。姉と会うのは半年ぶりだ。
「遅かったじゃない、沙保(さほ)
「ごめん。改札が混んでて」
 水族館まで徒歩五分の駅を中心に、私と姉は百八十度反対の方角に住んでいる。私は大学の下宿。姉は嫁ぎ先の一軒家。
 姉が家族と暮らす家の近くに私たちの実家がある。二人ともこまめに帰っているはずなのに、その時期は面白いほどすれ違ってしまう。だからこうして顔を合わせるのはお正月の帰省以来だ。
「かなえ」
 姉は足元に目を落とした。
「沙保ちゃんよ。覚えてるでしょ」
 あざやかな柄のワンピースの陰から、小さな手と顔が覗き出した。姉に似ているけれど表情はまったく違う。いつも遠くから観察するように見つめてくる。やせっぽちの、子どもらしくない色白の手足。
 姪のかなえは母親である姉よりも、なぜか私に性質が似ていると親戚は言う。
「こんにちは、は?」
 かなえの祖母にそっくりの口調で姉が促した。
 小さな子どもと話す時は、中腰になって、目線を合わせてあげる。お正月に姉が説いたことを、私はしっかり思い出して実践する。
「こんにちは、かなえ」
「……こにちは」
 捨て置くような短い言葉が返ってくる。
 『大きくなったね』とか『幼稚園は楽しい?』とかお決まりの台詞を言う前に、かなえから目をそらして俯いてしまった。もともと明るい子どもではなかったけれど、今日は一段と引っ込み思案になっている。
「もう、また恥ずかしがって」
 かなえの頭を撫でる姉の顔は、私よりよほど丁寧に化粧されている。もともとはっきりした顔立ちに、陰りのない笑みがまぶしく映える。
「変な子ねえ。遊びに連れて行ってあげるって言っても、今日はぜんぜん嬉しそうじゃないの」
 かなえは青いリボンの付いた麦わら帽子を載せている。梅雨明けしたばかりの陽気が、かなえの顔に影をつくっている。
「かなえったら、水族館は怖いなんて言うの」

 姉が三人分の入館料を払ってくれて、私たちは水族館に入った。
 正面にはまず視界全体を覆う巨大な水槽があり、色とりどりの魚が無数に泳いでいる。最上部は屋根の上に露出しているのか、淡い光が静かに底へ降りてきている。
「ほら。おさかな、きれいでしょ」
 姉に促されてかなえが水槽の前まで進む。同じように親に背を押された子どもが左右に並んでいる。
 赤の魚も緑の魚もいたはずだが、薄暗い水槽の中ではすべてが青みを帯びていた。
 魚だけではない。彼らの背景をつくる珊瑚の群れも、水の光に照らされた子どもたちの顔も、その足元に落ちた小さな影も、すべてが別世界のように青かった。
 大人の手のひらくらいある魚が、揺らめきながらこちらにやってくる。私の前へ来たと思うと気が変わったように身を翻し、それまでとは垂直の方向に泳ぎ出す。
 魚が横を向いた瞬間、青い目がこちらに向けられて目が合った。そんな気がした。
 一瞬、背中が大きく震えた。効きすぎている冷房のせいだけではない。

 淡水魚、深海魚。
 北方の海、南方の海。
 施設の構造に従い、順を追って水槽を歩く。
 姉はアザラシの赤ちゃんに歓声を上げ、私は期間限定の公開だというくらげが気に入った。悠々と泳ぐサメの前でつい長居をし、両生類のコーナーは目を伏せて早足で通り抜けた。
 一回りに一時間かかる館内の八割を観終えても、かなえはほとんど言葉を発しなかった。姉に促されて水槽を覗き込み、『きれいでしょ』とか『かわいいね』といった言葉に律儀にうなずいていたが、自分から感想を伝えようとはしなかった。青い光を放つ水槽の前に立ち、愛想のない顔をますます強張らせていた。
 特に怖がったのは海亀だ。人が乗れそうなほど立派な甲羅を背負い、重たそうに水底を泳ぐ姿は確かに不気味だった。
 これには姉も賛同したらしく、かなえの手を握りながら私に言った。
「お祭りで売ってるミドリガメは、あんなにかわいいのにね」
 姉の家では数ヶ月前からチワワの仔犬を飼っている。動物は小さければ小さいほどかわいい、というのはごく一般的な嗜好なのだろう。
「こんなに大きいとなんだか気持ち悪い」
「ほんと」
 私はかなえを目の端で見た。
「近付いたら襲われそう」
 その時、海亀が不恰好な足を使って、私たちの目の前へやってきた。魔女のように皺の寄った頭部の中で、二つ目だけが無邪気なほど黒々としていた。
 その目がかなえを見た。
 かなえは負けじと睨んだように見えたが、実際は恐ろしさのあまり凍りついただけだったかもしれない。

 かなえは正式には叶という字を当てる。女の子を産んだら付けたいと、姉が高校時代から言っていた名前だった。けれどこの名前が一番ふさわしいのは、かなえではなく姉自身だろう。
 昔から、姉が欲しいと願ったもののうち、手に入らなかったものがあっただろうか。
 従姉が持っていたくまのぬいぐるみも、誰よりもうまく乗りこなした自転車も、水玉のレースが付いた発表会のドレスも、姉が望んだものは遅かれ早かれ必ず彼女の手の中にやってきた。高校も大学も第一志望にすんなり通り、夢だった化粧品会社に就職し、学生時代からの彼氏と結婚した。そして“叶”を産んだ。
 いつも私からは遠かった。私よりもずっと先を、あるいはまったく別の道を歩いていた。

「沙保、大学はどうなの」
 一番の人気者だというイルカの水槽に辿り着いた。それまでかなえをあやすのに精一杯だった姉が、急に思い出したように私に振った。
「別に、いつも通りまあまあ」
 五頭のイルカが水の中を所狭しと飛び回っている。
「いつもそんな答えね。もっと具体的に何かないの?」
 イルカは顔つきが優しい。垂れがちの両目に、心持ち上がった口角が笑顔のように見える。
「夏休みが終わったら、卒業なんてあっという間なのよ」
 けれどその優しい口元に、ずらりと並んだ鋭い歯を隠し持っている。
「友達で進路が決まった子もいるんでしょ」
 『海の豚』などと間の抜けた名前を持っているが、彼らは鯨の仲間なのだ。地球最大の哺乳類の。
「早く準備した者の勝ちなのよ」
 しなやかに身を反り返らせ、ゴムまりのように跳ねる。あの細い身体が巨大な水圧を跳ね返す。
「聞いてる? 沙保」
 水族館の水槽のほとんどは、私たちの身の丈の何倍も高いのだ。ガラス一枚を隔てて海の底にいるようなもの。水の中の彼らにしてみれば、私たち人間こそがよそ者だろう。
 姉は諦めたのか、苦笑で話を締めくくった。

 すべての水槽を見終えると、屋外のショー会場へ続く道へ出た。建物の壁の端から日光が鋭く差し込んでくる。大げさな言い方だが、ようやく地上へ、陸上へ戻ってきたという気がした。
 さりげなくかなえを見ると、握り締めていた姉の手をいつの間にか放している。彼女も同じ気分でいるのかもしれない。
 ショー会場の近くへ来ると音質の悪いアナウンスが響いていた。――あと二十分で、かわいい、ペンギンのショーが、始まります、ご家族そろって、ご覧ください――繰り返します、本日は……
「観ていく?」
 姉は私にともかなえにともつかない目線で聞いた。
 私が決定権を譲ってかなえを見ると、かなえは無表情のままうなずいた。屋外に出られて安心したのか、強張った顔が少し緩んでいる。
「じゃあ座ろうか。でも喉が渇いたでしょ」
「何か買ってくるよ」
 売店のほうへ向かおうとすると、姉の手に腕をつかまれた。
「沙保はかなえと先に座っていて。私が行くから」
「え」
「かなえは何がいい?」
「ソフトクリーム」
「沙保はアイスコーヒーでいい?」
「――私が買いに行く」
「いいから席を取っておいて」
 私たちを順に見納めると姉は売店へ続く人だかりに紛れてしまった。私はかなえと並んで姉が消えた人の川を見つめていた。
 私とかなえは、特に仲の良い叔母と姪ではない。かなえは誰かまわず懐く子どもではないし、私は小さな子どもをすすんで構いたがるほうではない。親戚が集まればかなえは大勢の女性に取り囲まれ、私はそれをひとり遠くから眺めている。
 もし姉が、久しぶりに会った私たちを二人にしてあげようと思ったのなら、気の遣い損でしかないだろう。かなえに話すことなんて特にない。かなえだって、生まれてから数えるほどしか会っていない叔母に、取り立てて話したいことなどないだろう。
「座っておこうか」
 しぶしぶ促すとかなえは素直に従った。
 劇場型の客席の中でやや上のほうを選び、私たちは並んで腰かけた。タイミングが良かったのか席はまだ半分も埋まっていない。背もたれのない椅子に座って無人のショーステージを眺めた。かなえは地面に付かない両足をきちんとそろえておとなしく待っている。
「かなえ、幼稚園は楽しい?」
 持て余した時間をなんとかしようと、朝に言い損ねたお約束を口にした。膝の上で頬杖を突き、前にあるステージを眺めたままの格好だった。
「別に」
 ――姉が聞いたら、変なところまで似てきたと嘆くだろう。
「さほちゃんは大学、たのしい?」
 同じように正面を向いたまま、かなえは生意気にも聞き返してきた。
「別に?」
 わざと高い声で答えると、かなえは上目遣いで私を見た。
 やはり私たちはどこか似ているらしい。
「さほちゃん」
「何」
「夜の水族館て、どうなってるの」
 私は黙り込んだ。かなえは小さな手でスカートの裾を握り締めている。
 無口で怖がりのかなえはその分だけ想像力に恵まれているはずだ。だからこそ、恐ろしくて仕方のない水族館の姿を考えてしまうのだろう。
 嫌気がさすほど私に似ている。そう思うとひどい苛立ちに襲われ、気が付いたら口を開いていた。
「どうって、別にあのままよ。さっき見てきた水族館が暗くなって人がいなくなるだけ」
 かなえが顎を引いたのを見て、私は図に乗った。小さな悪意に引っ張られていくように話し続ける。
「かなえは知らないだろうけど、水族館の生き物はねえ、夜になっても誰も寝ないで、一晩中起きているの。お客さんや水族館の人が帰っても、みんな水槽の中であのままなの。海亀は目を開けたままだし、イルカはずっと泳ぎっぱなし。だーれもいない、夜の水族館でね。電気も消えて真っ暗で、怖いくらい静かなのに、生き物たちだけが幽霊みたいに動いているの」
 かなえは動かなかったが、その顔は面白いほど生気が抜け落ちていた。生きた心地がしないという気分を生まれて初めて味わっているのだろう。想像した夜の水族館にすでに一人で迷い込んでいる。
 それに満足した私は、とどめを刺そうと先を続けた。
「だからかなえ、水族館でだけは迷子にならないように気を付けたほうがいいよ。誰にも見つけてもらえないまま閉館になったら、一人で夜の水族館にいることになるんだから」
 かなえは私を見上げたまま、一時停止ボタンを押されたように固まっていた。
「沙保、かなえ。お待たせ」
 いきなり声が割り込んで、前の通路に姉が登場した。
「どの辺に座るのかくらい決めておけば良かったね。来てからしばらく探しちゃった」
 場違いに明るく笑うと、姉はかなえの隣に腰を下ろした。
「はいかなえ。溶けかけてるから早く食べてね」
 姉が差し出した白いソフトクリームは、指の間からなかなか取り出してもらえなかった。
 かなえは私を見たままぴくりとも動かず、側に来た姉に振り向きさえしなかったからだ。
「かなえ? どうしたの」
 姉はしきりに首を傾げたが、かなえは石のように押し黙って動こうともしなかった。
 私にはわかる。かなえはほとんどの子どもと比べて泣き虫ではないのだ。泣くのが下手だと言ってもいい。だから、恐怖のどん底に突き落とされてもそれを訴える術を知らないのだ。
 可哀想なことをしてしまった。この時初めて後悔した。

 引っ込み思案で、口下手で、大人に構われるのが苦手で、怖がり。
 かなえは確かに私に似ている。それも、嫌なところばかりが。
 幼い頃の私もかなえと同じくらい怖がりだった。
 雷とか蛇とか怪談とか、そういうありきたりなものは怖くなかったし、今でも大して怖くはない。私が怖がったのは、なぜこれがと大人が首を傾げるような一風変わったものばかりだった。
 遊園地で風船を配っていたピエロが怖かった。
 隣のおばさんが風邪の時に付けていたマスクが怖かった。
 小学校の校庭にあったパンダの形の水呑場が怖かった。
 そして水族館が怖かった。
 かわいいのがたくさんいるよと言う両親に連れて行かれたのは、青い影に包まれた肌寒い別世界だった。水の中にいる生き物たちはどれも無口で、動物園でもそれは変わらないはずなのに、なぜか水族館では際立って感じられた。目と口を開けて泳ぐ魚の群れも、顔に無数の皺を寄せた海亀も、黒い巨体を蠢かせるイルカたちも、得体の知れない不気味な存在だった。かわいいと思っていたペンギンでさえ、水面下を高速で泳ぐ姿を見た瞬間、恐ろしい正体を知ってしまったような気分になった。
 そして、一番の恐怖はそこにいる間ではない。家に帰ってからだ。
 夜、自分のベッドに一人で入ると、どういうわけか水族館のことを思い出した。蘇ってくる昼間の恐怖に震え上がり、その時間、水族館がどうなっているのか考えたくもないのに考えた。
 夜の水族館は暗くて、静かで、誰もいなくて、それなのに生き物たちは一晩中起きている。青い光の中、音もなくただ無心に。
 もしあそこで迷子になって見つけてもらえなかったら、一人で朝まで過ごすことになるのだろうか。そんな想像に一人で怯え、目を閉じるのさえ恐ろしくて眠れなかった。
 かなえは本当に私に似ている。
 だからあんなに苛々したのだろう。


 私とかなえは、出口の手前にある休憩所の椅子に座っていた。姉は通路を挟んで向かいの土産屋にいる。もちろん私も誘われたが断り、かなえもなぜか私のほうに付いてきた。
 私は白いテーブルに頬杖をつき、かなえは小さな手をそろえて、二人とも黙っていた。すぐ側に自動販売機がいくつか並んでいる。ジュースを飲むか聞いてみたが、かなえは無言で首を振った。一時停止状態からまだ立ち直っていないらしい。ペンギンのショーの間もほとんど反応がなかった。私もあまり変わらなかったけれど。
「かなえ」
 それでも私が呼ぶと、かなえは素直に顔を上げた。
「明日からまた幼稚園だね」
 うなずく。
「私も明日から大学」
 うなずく。
「かなえは今いくつ?」
 深い意味はなかった。もちろん姪の年齢くらい知っていたが、かなえは右手を広げて小さく持ち上げた。
 怖がりだった子どもの頃、大人になれば怖いものはなくなると思っていた。
 とんでもない間違いだった。
 確かに、小さい時に怖かったものは怖くなくなった。その代わりにもっと怖いものたちが次々と現れたのだ。ピエロやマスクやパンダの水呑場より、水族館よりもはるかに怖いものたちが。
 ひとつ克服するたびに、またひとつ恐怖がやってくる。それは途絶えることなく延々と続き、この年になっても終わる気配はない。目の前にある恐怖だけでなく、その後にやってくるであろう恐怖にも怯えなければならない。
 前にあるかなえの指を見つめた。
 たったの五つ。私の年齢になるまででもあと十七年もかかる。
 私は息を吸い込むと、姿勢を正して口を開いた。
「かなえ、ごめん。さっきの話は嘘なんだ」
 かなえは目を見開いた。突然話を変えたけれど、何のことかすぐに察したようだった。
「夜の水族館は、本当はね――」
 かなえが首を傾げて続きを待つ。
「――音楽会をやってるの」
 突拍子もない言葉にかなえは驚き、私も自分で驚いた。
 ここで話を止めることはできない。目を丸くするかなえのために、私は想像力を振り絞った。
「お客さんも水族館の人も帰って、誰もいなくなってからそれは始まるの。最初は、イルカの歌。イルカは鯨の仲間だから、歌がすごく上手なの」
 かなえは首を傾げるだけで返事はない。けれど凍り付いていた表情が少し動き始めたようだった。
「それから、かなえはハープって知ってる? 弦っていう長い糸を縦にたくさん張って、それをはじいて音を出す楽器。水族館では小さい魚がみんなでそれを弾くの。弦の間を上手にくぐると、すごくきれいな音が出るんだよ。エイは両手でシンバルを使えるし、イカは笛吹きの名人。指の代わりに足がたくさんあるからね」
「ピアノは?」
 食いつくように質問を挟んだかなえは、自分も一年前からピアノを習っている。
「ピアノは専門家がいるの。誰だと思う?」
 かなえは真剣な顔で首を振り、私は思わず笑み崩れた。
「海亀なの。指がないように見えるけど、実は甲羅の中に別の手を隠していて、音楽会になるとそれを出してピアノを弾くの。水族館中が聴き惚れちゃうくらい上手なんだから。それに海亀は面白くて、楽器を弾きながら自分も楽器になれるの。甲羅の部分が太鼓に似ているでしょ。演奏するのはサメ。しっぽやヒレで亀の甲羅を叩くと、ポンポンいい音がするの。それから――ラッコは何の楽器かわかる?」
「カスタネット?」
「大正解! 普通のカスタネットじゃなくて、貝殻でできたかわいいやつ。みんな、自分が好きな曲を聴かせたり、時には合奏したりして一晩中楽しむの。ペンギンが一列に並んでお行儀よく聞いていて、一曲終わるごとに拍手喝采」
 かなえは自分も手を叩きながら声を上げて笑った。私も一緒になって笑った。こんな話がすらすらと出てくる自分が可笑しくて、でもそれにかなえが笑ってくれたことが嬉しくて、今日初めて心から笑った。
「怖くなくなった?」
「うん」
「かなえが思ってるほど、怖いものは怖くないんだよ」
 私は再び頬杖をついて頭の位置を下げた。かなえと目の高さがちょうど一緒になる。
「だからかなえ、今度また怖くなったら――水族館だけじゃなく他のものでもね、その時は、夜の水族館を思い出すといいよ」
「さほちゃんもそうするの?」
 聞き返されるとは思わなかったので一瞬面食らったが、私は素直にうなずいた。
「うん」
「さほちゃんにも、こわいものがあるの?」
 あどけない目でかなえは聞いてくる。不器用だけど賢い子だ。この子には嘘はつけない。
「うん。いっぱいある」
 かなえと同じように小さかった頃、夜の水族館の幻想に震えていた頃、大人には怖いものなんてないと思っていた。だけど今の私はかなえと同じくらい、ひょっとするとかなえよりも怖がりだ。そしてこれからも怖いものは尽きないのだろう。
 ――でも。
「でも、きっと大丈夫。だからかなえも頑張りなよ」
「うん」
 大きくうなずいたかなえに、私は改めて笑って見せた。かなえも笑顔を返してくる。
「何を二人で笑ってるの」
 いつの間にか姉が側に立ち、座っている私たちを見下ろしていた。手には箱菓子の入った紙袋を下げている。
「お待たせ。二人で何の話をしていたの?」
 決して仲の良くない私たちが微笑みあっていたのが意外なのだろう、姉は嬉しそうに笑いながら私とかなえを見比べた。
「ないしょ!」
 かなえが小さく叫び、私のほうに目配せを送ってきた。
 姉は首を傾げ、説明を求めるように私を見る。
 私は姉に笑顔を見せて、子どものような声で呟いた。
「――内緒」



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