テューダーの薔薇
第九章 テューダーの薔薇 5
ロンドンに戻って十日ほど経ったある朝、エリザベスはウエストミンスター宮殿を出て、テムズ川に沿って歩きはじめた。
この十日間、ヘンリーの側近が入れかわり立ちかわり対話を求め、弟たちのことを知らないかとエリザベスに訊いた。エリザベスはそのたびに、判で押したように答えた。
「何も存じません。弟たちはロンドン塔にいると聞かされただけです」
来客がないと思えば今度はマーガレットが絶えずやって来て、エリザベスが戴冠式で着る衣装のことや、自分が息子を産んだ時のことや、結婚の素晴らしさについてエリザベスと話したがるので、一人の時間はないに等しかった。
それだけではなく、エリザベスにはまだしなければならないことが残っていた。母に手紙を書き、今はヘンリーのものとなった宮廷に来てもらうことだ。母は、弟たちがロンドン塔から移送されていたことを知る、数少ない人間の一人である。早めに話をしてそのことを黙っていてもらわなければならない。弟の王位を取り戻すためだと言えば、母もわかってくれるだろう。あるいは、娘が王妃になることですでに満足しているのかもしれない。母からの返事はまだないが、しばらく待っても来なければ手紙ですべてを話すつもりだ。
エリザベスはゆっくり歩き、久しぶりに見るロンドンの景色を楽しんだ。背後にはマーガレットの選んだ侍女が二人ついてきているが、それでも宮殿にいる時よりははるかに解放されている。
テムズ川のほとりは静かだった。一年以上前、聖域を出た直後に歩いた時と同じように、争乱があったとは思えないくらい穏やかだった。
前方から歩いてきた人影を見て、エリザベスは足を止めた。
相手もエリザベスに気がついたらしく、会釈をして近づいてきた。スタンリー卿――と思いかけて、今はダービー伯であることをエリザベスは思い出した。新王の継父であり、そのためにエリザベスにとってもまもなく義父となる。
エリザベスは伯の前で膝を折り、伯はエリザベスの手をとって口づけた。
ロンドンに戻ってきて以来、この人と話をするのははじめてだった。宮廷で何度か姿は見かけたが、伯はたいてい別の相手と話しており、エリザベスもおおぜいの侍女に囲まれていたので、お互いに近づくことはなかった。
エリザベスは振り向かずに背後の侍女たちに命じた。
「あなたたち、しばらく下がっていて」
「ですが、王妃さま」
結婚も戴冠もまだだと言うのに、侍女たちはエリザベスを王妃と呼ぶ。それでいて、エリザベスがどこで何をしたか、誰と話したかを逐一マーガレットに報告している。うっとうしいことこの上ないが、最近は少しずつあしらいかたも覚えてきた。
「伯と少し話がしたいのよ。お義母さまには言わないから、大丈夫」
二人の侍女が離れていくと、エリザベスはダービー伯と向きあった。
「裏切り者と話がしたいのですか、エリザベス王女」
伯はエリザベスを見下ろし、エリザベスの称号を正しく呼んだ。
ダービー伯は新王の継父として、ボズワースの戦での功労者として、宮廷で確かな地位を築きつつあった。反乱に関与していると言われながら、前王の宮廷で存在感を見せていた時のように。
「裏切り者とは思っていません」
エリザベスは言った。
ダービー伯の背後に、ロンドン塔の姿が見えた。
以前にもまさにこの場所で、この人と話をしたことがある。プリンス・オブ・ウェールズが亡くなった直後のことだ。伯は何を言い出すのかと思ったら、リチャードが王位についたことを庇うような発言をした。あの時この人に言われたことをエリザベスは今も覚えている。
「筋の通しかたは一つではない、と、伯は以前おっしゃいました。これがあなたの筋の通しかたなのだと思っているだけですわ」
ダービー伯はあいかわらず背が高く、向きあうと威圧されるような、それでいて守られているような雰囲気があった。
この人がボズワースでリチャードを裏切り、ヘンリーを勝利に導いた。この人がリチャードを死なせ、ヨーク家から王位を奪い、弟たちを逃亡者の身分に追いつめた。この人がエリザベスを、王妃の座という牢獄に閉じこめた。
それを知っていても、エリザベスはなぜか伯を憎む気にはなれなかった。こうなることをどこかで予感していたからだろうか。生き延びるために主君を裏切ることが乱世の常だからだろうか。こうして伯の長身と向きあっていると、言葉でこの人を動かせるとは思えないからだろうか。そのどれでもあり、どれでもないような気がした。
「ありがとうございます」
「感謝していただくことではございません」
エリザベスは伯の言葉にそっけなく答えた。伯の表情に微笑が浮かんだのを見て、エリザベスはふいに、この人はエリザベスに恨まれたくなかったのだろうかと考えた。戦場で自分がしたことを悔やんでおり、それをエリザベスに赦してほしかったのだろうかと。
考えてもしかたのないことだった。人の筋の通しかたを外側から見ることはできない。
伯は身をかがめ、エリザベスの耳に顔を近づけてささやいた。
「あなたが知っていることを、わたしは誰にも言いません」
エリザベスの身に緊張が走った。それを悟られないように相手の顔は見ず、足もとに視線を落とした。
「何のことをおっしゃっているのかわかりませんわ」
「それでいい。あなたもわたしも、ヘンリーが知りたがっていることについて何も知らないのですから」
エリザベスの弟たちがロンドン塔から移されていたことを、今もどこかを逃げながら生き延びているということを、伯はこの先も黙っていてくれるつもりなのだ。
エリザベスはうなずきもせず、伯に見下ろされながら黙ってその言葉を受け入れた。
ロンドン塔がテムズ川の向こうから、二人の裏切り者を静かに見つめていた。
ダービー伯と別れたあとも、エリザベスは川のほとりをしばらく歩き続けた。何度も一人で歩き、弟たちのことを考えた道を、今また同じことを考えながら歩いている。
――おかわいそうな、おかわいそうな、二人の王子さま。
いつか聞いた声が再び耳に入り込んできて、エリザベスは思わず足を止めた。顔を上げてテムズ川の向こうを見ると、ロンドン塔があの時と変わらずにそこに建っていた。
エリザベスの頬を涙がつたい落ちた。シェリフ・ハットンで戦の結果を聞いた時からはじめて、エリザベスは泣いていた。
ロンドン塔は今もここに建っている。けれど、あの時いたリチャードはもう地上のどこにもいない。エリザベスが殺したからだ。
そう、エリザベスが殺した。誰よりも正しかったあの人に甥殺しの罪を着せた。戦場で一度は殺されたあの人を、別の意味で再び葬った。どんなに悔やんでも、償おうとしても、取り返しはつかない。
――おかわいそうな、おかわいそうな……
多くの王たちの死を見てきたロンドン塔は、エリザベスの涙など取るに足らないものだとでも言うように、川のほとりに建っている。
*
ロンドンに戻ってからのエリザベスの暮らしは単調なものだった。弟たちのことを訊きにくる者が絶えると、訪問者は義母のマーガレットだけになった。王妃とは呼ばれながらもこれと言った任務もなく、たくさんの侍女たちに囲まれながら寝起きを繰り返すだけだった。
そんな日々の中、エリザベスは長らく顔を見ていなかった人物の訪問を受けた。
「久しぶりね、ジョン。元気にしていた?」
エリザベスは自分の居間で従弟を迎え、向きあって座った。
できる限り人は払ったが、それでも二人の侍女がどうしてもと言って残った。すべての会話を耳に入れてマーガレットに報告するつもりだろうか。
「はい。問題ありません」
「お姉さまもお元気?」
「姉は少し体調が優れないようです。一緒に連れてきたかったのですが、それで外出させられませんでした」
「まあ……そう」
ジョンと会うのはロンドンに戻ってきてからはじめてだった。シェリフ・ハットンを従姉妹たちとともに発ったあと、彼は途中で進路を変えて、姉の婚家に身を寄せていたのである。
今はお互いだけが家族となった姉弟は、二人で亡父の死を悼むことができたのだろうか。
リチャードはレスターシャーのボズワースで戦死したあと、ロンドンにも、かつての本拠地であった北部にも戻らなかった。遺体は三日間も晒しものにされ、まともな弔いもされず葬られたと聞いている。自分の父をそんなふうにした新王の宮廷に、ジョンは一人でやってきたのである。
「お姉さまにもお会いしたいわ。良くなられたら一緒に来てくださるよう伝えてね」
ジョンはあいまいにほほえんだだけで、エリザベスの言葉に返事をしなかった。
「レディ・エリザベスは――」
ジョンは言いかけ、慌てて首を振った。
「いえ、王妃陛下はお元気でしたか」
今度はエリザベスがほほえむ番だった。
「あなたまでそう呼ぶのね、ジョン」
「みんながそう言っているものですから」
「わたしはまだ王妃になっていないわ。前と同じように呼んでちょうだい」
「では、レディ・エリザベス」
ジョンはあらたまって呼びかけ、エリザベスは笑った。
「このとおり元気よ。話し相手がいなくて寂しいけれど」
「妹君たちは」
「母のところに帰したの。そのうち戻ってきてくれると思うけれど。今はあなたが来てくれてうれしいわ、ジョン」
ジョンと話したいことはいくらでもあった。以前ロンドンでともに過ごした日々のこと、シェリフ・ハットンで起きたこと、弟たちのこと、リチャードのこと。
だが、侍女たちが聞いている前ではあたりさわりのない話しかできない。
ジョンはエリザベスの姿を見て、眩しそうに目を細めた。
「王妃になられるのですね、レディ。こうしてお会いしていると、以前とお変わりのないように見えますが」
「わたしはまだほんの小娘なのにね」
「いいえ。王妃でも王女でもなかった時から、あなたは宮廷の主にふさわしい貴婦人でした」
ジョンは臆面もなくそう言った。
エリザベスは従弟の顔を見て、自分の姿を見下ろして、弱々しく笑った。
「あなたがそう言ってくれると、本当にそんな気がしてくるわ。自分がどんな王妃になるのか、まだ見当もつかないのだけど」
この言葉の本当の意味を、ジョンならわかってくれるだろう。
エリザベスが王妃になると決めたのは、ヘンリーの目を弟たちからそらすためだった。しかし、実際にこうしてロンドンに戻り、平和を祝う臣民に王妃と呼ばれていると、シェリフ・ハットンでのことが夢か幻だったように思えてくる。弟たちは本当に生き延び、いつか王位を取り戻して、エリザベスを救い出してくれるのだろうか。そう思っているのはエリザベスだけで、ヘンリーと弟たちが王位をめぐって戦うことなど、誰も望んでいないのではないだろうか。
そう考えるのはとても怖いことだった。これからヘンリーの王妃として過ごす、決して短くはないだろう年月。それをどう生きればいいのかまったくわからない。弟たちを信じて待ち続けるつもりではいるけれど、この静かな日々の中で自分を保っていられる自信がない。もし弟たちが戻らなければ、エリザベスはこの牢獄に閉じこめられて生涯を過ごすのだ。
「どんな王妃になられても、あなたは幸せな一生を送られます」
エリザベスは目を上げた。
ジョンは従姉に目を向けながら、どこか遠くを見つめるようにほほえんでいた。
「父の宮廷でも、あなたは幸せそうでした。王女だった時とはまったく違う日々を送ることになったというのに、あなたはその中でしっかりと自分を保ち、まわりの人を――ぼくのことも支えてくれました。思いがけないことが起こって世界が様変わりしてしまっても、その中で筋を通して生きていくということをあなたは知っている」
「今度もそれができるということ?」
「はい。必ず」
エリザベスは黙った。本当にそんなことができるのだろうか。
いつ果てるとも知れない王朝の、名ばかりの王妃。ヘンリーの隣で白薔薇を持ってほほえみながら、イングランドに訪れたつかの間の平和の象徴となる。心の底ではヘンリーの敗北と、テューダー家の滅亡を祈りながら。
そんな日々の中で、筋を通して生きていくことが自分にできるのだろうか。
考えてもすぐに答えは出なかった。エリザベスはふと視線を戻して訊いた。
「あなたはどう、ジョン?」
「え?」
「あなたにもそれができそう?」
ジョンはほほえんだ。エリザベスの心配が伝わったのか、安心させようとしている様子が痛々しかった。
「わかりません。でも、努力してみます」
エリザベスは居ずまいを正した。自分のことばかりを考えて弱音を吐き、ジョンに励ましの言葉をもらってしまった。本当に辛い思いをしているのはこの従弟だというのに。
この先がどうなるのかはまだわからないが、王妃になることでできることもある。ヘンリーに疎まれるであろうジョンとその姉を、テューダー家の目や手から守ることだ。二人に肩身の狭い思いはしてほしくない。敗死した前王の遺児ではなく、新しい王妃の従弟妹として宮廷にいればいい。
「これからも会いにいらしてね、ジョン。またあなたとこうしてお話がしたいわ」
「いいえ。ぼくはもう参りません」
エリザベスは何を言われたのかわからず、ほほえみを浮かべたまま凍りついた。
ジョンはエリザベスを見て困ったように笑った。エリザベスの聞きまちがいではないようだった。
「わたしを恨んでいるのね、ジョン? あの時のことで」
シェリフ・ハットンで弟たちを見送った時、一緒について行きたいと言ったジョンを、エリザベスは引きとめた。そのためにジョンは今ここにいて、自分の父を死なせた王の庇護下で暮らしている。
「いいえ、そうではありません。あなたのしたことは正しかったと思います」
「それなら、どうして?」
エリザベスはジョンを見つめて、答えを待った。
ジョンはしばらく黙ったあと、やがて心を決めたように口を開いた。
「あなたはぼくにとって、父を殺した男の妻です」
エリザベスは何も言えなかった。思いもよらなかった言葉に打ちのめされると同時に、この言葉を予想できなかった自分を激しく憎んだ。
「ひどいことを申し上げているのはわかっています。あなたは何も悪くありません、レディ・エリザベス。でも、王妃として生きていくあなたを見ていられる自信がないのです」
呆然としているエリザベスの前で、ジョンは穏やかな表情のまま続けた。
「本当に申し訳ありません。もう、お目にかかることはないと思います」
ジョンが部屋から出ていったあとも、エリザベスは座ったまましばらく動かなかった。
父はとうに亡くなり、リチャードも地上から去った。弟たちもいなくなった。そして、残された時間を分かちあえると思っていた従弟も、エリザベスのそばから離れていった。
一人になったこの宮廷で、エリザベスはどう生きていけばいいのだろう。
幸せな一生を送ることができると、ジョンは言ってくれた。それは王妃になれるからでも、偽りの平和の中で守られるからでもない。筋を通して生きていくことを知っているからだと。本当にそんなことができるのだろうか。
物心ついた時から、エリザベスは王女だった。王の娘として育ち、長じて王の姉となり、王の姪となった。そして今度は、王の妻としてこのイングランドで生きていく。
「寒くなってきたわ。火を入れてちょうだい」
自分の手が冷たいことに気づき、エリザベスは侍女に命じた。ジョンが去ってからかなり時間が経っており、日が落ちて空気が冷たくなっていたのだ。侍女たちも寒かったことだろう。
エリザベスは指先をこすりながら、一人で椅子に座ったまま、部屋の中があたたまるのを待ち続けた。
Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.