テューダーの薔薇 [ 9−4 ]
テューダーの薔薇

第九章 テューダーの薔薇 4
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 エリザベスは妹たちと従弟妹たちを連れて、およそ半年ぶりにロンドンに戻った。異国に嫁いで永遠に去るはずだったこの地に、再び暮らすために戻ってきたのである。
 馬車が市街地に入ると、外のあちこちで歓声が上がった。ロンドンの臣民がエリザベスの帰りを待っている、という使者の言葉は嘘ではなかったらしい。エドワード四世の娘が王妃となり、長く続いた内乱が終わることを多くの者が望んでいる。
 馬車から降りて人々の前に姿を現せば、彼らの歓喜は頂点に達するだろう。しかしエリザベスはそうしなかった。同乗している妹とも話をせず、馬車の中まで響いてくる歓声を、ひとごとのように聞いていた。

 ウエストミンスター宮殿に着いてすぐ、エリザベスを出迎えたのは、今は新王の母と呼ばれているマーガレット・ボーフォートだった。
「ベス、会いたかったわ」
 マーガレットは会うなりエリザベスを抱き寄せ、当然のように頬を差し出した。
 エリザベスはその頬にキスすると、礼儀正しく膝を折った。
「またお会いできて光栄です。ダービー伯妃レディ・マーガレット」
「まあ、お義母さまと呼んでちょうだい」
 マーガレットはエリザベスを見てほほえんだ。あいかわらず優しげな声だった。
「長旅で疲れたでしょうね。それにしても、どうしてもっと早く戻らなかったの」
「反逆者たちが今も国内をたむろしていると聞いたので、恐ろしくて城の外に出られませんでした」
「かわいそうに、怖かったでしょうね。でも、もう心配はいりませんよ。イングランドは恒久の平和に恵まれるのです。あなたとヘンリー王の結婚によって」
 マーガレットはエリザベスの肩を抱き、歩き始めようとした。
「さあ、あなたの王がお待ちですよ。ヘンリーはこの時のためにヨーロッパじゅうをさまよい、流浪の身に耐えてきたのよ。あなたはなんて幸せな娘なんでしょうね」
 静けさに満ちた宮殿でマーガレットの声を聞いていると、イングランドに平和が訪れたというのは本当のような気がしてくる。ラヴェル子爵をはじめヨーク派の騎士が今も身を潜めているというのに、ロンドンの臣民はそんなことを知らないかのように、内乱が終わったと喜んでいる。
「どうしてそんな顔をするの、ベス」
 マーガレットが急に立ち止まり、肩を抱いたままエリザベスの顔を見た。
 自分が笑っていないことに、エリザベスははじめて気がついた。マーガレットを真似て浮かべていたはずの微笑がいつの間にか剥がれ落ちていたようだ。
 エリザベスは苦笑して首を振った。
「旅の疲れが出ただけですわ。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「でも、なんだかとても悲しそうだわ」
 マーガレットは絵に描かれたものを読み解くように、エリザベスの表情を観察した。
「そんなことはありません、お義母さま」
「正統の王の妻になれるというのに、どうしてそんな悲しい顔をするの」
 マーガレットは執拗に問いつめてくる。娘の態度を咎める義母というよりは、わからないことを無邪気に知りたがる子どものようだった。
 エリザベスは小さく息を吐き、十字を切った。
「たくさんの方が亡くなったからです。陛下がわたしを王妃にしてくださるまでに、たくさんの犠牲の血が流されたからです」
 マーガレットも、ロンドンの臣民たちも、そのことを忘れている。ボズワースの戦場で命を落とした前王と騎士たちは、まるではじめから存在しなかったとでもいうように。つかの間の、それも偽りの和平を受け入れ、それに酔っている。
「あなたは優しい娘ね。彼らの魂が救われるよう、神に祈りましょう」
 マーガレットは敬虔なキリスト教徒の顔になり、エリザベスと同じく十字を切った。
 エリザベスはあいまいにほほえんだ。
 これからしなければならないことと比べれば、マーガレットの相手は簡単だった。すべての言葉に従順にうなずき、ほほえんでさえいれば、マーガレットは幸福そうな笑みを崩さない。
 エリザベスが悩んでいる――ロンドンまでの旅路でずっと悩んできたのは、この先のことだった。
 ヘンリー・テューダーに会う。今は王座にいるランカスター家の後継者。エリザベスの夫。エリザベスの生涯に現れた四人目のイングランド王。

「エリザベス・プランタジネットです、陛下。お招きいただきありがとう存じます」
 エリザベスは視線を落とし、深く腰をかがめた。
 ヘンリーがエリザベスを呼んだのは、ウエストミンスター宮殿にある謁見用の広間だった。呼ばれたのはエリザベス一人だったが、ヘンリーのほうは多くの側近を従えている。彼らの視線を身に感じながら、エリザベスは声をかけられるのを待った。
 ほどなくして耳に響いてきたのは、新王の声ではなかった。静まりかえった空気の中に足音が響き渡り、エリザベスに近づいてきた。
「顔を上げてください」
 エリザベスは命じられたとおりにした。目の前に立つ人物を見ようとしたが、その前に相手が顔を伏せ、エリザベスの手を取ってキスを落とした。
「エリザベス王女」
 ヘンリーが顔を上げ、妻にする娘の名を呼んだ。
 エリザベスはすばやく目を走らせた。茶色い髪を長く伸ばした、痩せぎすの長身の男。舞台に立った役者のように、自分を王らしく見せるありとあらゆる物を身につけている。頭上の王冠、豪奢なガウン、鎧をまとった衛兵、たくさんの廷臣たち。そして、ヨーク家の血を引く王妃。
「ようやくお会いできました。どんなに長くこの日を待ったことか」
 ヘンリーはエリザベスを見下ろし、ほほえんだ。白目の広い酷薄そうな両眼が、笑うと急にやわらかい雰囲気になった。
 エリザベスもにっこり笑った。
「わたしもですわ、陛下。お会いできるのを心待ちにしておりました」
「待たせて申し訳ない。しかし、こうしてこの国にやってきました。あなたとの約束を果たすために」
 ヘンリーは今度はエリザベスの両手を取り、高らかな声で続けた。
「次の議会でわたしは、あなたや母君の名誉を汚したあの法案を破棄します。あなたはエドワード四世陛下の正嫡の王女となる。今までも、これからも」
「ありがとう存じます、陛下」
「妹君たちもシェリフ・ハットンからお戻りですか。宮廷に呼び寄せて、これまでどおりご一緒にお暮らしください。イングランド王の義妹として良縁をお約束しましょう」
「ありがとう存じます、陛下」
 エリザベスは少し目を伏せたあと、控えめにヘンリーを見上げた。
「従兄弟たちのこともお願い申し上げます。ウォリック伯エドワードは元気でしょうか」
「もちろん。彼は安全な場所でお守りしています。この平和を喜ばない輩に利用されないように」
「姉のマーガレットがあの子に会いたがっていますわ」
「近いうちに必ずお会いしていただきましょう」
「リンカン伯ジョンと彼の弟たちは?」
「彼らはサフォーク公爵家の令息たちです。サフォーク家がわたしに仕えてくれる以上、彼らの安寧も守られるでしょう」
「カレー総督ジョンと彼の姉は?」
 ヘンリーは一瞬たりとも口を閉ざさなかった。
「もちろん、宮廷で名誉ある暮らしをしていただきます。彼らもわたしの王妃の従弟妹に違いないのですから」
「ありがとう存じます、陛下」
 エリザベスはほほえんだ。ヘンリーと会って最初にしてもらわなければならないこと、妹たちと従兄弟たちの身の保障は済んだ。
「お会いしたばかりだというのに、質問ばかりしてしまいましたわ。ご無礼をお許しください、陛下」
「いいえ、当然のことでしょう。あなたが身内想いの優しいご婦人だとわかって嬉しく思います」
 ヘンリーはエリザベスに手を差し出した。エリザベスはきょとんとしたが、すぐに意味を悟って手を重ねた。ヘンリーはゆっくり歩き、エリザベスを広間の上座に連れていった。
 エリザベスは、広間にいるすべての人の視線が自分に注がれているのを感じていた。今日のこの日はイングランドの歴史に永遠に刻まれることだろう。若き王と王妃による新たな王朝が始まった日として。その王朝がまたたく間に滅びるとしても、エリザベスの意に反して長らえるとしても。
 王妃の椅子に座らされるのかと思ったが、ヘンリーはその前で立ち止まり、エリザベスと向きあった。
「一つ、あなたを悲しませることをお伝えしなければなりません」
 ヘンリーの両手がエリザベスの両手を握り、ヘンリーの目がエリザベスの目をのぞき込んだ。
「ロンドン塔に幽閉されていたはずの、あなたの弟君たちが見つからないのです。何かご存じではありませんか」
 廷臣たちの間で小さなざわめきが起こった。弟たちの行方が知れないことをはじめて聞いた者もいるのだろう。ヘンリーがこの場を選んで公表したのは、もちろん考えあってのことに違いない。
 エリザベスは表情を変えずに、答えた。
「存じません、陛下」
「あなたは母君と聖域から出られたあと、前王の宮廷でお過ごしだったでしょう。弟君たちとはお会いにならなかったのですか」
「何度も願い出ましたが、聞き入れてもらえませんでした。弟たちに会わせてもらうことはもちろん、様子を聞くことさえ叶いませんでした」
 広間のざわめきが明らかに大きくなった。まさか、本当に、という声がそこここで上がる。
 エリザベスは目を伏せ、ヘンリーの手を見ながらその声を聞いていた。
「殺されたと思いますか?」
 ヘンリーは、聴衆の疑問を代弁するかのように、短い言葉で訊いた。
 エリザベスは目を上げなかった。
「存じません、陛下」
「忌まわしい噂はわたしのいた大陸にも届いていました。あなたの弟君たちは王位を奪われて幽閉されたあと、叔父である前王によって殺されたのでしょうか」
「存じません、陛下」
「わたしはあなたの考えを訊いているのです」
 ヘンリーの手がエリザベスの頬に触れ、エリザベスを上向かせた。
「わたしはボズワースの戦場で、あなたの弟君たちの仇を討ったと思っていいのでしょうか」
 エリザベスはヘンリーの目を見た。
 王位を継ぐ権利を自分の中に持たない僭称王が、自分の最大の敵が死んだことをエリザベスの口から聞きたがっている。
「――はい、陛下」
 エリザベスは口を開いた。おびただしい数の目に見つめられ、必死で見透かそうとするヘンリーの目に射止められながら、書かれた台詞を読み上げるように声を出した。
「弟たちの無念を晴らしてくださって、ありがとうございました」
 突然、エリザベスはヘンリーに口を塞がれた。見はからったように広間が拍手でいっぱいになる。唇が離れてはじめて、エリザベスはキスされたことに気がついた。
「ありがとう、わたしの愛する王妃」
 ヘンリーはエリザベスの肩を抱き寄せ、王座に背を向けて、廷臣たちのほうを向いた。そしてエリザベスの手を取り、胸の高さまで持ち上げた。
「ヨークの白薔薇でもなく、ランカスターの赤薔薇でもなく、これからはテューダーの薔薇がイングランドに咲き誇り、平和と繁栄をもたらすだろう」
 ヘンリーの声が高らかに響いた。
「長らく続いた争いの日々は終わった。この美しい国が再び剣と血で汚されることのないよう、神よ、ご加護を!」
 先ほどよりもいっそう大きな拍手が、ヘンリーとエリザベスを包んだ。
 エリザベスは横目でヘンリーを見た。ヘンリーのほうはエリザベスを見ようとせず、沸きおこる拍手と歓声に笑顔で応えている。エリザベスは静かに目を離し、前を向いた。
 広間に集まった廷臣たちがヘンリーとエリザベスの名を呼んでいる。テューダーの名を叫んでいる者もいる。
 エリザベスはヘンリーの隣で、それに応えることもほほえむこともせず、黙って群衆の声を聞いていた。いくつもの声があわさって一つの大きな生き物となり、エリザベスの体を呑み込んでいくような気がしていた。


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