テューダーの薔薇 [ 9−2 ]
テューダーの薔薇

第九章 テューダーの薔薇 2
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 エリザベスがエドワードと二人きりで話したその日、エドワードはシェリフ・ハットンの城で、自分がイングランド王であると宣言した。立ち会った者は彼の姉妹や弟、従弟妹、そして城の使用人たちだけで、彼のために剣を捧げられる者は一人もいない。城の外に知らせるわけにはいかないので、事実上は何の影響ももたらさない。
 エドワードの宣言を聞いた子どもたちは、きょとんとしていた。エリザベスが弟に代わって彼らに説いた。ヨークに忠誠を誓う者がエドワードのために駆けつけ、この城を守ってくれると。小さな妹たちと従妹のマーガレットは、それを聞いて安心したようだった。セシリーとジョンはまだ不安そうな顔をしていたが、少なくともそれを言葉にしようとはしなかった。使用人たちはエリザベスの話を部下にどう伝えるべきか考えているようだった。
 一風変わった反応を見せたのは、下の弟のリチャードだった。兄に後継者として名を呼ばれると、彼は肩をすくめて疑問を口にした。
「ぼくは王子なの? 王子じゃないの?」
「あなたは王子よ、リチャード」
「父上がいらしたころはそうだったけど、違ったと言われたよ。やっぱり王子だったってどういうこと? はっきりさせてほしいよ」
 居合わせた何人かは少年の無邪気な言葉にほほえんだが、エリザベスは逆に真顔になった。エリザベスもまた、十九年間生きてきた中で、王女だった時とそうではなかった時があった。王座にいる王が変わるたびに身分を書き換えられてきたのだ。
 戦場で王冠を勝ち取り、間もなくロンドンに向かおうとしている新王は、エリザベスは王女だと言うだろう。エドワード四世の正嫡の娘であり、王位継承者だと。
 だが、それを言うと同時に彼は、ここにいる別の王の存在も認めることになる。

「ヘンリーは、あなたと弟は今もロンドン塔にいると思っているわ」
 再び弟と二人きりになった時、エリザベスはエドワードに言った。城の外にも自分の存在を知らしめたい、イングランド全土に王位を宣言したいという弟を諭すために。
「でも、実際はここにいる」
「そう。あのままロンドン塔にいたら、あなたたちはヘンリーの手に落ちるところだった」
 エリザベスは自分の言葉に身を震わせた。弟たちがロンドン塔から別の屋敷へ、そしてこの北部の地に移されていたことに、感謝せずにはいられない。
「ヘンリーはロンドンに入ったら、真っ先にあなたたちの生死を確かめようとするはずよ」
「ぼくたちの死を願いながら?」
「ええ、きっとそうね」
 ロンドン塔に幽閉された二人がリチャード王の命令で殺されたという噂は、ヘンリーももちろん耳にしているだろう。そして、それが事実であることを願っているはずだ。不確かな王位を手にロンドンに入った時、最大の障壁である王子たちがすでに亡き者にされていれば、ヘンリーにとってこんな都合のいいことはない。彼は安心してエリザベスに結婚を申し込める。
「でも、あなたたちの姿はロンドン塔から消えている。ヘンリーは必死であなたたち二人を捜すはずよ」
 弟たちの死を確認するまで、ヘンリーはエリザベスと結婚できない。エリザベスと結婚しなければ、彼は決してイングランド王になれない。
「だから、味方についてくれる者が現れるまでは、ぼくたちの居場所をヘンリーに知られないほうがいい」
 エドワードが簡潔にまとめ、エリザベスはそれに満足してうなずいた。
「今は待ちましょう、エドワード。あなたのために戦ってくれる人は必ずいるわ。味方を集めて力を蓄えて、ヘンリーに戦いを挑めるようになった時こそ、あなたの存在をイングランドじゅうに知らせましょう」
 だが、待つということは思ったほど容易ではなかった。

「ノーフォーク公ジョン・ハワード、リチャード・ラトクリフ、ロバート・ブラッケンベリー、ジョン・ケンダル、ロバート・パーシー」
 目の前で戦死者の名が読み上げられていくのを、エリザベスは呆然として聞いていた。この一年、宮廷でエリザベスや妹たちを気遣ってくれた人たちが、みんな、みんな、いなくなってしまった。
 隣ではセシリーが顔を真っ青にして使者の声に聞き入っている。いつ夫の名が出てくるのか、あるいは出てこないのか、それを考えて怯えきっている。
「ウィリアム・ケイツビーは処刑、ハンフリー・スタフォード並びにその弟のトマスは逃亡しました。新王の軍が行方を追っています」
 使者は読んでいた書面をしまうと、エリザベスの顔を見た。
 ヘンリーの側の使者である。日ごとに新しい知らせが届けられていたが、持ってくるのは最初を除いてすべて新王に使わされた者だった。戦闘の詳しい状況、新王とその支持者の動向、ロンドン市民の様子。それらをエリザベスは妹や従弟とともに聞き、姿を隠しているエドワードに後で知らせた。
「レディ・エリザベス、あなたをロンドンへお連れするよう仰せつかっております」
 使者は予想したとおりの言葉を向けた。
 はじめて聞く言葉ではなかった。ヘンリーの使者は新たな情報をもたらすたびに、エリザベスを新王の婚約者として連れていこうとした。
 エリザベスはそのたびに冷静に答えた。
「妹たちを置いていくことはできません」
「ご一緒にお連れしましょう」
「戦のあとで国のあちこちが荒れていると聞きました。そのようなところへ妹たちを連れ出したくありませんし、わたしも城を離れるのは恐ろしいですわ」
「ご安心を、我々がお守りします」
「まあ、ありがとうございます。でも、わたしたちのために誰かが戦って傷つくのは見たくないのです。たくさんの方が亡くなったばかりですもの」
 エリザベスは悲しげな顔をして見せ、十字を切った。
 城にやってくるすべての使者がエリザベスを連れていくと主張したが、もっともらしい理由をつけて拒めば引き下がってくれた。今回の使者も同様で、それ以上は食い下がろうとしなかった。
 エリザベスはほっとしながら、さりげなく訊いてみた。
「陛下はすでに、ロンドンにお着きになったのですか」
「ええ。ロンドン市民たちの歓びに迎えられました。彼らは新たな王妃のご到来も心待ちにしています」
「戦で前王に与した者は、反逆罪に問われていると聞きました」
 ヘンリーは勝利を得た直後、自分の即位は戦の前日であったと宣言した。つまり、ボズワースで戦闘が行われた時にはヘンリーがすでに王であり、前王リチャードの軍で戦った者は正統の王に刃向かった反逆者であるとしたのだ。
「仰せのとおりです、レディ」
「陛下にとって近しい方でも例外ではないのですか。前王の軍には、陛下のお義父上もいらしたはずですが」
 戦死者の中でスタンリー卿の名前は聞いていない。おそらく生還したのだろうが、それ以上のことはわからなかった。捕虜になったのか、逃亡したのか、あるいは新王に恭順を示したのか。
 もし、卿がまだ自由の身であるならば――あるいは、継子であるヘンリーに対し、何らかの影響を持てる立場にあるならば。彼こそがエリザベスの弟に力を貸してくれないだろうか。弟たちがこのシェリフ・ハットンで生きていることを知る、数少ない人物の一人なのだから。
 使者はエリザベスを見て、不思議そうに目を細めた。
「お聞きになっていないのですか」
「何を?」
「スタンリー卿はボズワースで新王のために戦い、その勝利にもっとも貢献した方です。陛下は継父でもあられる卿に感謝を表し、ダービー伯爵位をお授けになりました」
 エリザベスは何を言われたのかわからなかった。
 しばらくして、使者の言った意味が衝撃とともに襲ってきた。
 スタンリー卿がヘンリーについた。戦で援護にまわったことはもちろん、王位についたヘンリーにも父として忠臣として重んじられる立場にいる。
 弟たちの居場所を知る彼が、ヘンリーの味方となってそばにいるのだ。

「ぼくたちがここにいると知られたのか?」
 エドワードの言葉に、エリザベスは首を振った。
「使者はわたしを連れていくとは言ったけれど、あなたのことには何も触れなかったわ。ヘンリーはまだ知らないのよ」
「どうしてだろう」
「わからないわ」
 ヘンリーが弟たちの行方を追っていないはずがない。スタンリー卿が一言それを耳打ちすれば、ヘンリーはますます継父を信頼するだろう。そして、今までとは比較にならない数の兵士をこの城に送る。エリザベスは思わず自分の腕を抱いた。
 だが、ヘンリーはまだ知らない。スタンリー卿はまだ話していないが、なぜなのかはわからない。継子の出方を伺っているのかも知れないし、ここぞという時のカードとして温存しているのかもしれない。ヨーク家への忠誠心がまだわずかに残っているのかもしれないし、一時は預かっていた少年たちに情をかけてくれたのかもしれない。そして、このまま黙っていてくれるかもしれない一方で、今この瞬間にもヘンリーに告げているかもしれないのだ。
「とにかく、一刻も早く味方を見つけなければならないわ」
 スタンリー卿が明かさなかったとしても、ヘンリーが何らかの方法で真相にたどり着く可能性はある。そうなる前に弟たちをこの城から連れ出し、戦ってくれる人物を見つけなければ。
「誰がいる? この戦でヨーク派だった者は、戦死しなければ粛正されてしまったんだろう」
「ええ」
 力を貸してくれそうな人物が浮かぶたび、その名前が犠牲者の一人として読み上げられた。頼みの綱はもう、ほんのわずかしか残っていない。
 ふいに、弟のエドワードが声を上げた。
「ぼくたちの従兄は? リンカン伯のジョンはどうなった?」
「彼は戦で捕虜になったの。新王に恭順を示したけれど、今はまだ捕らわれているそうよ」
 恭順と言っても形だけだろう、とエリザベスは確信していた。自身がヨーク家の血を引き、一時は王位継承者でもあったあの従兄が、そう簡単にヘンリーに従うはずがない。その時が来たら弟たちのために戦ってくれるかもしれない。
 だが、ヘンリーが彼をすぐに処刑しないということは、脅威と見なされないほどに力を失っているとも考えられる。どのみち囚われの身では軍を率いてこの城に来ることは難しいだろう。
「絶望してはだめよ、エドワード」
 エリザベスは手を伸ばし、弟の手に重ねた。エドワードが黙ってうつむいてしまったからだ。
「最後の瞬間まで希望はあるの。あなたがここにいる限り、わたしも決して希望を捨てないわ」

 数日後にやってきた使者は、それまでとは違った言葉でエリザベスに切り出した。
「兄君のドーセット候が、イングランドにご帰国なさいました」
 エリザベスはその時まで、異父兄のことをすっかり忘れていた。母の再三の勧めにもかかわらず帰国を延ばしていた兄は、結局ボズワースでの戦闘には加わらなかったらしい。ミルフォード・ヘヴンへの上陸もヘンリーとともにせず、この数月の間どこで何をしていたのだろう。
「候はフランス王の宮廷で、援軍の交渉にあたっていらっしゃいました。陛下は候の働きにいたく感謝され、義理のご兄弟としての信頼を結ばれています」
 エリザベスは片手を握りしめた。
 兄はやはり、自分の意志でヘンリーのもとに留まり、彼のために奔走したのだ。そうして勝ち馬に乗った今、異父妹であるエリザベスを当然のようにヘンリーに与えようとしている。エリザベスが兄の身を案じ、帰国を願っていたことも知らずに。
「ですから、レディ・エリザベス。一刻も早くロンドンにお戻りください。兄君もあなたとの再会を心よりお望みです」
 使者のたたみかけるような言葉に、エリザベスはうなずかなかった。
「兄はもう母には会ったのでしょうか。わたし以上に兄の帰国を待っていたのは母ですわ」
「申し訳ありません、そこまでは存じません。が、あなたと妹君たちがお戻りになれば、ご兄妹と母君とで再会をお喜びになれるでしょう」
「ロンドンまでの道が安全だとわかるまで、妹たちを連れ歩きたくありません」
 エリザベスはいつもの方法でかわし、ふと思い立ったように付け加えた。
「前王に味方した反逆者で、まだ消息のわからない者もいるのでしょう」
「ええ、レディ・エリザベス」
「彼らがすべて拘束されるまでは、イングランドのどこで乱が起こってもおかしくないということ。恐ろしくてロンドンまでの長旅などとてもできませんわ。陛下は反逆者たちの行方をどこまでつきとめられたのでしょうか」
「主だった者は戦死しましたので、そう多くはありません。ノーフォーク公の子息サリー伯、前王の甥リンカン伯はすでに捕虜となっています。スタフォード兄弟は今なお逃亡中ですが、コルチェスターの教会に身を潜めていることはすでにわかっています」
 エリザベスは軽く息を吸い、思いきってその名前を口にした。
「ラヴェル子爵は?」
 戦死者や捕虜となった者の名が読み上げられていく中で、フランシス・ラヴェルの名前はまだ一度も耳にしていない。リチャードの側近中の側近であり、個人的にも親しかった彼だ。ヘンリーの追跡から無事に逃れられたのだとしたら、どこかで再起を図ろうとしているのではないだろうか。
「ラヴェル子爵は、ボズワースでの戦闘には加わらなかったようです。ノッティンガムの城を守っていたはずですが、陛下が兵を向けた時にはすでにそこにいませんでした。軍が全力でその行方を追っています」
「まあ、恐ろしい。どこかで反乱の計画でも練っているのかも知れませんわね」
 エリザベスが身をすくませて見せると、使者は怪訝な顔をした。
「失礼ですが、レディは前王の宮廷にいらしたのでしょう。ラヴェル子爵ともお親しかったのでは?」
「いいえ。何度かお話はしましたが、子爵はわたしのことを嫌っておいででしたわ。彼はリチャード王の腹心の側近でしたから、ヘンリー王と婚約しているわたしのことを信用できないようでした」
 言いかたは大げさだが、事実である。
 しかしそれは置いても、前王の側近を案じるような言葉は控えたほうがいい。女子どもと使用人しかいないこの城がヘンリーの軍に占拠されずに済んでいるのは、ひとえに未来の王妃であるエリザベスがいるからである。ヨークの再興のためにこの城を守り、戦ってくれる騎士が見つかるまでは、エリザベスはヘンリーの忠実な婚約者でいたほうがいい。

 使者が城を去っていくと、エリザベスは弟の部屋に行く前に一人で考えた。
 ラヴェル子爵が生きていた。
 リチャードに忠誠を誓った者たちのほとんどが戦死し、処刑され、捕らえられた中で、もっとも忠実であろう子爵が今も逃亡中で、ヘンリーにはその行方も知られていない。
 国王軍の敗北の知らせを受け取って以来、はじめてこの城に光が射した気がした。
 ラヴェル子爵が自分からヘンリーに恭順を示すとは考えられない。捕らえられることがない限り、リチャードのために再び戦おうとするか、あるいは逃げ続けるかのどちらかだろう。それならば、エリザベスの弟のためにも戦ってくれるのではないだろうか。使者にも話したとおりエリザベスは子爵に嫌われているが、弟のエドワードはそうではない。子爵はリチャードの甥である二人には敬意を払ってくれていた。
 問題なのは、子爵が今どこにいて、どうすれば連絡を取れるのかということだ。こちらから働きかけなくても子爵が自分から来てくれることは望めるだろうか。どうしてもっと、リチャードと話しあっておかなかったのだろう。
「どうすればいいの」
 エリザベスは一人で問いかけた。リチャードにではなく、自分自身に。
 地上から去ってしまった人は、決して手を差し伸べてくれない。そのことはよくわかっていた。
 だが、エリザベスはリチャードとの約束を守る。ヨーク家が再び王位を取り戻すまで、弟たちを守ってみせる。そのためにできることはなんでもする。
 最後の瞬間まで希望はある。王が立ち続けている限り、エリザベスも決して希望を捨ててはいけないのだ。


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