テューダーの薔薇 [ 9−1 ]
テューダーの薔薇

第九章 テューダーの薔薇 1
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 国王軍敗北の知らせが届いた翌日、シェリフ・ハットンに別の使者がやってきた。
 今度の使者は一人ではなく、従者を連れてきていた。エリザベスには見覚えがなかったが、おそらく貴族階級の人間なのだろう。エリザベスが妹や従弟妹を連れて玄関広間に出ていくと、彼はうやうやしく一礼して口を開いた。
「イングランド王ヘンリー七世陛下の命により、お迎えに上がりました」
 エリザベスは身をこわばらせた。
 ヘンリー七世。エリザベスの知らない王が、すでに王を名乗っている。
「わたしは参りません。状況がわかるまでここで妹たちと待ちたいと思います」
 使者は感情のない目をエリザベスに向けた。
「あなたさまではございません、レディ・エリザベス」
 そして彼は、エリザベスから左右に視線をそらし、あまり時間をかけずにぴたりと止めた。
「ウォリック伯エドワードさま、新王の命によりロンドンへお連れいたします」
「待って!」
 使者の、いやヘンリーの意図に気づいたエリザベスは、弾かれたように叫んだ。
 従弟のエドワードはなぜ自分が呼ばれたのかもわからず、にこにこしたまま姉や従姉を順に見つめている。
 ヘンリーの狙いはこの少年なのだ。ランカスター家の後継者として王位を奪った今、ヨーク家の最後の嫡流男子を連れ去り、自分の手もとに置くつもりだ。
「連れていかせません。この子はここで育ったのです。姉から引き離して一人で行かせるのは、あまりにもかわいそうです」
「姉君もご一緒にどうぞ」
 使者はエドワードの隣のマーガレットに視線を移した。幼い姉弟への思いやりが見てとれないこともなかったが、目的のためにどんなことも厭わないと決めているのは明らかだ。
 マーガレットは弟を抱き寄せ、射止められたように使者の視線を受けていた。両親を早くに亡くした姉弟は、叔父夫妻に引き取られこの地で平穏に育ってきた。ロンドンでの王位争いや各地での戦乱のことは何も知らなかったはずだ。いま目の前で何が起きているのかさえ、マーガレットにはわからないだろう。ただ、恐ろしいことが起きているとだけ肌で感じ取っている。
「わたしも弟も行きたくありません。ここに残らせてください」
 マーガレットは背筋を伸ばし、震える声で訴えた。
 使者は小さな貴婦人に向かってほほえんだ。
「レディ・マーガレット、あなたがいらっしゃりたくないのであれば、弟君を一人でお連れしなければなりません」
「弟も連れていかせません。ここでみんなと一緒にいます」
「これは王の命令です」
「王はリチャード叔父さまよ」
「そうではなかったと、神がお示しになりました。弟君は神のご采配で選ばれた正統の王によって守られるのです」
「やめなさい」
 エリザベスは二人の間に割って入った。これ以上、聞いていられなかった。
「マーガレットもエドワードも連れていくことは許しません。二人はここに残ります」
「これは王の命令です、レディ・エリザベス」
 エリザベスの妹たち、セシリー、アン、キャサリン、ブリジットの四人と、従弟のジョンは、固唾を呑んでエリザベスと使者の対峙を見守っている。弟たちはここにはいない。敗北の知らせが届いた瞬間から、決して部屋の外には出ないように堅く言い含めてある。
 この状況には覚えがあった。二年前、母や妹たちと逃げ込んだウエストミンスター宮殿で、これとそっくり同じ光景を見た。当時は摂政だったリチャードの使者がやってきて、エリザベスの下の弟を連れていくと主張したのだ。母は断固として拒もうとしたが、王の代理である摂政の権威には逆らえなかった。
 今、別の王に使わされた者がエリザベスの前に立ちはだかり、ヨークの希望である少年を再び連れ去ろうとしている。
 この場には使者とその従者しかいないが、外ではおそらく武装した男たちが待ち構えているのだろう。シェリフ・ハットン城の衛兵ではとても抗えないであろう数の兵士が。
「安全なロンドンへお連れしてお守りするだけですよ。姉君ともすぐにお会いになれるでしょう」
 使者は優しい手つきで、十歳の少年を姉から引き離した。エドワードはまだ何も言わずににこにこしていた。
 マーガレットのほうは今にも泣き出しそうな顔で弟を見つめている。弟を守るために見知らぬ大人のところへ行くか、住み慣れた城に残るために弟を見捨てるか、そんな恐ろしい選択に迫られている。
 エリザベスは従妹の体を抱き寄せた。
「わたしたちといましょう、マーガレット」
「でも!」
「エドワードは大丈夫、危ない目には遭わされないわ」
「そのとおりです、レディ・エリザベス」
 使者はエドワードの手を握り、いたわるようにほほえんだ。
「ロンドン塔にいらっしゃるお従兄と一緒なら、お寂しくはないでしょう」
 エリザベスは口を閉ざし、使者の顔を見つめた。
 この男は――つまりヘンリーは、エリザベスの弟たちがロンドン塔にいないことをまだ知らない。
 エリザベスの腕の中で、マーガレットがすすり泣きを始めた。その声が響きわたる中、使者がエドワードの手を引いてエリザベスたちに背を向ける。
 リチャード三世の後継者であった甥、王位継承権を持つヨーク家最後の男子は、こうしてシェリフ・ハットンの城から連れ去られた。

 城じゅうが今やものものしい空気に包まれていた。
 敗戦の知らせが届いた昨日は、妹たちや従弟妹たちが代わる代わるエリザベスのところにやってきて、これからどうなるのかとしきりに尋ねた。今日になってウォリック伯エドワードが連れて行かれてからは、誰もが疑問さえ口に出さず怯えきっていた。
 エリザベスは泣き続けるマーガレットを慰め、他の子どもたちにも大丈夫だと請け合ったが、効果はほとんどないようだった。遊びも音楽も誰もやりたがらず、食事の席についてもあまり食べていない者がほとんどだった。弟たちには部屋から出ないように新ためて命じたが、二人の姿が見えないことが他の子どもの不安をいっそう煽るようだった。
 夜になると、エリザベスは下の妹とマーガレットをセシリーに任せ、城の管理人とこれからのことを話しあった。不安がっているのは子どもたちだけではなく、使用人の間でも動揺が広がっているようだった。
 この時のことは何度も考え、覚悟してきたつもりだった。けれど、いざ事態に直面してみると、自分の覚悟など甘い想像に過ぎなかったと思い知らされた。混乱に陥りそうになった時、今までは自分がするべきことを見極めるよう努めてきた。今はまだ、最悪のことが起きたということしかわからず、その先のことが一向に定まらない。
 ひとまず妹たちの寝室へ向かおうとすると、階段を下りてくる従弟のジョンと出会った。
「レディ・エリザベス」
「まだ休んでいなかったの、ジョン?」
 エリザベスは自分の声がひどく疲れていることに気づき、そのことを恥じた。
 今この城で誰よりも暗い気持ちでいるのは、間違いなくジョンだ。彼はこの戦で完全に孤児に、それも敗死した僭称王の遺児になってしまった。父の死を悼みたくてもとてもそれができる状況ではない。それどころか、父を死に追いやった新王のもとで、これから自分がどうなるのかもわからない。にもかかわらず、この少年は不安や憤りを決して表に出さなかった。
「弟君たちの部屋で眠ってもいいでしょうか。リチャードが怖がっていると思うんです」
「いいわ。外に出たがっていたらなだめてあげて」
「わかりました」
「ベス!」
 ジョンとのやりとりを終えるや否や、今度はセシリーが階上を駆けてきた。
「こちらへ来て。アンが吐いてしまったの」
「すぐに行くわ」
 妹たちの部屋に飛び込むと、アンは寝台の上で泣いていた。エリザベスは妹のもとへ駆けつけ、震えている小さな背中をさすった。アンは涙の浮かんだ目で姉を見た。
「ベス、ごめんなさい」
「いいのよ。大丈夫だから」
 九歳のアンは、父が亡くなってからの聖域での一年間を覚えている。あの時の記憶から恐怖がよみがえり、耐えられなくなったのだろう。小さなキャサリンとブリジットも姉が取り乱したのを見て凍りついている。三人ともとても眠れる様子ではない。
 エリザベスはアンが落ち着くまで背中をさすり続け、その後も抱きしめて慰め続けた。
「今日はみんなで一緒に眠りましょう」
 使用人に手伝わせてアンを着替えさせると、エリザベスは妹の肩を抱いて部屋を出た。セシリーが下の二人の手を引き、一緒にいたマーガレットとともに後をついてきた。エリザベスは自分の寝台に小さな妹たちと従妹を寝かせ、四人ともが眠れるまでそばにいてやった。
 エリザベスは疲れていた。自分の無力さを思い知ることに疲れていた。
 しっかりしなければと、エリザベスはこの二日間、自分に言い聞かせ続けてきた。自分までが不安にとらわれてしまっては、守るべき者たちを守れない。そう思って自分を支えてきた。
 今は、それだけでは充分でないことがわかっている。怯える子どもや使用人をなだめ、慰めることはできる。だが、大切なのはその先のことだ。先がどうなるかわからない限り、彼らを本当の意味で勇気づけることはできない。
 エリザベスは妹たちの寝顔を見つめながら、一睡もせずに夜が明けるのを待った。

 翌朝、エリザベスはまっすぐ弟たちの部屋に向かった。
 いつもは二人で使っている寝室である。昨夜はジョンが一緒にいてくれたため、エリザベスが訪ねた時も三人の姿があった。エドワードに話があると告げると、ジョンが下の弟を連れて外してくれた。
 エドワードと二人きりになったエリザベスは、弟にすべてを話した。戦の前にリチャードが言い残したことを。エドワードが王位継承者であり、ヨーク家の新たな旗頭となることを。
 エドワードは一言も口を挟まず、最後まで黙って聞いていた。それから表情を変えずに言った。
「よくわからない、ベス」
「実感がないということ?」
「違う。本当にそんなことができるとは思えないと言いたかった」
 エドワードは続けた。
「誰がぼくをヨークの跡継ぎとして認めてくれる? 誰がぼくのために戦ってくれる? ぼくはまだ十四だし、一度は廃位された身だ」
「あなたを廃位させた陛下があなたを後継者に選んだのよ。陛下に忠誠を誓った者はあなたにも誓ってくれるわ」
「ぼくには、それが誰なのかもわからないし、その人が生き残っているのかもわからない」
「わたしもよ。とにかく知らせの続きを待つしかないわ」
 もっとリチャードと話しあっておけば良かったと、エリザベスは悔やんでいた。いざとなった時に誰をどう頼ればいいのか、詳しく訊いておけば良かった。それは国王軍の敗北をほのめかすことにもなるが、リチャードは気を悪くせずに答えてくれただろう。
「ぼくは私生児だ。王位継承権はない」
 エドワードが反論するように言った。
 エリザベスは首を振った。
「あるのよ、エドワード」
「そう信じているのは、ベスと結婚したがっているヘンリーだけだ」
「陛下も信じていらしたわ。レディ・エリナー・バトラーはあなたが生まれる前に亡くなっていたの。お父さまとお母さまは夫婦だったのよ、エドワード。あなたはエドワード四世の正統の嫡男なの」
 エドワードは再び黙った。
 エリザベスは、弟が口を開くのを待った。これ以上の説明は必要ないだろう。エリザベスから話せることはすべて話した。あとは、弟がどう受け止めるかだ。
「ぼくは何をすればいい、ベス?」
「さっきも言ったとおり、とにかく知らせが届くのを待ちましょう。味方になってくれる人がわかったら、次にどうすればいいのかもわかるわ」
「それまでできることはないの?」
「あるわ」
 エリザベスは前のめりになった。これを言うために、夜が明けると同時に弟のもとを訪ねたのだ。
「みんなに、あなたがヨークの後継ぎになったことを知らせるの。姉妹や従弟妹、城で働いている人たち、それに何より弟のリチャードにね。あの子はあなたの次の王位継承者になるのだから」
「小さな子どもや使用人に知らせて何になる? 彼らはぼくが戦って守るべき者であって、ぼくのために戦ってくれる者ではない」
「そのとおりよ、エドワード。彼らを守るために知らせるの。正統のイングランド王がここにいることを知れば、みんな勇気づけられるわ。明日は何が起こるのかわかなくても、その先に何を信じればいいのかはわかる。あなたにしかできないことなのよ、エドワード」
「ぼくにしか?」
「ええ」
 十五年前に父が廃位された時、まだこの弟が生まれていなかった時、エリザベスは何度も思った。自分が男の子だったら良かったのに、と。
 泣いている妹を励ましたり、浮き足立つ使用人をなだめることは、エリザベスにもできる。だが、彼らに本当の意味での希望を与えることができるのは、ヨークを継ぐ男子だけだ。そのことを今あらためて思い知った。
 エリザベスはエドワードの顔を黙って見つめた。自分がどれほど貴い力を持っているのか、どうかこの弟がわかってくれますように。
 やがて、エドワードがぽつりと言った。
「ぼくを助けてくれる?」
 エリザベスは強くうなずいた。
 見違えるほど大人びたとはいえ、彼もまだ十五にならない少年だ。他の弟や妹と同じように守られているべき存在である。弟に重圧を背負わせるなら、エリザベスがその弟を全力で支えなければならない。
「わかった、ベス」
 エドワードは立ち上がり、姉に手を差し出した。
「みんなのところに行こう。イングランド王はヘンリーではなく、ここにいるぼくだと宣言する」


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