テューダーの薔薇 [ 8−4 ]
テューダーの薔薇

第八章 聖域 4
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 スタンリー家に三日ほど滞在して、エリザベスはランカシャーを発った。
 マーガレットは最初から最後までエリザベスを娘のように扱い、大陸にいる息子のことを語り、二人が一緒になる日が待ちきれないと話していた。しかし、幽閉中の身にふさわしく自分の部屋からは一歩も出ず、外部の誰かと連絡をとっている様子もなかった。
 シェリフ・ハットンに向かう馬車に揺られながら、エリザベスはリチャードに報告することを考えた。目的地に着いたら、護衛の一部はロンドンに引き返していく。彼らに手紙を託すつもりなのだ。
 マーガレットは息子の勝利と即位を信じているようだが、そのために何らかの働きをしているわけではない。
 気にかかるのはむしろ夫のスタンリー卿のほうだが、こちらはこれと言った言動を見せなかった。ロンドンにいた時と同じようにエリザベスを気遣い、当たり障りのない言葉を交わしただけだった。
 エリザベスに探れるのはここまでだ。だが少なくとも、噂の件は事実ではないと夫妻ともに信じてくれた。マーガレットのほうは別の誤解を抱いたままだったけれど。
 翌朝にはシェリフ・ハットン城に着くという夜、エリザベスは最後の宿で考えをまとめ、リチャードへの手紙を書いた。

 シェリフ・ハットンに到着したのは日の高い午後だった。ロンドンを発ってから一月近くが過ぎていた。
 ランカシャーよりもさらに北にあるこの土地は、ネヴィル家が治めてきた所領の一部である。ロンドンで育ったエリザベスには異国のように遠く感じられたが、スコットランドとの国境まではまだ距離がある。
 エリザベスは城の近くで馬から降り、景色を楽しみながらゆっくりと歩いた。
 突然、斜め前から身なりのいい少年が飛び出してきて、思わず立ち止まったエリザベスとぶつかった。一歩下がって顔を見ると、下の弟のリチャードだった。
「まあ、リチャード。元気――」
「ここに入らないで。ここから先は僕の陣地だから」
 呆気にとられるエリザベスを放って、弟は元いた方向に走り出した。
 同時に、反対側から別の少年の声がした。
「レディ・エリザベス。ご無事に到着されて何よりです」
 従弟のジョンが、弟と違って落ち着いた足どりでやって来て、エリザベスの前で立ち止まった。
「何をしているの?」
「リチャードに陣形を教えているんです。はじめは紙に書いていたんですけど、外でやってみたいと言い出して」
「ジョン! そこに入ったらだめだよ!」
 エリザベスの背後から弟の声が飛んでくる。
 そして、また別の方向から、今度は複数の声がにぎやかに近づいてきた。
「ベスが着いたの? どこ?」
「ほんとうだわ、ベスがいる!」
「ベス、こっちへ来て!」
 あっという間に、エリザベスは妹たちに取り囲まれた。
 まわりを見回してみると、弟たちの戦争ごっこを見ているセシリーの姿もある。その近くにいる金髪の少女と少年は、従弟妹のマーガレットとエドワードだろうか。二人とも恥ずかしそうにエリザベスと妹たちを見つめている。
 エリザベスはさらに視線をめぐらせた。もう一人、いるべきはずの子どもがここにいない。
「アン、お兄さまのエドワードはどこ?」
 エリザベスは妹に訊いた。まだ小さい妹たちは、何年も会っていなかった二人の兄と再会を喜び合えたのだろうか。
「中にいるわ。エドワードはあまり外で遊ばないの」
 エリザベスは城を仰ぎ見た。
 下の弟のリチャードは従兄弟と打ち解け、外を元気に走りまわっているのに、エドワードは一人で城の中にこもっている。まだ鬱屈を抱えたままなのだろうか。
「エドワードのところに連れていって、アン」
 エリザベスが言うと、アンはうなずいて歩き出した。エリザベスは下の二人の妹の手を引いて、その後を追った。
 城に入ると同時に、すらりとした男性が階段を下りてくるのが目に入った。豊かな金髪をした、育ちの良さそうな若者だ。使用人には見えないが、この城に他の貴族階級の者が滞在していただろうか。
 若者は流れるように階段を下りて、まっすぐエリザベスに近づいてきた。そして驚いたことに、長い腕でエリザベスを抱擁した。
「無事に着いて良かった、ベス。心配していたんだ」
 エリザベスは慌てて腕から逃れ、若者の顔を見つめた。
「エドワード? 本当にエドワードなの?」
 弟は恥ずかしそうに、しかし屈託なく笑ってうなずいた。目の高さがちょうどエリザベスと同じくらいになっていた。
 ロンドンのスタンリー家の別邸で、一年半ぶりに会った時も驚いた。今度の再会は半年あまりしか経ていないというのに、エドワードの変貌はそれをはるかに上まわっていた。背が伸びたのはもちろん、顔つきも体つきも大人びて力強くなっている。
「ベスだけ到着が遅れると聞いて、どうしたのかと思っていた」
 何より、声が変わっていた。低く落ち着いた大人の声になっていた。声が違うだけで印象はこれほど変わるものなのだ。
「どうしたの、ベス?」
 姉を驚かせたのが自分だとも気づかず、エドワードは無邪気に言った。
「あなたがあんまり大きくなっていたから」
「ベスには去年も会っただろう。セシリーなんて、本気でぼくがわからなかったみたいだよ」
 エドワードはどこか誇らしそうだった。自分が変わったということに自分でも気づいているのだ。
 ロンドンにいた時のような、塞ぎこんだ様子はどこにもない。
「リチャードとジョンは外にいるのに、あなたは一緒に出ないの、エドワード?」
「ラテン語の勉強をしていたんだよ。時間が惜しいんだ」
 いつの間にか、下の妹たちだけではなく、セシリーも一緒に来ていた。従弟妹たちも仲良く並んですぐ近くにいる。戦争ごっこに夢中になっていたリチャードとジョンも、他の者を追って城に戻ってきたようだった。
「全員そろったね」
 エドワードが皆を見まわして言った。
 戦の結果が届くまで、この十人でこの城に住まうことになる。
 エリザベスは小さな妹たちを両側に抱き寄せ、集まった全員にほほえんだ。



 シェリフ・ハットンでの日々は穏やかに始まり、穏やかに過ぎていった。
 毎朝、妹たちと一緒に起き、みんなで祈りを捧げ、食事をして、それぞれの日課に入る。少年たちは学問と武芸の稽古。エリザベスと妹たち、それに従妹のマーガレットは、主に縫い物をして過ごした。
 余った時間はトランプやチェス、バックギャモンをして遊んだ。エリザベスが楽器を弾く時はみんなが集まり、一緒に歌った。夜には聖書を読み、また祈り、お互いにキスをして眠りについた。
 いちばん早くからこの城に住んでいた姉弟、マーガレットとエドワードは、突然やって来たたくさんの従兄妹たちとすぐに仲良くなった。十一歳のマーガレットは父親に似た美しい金髪の少女で、話し好きで明るい気性の持ち主だった。同性の友だちができて嬉しいのかエリザベスや妹たちと一緒にいたがったが、自分のただ一人の弟のことも常に気にかけていた。
 その弟、エドワードもやはり金髪で、天使のように愛らしい。マーガレットに比べると口数は多くないが、人見知りをせず皆とすぐに打ち解けた。常ににこにこと笑みを絶やさず、誰かが何かを言うたびに嬉しそうに笑うこの少年は、自分が一度は王位継承者だったことを知っているのだろうか。宮廷でささやかれていたように、彼に『弱いところがある』のかどうか、エリザベスにはわからない。だが、かわいらしい少年であることは間違いない。
 エリザベスの下の妹たちは、宮廷にいた時よりもさらに元気だった。姉たちにダンスや音楽を教わりたがり、兄たちと外で遊びたがり、何をする時もみんなと一緒にいたがった。聖域から出られなかった一年間のことはすっかり忘れているように見えて、エリザベスはほっとした。
 セシリーも元気そうにしていた。戦地に向かった夫を心配しているのは明らかだったが、気を紛らわせたいのか常に何かで手を塞いでいた。エリザベスのポルトガル語の勉強につきあってくれることもあり、その後は必ず二人でさまざまなことを話しあった。セシリーとこれほど話せるようになるなどと、二人で宮廷に戻ったころは考えてもみなかった。
 弟たちは、ロンドンで再会した時よりも変わっていた。下の弟のリチャードは背が伸び、顔つきが大人びて、以前の不機嫌でいらいらした様子が消えていた。ここでは好きな時に外に出て走りまわることができる。剣術の稽古ができ、馬にも乗れる。懐いていた従兄に好きなだけ遊んでもらえる。もともと明るい性格の弟は城の使用人とも仲良くなり、彼らのほうも弟をかわいがっていた。
 そして、ここに着いてすぐにエリザベスを驚かせたエドワードは、その後もずっとエリザベスを驚かせ続けた。外見が変わっていただけではない。知識を増やし、教養を身につけ、貴婦人たちに礼儀を尽くす騎士になっていた。昔はエリザベスが木刀で遊んでやったものだが、今は力でも剣の技術でもとうていかなわないだろう。全員でピクニックに出かけた時も、弟はポニーではなく栗毛の立派な馬に乗った。エリザベスが馬術を褒めると、「時間だけはたくさんあるから」とエドワードは笑った。
「ベスの言ったとおりだった。ここに来てから時間がいくらでもあることに気がついて、いろんなことを考えたんだ」
「どんなこと? エドワード」
 エドワードは首を傾げ、まだ残っていた幼さを見せてはにかんだ。
「うまく言えない。でも、たぶん悪いことではないと思うから、安心して、ベス」
 エリザベスは、ロンドンで別れた時に自分が弟に言ったことを思い出していた。
 エドワード四世は王座にいない時こそ、誰よりも王らしかった。
 父の側近がこの話を聞かせてくれたのは、エリザベスがフランス王太子に婚約を破棄された直後だった。王妃になるために学んできたことは、王妃になる道を閉ざされた今こそ問われるのです、と、その人は言った。
 エリザベスがこの言葉を理解できたのは、その一年後に父が世を去り、王妃どころか王女でさえなくなってからだった。
 弟がこの言葉を完全に理解できたのかはわからないが、自分なりにその意味を考えようとしていることはよくわかる。
 戦の結果によっては、エドワードは次の王位継承者になる。それを弟に話そうか迷ったが、エリザベスは黙っておくことに決めた。その時が来てからでも遅くないだろう。エリザベスの望みどおり国王軍が勝てば、その必要もなくなるのだから。
 どちらになるにしろ、今ここで過ごす時間がエドワードにとって大切であることは間違いない。弟はここで学び、考え、いつか姉のそばを巣立っていく。エリザベスはそれまでの日々を穏やかに過ごしたかった。
 季節はゆっくりと移ろい、シェリフ・ハットンにも夏の空気が漂いはじめた。
 それより少し遅れた八月中旬、ヘンリー・テューダーがブリテン島に上陸したとの報が、北部のこの地に届けられた。



 夜遅くまでポルトガル語を学んでいたエリザベスは、姉妹の寝室に向かう途中で意外な光景に出会った。従弟のジョンが寝間着の上にガウンを羽織った姿で、たった一人で城の中を歩いていた。
 エリザベスが歩み寄って声をかけると、彼も驚いた顔で振り向いた。
「こんな時間にどこに行くの、ジョン?」
「礼拝室に行ってきた帰りです。寝つけなかったので、少し祈っていました」
 他の子どもたちはすでに寝台に入っている。ジョンは彼らを起こさないように静かに抜け出してきたのだろう。彼がなぜ眠れないのか、何を祈りたかったのか、エリザベスにはよくわかった。
「少しお話をしない? わたしもあまり眠れそうにないの」
 エリザベスが切り出すと、ジョンはうなずいた。
 二人は一階の居間に移り、それぞれ座った。わざわざ使用人を起こすのも気が引けたので、明かりはエリザベスが持っていた燭台だけである。エリザベスはまだ寝間着に着替えていなかった。
「このあたりは夜は冷えるのね。寒くない、ジョン?」
「いいえ。レディ・エリザベスは」
「わたしも平気。静かで気持ちがいいわ」
 昼間は子どもたちみんなで過ごしている居間は、夜の暗さの中で見ると別の場所のようである。
 二人は蝋燭の明かりを挟んで向きあい、しばらく黙っていた。お互いに同じことを考えているのはわかっていたが、どうやって切り出せばいいのかわからなかった。
「いつもありがとう、ジョン。弟の遊び相手になってくれて」
 エリザベスが思いついたことを言うと、ジョンは弱々しく笑った。
「ぼくも楽しいんです。ミドゥラムでもロンドンでも、ああいう遊びを一緒にできる相手はいなかったから」
「わたしにはあれが遊びには見えないわ。戦術にとても詳しいのね」
「ミドゥラムにいた時に学びました。いつか騎士になって戦場に出た時、役に立つだろうから」
 ジョンの声は少しずつ小さくなって、最後は消え入るように途切れた。彼が何を考えているのかエリザベスにはよくわかった。
「ヘンリーは」
 ジョンが絞り出すように言った。蝋燭の光に照らされた顔は青ざめている。
「ウェールズのミルフォード・ヘヴンから上陸したそうですね」
「そう聞いているわ」
「戦場はどこになるのでしょうか」
「わたしにはわからないわ、ジョン」
 エリザベスが正直に返すと、ジョンははっとしたように顔を上げた。エリザベスと目が合うと恥じらうように笑った。
「すみません。レディとする話ではありませんでした」
「いいのよ。陛下が心配ね、ジョン」
 この部屋に来てからずっと言いたかったことを、エリザベスはようやく口に出した。
 ジョンはおそらく、自分も戦場に行きたかったのだ。エリザベスの弟と同い年の彼はもうすぐ十五歳になる。エドワードほど背は高くないが、もともと大人びていた少年だ。騎士として戦場に出るためにさまざまなことを学んでいる。だがその許しは得られず、エリザベスたち従姉妹とともにこの城に送られてきた。
 ジョンは素直にうなずいた。
「レディ・エリザベスは落ち着いていらっしゃいますね。この戦の結果で人生が変わってしまわれるのに」
「はじめてではないもの。戦場から離れた場所で、戦の結果が届くのを待つのは」
 一度めは四歳の時、身重の母とともに寺院に身を寄せ、父の帰国を待った。
 二度めは十七歳、やはり聖域に身を潜めながら、外で何が起きているのか知らせを待つ日々だった。
 戦場に、あるいは政争の場に出ることのできない者は、こうして待ち続けることしかできない。
 たとえ、外のどこかで大切な人が命を落とし、自分の運命を変えるできごとが起きていたとしても。
「わたしも祈っているわ、ジョン。一緒に知らせが来るのを待ちましょう」
 エリザベスが言うと、ジョンはほほえんでうなずいた。

 知らせはそれから半月も経たないうちにやってきた。
 その馬がシェリフ・ハットン城に着いた時、エリザベスは妹たちと一緒に音楽の練習をしていた。呼びにきた使用人の姿を見た瞬間、何の知らせなのかすぐにわかった。部屋を飛び出したエリザベスの後に妹たちが続き、従弟妹たちもどこからか一緒にやってきた。
 早馬でやってきた使者は、エリザベスの顔を見てすぐに言った。
「敗北です。国王軍が負けました」
 背後でセシリーが息を呑む気配がした。
 エリザベスは冷静を保つよう自分に言い聞かせながら、まず使者に水を与えることを使用人に命じた。息を切らしていた使者はそれを一気に飲み干し、あらためて口を開いた。
「戦闘はレスターシャーのボズワース・フィールドで行われました。兵力ではこちらが勝っていましたが、戦闘に加わらなかった者や敵方に寝返った者もおり……王は神のご采配を問うべくヘンリーに挑まれましたが、卑劣な者の手によってそれを阻まれました」
 使者の語る言葉は、どこか遠くで起きた過去のできごとのようだった。実際の戦場を見ていない、一度も見たことのないエリザベスには、それを現実のこととしてとらえるのは難しい。そこで起きたことを思い描こうとしても、夢の中で見ているようにぼんやりとしている。
 一つだけ理解できたことがあったが、それさえも自分で口に出してみるまでわからなかった。
「亡くなったの?」
 熱に浮かされたような声でつぶやく。
「陛下は亡くなったの?」
 いつの間にか、エリザベスの隣には従弟のジョンが来ていた。彼はエリザベスと並んで、使者の顔を食い入るように見ていた。
 使者はジョンのほうを少し見たあと、目を伏せて十字を切った。
「ヨークの王にふさわしい、勇猛な最期でした」
 エリザベスは手を動かそうとして、両手の感覚がないことに気がついた。声も出ない、足も動かない、何もできない中で、まわりの光景だけが目を向けなくても見えていた。
 エリザベスと四人の妹たち。
 従弟妹のマーガレットとエドワード。
 王の庶子のジョン。
 そしてこの場所にはいない、前王エドワード五世とその弟。
 第三代ヨーク公の孫たちがこの城に集い、内乱が始まってからおそらく最悪の、ヨークの敗北の知らせを聞いていた。


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