テューダーの薔薇 [ 8−3 ]
テューダーの薔薇

第八章 聖域 3
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 ロンドンを発って数日後、エリザベスは妹たちと別れ、一人ランカシャーに向かった。スタンリー男爵夫妻と会い、彼らの動向を確かめるために。
 もちろん、表向きはスタンリー卿夫人を見舞うためということになっている。
 領地を抜けてスタンリー家の居城が見えてきたころ、前方から騎乗の人の群れが近づいてきた。エリザベスは同じように馬上からそれに気づき、馬の足を止めて彼らを待った。リチャードが先に使いを送り、エリザベスの訪問を知らせてくれたので、スタンリー家から出迎えが来るのは予想していた。しかし、先頭を走る人物の顔が見えるようになると、エリザベスは驚かずにはいられなかった。
「レディ・エリザベス」
 この領地と城の主人であるスタンリー男爵は、エリザベスの前に来ると馬から飛び降りた。背後にいた家臣たちもそれに続いた。
 エリザベスは少し迷ってから彼らに倣った。ポルトガルの王位継承者との婚約を思えば馬上のままでいいかとも思ったが、今はイングランドの臣民どうし対等に接するべきだ。
 地面に降り立ったエリザベスに、スタンリー卿が歩み寄ってきた。
 エリザベスは膝を折った。
「迎えに来ていただけるとは思いませんでしたわ。ご領地の管理でお忙しいのではないですか」
「あなたをお一人で歩かせるわけには参りません」
 エリザベスのさっそくの偵察を、卿はあっさりとかわした。
 一人と言っても、エリザベスは二人の護衛と一人の侍女を連れてきている。スタンリー卿は彼らに目をやり、再びエリザベスを見て続けた。
「城までご案内します。お連れの方もどうぞ」
「急に押しかけて申し訳ありませんわ。奥さまのご様子を伺ったらすぐに失礼します」
「どうぞ、ごゆっくりなさってください。妻も話し相手ができて喜ぶでしょう」
 スタンリー卿はエリザベスに手を差し出した。エリザベスはその手を借りて、再び馬上の人となった。

「お美しい土地ですわね」
 エリザベスは形式的に、しかし心を込めていった。
 ランカスターの名を冠したこの土地は、しかしランカスター家の領地ではない。
 スタンリー卿はエリザベスと馬を並べ、話ができるように速度を抑えて進んでくれている。
「ランカシャーまで来られたのははじめてですか」
「ええ。ノッティンガムより北には行ったことがございません」
「では、シェリフ・ハットンまでは遠い道のりになりますね」
 エリザベスはぎくりとして、隣を行く卿の顔を見た。
 この人は、シェリフ・ハットンに誰がいるのかを知っている。
「ええ。でも寂しくはありませんわ。きょうだいや従兄弟たちと一緒ですもの」
 エリザベスはあえてそれを口に出した。卿が知っているということをこちらも知っている以上、話題にしないのは不自然だ。幸いにも、スタンリー家の家臣たちは離れてついてきているので、二人の会話が聞こえることはないだろう。
「久しぶりにあの子たちに会えるので、とても楽しみにしていますの」
「そうでしょう。お二人も姉君にお会いできず、寂しがっていらしたと思いますよ」
 今だ、とエリザベスは察し、たたみかけるように続けた。
「わたしも本当に残念でしたわ。あのままロンドンのお屋敷に置いていただければ良かったのに。弟たちがご迷惑をおかけしたせいで」
「あれはこちらの不手際でした――が、いつまでも同じことを悔やむのは止しましょう。結果的に、二人はより安全な場所に移られることになったのですから」
「あのお屋敷よりも安全な場所などございませんでしたわ。手厚く保護していただいて、お使いのみなさまも立派な方ばかりで」
「しかし、ロンドンの中心部から近すぎた。このことはあなたも陛下からお聞きになったでしょう」
 エリザベスは一つ、大きく息を吸い込んだ。
「ええ、そうかもしれません」
 それから一瞬だけ迷ったあと、にこりとほほえんだ。
「でも、戦で国王軍が勝てば、二人はロンドンに戻って来られますわ。わざわざシェリフ・ハットンまで行かせたのが無駄になってしまいますわね」
 そうなってほしいという願いを込めて、エリザベスはスタンリー卿を見た。
 戦の結果がわかった時、弟たちがロンドンにいないことを感謝するような事態にはなってほしくない。スタンリー卿にも同じことを思っていてほしい。
 義理の息子であるヘンリーのためではなく、これまでと同じくヨーク家のために戦ってほしい。
 短い沈黙のあと、卿は微笑とともに答えた。
「お二人の安全のためなら、どれほど労苦をかけても無駄ということはないでしょう」
「ええ、それはそうですわ」
 エリザベスは肩を落とした。当たり障りのない言葉しか引き出せなかった。
「ところで、レディ、この数ヶ月は大変な目に遭われましたね」
 スタンリー卿が急に話題を変え、エリザベスははっとした。もう一つ言っておくべきことがあったのを思い出したのだ。
「噂はここまで届いていますのね。もちろん信じていらっしゃらないでしょうけれど」
「ええ。陛下が公式に否定なさったそうですが、聞くまでもありませんでした。宮廷でのあなたのご様子を拝見したことがあれば、そんなことは有り得ないとすぐにわかります」
 エリザベスはほっとした。少しでも疑われているならポルトガルとの縁談のことも話そうかと思ったが、どうやら杞憂だったようだ。
「ただ、レディ・エリザベス」
 スタンリー卿は馬を操りながら、言い辛そうに口を開いた。城が近づいてきているので、エリザベスを見ずに前方を向いている。
「なんでしょうか」
「わたしと違い、妻は宮廷でのあなたのことを存じません。一年以上も城に引きこもっているので冷静な判断もできなくなっています。お会いした時に失礼なことを申し上げるかもしれませんが、お気にかけないでやっていただきたいのです」

 スタンリー卿の後妻、ヘンリー・テューダーの実母、マーガレット・ボーフォートは、エリザベスにとって初対面の相手ではない。父の宮廷に出仕していたのを何度も見かけている。物静かでありながら、群衆の中に決して溶けこまない独特のただずまいを持った女性だった。言葉を交わしたことはほとんどなかったが、その印象ははっきりと覚えている。
 父の急逝と弟の廃位を経て、彼女が母に接触してくるようになった時、エリザベスは不思議なことに驚かなかった。どういうわけか、マーガレットが自分に関わってくることがわかっていたような気がしたのだ。
 もっとも、それが彼女の息子との婚約であることは、さすがに予測できなかったけれど。
「お城にお招きいただいて、ありがとう存じます。レディ・マーガレット」
 エリザベスはスタンリー卿夫人の前で膝を折り、声をかけられるのを待った。
 決して広くはない、薄暗い部屋だった。もともと日ざしに恵まれない土地の上、窓の位置が良くないのだろうか。外の光はわずかしか入りこまず、そのために空気までが動くのをやめてしまったような静けさは、エリザベスに聖域での一年間を思い出させた。
 相手は男爵夫人であり、エリザベスは元王の娘とはいえ庶子である。マーガレットがエリザベスをどのように扱うかはともかく、少なくともエリザベスは、彼女に敬意をもって接さなければならない。
 たとえ、反乱に関わった罪で幽閉中の身であったとしても。
「どうぞ、楽にしてお掛けなさい」
 やわらかく美しい声だった。陰謀を語るよりも、賛美歌や祈りの言葉が似合う声。
 エリザベスは視線を上げ、マーガレットの目を見てほほえもうとして、凍りついた。
「遠路はるばるご苦労です、王妃の使いの方」
 優しげな声とは反対に、マーガレットの目は氷のように冷ややかだった。エリザベスの名前は呼ばず、王妃の使いと呼んだ。元王の娘ではなく、息子の婚約者でもなく、ただの女官として扱うつもりだ。
 エリザベスは気を取り直してほほえんだ。伊達に一年間も宮廷にいたわけではない。
「お会いできて嬉しいですわ。お加減はいかかですか、奥さま?」
「おかげさまで良好ですよ。神のお恵みによってね」
 マーガレットは答えた。エリザベスとは決して目をあわせない。
 エリザベスが勧められたとおり座ろうとすると、マーガレットはそれを阻むように声を張った。
「誰か、この娘を客間に案内しておやり。男の使用人は近づけないようにするのですよ。実の叔父にさえ色目をつかうような娘ですからね」
「まあ――奥さま」
 エリザベスはにっこり笑い、わざとゆっくりした動きで椅子に腰を下ろした。
 マーガレットのこの険悪さの理由がやっとわかった。そして、エリザベスがこの場で言うべきこともはっきりした。
「この静かで美しいご領地にまで噂が届いているなんて。お恥ずかしい限りですわ。知っていたら、真っ先にそのことをお話ししましたのに」
「聞く必要などありませんよ」
「ええ、もちろんですわ。奥さまのお耳に入れる価値のないことですもの。けれどお聞きになってしまわれた以上、自分の口から一度は真実を申し上げなければ、わたしの心が鎮まりませんわ」
 マーガレットがエリザベスのほうを向き、ドレスの裾のあたりに視線を落とす。まだエリザベスとは目をあわせようとしない。
「事実ではないと言うのね?」
「ええ。奥さまが信じてくださっているとおり、わたしは身も心も潔白ですわ。宮廷の方々がみな奥さまのように、清らかで公正な目をお持ちだと良かったのに」
「では――わたしの息子と結婚してくれるのね、ベス」
 エリザベスは自分の目と耳を疑った。
 マーガレットがようやくエリザベスの顔を見て、花が開いたようにほほえんでいる。目は輝き、頬は紅潮し、今にも笑顔のままで泣き出しそうだ。掛けていた椅子から立ち上がらんばかりに身を乗り出し、エリザベスに近づいている。
「ベスと呼んでも構わないわね。あなたはわたしの娘になるのだから。ああ、その日が来るのが待ちきれないわ、ベス」
「奥さま、わたしは」
「息子にもさっそく手紙を書きましょう。あなたのあのひどい噂を聞いて、心配しているでしょうから」
「手紙をお書きになるのですか。大陸にいらっしゃるご子息に?」
 エリザベスは思わず訊いた。マーガレットの豹変に呆気にとられながらも、まだ使命を果たそうとする冷静な部分が残っていた。
 夫の居城にいるとはいえ、マーガレットは幽閉中の身だ。エリザベスの母やヘンリーとの接触は禁じられているはずである。
 これは大変なことを聞いたかもしれない。そう思って前かがみになるエリザベスに、マーガレットは無邪気にほほえんだ。
「ええ。残念ながらあの子に届けることはできないけれど、わたしの心はあの子のもとに届いていると信じていますよ」
 エリザベスは返事に詰まった。これは言葉どおりに受け止めるべきなのだろうか。マーガレットは手紙のやりとりを隠すために、こんな実のないことを言っているのだろうか。それとも、実際に手紙は届けられておらず、しかし心だけが届いていると本気で信じているのだろうか。
「あなたも書いてくれるわね、ベス。あなたの王であり、旦那さまであるヘンリーに、愛のこもった手紙を書いてちょうだい」
 その言葉でエリザベスは我に返った。噂のほうはきっぱりと否定できたが、入れかわりに別の誤解をマーガレットに与えたままだ。
「奥さま、わたしはご子息の妻ではございませんわ」
「ええ、もちろん、正式な夫婦になるのは神の前で誓いを立ててからです。けれど息子にとってあなたはもう愛する妻ですよ」
「そうではなくて――」
 エリザベスはふと言葉を止めた。
 マーガレットは、エリザベスがヘンリーと結婚するのだとすっかり思いこんでいる。リチャードと結婚するか、ヘンリーと結婚するか、そのどちらかしか選べないかのように。
「わたしにはわかっていましたよ、ベス。あなたは王妃になるために生まれてきた娘です。ロンドンにいる僭称王ではなく、正統のイングランド王の妻にね」
 マーガレットは優しい声にふさわしく、穏やかにほほえんでいる。
 エリザベスはその目を見つめ、少し迷ったあとで、口を開いた。
「ええ、奥さま。わたしの心はもうご子息のものですわ。ただ、心ない噂に傷をつけられてしまった身では、あの方にふさわしくないのではないかと思ったのです」
「まあ、かわいそうに! 心配することはありません。あなたがどんなに清らかで従順な娘であるか、わたしが息子に書いてやりますからね」
「ありがとうございます。できれば自分の言葉でもお伝えしたいですわ。わたしがご子息に身も心も忠実であることを」
 マーガレットの瞳が喜びで輝いた。
「ええ、ぜひ書きなさい」
 いつの間にか、部屋にいた侍女が紙とペンを手にしている。
 マーガレットはそのうち一組を受け取ると、もう一組をエリザベスに持たせるよう侍女を促した。
 エリザベスは書き始めた。宿敵ランカスター家の後継者であり、国王軍に迎え討たれようとしている反逆者であり、一年以上前から自分の夫に名乗り出ているヘンリーに、はじめて手紙を書いた。彼の勝利と即位を祈り、その暁には王妃になることを約束すると、心にもないことを綴った。ペンを走らせている間、マーガレットの視線がずっとエリザベスの手もとに貼りついていた。
 エリザベスが書き終えた手紙を差し出すと、マーガレットは当然のようにそれを広げ、目を通してにっこりした。
「美しい筆跡だこと。あなたの王もきっと喜んでくれますよ」
「無事に届くといいのですけれど」
「もちろん、届きますとも」
「奥さまはどのようにしてご子息に手紙をお届けになるのですか。わたしも同じ方法でこの手紙を見送りたいですわ」
「心配しなくても、この手紙は必ず届きますよ」
「ありがとうございます。でも、わたしの手でお届けしたいのですわ。わたしの真実の心が入った手紙ですから」
 マーガレットはほほえんだまま、しばらく黙った。エリザベスが手紙の経路を探ろうとしていると気づいただろうか。幸福そうな笑みからはそれ以上のことは読みとれない。
 急にマーガレットが立ち上がり、エリザベスに歩み寄ってきた。
「では、ベス。あなたがこれを持っていなさい」
 そう言って、書かれたばかりのエリザベスの手紙を差し出した。
「常にあなたから離さずに持ち歩いて、眠る前にはこの手紙にキスしなさい。そして、届くように祈りを捧げなさい。神はきっと聞き届けてくださるわ」
 エリザベスは手紙に目を落とし、再びマーガレットを見た。驚くほど清らかな瞳だった。決して平坦ではない人生を送ってきたというのに、何一つ不幸を知らない子どものようだ。
 祈りさえすれば手紙が届くと、マーガレットは本気で信じている。
「ありがとうございます、奥さま。教えていただいた通りにしますわ」
 手紙を受け取ったエリザベスの手を、マーガレットがつかんだ。
「まあ、冷たい手。すぐに温めなければならないわ」
「お構いなく。具合が悪いわけではございませんわ」
「いけません。あなた一人のものではないのですよ」
 マーガレットはエリザベスの手を引き寄せ、自分の頬に押しあてた。愛おしむように、懐かしむように。まるで、その手がエリザベスから切り離された、一つの生き物であるかのように。
「イングランド王の母となる大切なお体ですからね」


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