テューダーの薔薇 [ 8−2 ]
テューダーの薔薇

第八章 聖域 2
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 王妃の喪が明けてすぐ、リチャードはロンドンに場を設けて人を集め、結婚に関する噂を全面的に否定した。姪と再婚する意志がないことはもちろん、王妃の死を願ったことがないことも自らの声で語り聞かせた。
 宮殿の部屋で侍女たちからそのことを聞いた時、エリザベスは旅の準備をしているところだった。シェリフ・ハットンに向けて旅立つ日が決まったのである。
「これで良かったか」
 数日おいて、エリザベスは久しぶりに執務室に呼び出された。リチャードは一連のことをていねいに報告したあと、真顔で姪に訊いた。エリザベスは笑いたいのをこらえ、椅子の上で偉そうにうなずいて見せた。
「けっこうですわ。どれくらい効果があるのかはわかりませんけれど」
「わからないのか」
「信じない人はこちらが何を言っても信じません。そういう人間が一人でも少ないことを祈るだけですわ」
 問題なのは醜聞を面白がっている連中ではなく、それに乗じてリチャードの評判を落とそうとしているランカスター派だ。彼らはリチャードが何をしても、何を言っても、噂を言いふらすのをやめないだろう。リチャードが否定したことが噂よりも速くイングランド全土に伝わればいいのだが。
 リチャードはまだ納得できないという顔でエリザベスを見ていたが、何も言い返さなかった。醜聞よりも他のことで頭がいっぱいになっているらしい。ヘンリー・テューダーの侵攻である。
「ノッティンガムにはいつ移られるのですか、陛下?」
「まだ決まっていない。きみたちの出立より後になりそうだ」
 リチャードはあっさり受け流し、話を変えた。
「きみの嫁ぎ先のほうはそろそろ決まりそうだ」
「こんなに早く?」
 エリザベスがリチャードに頼んだ日から一月も経っていない。国どうし、王家どうしの縁談がこれほどの短期間でまとまるはずがない。以前から目星はつけていたのだろう。
「どちらですの」
「ポルトガルだ。相手はヴィセウ公、ジョアン二世陛下の義弟にあたる」
 義弟と言っても、ヴィセウ公は確か先々代のポルトガル王の孫であり、現王の従弟だ。れっきとした、それもかなり上位の王位継承者である。イングランド元王の庶出の娘では、釣り合いがとれているとは言いがたい。
「ポルトガル王はそれでいいと仰ってくださったのですか」
「きみと入れかわりにあちらから王女を迎え入れる。その王女をイングランド王妃にすることを条件に合意してもらった」
 エリザベスはその意味を理解すると、思わず無言になった。
 リチャードが苦笑した。
「心配しなくていい。きみと同じ義務をわたしも果たすだけだ」
 確かに結婚は王族の、いや、名のあるすべての家に生まれた者の義務である。しかも、リチャードには嫡男がいない。早く新しい王妃をと急かされるのも無理のないことだ。
 しかし、亡くなったばかりのアンとの仲の良さを知っているだけに、エリザベスは気の毒に思わずにはいられなかった。
「ポルトガルの王女はイングランド出身の曾祖母からランカスター家の血を引いている。この結婚でランカスター派を少しでも鎮めることができるといいのだが」
 リチャードは他人事のように淡々と言い、それから急に調子を変えた。
「ドーセット候はやはり帰国しなかったか」
 エリザベスはうなずいた。
 クリスマス以降、母からの手紙は一度しか来ていない。エリザベスが決して思い出さないと決めたあの手紙だ。それ以前のものには兄のことにもたびたび触れており、帰国を勧めてみるとも書いてあったが、望ましい結果はとうとう得られなかったようだ。
 知らせが届かなかったという可能性もあるが、いずれにしろ兄が今どこにいるのかエリザベスにはわからない。ロンドンを去って母との連絡も絶てばますますわからなくなるだろう。
「もう良いのです。無事でいることを祈るしかありませんわ」
 大陸に留まっているにしろ、イングランドに引き返しているにしろ、兄には無事でいてほしい。そして願わくば、戦場には出てこないでほしい。
 リチャードも同じことを考えているのか、エリザベスの言葉に深くうなずいた。
「勝利を得られたら捜索を再開しよう。イングランドに再び迎え入れると約束する」
「ありがとうございます」
「他に確認しておくことは」
 エリザベスは少し考え、訊くべきか迷っていたことを口にした。
「スタンリー卿が宮廷に戻られたというのは、本当ですか」
 リチャードは意外に思ったのか、しばらく間をおいてから答えた。
「戻ってきていたが、葬儀の後すぐに出ていった。領地の管理に追われているらしい」
「戦の召集には応じるのでしょうか」
「そう約束させた。きみは心配しなくていい」
 リチャードはそう言ったが、エリザベスも心配しないわけにはいかない。スタンリー卿が宮廷に寄りつかなくなったのは、弟たちがシェリフ・ハットンに移送されてからだ。あの失踪さわぎが卿をヨーク家から遠ざけたのだとしたら、責任はエリザベスにもあることになる。
 そして、スタンリー卿が引きこもっている領地には、ヘンリー・テューダーの母マーガレットがいる。この事実に不吉なものを感じずにはいられない。
「念のため、スタンリー卿の実子を宮廷に残らせてある。きみが心配しているようなことは起こらない」
 エリザベスの表情が晴れないのを見て、リチャードが繰り返した。
 それでもエリザベスの不安はおさまらない。人質をとる必要に迫られているということは、スタンリー家の離反がいよいよ現実味を帯びてきたということではないのだろうか。
「偵察は送ってあるのですか」
「まだだが、これから送らせる」
「それではわたしが参りますわ」
 リチャードが何か言いかけ、思いとどまったように口を閉ざした。エリザベスが言ったことの意味に少し遅れて気がついたらしい。
「シェリフ・ハットンへの通り道ですもの。ランカシャーに立ち寄って、スタンリー卿と奥さまの様子を見て参りますわ」
「待ちなさい。きみがそこまですることはない」
「どうしてですの。スタンリー卿とは親しくお話したこともありますし、レディ・マーガレットとは父の宮廷で何度もお会いしました。ロンドンにいらした時はお見舞いに通っていたことになっていますし、わたしほどの適任は他にいないと思います」
「妹たちはどうする」
「先に行かせて、わたしだけ後から追いかけますわ。どうせ数日だけのことですもの」
 エリザベスが、スタンリー家の領地を訪れたい理由は他にもある。
 リチャードが公の場で否定したとはいえ、噂の火は完全に消えたとは言えない。せっかくロンドンから遠方まで旅をするのだから、道すがら事実を広めながら行ってもいいだろう。スタンリー家の勢力を考えれば、彼らに信じてもらうことは他の大多数に信じてもらうことにつながる。
 そして、もう一つ。ヘンリー・テューダーの母であるマーガレットと会って、彼女が何を考えているのか知っておきたい。ヘンリーを王にしたいと本気で考えているのか、そのためのエリザベスとの結婚に賛成なのか、夫であるスタンリー卿にはどのように話しているのか。
「わかった。護衛をつけてきみをランカシャーまで送らせる」
 リチャードは意外にも早く答えを出した。
「ありがとうございます」
「ただし深入りはしないように」
「はい、陛下」
 エリザベスは素直にうなずいた。
「見送りに来ていただけます?」
「あいにくその時間はなさそうだ」
 エリザベスがロンドンを出る日はすでに数日後に迫っている。戦の前にリチャードと話すのはこれが最後になるのかもしれない。
 リチャードはそのことに気づいているのか、いないのか、いつもの淡々とした口調で続けた。
「他には?」
「わたしはもうけっこうです」
 これで終わりになるのだろうかと思いながら、エリザベスはゆっくりと答えた。
 リチャードはすぐに言葉を返さなかった。いつものように無言で話を締めくくるのかと思ったが、目線は上げたままエリザベスからそらさない。まさか、エリザベスと同じように、少しは名残を惜しんでいるのだろうか。
「まだ何かおありですか、陛下?」
 エリザベスがおずおずと尋ねてみると、リチャードは同じくらいゆっくり切り出した。
「きみに伝えておかなければならないことがある」
「なんでしょう」
「わたしが、ヘンリーに敗れた時のことについて」
 エリザベスは目をそらしそうになったが、かろうじて思いとどまった。
 戦の行方はその時が来るまでわからない。どれほど味方を募り、情報を集め、数でも力でも勝っていたとしても、何が起こるかわからないのが戦というものだ。悪い結果のことは考えたくないなどと甘えてはいられない。
「はい、陛下」
「ヘンリーがこの戦に勝ち、わたしが戻らなかった場合――ヨーク家の後を継ぐのは、きみの弟だ」
 エリザベスは目を覚まされたような心地で、リチャードの顔を見た。
「ヘンリーは、戦に勝って王位についたら、約束どおりきみを王妃にしようとするだろう」
 エリザベスの衝撃にも構わず、リチャードは続けた。
「その前に必ず、きみの両親の結婚が無効だとする法を撤廃するはずだ。きみの王位継承権を取り戻すために」
 エリザベスは心を落ち着けながら、やっとの思いでうなずいた。
 リチャードの言うことはもっともだ。ヘンリーはエリザベスではなく、エリザベスについてくる王冠と結婚するのだから。
「きみはエドワード四世の庶子から王女の身分に戻る。そうなれば、きみの弟たちの権利も同時に回復することになる」
 エリザベスはうなずいた。リチャードの言おうとしていることが、ようやく呑み込めてきた。
「ヘンリーにとって弟たちは、王位への最大の障壁となるのですね」
「そうだ。そのためにも二人をロンドンから離しておきたかった」
 ヘンリーが勝って王位につき、エリザベスを王妃にしようとすれば、弟たちの存在が必ず気にかかるだろう。しかし、二人がいるはずのロンドン塔に行ってみても、彼らの姿はどこにもない。
「この戦でヘンリーが勝っても、ヨーク家を支持する者は必ず残る。彼らはエドワード四世の嫡男を旗頭に戦おうとしてくれるはずだ。きみはその時まで、ヨークの後継者を守っていてくれ」
 エリザベスはすぐに返事をせず、リチャードの目を見つめた。ずいぶん前に感じた疑問の答えが、ようやく見つかったような気がした。
「弟たちを生かしておいたのはこのためだったのですか。万が一の時に王位を継がせるために」
「それだけでもない」
 リチャードはそっけなく答えた。詳しく話すつもりはないようだった。
「戦のあとは混乱しているだろう。シェリフ・ハットンにヨーク派の軍が駆けつけるまで時間がかかるかもしれない。きみには長いあいだ重荷を背負わせてしまうが、やってくれるか」
 エリザベスは背筋を伸ばし、深くうなずいた。
「わかりました、陛下」
 そして、無意識のうちにほほえんだ。
「でも、やはり勝ってくださいな。わたしは重荷をさっさと母に返して、ポルトガルに嫁ぎたいですわ」
「わかっている」
 リチャードはつられたように笑い、そのままの表情で言った。
「あの時は悪かった、エリザベス」
 あまりにも自然に言われたので、エリザベスは一瞬きょとんとした。しばらくして謝られたのだと気づいても、あの時というのが何のことなのかわからない。
「きみ一人では人を救えない、救えると思うのは傲慢だなどと、ひどいことを言った」
「――ああ、いえ」
 エリザベスは合点が行くと、ひどく慌てた気分になった。
 リチャードのその言葉を聞いていたたまれなくなるのは、つい最近それを思い出したことがあるからだ。だが、実際に言われたのは半年も前のことである。今になって謝られるとは思ってもみなかった。
「謝っていただくことなどありません。本当のことですもの」
「いや」
 視線を泳がせるエリザベスとは逆に、リチャードはエリザベスから目をそらさなかった。
「わたしはきみに救われたことがある。それなのにあんなことを言った」
 エリザベスはリチャードの顔を見て、そのまま動けなくなった。目を見開いたまま、まばたきするのも忘れていた。
「きみがエドワードの最期を伝えてくれなかったら、わたしは常に自分のしたことを悔やんでいなければならなかった」
 リチャードは言い、ほほえむのをやめて表情を引きしめた。
「ありがとう。きみはわたしを救ってくれた。このことを覚えておいてくれ」
 エリザベスは無意識に頬に力を入れた。目が熱くなったのを感じて、涙が落ちてくるような気がしたからだ。
 今日のこの場所に泣き顔はふさわしくない。
 そう思って再びリチャードを見ると、エリザベスは精いっぱいほほえんだ。
「わたしが嫁に行く時に言ってくだされば良かったのに」
「え?」
 リチャードは虚を突かれたように黙り、エリザベスに何を言い返そうか迷っていた。
 エリザベスは笑った。涙のかわりに笑い声がこぼれ落ちた。
「ありがとうございます、陛下。今のお言葉を忘れませんわ。シェリフ・ハットンでも、ポルトガルでも」
「そうしてくれ」
「もう一つ、贈り物をくださる? 遠くへ行ってしまう姪のために」
「何がほしい」
 エリザベスは椅子から立ち上がった。
 離れた場所からリチャードの顔をまっすぐ見つめ、何かの証を立てるように胸を張った。
「キスしてくださいな」
 リチャードの眉のひそめようは、まるでエリザベスが自分の着ていた服を差し出して、これを着てみてくださいとでも言ったかのようだった。
「それこそきみが嫁ぐ時でいいのではないか」
「いちばんいい贈り物は先ほどいただいてしまいましたもの。それに比べれば、キスくらいおまけのようなものですわ」
 リチャードはそれ以上は言い返してこなかった。
 そもそも、抵抗する理由がないのだ。長旅に出る姪を叔父がキスで送り出す。あたりまえのことである。
 エリザベスは笑みをたたえたまま、待った。
 リチャードは立ち上がり、机の横をまわって歩いてきた。エリザベスの正面に立ち、手を伸ばし、髪を撫で、親族らしく額に口づけようとして――寸前で止まった。
 エリザベスが呆気にとられているうちに、リチャードはエリザベスの手を取り上げ、甲に口づけた。
「神のご加護を。エリザベス王女」
 リチャードが、エリザベスの目を見て言った。
 エリザベスは再び笑った。今度は声は出さず、口も開けず、慎ましくほほえんだ。正統の王女が忠実な騎士にそうするように。



 ロンドンを発つまでの数日間はあっという間に過ぎ去った。荷物をまとめたり、挨拶にまわったり、手紙を書いたりして忙しく過ごした。
 エリザベスはランカシャーに立ち寄るが、出発は妹たちと一緒である。途中で別れて、数日遅れでシェリフ・ハットンに着く予定だ。おおぜいの護衛がつけられているので妹たちのことは心配ない。
「準備はいい? 忘れ物はない?」
 エリザベスは馬車の前に並んだ妹たちを見て、順番に訊いた。小さなアン、キャサリン、ブリジットの三人は、姉の言葉に生真面目にうなずいた。やはりシェリフ・ハットンに移ることになった従弟のジョンが、三人の様子を見て笑っている。
 セシリーだけは数日前に出発した。スクループ家の領地を訪ねて、その足で一人で北部に向かう。婚家にそのまま留まっても構わないのに、姉妹と一緒にシェリフ・ハットンに行くと言い張った。エリザベスや弟たちを心配してくれているのだろうが、いちばん心細いのはセシリーだろう。夫のレイフ・スクループが戦地に行ってしまう予定なのだから。
 従弟のジョンは馬を使うのでいったん離れ、エリザベスたち姉妹は二人ずつ馬車に乗った。エリザベスは末の妹のブリジットと一緒である。ブリジットが名残惜しそうにロンドンの景色を眺めているので、エリザベスもつられて見入った。もうすぐ一年でいちばん美しい季節を迎えるというのに、それに背を向けて去らなければならない。次にここに戻ってくるのはいつだろう。戦の混乱が落ち着くまでどれほどかかるかわからないが、短い期間ではないはずだ。そして戻ってきても、エリザベスはまたすぐに去っていく。
「エリザベス、ポルトガルにお嫁に行くの?」
 隣から言い当てるような声がして、エリザベスは思わず妹の顔を見下ろした。ブリジットはいつの間にか外の景色を追うのをやめ、姉を見上げている。
「ええ。いろいろなことが落ち着いたらね」
「イングランドから出ていってしまうの?」
「そうなるけれど、まだ先のことよ。それまでは一緒にいられるわ」
「陛下と結婚すれば良かったのに」
 まだ五歳にならないブリジットは、ひどく真剣な表情で疑問を口にした。
「みんなが言っているみたいに、イングランドの王妃になれば良かったのに。そうすればずっとここにいられたのに。どうしてそうしなかったの、ベス?」
 エリザベスはくすくす笑って、妹の肩を抱いた。
「結婚するには自分のことだけではなくて、みんなが幸せになれるように考えなくてはいけないのでしょう? あなたが教えてくれたことよ、ブリジット」
「ベスは陛下と結婚したかったの?」
 ブリジットの大きな目がさらに見開かれた。賢い子だ。姉が言葉に隠したものを瞬時に読みとっている。
 しかし、エリザベスは首を振った。
「いいえ、したくなかったわ。ポルトガルに行くほうがいいから、そうするのよ」
 恋愛というものをエリザベスはずっと知らなかったし、これからも知ることはないだろう。エリザベスは父の望みどおり、異国に嫁いでイングランドの力になる。
 馬車の座席の脇には小さな木箱が置いてある。弟たちが書いた母への手紙だ。これを預けてくれたリチャードの信頼を、エリザベスは決して裏切らない。
 シェリフ・ハットンで戦の結果を受け取り、ロンドンに戻ったら、エリザベスは弟たちと手紙を母に返して、ポルトガル行きの船に乗る。


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