テューダーの薔薇 [ 8−1 ]
テューダーの薔薇

第八章 聖域 1
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 ウエストミンスター寺院での葬儀が終わり、宮廷は王妃の喪に服した。一年前に王太子が世を去った時と同じように、あらゆる遊戯が禁じられ、行事がとりやめになり、喪服をまとった人々が行き交う姿もまばらになった。
 一年前と違うのは、ヘンリー・テューダーの侵攻が間近に迫り、祈りと悲しみに暮れてはいられないこと。
 そして、服喪中であるにもかかわらず、次の王妃をめぐってさまざまな憶測を言い立てる者がいることだ。
 エリザベスは葬儀から何日ものあいだ、自分の居所からほとんど出ずに過ごした。妹たちと使用人の他には誰にも会わず、誰とも話さなかった。従弟のジョンとその姉が一度だけ訪ねてきてくれたので、セシリーも交えて静かに話をして過ごした。
 母の手紙には今も返事を書けていない。母からの新たな手紙も届いていなかった。母もアンの訃報は受け取っているはずだが、葬儀には顔を見せなかったと聞いている。このままエリザベスが返事をしなければ、母は娘を王妃にするために自ら動きかけるのだろうか。混乱をさらに広げないためにも、エリザベスが母を抑えなければならないのはわかっている。王妃が世を去ったいま、エリザベスがするべきことは喪に服した宮廷を支え、異国に嫁ぐために備えることだ。それ以上でもそれ以下でもない。
 わかっていても、エリザベスは動くことができずにいた。
 王妃になりなさい、エリザベス。
 手紙を読み返さなくても、母の文字はエリザベスの頭に焼きついている。
 母の望むとおりにするわけにはいかない。それなのに忘れることができないのは、エリザベス自身の望みでもあるからなのだろうか。
 弟たちを取り戻す方法がわからなかった時、エリザベスは亡き父に向かって、どうすればいいの、と問いかけた。父は答えてくれなかった。だからエリザベスは自分で考え、自分がするべきだと思ったことをした。
 今は問いかけるまでもない。自分がどうするべきなのかはわかっている。ただ、そのとおりに動くことができない。病気の子どもがどこが痛むのか言えないように、エリザベスも自分の気持ちが自分でわからない。
「エリザベス」
 いつの間に来ていたのか、セシリーがエリザベスの肩を叩いて声をかけた。
「気分が良くないの?」
「いいえ、大丈夫よ」
 王妃の死の前後から姉が悩んでいることを察したのか、セシリーはたびたび訪ねてきて気遣ってくれる。その他の時は夫と過ごしたり宮廷の人々と話したりしているので、部屋を空けていることが多い。姉妹の性格が入れ替わってしまったかのようだ。
「また違う噂を聞いたから、あなたに知らせておこうと思って」
 エリザベスは顔をしかめた。他人ではなく妹の口から聞けるだけましとは言え、次は何を言われるのかと思うと投げやりな気分になってくる。
「わたしが早くも身ごもったことなら知っているわよ」
「そのことじゃないわ。今までのもずいぶんひどかったけれど、これは度を越していると思うの」
 セシリーは深刻そうに眉をひそめ、エリザベスの耳に顔を近づけた。

 自分の居所から王の執務室まで、エリザベスは飛ぶように駆けていった。そこにリチャードがいないと知ると、呆気にとられている衛兵から居場所を聞き出し、すぐに方向を変えた。
 リチャードを見つけたのは、以前にも入ったことのある広い部屋だった。前回は数人の側近と地図を広げて話し込んでいたが、今日も同じようなことをしていた。彼らは突然の闖入者に目を丸くし、しばらく自分の職務を忘れていた。
 リチャードが一人だけ冷静に口を開いた。
「ここで何をしている」
「お耳に入れたいことが」
「あとで聞く。許可もなく勝手に入ってくるのはやめなさい」
 眉間に皺を寄せて、礼儀を知らない小娘をたしなめる。つい先日、妻を喪って憔悴していたのとは別人のようだ。
「一刻も早くお知らせしたいのです」
「待ちなさい。軍議中だ」
「宮廷で新しく広まっている噂のことを、ご存じないでしょう」
 リチャードはため息をつき、しぶしぶ地図から顔を上げた。
「知っている。わたしがきみと結婚するために、アンを毒殺したのだろう」
 地図を囲んでいた側近たちが、いっせいに凍りついた。
 動揺していないのはリチャードだけだった。エリザベスと同じように投げやりになっているのかと思ったが、そもそも噂に何の興味もないようだった。
 エリザベスは呆然とし、次に憤慨した。
「ご存じなら、どうしてそんなに落ち着いていらっしゃるの」
「噂にいちいち動じていたらきりがない」
「でも、今度のはあんまりです」
「王族が病で命を落とすたびに毒殺だったと言いたがる者は必ずいるものだ。近しい者が手を下したと言われることもめずらしくない。放っておけばすぐに飽きる」
 リチャードの言うことは間違っていない。王族の死に毒殺の疑いがつきまとうのも、同じ王族が犯人扱いされるのも、今に始まったことではない。だが、根幹のところで間違えている。
 エリザベスは心配を通り越して腹が立ってきた。このひどい噂を言いふらしている者たちよりも、それをまったく意に介さないリチャードに腹が立った。
「お言葉ですけれど、陛下のお考えは間違っています」
 エリザベスの言葉に顔を向けたのは、リチャードではなく他の男性たちだった。頼むから、自分たちが立ち去ったあとで言い争ってほしい――と、彼らの目が言っている。
 当のリチャードは眉をひそめただけで、エリザベスを見もしなかった。
「きみは心配しなくていい」
「いいえ、今度ばかりは言わせていただきます」
 リチャードが再び顔を上げ、エリザベスを見た。そこにいることにやっと気づいたかのように目を見張っている。
 勝った、とエリザベスは思った。このくらいはわけもない。何人もの弟や妹を手なずけてきた長姉を嘗めてもらっては困るのである。
「よろしいですか」
 エリザベスは息を吸い、何かの演説のように話しはじめた。
「くだらない噂にいちいち動じていられないのはわかります。でも、陛下はもう少し、ご自分の名誉というものを大切になさるべきです」
 リチャードは聞きわけのいい末弟のような顔をして、エリザベスの話に耳を傾けている。何か言い返してくるかと思ったが、口を閉ざしたまま何も言わない。
 エリザベスは勢いを得て続けた。
「口さがない者たちは、陛下が政敵を処刑したことは噂しても、その妻子が困窮しないように取りはからったことは噂しません。陰謀にかかわっていた者に罰を与えたことは噂しても、わずかな条件ですぐに釈放したことは噂しません」
 甥を王座から引き離して幽閉したことは噂しても、その甥を誰よりも大切に思っていることは噂しない。ほとんどの人間はそのことを知りもしない。この人は知られようとしていないのだから。
「多くの人は平穏な事実よりも、血なまぐさい物語のほうを好みます。そして、人々に好まれる物語のほうが、圧倒的な速さで広まるのです」
 エリザベスは言葉を止め、リチャードが何も言わないのを確かめて、先を続けた。
「偽りを広めるべきだとは申しません。でも、事実は万人に正しく知らしめるべきです。間違っていることははっきりと否定しなければなりません」
 そうしなければ取りかえしがつかなくなる。この人は国じゅうに誤解されたまま、未来永劫、憎まれ続けることになる。
 さすがにそこまでは口に出さなかったが、かわりにエリザベスは目で訴えた。リチャードが自分の危機について、少しでも深刻に考えてくれるように。
 リチャードはすぐに返事をしなかった。
 不運にもこの場に居合わせた側近たちは、王とその姪をいたたまれなさそうに見守っている。
「否定をすればいいのか」
 やがて、リチャードが短い返事を発した。
 エリザベスは飛びつくようにうなずいた。
「そうです」
「どうやって」
「できるだけ大がかりに。広い場所にたくさんの人々を集めて、できれば陛下がご自分でお話しになるべきです。集められなかった人には手紙や使者をお使いになると良いですわ」
 エリザベスは勢いづいて話し、急に思いついてつけ加えた。
「それから、いい加減にわたしの嫁ぎ先を決めてくださいな。十九にもなって独り身でいれば、あらぬ噂を立てられても仕方がありませんわ」
「義姉上の許しがない」
「母のことはもういいのです」
 エリザベスはほとんど無意識に答え、そして気がついた。
 これでいい。これで筋が通った。
 エリザベスはヨーク家の娘として、ヨーク家のために嫁ぐ。これについては母が何を言おうと決して譲らない。母は父に見初められて王妃になったが、エリザベスは生まれながらの王女だ。野心や願望――そして、恋愛などというものには、決して惑わされない。
 つい先刻まであれほど悩んでいたというのに、気づいてみれば拍子抜けするほど簡単なことだった。
「いいのか」
「いいのです。母が許してくれるのを待っていたら、銀髪の老婆になってしまいますわ」
 エリザベスは肩をすくめた。
 リチャードには決して知られてはならない。母がエリザベスを王妃にしたいと考えていることを。エリザベス自身も母のその言葉に揺さぶられていたことを。
 リチャードはしばらく黙ったが、長くは迷っていなかった。もう一度エリザベスの顔を見て、そこに答えを見つけたかのように口を開いた。
「わかった。できるだけ早く手を打とう。きみの名誉を守るために」
 だから、エリザベスの名誉はどうでもいいのだ。
 エリザベスはリチャードの呑み込みの悪さに苛立ち、しかし声に出して正すことはあきらめた。この人が自分のためだけに何かをしないことはもう知っている。
「そうしてくださいな、ぜひ」
 エリザベスは肩をすくめたが、リチャードはまだエリザベスを見ていた。
「わたしからもきみに頼みがある」
「なんでしょうか」
「宮廷を去ってくれ」
 またか、と思ったのが顔にも出ていたらしい。反論する前にリチャードに先まわりされた。
「近いうちにわたしもここを出て、ノッティンガムに向かう。ロンドンは手薄になるから、きみときみの妹たちにも安全なところに行ってほしい」
 エリザベスははっとしてリチャードの顔を見た。その左右にいる側近たちと、彼らが囲んでいる地図を見た。
 ノッティンガムはイングランド中心部に位置する町である。城には宮廷が置かれたこともあり、有事の際の砦としても重んじられている。
 戦がはじまるのだ。
 エリザベスはその事実を受け止め、居住まいを正してリチャードと向きあった。
「わかりました。母のところに行けばよろしいですか」
「いや」
 リチャードは一瞬だけ言葉を切り、続けた。
「シェリフ・ハットンに行ってくれ。きみたち全員が同じ場所にいてくれたほうが警護しやすい」
 エリザベスは久しぶりに聞く地名に、思わず目を見開いた。
 リチャードの言う全員とは、エリザベスと妹たち、クラレンス公ジョージの遺児である姉弟、そしてエリザベスの弟たちだ。
 弟たちに会いに行ける。半年以上会っていなかった二人のもとへ行き、今度はずっとそばにいてやることができる。
「サフォーク家のジョンは?」
「きみと入れ違いにあの城を出る」
 エリザベスの従兄はヨーク家の血を引く忠臣であり、もう戦場に出るのにじゅうぶんな年齢だ。シェリフ・ハットン城を管理し、年下の従弟たちを守ってくれていたが、戦が始まれば彼もそちらに赴かなければならない。
「エリザベス。戦が終わるまで、きみがヨークの子どもたちを守っていてくれ」
 エリザベスは背中がぴんと張りつめるのを感じた。リチャードに何かを任されるのは久しぶりだ。
「戦が終わるまで」
「そうだ。戦が終わったら、シェリフ・ハットンにいる二人を家に帰す。きみを結婚させるのはその後だ」
 戦が終わったら、弟たちを母のもとに帰らせる。すべてのことに決着がつく。
 エリザベスは戦場から離れた場所で、自分より小さな子どもたちを守りながら、戦の結果が届くのを待つ。これまで母が、乱世に生まれたすべての女たちがしてきたように。
「わかりました、陛下。シェリフ・ハットンで、ご戦勝の知らせをお待ちしております」
 リチャードはエリザベスの言葉にうなずくと、目線を下げて再び地図に見入った。固唾を呑んで見守っていた側近たちもそれに倣う。
 エリザベスは膝を折り、以前いつもそうしていたように、黙ってリチャードに背を向けた。母に手紙を書かなくてはいけない。
「エリザベス」
 背後から思い出したような声がかかり、エリザベスは足を止めた。
「はい、陛下」
「次は使いを寄越してから来なさい。それから、一人で出歩くなと言ったはずだ」
 エリザベスは振り向きがちの姿勢のまま、ぽかんと口を開けた。前にリチャードにそう言われたのはいつのことだっただろう。確か宮廷に戻ってきて間もないころだ。
 あれから一年以上も経っているにもかかわらず、リチャードのエリザベスを見る目はまったく変わっていないらしい。
 エリザベスは思わず笑った。笑いながら、なぜか涙が出てきそうな気がして、それをごまかすためにまた笑った。


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