テューダーの薔薇 [ 7−6 ]
テューダーの薔薇

第七章 王妃 6
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 エリザベスは母からの手紙に返事を書かなかった。セシリーにも誰にも読ませず、自分の部屋にしまったまま忘れようとした。
 宮廷の様相は変わらなかった。王妃の容態を案じる声とエリザベスを揶揄する声が入り交じっていた。
 ラヴェル子爵に何度か会ったが、もう宮廷から出ていけとは言われなかった。子爵だけでなく、国王夫妻に好意的な廷臣たちはみな、アンを穏やかに過ごさせることに徹しているようだった。エリザベスに対する冷ややかな目は変わらなかったが、少なくとも言葉で攻撃されることはなくなった。
 王妃の居所には常にすべての女官が詰めるようになっていた。交替で身のまわりの世話をし、隣室で呼ばれるのを待った。エリザベスとセシリーももちろんその中に加わった。
 エリザベスは平静を保つよう、常に自分に言い聞かせていなければならなかった。少しでも気を抜けば、余計なことを考えてしまいそうで怖かった。
 母が書いた手紙の文字が頭の中を流れていく。王妃になりなさい、エリザベス。王妃になりなさい。
「いったいどうしたの、ベス?」
 王妃の居所から離れてすぐ、セシリーが訊いてきた。
 エリザベスは振り返ると同時に、ひどく間の抜けた声が自分の口から出てくるのを聞いた。
「え?」
「ずっと上の空だったわ。疲れているの?」
 セシリーは心配そうな目を向けた。姉が何を悩んでいるのか見抜いているようには見えなかった。元はといえば、セシリーの言葉がすべての原因だというのに。
 ベスは陛下のそばを離れたくないのよ。陛下に恋をしているから。
「違うわ、セシリー」
 エリザベスは声を上げ、妹の驚いた顔を見て、慌てて言い直した。
「疲れているけれど、それほどでもないわ。セシリー、あなたは大丈夫?」
「わたしは平気よ。でも、ベス――」
 セシリーはなおも言いかけ、ふいに目をそらした。
 エリザベスは妹の視線を追い、その場に凍りついた。リチャードが回廊の一角に立ち、王妃の医師と何か話しこんでいる。
 エリザベスはセシリーの腕を取り、リチャードに背を向けて歩きだした。妹の抗議の声も耳に入らない。何から逃げているのかわからないまま、宮廷の回廊を足早に進んでいく。



 ロンドンがよく晴れた日、エリザベスは一人で王妃の居所を訪れていた。宮廷に戻ってきてからそろそろ一年が経とうとしていた。
 エリザベスが歩いていくと、寝台に横たわっていたアンが身じろぎして目を開けた。
「エリザベス」
「申し訳ありません、お起こししてしまいました」
「いいえ、よく休めたわ」
 アンが体を起こそうとするので、エリザベスは手を差し出して助けた。アンは疲れているようだったが、呼吸は落ち着いていた。眠りにつく前は咳がひどかったと聞いていたが、今はもうおさまったようだ。
 背中に枕をあてがい、アンが身を起こしたまま話せるようにしてやると、エリザベスは寝台のそばに膝をついた。
 この時季にしてはめずらしいほど天気のいい日だった。部屋の中にいても、白く透き通った陽光があたりに満ちている。
「ご気分はいかがですか、王妃さま?」
「良くなったみたい。妹さんたちはお元気?」
「ええ。ご無沙汰して申し訳ありません、次にお加減のいい時は連れて参りますわ」
「いいのよ。小さな子どもには、今のわたしの姿は恐ろしいでしょう」
 アンは老女のように病みやつれ、血の気のない顔の中で瞳だけが奇妙に輝いていた。咳の発作のために声はかすれ、少し話しただけで呼吸を乱し、エリザベスの見ている前で何度か喀血した。
 エリザベスは首を振り、こう言った。
「いいえ、そんなことはございません」
 どれほど痩せ細り、どれほど苦しんでも、アンのまとっている空気は一年前と変わらなかった。この場所はいつでも静かで、清らかで、澄みわたっていた。
 エリザベスは息を吸い、また口を開いた。
「わたしをお呼びだと聞いて参りました」
 アンは発作が落ち着いた時になじみの女官を遠ざけ、エリザベスだけを寝台のそばに呼んだのだ。アンと二人だけで話すのはほとんどはじめてだった。もちろん隣室には他の女官が控えているが、エリザベスはアンの容態にさりげなく目を配っていた。
 アンの顔を見る限り、今のところ心配はなさそうだった。
「ええ。あなたにお話があるの、エリザベス」
 アンはエリザベスの顔を見て、ゆっくりと言った。
「掛けてちょうだい」
 エリザベスは近くにあった椅子を自分で引き寄せ、そこに腰を下ろした。
 アンは枕にもたれかかっているので、背筋を伸ばしたエリザベスよりも目線が低い。その位置からアンはエリザベスを見つめ、小さな唇を動かした。
「あなたにお願いがあるの」
「はい、王妃さま」
「エリザベス、王妃になって」
 何を言われたのかわからず、エリザベスは寝台の上のアンを凝視した。
「おっしゃっている意味がわかりませんわ、王妃さま」
「王妃になって、と言ったの、エリザベス。わたしがいなくなった後に」
 エリザベスはあらためてアンの姿を眺めた。顔色は良くないが苦痛の陰はなく、呼吸も穏やかに落ち着いている。一人息子を亡くした直後のような錯乱は見られなかった。
「わたしは大丈夫よ、エリザベス」
 アンはエリザベスの懸念を読んだらしく、先まわりしてそう言った。頬には微笑さえ浮かんでいた。
「ずっと考えていたの。わたしは何をするべきなのか」
「王妃さま」
「聞いて」
 エリザベスは動きかけたが、アンが寝台の上から静かに制した。
「あなたが宮廷で噂されていることを、お母さまはご存じ?」
 エリザベスは口を閉ざした。はぐらかすか否定するかどちらかをするべきだったが、なぜかそのどちらも選ぶことができなかった。
 それどころか、こちらの心を吸い込んでいくようなアンの瞳を見ていると、誰にも言わないと決めていたことを思わず口に出してしまっていた。
「母は噂だと思っておりません。わたしが本当にそうなることを望んでいます」
「良かったわ。では、そのとおりにして、エリザベス」
 アンは特に動じることもなく、母の言葉をすぐに受け入れた。そして、母に寄り添うかのように、同じことをエリザベスに求めた。
「時間は元に戻せないけれど、これで王妃の位はお母さまにお返しできるわ」
 エリザベスはアンの意図を知り、呆然とするしかなかった。
 アンはずっとエリザベスの母に負い目を感じていた。息子から引き離したこと、王妃の位を奪ったこと、母の世界を様がわりさせてしまったこと。病が悪化した時に償いの言葉が出てくるほどだから、その重圧は相当なものだっただろう。
 王妃の位を母に返せると言ったアンは、これまででいちばん晴れやかな顔をしていた。
 エリザベスはうなずくわけにはいかなかった。アンの気を晴らすためならどんなことでもしてやりたいが、こればかりは受け入れるわけにはいかない。
「王妃さま」
 しかし、アンはエリザベスの声に微笑で応え、ゆっくりと首を振った。
「もう一つあるの。聞いて、エリザベス」
「――はい」
「あなたは今まで、わたしたちに本当に良くしてくれたわ。以前とは違う身分で宮廷に住んで、たくさんの人と仲良くなって、リチャードの評判を守ってくれた。わたしには、とてもそんなことはできなかったわ」
「そのようなことはございませんわ」
「いいえ、そうなの。ずっと認めたくなかったけれど、クリスマスの夜にはっきりとわかったのよ」
 あの祝宴の夜、アンは同じドレスを着たエリザベスを見て言った。あなたがわたしだったら良かったのに。
 エリザベスはアンの言いたいことを悟ると、今度はすぐに否定の言葉を見つけた。胸に滞っている感情までアンに見透かされたような気がして、むきになったように急いで口を開いた。
「わたしは王妃になるために育てられてきました。でも、それは、イングランドの王妃ではございません」
「わかっているわ」
 アンは冷静だった。自分が何を口にしているのか、よくわかっているようだった。
 青白いアンの手が伸びてきて、エリザベスの腕に触れた。
「返事はしなくてもいいわ。聞いてもらえるだけで良かったの。ありがとう、エリザベス」
 どうやってアンをなだめようか、そればかり考えていたエリザベスは、アンの言葉に目を開かされた。アンは言葉どおり、心から良かったと思い、感謝している表情だった。王妃になってほしいとエリザベスに頼んだだけで、すべての重荷から解放されたようだった。
 エリザベスはアンの姿を見つめた。この乱世に健やかな王子の一人も産めず、王位をめぐる争いの決着も見ずに世を去ろうとしている、小さな王妃。
 アンはエリザベスから手を離し、頭を枕に沈め、ゆっくりと天井を見上げた。
「これで良かったの」
 筋の通しかたは一つではない。エリザベスの中で、いつか誰かが言ったことが浮かんだ。



 王妃の逝去が報じられて三日目の朝、エリザベスは下の三人の妹を連れて、通い慣れた王の執務室に向かった。
 リチャードは見かけない顔ぶれと地図を広げて、何か話しこんでいた。従僕がエリザベスたちの来訪を告げると、先客たちは一礼してその場から去っていった。
「お話のところ申し訳ありません。よろしかったのですか」
「構わない」
 リチャードはそっけなく言ったきり、地図から目を上げなかった。先ほどの者たちと話していたことの続きをまだ考えているように見える。喪服を着ていることの他にはいつもと違うところは見あたらなかった。
「お悔やみを申し上げに参りました」
 エリザベスは妹たちと並んで立ち、静かに告げた。
「王妃さまは素晴らしい女性でした。短い間でも、お仕えできたことを誇りに思います」
「ありがとう」
 リチャードはエリザベスの言葉に短く答え、ようやく顔を上げた。エリザベスの左右に並んだ妹たちを順に見て、かすかに笑った。
「きみたちも、ありがとう」
 妹たちにもそれぞれ身の丈にあった喪服を着せてある。ここに来た意味をわかっているようには見えないが、騒いだり笑ったりはせず、真面目な顔でうなずいた。
 エリザベスは再びリチャードを見た。宮廷から出ていけと言われたのを跳ねのけて以来である。顔をあわせるのが怖くてあれほど逃げまわっていたというのに、いざここに来てみると以前と変わらない調子で話せたのに驚いた。リチャードがあいかわらず淡々としているので、エリザベスもつい何事もなかったかのように接してしまう。
 リチャードは本当に変わっていなかった。前に会った時すでに疲れきっていたので、これ以上は変わりようがないというのが事実なのだろうか。外からは見えづらいこの人の感情が少しは読めるようになったつもりだったが、今のリチャードのことはエリザベスにはまったくわからなかった。
「まだ寺院での葬儀があるから、その時に」
 エリザベスは首を振った。
「わたしはご葬儀には参りません」
 エリザベスが葬儀に姿を見せれば、醜聞に喜んでいる者たちがつまらない憶測を掻きたてて空気を汚すだろう。死者を悼むための場に余計なものを持ち込んで、アンの眠りを乱したくなかった。
 最後の別れはすでに済ませてある。アンが息を引き取ったその日、棺に入る手伝いをさせてもらった。
「セシリーは婚家のみなさまとともに参列します。わたしはこの子たちと一緒に、礼拝堂でお祈りをして過ごしますわ」
 リチャードはエリザベスを見つめ、何かに耐えるように目を細めた。はじめて感情らしきものが見えた。
「本当にすまない」
「いいえ」
 エリザベスは短く答え、顔に小さな笑みを浮かべた。いつもなら軽口で和ませるところだが、今はそれが許される時ではない。
 悔やみの言葉は伝え、葬儀に出ないことも知らせた。もう、ここに残っている理由はない。会話が途切れてからもエリザベスが動かないので、左右にいる妹たちが不思議そうに見上げてくる。
 リチャードは手もとの地図に目を落としていたが、視線は一点を見つめたまま動かなかった。いつもなら話を終えたらすぐに仕事に戻るところだが、今日に限ってはそうする気配がなかった。
 エリザベスは長く迷った末に、口を開いた。
「あの、大丈夫ですか」
「え?」
 何を心配されたのかわからない、とでも言いたげな声とともに、リチャードが顔を上げた。
 エリザベスはひどくばつの悪い思いをして、思わずリチャードの視線から逃げた。声をかけたりせずに、さっさと立ち去っていれば良かった。
 末の妹のブリジットが、姉と王をそわそわと見比べている。
 ぎこちない空気が流れたあと、ふいにそれが和らいだ。
 エリザベスがおそるおそる顔を上げると、リチャードは微笑を向けていた。疲れたような、あるいは困ったような笑いかただった。
「ありがとう。心配しないでくれ。わたしはむしろ、ほっとしているところだ」
 思いもよらなかった言葉にエリザベスは凍りついた。
「ロンドンに連れてきてから、アンはずっと苦しんでいた。どうしてやることもできなかった。終わりにできて良かった」
 リチャードが姪を安心させるために言ったのだとしたら、完全に失敗だった。
 エリザベスはリチャードの顔を、目を、手を、開いたばかりの傷を見て、まるで自分が傷ついたかのように鋭い痛みを覚えた。同時に、別の強い感情が胸にこみ上げてきて、思わず言葉に出しそうになった。
 わたしにはこの人の痛みがわかる。この人を慰められる。父の死をともに悼んだ時のように。弟たちの身をともに案じた時のように。同じことを考え、寄り添うことで、この人を救うことができる。
 もう少しで口を開くところだったが、いつか聞いた言葉が頭の中に響きわたり、エリザベスを止めた。
 自分一人で誰かを救えるなどと考えるのは傲慢だ。エリザベス。
 エリザベスは唇を噛み、型どおりの追悼の言葉をあらためて述べた。リチャードは礼を言った。エリザベスは目線を落として膝を折り、リチャードと目をあわせずにその場から立ち去った。本当は残りたくてたまらなかった。
 歩きはじめてしばらくすると、涙がひとりでに両目から溢れ、頬をつたって落ちた。両側にいた妹たちが心配そうに見上げてきたが、三人とも何も言わなかった。エリザベスは涙を流したまま、隠すことも拭うこともせず、ただ前を見て歩き続けた。
 王妃になってほしいとエリザベスに頼むことで、アンは自分の中での筋を通した。
 では、エリザベスはどうやって筋を通せばいいのだろう。


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