テューダーの薔薇 [ 7−5 ]
テューダーの薔薇

第七章 王妃 5
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 恋愛とは人の運命を変えてしまうほど大きなもの、楽しくて、辛くて、時に恐ろしくて、けれど素晴らしいもの。
 それは知っていたけれど、自分には縁のないことだと思っていた。自分はヨーク家のため、イングランドのために結婚して、実家と婚家のために生きる。夫のことももちろん尊重するつもりだが、そこに愛や恋という感情が入ることはない。
 ずっとそう思ってきたのに、なぜか今になってそれが揺らいでいる。
 アンが病床で言ったことを、エリザベスは思い出してみる。
 あなたはこんなふうに思わないわね?
 確かに思わない。エリザベスは、相手をどんなに尊敬していても、その人が言うことだからすべてが正しいとは思えない。
 あなたは自分でものを考えることのできる人だから。
 そう。エリザベスは自分で考えたうえで、相手を信頼するかどうかを決める。
 そして、エリザベスは、リチャードのことを信頼すると決めた。
 アンがリチャードを信頼する以上に、と言ったら僭越に過ぎるだろうか。だが、エリザベスはリチャードのすることや言うことが理解できる。イングランドのために何が必要なのかともに考え、力を貸すことができる。アンのようにただ守られ従っているだけではいない。
 エリザベスは自分の考えたことに気づき、吐き気がこみ上げるのを感じた。まもなく永遠に引き裂かれようとしている夫婦を前に、こんなことを考えるなんて罪深いどころではない。
 だが、いったん考えてしまったことは頭から離れてくれない。
 エリザベスの感情を煽るかのように、あの恥知らずの噂は今や宮廷を覆いつくしていた。エリザベスはうしろ暗いところがないことを示すため、人目の多いところを選んで歩き、毎日のように王妃の居所に通い、女官たちの鋭い視線を浴びながら看病を手伝った。リチャードには出ていくよう言われたとき以来、一度も会っていなかった。
 どれほど言動で訴えても、エリザベスを見る目は悪意と好奇に満ちていた。醜聞を面白がっている者もいれば、ヨーク家の力を削ぐ好機と考える者もいた。その双方がエリザベスを指さし、小声で貶め、嘲笑った。
 エリザベスは決して態度を崩さず、それらに耐えた。自分が侮辱されることはなんでもなかった。何を言われても、どう扱われても、エリザベスは傷つかない。評判を落としたところで、婚期がまた少し遅れるだけのことだ。
 だが、リチャードは違う。リチャードは、いま臣民の心を逃したら、王位も何もかも失ってしまう。ただでさえ甥殺しの汚名を被っているのに、今度はキリスト教徒として罪を犯したと言われるのだ。そのことをリチャード自身はわかっていない。イングランドにとって正しいことをすればいいと思っていて、実際にそうしている。
 エリザベスの父が、リチャードにとっての兄が生きていた時はそれで良かったのかもしれない。兄のために骨身を削って働き、戦い、勝ち得た賞賛と報酬はすべて兄のもの。リチャードはその兄から感謝と信頼を受け取るだけで満足していたのだろう。
 だが、王の忠臣ではなく王位そのものについているには、それだけでは足りない。臣民たちは金髪で背が高く、夜会でも戦場でも人目を惹かずにはおられない、華やかな王さまが大好きだ。彼らのために王が何をしたかという事実よりも、どのような王であるかという物語のほうを好んで話す。反乱を鎮めてイングランドに平和をもたらしても、国のためになるさまざまな法を整えても、リチャードが十二歳の甥から王冠を取りあげ、ロンドン塔に幽閉したという物語を人々は忘れない。
「ほら、王妃陛下のお通りだ」
 エリザベスが回廊を歩いていると、どこかからわざとらしい声が聞こえてきた。この程度のことは毎日のように言われていたので、聞こえなかったふりをして通り過ぎようとした。
「まだ控えの身分だというのに、もう宮廷の女主人の貫禄だな」
「求婚の印に何をいただいたのかしら。血のついたかわいらしい心臓を二つとか?」
 エリザベスは立ち止まった。体がかっと熱くなり、顔にまでそれが伝わっていく。
 セシリーが呼び止めるのも聞かず、気がつくと声を発した集団のほうに突き進んでいた。
「何もいただいていないし、求婚もされていません。結婚したがったのはわたしのほうですもの!」
 エリザベスを侮辱した男女は、エリザベスが黙っていないことは予測したかもしれない。だが、ここまで感情を剥き出しにして言い返してくるとは思っていなかったのだろう。顔に浮かべていた嘲笑を消し、気圧されたように一歩ずつ後ろに下がる。
「わたしが結婚したくて、王妃になりたくて、陛下に取り入ったのです。母がついていた地位にわたしもついてみたかったから。でも、何の成果も得られませんでしたわ」
「ベス、落ち着いて」
「結婚したがったのも、言い寄ったのもわたしです。有りもしないことを言いふらさないで。王妃さまが明日をも知れない時に!」
 目の前にいる男女は呆気にとられて、一言も言い返せないようだった。エリザベスに声をかけたのは、別の方向にいた別の人物だった。
「レディ・エリザベス。ご気分が悪いのでしたらお部屋までお送りします」
 エリザベスと男女のあいだに割り込むように彼は入ってきた。王の執務室で何度か見たことのある顔だった。リチャードが北部を治めていた時からの忠臣の一人だ。
「ありがとう存じます、ラトクリフ卿。ですが大事ございませんわ」
「そのようなことはないでしょう。こちらへ」
 ラトクリフ卿が腕を差し出すのを見て、エリザベスはようやく頭が冷えてきた。出された腕に控えめに手をかける。ラトクリフ卿はエリザベスの頭ごしに男女に目をやり、特に男性のほうを睨みつけた。
「イングランド騎士にあるまじき振る舞いだ」
 手を引かれて人目のない場所まで行くと、エリザベスは自分から足を止めた。
「もうけっこうですわ。ご迷惑をおかけしました」
 ラトクリフ卿は言われたとおりにエリザベスから手を離した。
「こんな行いしかできないようなら、宮廷から出て行かれたほうがいい」
 短い言葉を残し、エリザベスとセシリーに背を向けて去っていく。この人もラヴェル子爵と同じ考えのようだ。
 エリザベスは何も言い返せなかった。何を言われても動じないつもりでいたのに、先ほどは完全に頭に血がのぼっていた。エリザベスがどれほど訴えたところで、リチャードにかけられた汚名は消えない。むしろ、噂好きの連中に新たな醜聞の種を提供してやっただけだ。
 妹に支えられてエリザベスが立ち尽くしていると、また別の人物が近づいてきた。
「大丈夫ですか、レディ?」
 ノーフォーク公だった。
「なんともございませんわ。先ほどのを聞いていらしたのですか」
「近くを通りかかったら、あなたの声がしたもので」
「お恥ずかしいですわ」
 エリザベスはうつむいた。声を聞きつけたのは公だけではないだろう。エリザベスに好意的な者も、そうではない者も、驚き呆れたに違いない。
「あのような噂など、ほとんどの者は信じておりませんよ。あなたの国王ご夫妻への献身はみな存じておりますから」
 包みこむような声で言われ、エリザベスは泣きそうになった。聞きわけのない子どものように首を振った。
「わたしはいいのです。わたしは、何を言われても構いません」
 どれほど侮辱されても、有りもしないことを言いたてられても、エリザベスは傷つかない。エリザベスなら耐えられる。だが、リチャードとアンが傷つけられるのを見るのは耐えられない。最初で最後の、そして最大の不幸の中にある二人を、さらに傷つけようとすることは許せない。
 エリザベスは自分の矛盾に気づいていた。この醜聞の原因をつくり、リチャードの名誉を貶め、アンの心労を増やし、さらに罪深いことまで考えているのはエリザベスだ。こんな自分が二人を案じるのは間違っている。
「レディ・エリザベス、おそらく陛下もあなたと同じお気持ちだと思いますよ」
 ノーフォーク公が優しく言った。
 エリザベスはまた首を振った。
「このまま噂が広まり続けたら、陛下はお味方のほとんどを失ってしまいます」
「それでもです。最後の瞬間まで希望はある。あなたの叔父上はそのことをよくご存じです」
 ノーフォーク公がエリザベスの手をとり、エリザベスに顔を上げさせた。果てのない王位争いを最初から見届けてきた、小さな二つの目がエリザベスを見つめる。
「泣かないでください、勇敢なヨークの姫。王が立ち続けている限り、われわれも希望を捨ててはならないのです」



 噂が衰える気配を見せないまま、アンの病状は悪化の一途をたどった。
 王妃が余命いくばくもないことは、今や宮廷じゅうの人間が知るところとなっていた。リチャードが甥を退けて王位につき、一年後に王太子が幼くして世を去った。そしてまた一年後、王妃がその後を追おうとしている。海の向こうでランカスター派が挙兵の準備をしている時に。人々は不穏な空気を掻きたてるようにさまざまなことを口走った。そして、次の王妃は誰か、という話題に至り、エリザベスに目線を移した。
 エリザベスはそれらを無視しながら毎日アンのもとに通った。もう病が癒えることがないのは明らかだったので、女官たちの仕事はアンの苦痛を和らげ、死の恐怖から気をそらしてやることだった。エリザベスもセシリーとともにアンのそばに付き添い、体をさすり、寝具を整え、薬を飲むのを手伝い、アンが起きている時は短い話をした。
 リチャードが妻の様子を見にやってくることもあった。そういう時、エリザベスはできるだけさりげなくアンの寝台から離れ、形だけの礼を尽くして王妃の居所を後にした。
 まわりから好奇の視線を受けたくないというのも理由の一つだったが、それ以上にエリザベス自身がリチャードの顔を見るのが怖かった。どうして怖いのか、それを考えるのがさらに怖かった。今は心をこめてアンに仕えることだけを考えていたかった。
 そうした日々の繰り返しの中で、一つだけ変化と呼べることがあった。従弟のジョンが大陸から帰国してきたのである。
「お久しぶりです、レディ・エリザベス、レディ・セシリー」
 王妃の居所の近くで二人の姿に気がつくと、彼は駆け寄ってきてあいさつしてくれた。
 顔をあわせるのは半年ぶりである。育ちざかりの少年らしく手足が伸び、顔つきも変わっている。しかし、そこに浮かぶ表情は晴れやかとは言いがたかった。
「久しぶりね、ジョン。会えてうれしいわ」
「ぼくもです」
「カレーでの日々はどうだった?」
「こちらでは学べないことばかりで、充実していました」
「いろいろお話を聞きたいわ。時間のある時に訪ねていらしてね」
「はい。それでは」
 ジョンはこわばった笑みをつくると、二人に背を向けて王妃の寝室へ入っていった。一刻をも惜しんでいる足どりだ。
 ジョンがなぜ帰ってきたのか、エリザベスは尋ねなかった。数日前にはジョンの姉も婚家の領地からロンドンにやってきている。王の庶子たちは義母の最期を看取るために、ロンドンに呼び戻されたのだ。

 エリザベスは母に手紙を書き続けていた。またしても会いに行くことはできなくなったが、母のほうから宮廷に来てほしかったのだ。最後の時が訪れる前に母とアンを会わせ、お互いへのわだかまりを取り除いてほしかった。王太子が亡くなった時、母はアンを慰めるために手紙を書いた。母は弱っている相手に辛くあたることのできる人間ではない。王妃の地位を奪われたことでアンを恨んではいても、和解の道は残されているはずだ。
 クリスマスの時よりも熱心に懇願を重ねたが、母からの返事はなかなか届かなかった。
 ようやく手紙を受け取った時、エリザベスは驚喜して自分の部屋に駆け込んだ。封を切るのももどかしく手紙を取り出し、はやる目を走らせる。期待していた言葉が見つからなかったので、落ち着いてもう一度読み返し、そして愕然とした。
 母の手紙には、アンのことなど一言も書かれていなかった。宮廷に来て王妃を慰めてほしい、国王夫妻と和解してほしいという娘の願いに対して、答えと呼べるものは何も記していなかった。
 母が書いてきたのは、エリザベスとリチャードをめぐる醜聞のことだった。恥じ入ったり咎めたりしているわけではない。エリザベスは自分の目が信じられなかった。
 母は、エリザベスが宮廷で立場を築いたことを褒め、このまま王と結婚するように、と書いていたのである。
『あなたの弟は、イングランド王になるために生まれてきました。』
 母は言った。
『弟のものだった王位をあなたが取り返すのです。王妃になりなさい、エリザベス。ヘンリー・テューダーとの婚約は解消します。リチャード王と結婚して、わたしたちの血をヨークの王統に遺しなさい。』
 母の考えがわからないと思ったことは、これまでに何度もあった。目的は弟たちを取り戻すことなのか、弟を王位につけることなのか、リチャードに復讐することなのかわからなかった。
 この手紙を読んで、エリザベスははっきりと知った。母はまだ王位をあきらめていないのだ。息子を王にすることが叶わなくなったいま、娘を王妃にすることに望みをかけようとしているのだ。そのためであれば娘を義弟に嫁がせてもいいと本気で思っている。
 エリザベスは三度にわたって手紙を読み終えると、そのままの姿勢で凍りついた。


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