テューダーの薔薇 [ 7−4 ]
テューダーの薔薇

第七章 王妃 4
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 リチャード王が病身の王妃の亡きあと、兄王の娘と再婚するつもりでいる。
 その噂は火がまわるような速さで宮廷じゅうに広まった。
 エリザベスはある朝、セシリーを連れて宮殿の回廊を歩いていた。いくつかの輪をつくって談笑していた人々が、いっせいに二人に視線を送ってきた。
 エリザベスは素知らぬ顔で彼らの間を通り抜けた。隣を歩くセシリーのほうが、突き刺さるような視線に戸惑い、怯えている。
 顔見知りの廷臣を見つけると、エリザベスは足を止めて膝を折った。相手は助けを求めるように左右を見たが、王の姪を無視するわけにはいかない。観念したように型どおりの挨拶をした。
「レディ・エリザベス、レディ・セシリー」
「ごきげんよう。良い朝ですわね」
「どちらへ向かわれるのですか?」
 エリザベスは背筋を伸ばし、回廊にいる全員に聞こえるような声で言った。
「王妃さまのところですわ」
 いったんは引いたと思った視線が、波のように押し寄せてきた。
 エリザベスはまっすぐな姿勢も、頬に浮かべた微笑も、決して崩そうとしなかった。
「そうですか、それは……」
 廷臣は言葉を濁し、エリザベスは彼がやや気の毒になった。決して困らせるために話しかけたわけではない。しかし、集まった視線がいまだに散ろうとしないからには、エリザベスには貫かなければならないものがある。
「このところお加減が良くないようですので、わたしも妹もご心配申し上げておりますの」
「それは我々も同じです。一日も早いご快癒をお祈りしましょう」
「ええ。それでは」
 エリザベスはとっておきの笑顔を残し、どんどん縮こまっていく廷臣を解放してやった。エリザベスたちの背後で彼は胸を撫でおろしたはずだ。
 再びエリザベスは妹と並んで歩きはじめた。左右にいる宮廷人たちは、エリザベスに目をやってはそらすのを繰り返している。そして決まって、同じ輪にいる者と何かをささやきあう。ほとんどは先ほどの廷臣のように戸惑ったような表情だったが、中にはあからさまに笑みを浮かべている者もいた。
「お美しいですわね。さすがは母娘続けて王妃の座を射止めるだけのことはありますわ」
 エリザベスはまた足を止めた。
 賛辞の形をとっていれば周囲に聞かれても構わないと思ったのだろうか。そのわりには捻りの足りない言いまわしである。
「今おっしゃったのはどなた? ずいぶんと古いお話を持ち出してわたしを褒めてくださるのですね」
「ベス」
 再び集まってきた視線に怯えながら、セシリーが姉の袖を引いた。
「わたしが王妃になる道は何年も前に潰えてしまいましたわ。シャルルさまはわたしを見捨てて、ブルゴーニュのおかわいらしい姫をお選びになったのですもの」
 エリザベスがなるはずだったのはフランスの王妃であり、イングランドの王妃ではない。高らかにそう言い聞かせると、エリザベスは再び人々に背を向けて歩きはじめた。
 セシリーが慌てて後を追いかけてきた。
「ベス」
「なあに、セシリー?」
「ねえ、どうしてもこの時間にここを通らなければならないの?」
 もっと人目の少ない場所、人目の少ない時刻を選んで王妃の居所に向かうことはできる。セシリーはそう言っているのだ。
「そうよ。そうしなければ、わたしが宮廷に残っている意味がないわ」
 エリザベスは妹の問いに即座に答えた。少し足を速めながら回廊を歩いていく。
 自分は、そしてリチャードは、人に恥じるようなことは何一つしていない。そのことを国じゅうに知らしめるために残った以上、人目を逃れて隠れているつもりはまったくなかった。
「セシリー、居心地が悪かったら、あなたは一緒に来なくてもいいのよ」
「そんなこと言わないで」
 セシリーも心なしか早足になり、対抗するように隣に並んだ。
「でも、王妃さまのところに行ったって、今日もきっと会わせてもらえないわ」
 セシリーの言うことは正しい。宮廷に残ることを決めて以来――王妃の余命がわずかだと子爵に聞かされて以来、毎日のように見舞いに訪れていたが、アンに会えたことは一度もなかった。二人が訪ねるたびに女官の誰かが出てきて、お会いにはなれませんと告げるだけだった。あの時の侍女のようにエリザベスに敵意を示す者もいたが、アンの具合が良くないのは本当なのだろう。だからこそ会わせてほしいと言っても聞き入れてもらえなかった。二人の来訪がアンの耳に入っているのかどうかもわからない。
「そうかもしれないけれど、重要なのはわたしが毎日こうして王妃さまを訪ねていることよ。それに、あなただって王妃さまにお会いしたいでしょう」
「ええ」
 宮廷に戻ったばかりのころ、先にアンに懐いたのはセシリーのほうだった。妹だけでも会わせてもらえないかと一人で行かせたこともあったが、セシリーは少しの時間も経たないうちに沈んだ表情で返ってきた。
 クリスマスの祝宴からもう何月も過ぎている。王妃の死期が迫っていることはすでに宮廷じゅうの、そしておそらくは国じゅうの知るところとなっていた。ヘンリー・テューダーが王位を狙って船を出そうとしているこの時に。
 王妃の居所に着き、衛兵に取り次ぎを頼む。エリザベスとセシリーは昨日まで常にそうだったように、扉の前で待たされた。
 扉を隔てた向こうがわもこちらがわも、墓所のように静かだった。アンが今どんな様子なのかここからでは少しもわからない。来客はもちろん、女官の一人も出入りする気配はない。中には誰もいないのではないかと疑いたくなるほどの静けさだった。
 リチャードはどうしているのだろうか。
 エリザベスはそう考え、考えたことに気づいて思わず首を振った。この状況でリチャードを心配するのは当然のことだというのに、なぜか自分でそのことを認めたくない。セシリーに言われたことが今も頭の中をかき乱しているせいだ。――エリザベスは恋をしているのよ。
 違う、わたしは恋していない。父にそうしていたように、リチャードの役に立ちたかっただけだ。
 だから、何事もなかった顔で王妃にも会うことができる。
 誰にそれを言い聞かせたいのか、エリザベスはわからなくなってきている。
「レディ・エリザベス、レディ・セシリー」
 扉から現れた誰かの声が、エリザベスを煩悶から引き戻した。
 見ると、あの時エリザベスを追い払った年配の女官が、あの時と同じように扉を背にして立っている。
 今日もやはり、会わせてもらえないまま引き返すのだ。エリザベスがそう思った瞬間、女官は表情のないまま口を開いた。
「お会いになるそうです。中へどうぞ」

 王太子が亡くなったあとアンに呼ばれた時のように、エリザベスとセシリーはゆっくりと奥へ歩いていった。
 あのとき考えていたのは、一人息子を亡くした王妃を慰めなければ、ということだけだった。自分たちにそれができるとは思えなかったが、とにかくできる限りのことをしようと決めていた。
 今、自身の命を失おうとしている王妃を前に、いったい何ができるのだろうか。
 開かれた天蓋を通って寝台のそばに立つと、横たわっているアンの姿が目に入った。頭と背中にたくさんの枕をあてがわれ、身を起こしているように見せかけていたが、両手は掛け布の上に弱々しく落ちていた。エリザベスとセシリーが近づくと、アンは視線だけを持ち上げて二人を迎えた。
「エリザベス。セシリー」
 アンはほほえんでいた。宮廷に戻ってきた二人をはじめて居間に招いた時、一人息子が亡くなったばかりの時、クリスマスにエリザベスと同じドレスを着た時、どの時にもそうだったように穏やかな微笑だった。
「久しぶりね」
 エリザベスは返す言葉を見つけられなかった。アンの白い顔や細い首、投げ出された腕をぼんやりと見つめて立ち尽くした。
「もっと早く会いたかったのだけど、具合があまり良くなかったものだから。ごめんなさいね」
 エリザベスは一歩前に進み、アンと視線をあわせるために身を屈めた。
「ご迷惑でなければ、お加減が悪い時こそおそばに置いてください。できることはなんでもしますわ」
「わたしもです、王妃さま」
 セシリーが姉にならって病床に近寄った。いつかと同じように泣き出すかと思ったが、声を聞くかぎりはこらえているようだった。
「ありがとう」
 アンはそう言うと、顔を背けて咳き込んだ。一緒に来た女官が背中をさすろうとしたが、咳はすぐにおさまったようだった。
「そんな顔をしないで、エリザベス」
 アンは再びエリザベスを見た。
「あなたは笑っていて。あなたがいてくれるだけでみんなが笑って、宮廷が明るくなるから」
 エリザベスはなんと答えたらいいのかわからなかった。
 宮廷に流れている噂はアンの耳に届いているのだろうか。届いていたとしても、アンがそれを決して信じないことはわかりきっている。けれど、いま目の前に立っているエリザベスに対して、少しの不快感も抱いていないなどということがあるだろうか。
「ごめんなさいね、エリザベス」
 アンは口を開き、また少し咳き込み、続きを言った。
「わたしのせいだわ。わたしが同じドレスを着たがったりしたせいで、あなたの評判に傷をつけてしまったわ。本当にごめんなさい」
 エリザベスは息を呑んだ。
 やはりアンは聞いているのだ。そのうえでエリザベスを決して責めず、自分が悪いと言って詫びているのだ。
「いいえ、王妃さま。わたしが軽率だったせいですわ」
「前にも話したわね。わたし、自分がここに向いていないことはわかっているの」
 アンが唐突に言ったので、エリザベスは口を閉ざした。
 確かに以前、同じようなことをアンから聞いた。自分は宮廷に向いていない、けれどもそんなわがままは許されない。
「王妃さまは、王妃になりたくなかったのですか」
 エリザベスは率直に言った。子どもじみた言いかただが、他にアンの気持ちを表す言葉はないような気がした。
 アンはエリザベスから目をそらし、遠くを見つめた。
「なりたくなかったと言ったとして、それが何になるのかしら。わたしの座る場所を決めるのはわたしではないわ」
「ええ、わかります」
 アンはエリザベスに視線を戻し、それからセシリーにも目をやった。
「そうね。ごめんなさい」
「謝っていただくことでは」
「わたし――わたし、ずっと謝りたかったの」
 アンはつっかえながら言葉を出すと、また発作に襲われた。顔を背けて咳き込み、先を続けようとしては咳に阻まれている。
「少しお休みになりましょう、王妃さま」
 年配の女官がアンの背中をさすりながら声をかける。
 アンが興奮して疲れきっているのはエリザベスにもよくわかった。退出を申し出ようかと迷っていると、アンが顔を上げて二人を見た。弱々しい姿に反して鋭い視線だった。
「だめ、待って。聞いてほしいの」
 アンはかすれた声で言い、また一つ咳を吐き出した。
「ずっと謝りたかったの、わたし」
「王妃さま、お話は次の機会にうかがいますわ」
「わたしね、子どものころ父のことが大好きだった」
 エリザベスはアンに伸ばしかけた手を止めた。何の話が始まったのかわからない。
 女官が背中をさすり続け、アンの呼吸は少しずつ落ち着いてきた。エリザベスは自分もアンの体をさすりながら、黙って続きを待った。
「父は、宮廷や戦場でのことを、家族の前ではほとんど話さなかったの。わたしや姉にもいつも優しくしてくれた。父が外で何と呼ばれているかは知っていたけれど、その人が父と同じ人物だとはわたしには思えなかった」
 アンは一息に言うと、また咳をした。今度は声を整えるためのものだった。
「ランカスター家のエドワード王子と結婚するように父に言われた時、何が起こったのかわからなかったわ」
 エリザベスはうなずいた。
 王族や貴族の結婚には必ず政治的な思惑がつきまとう。アンも結婚相手は父が決めるものだと言っていた。それでも、ヨーク派の貴族の娘として育ったアンにとって、ランカスター家の王子との結婚は衝撃だったに違いない。
「わからないまま結婚して、大陸に渡って、それから戦が起きて、父と夫が亡くなって。イングランドに戻ってきてからしばらくは、何も考えられなかった」
 エリザベスにも身の覚えのないことではなかった。この乱世を生きる人間ならば、誰にでも覚えがあるだろう。自分の身に起こったことを理解するよりも早く、次の運命がその先で待ちかまえている。
 思いがけないことが起こっても、時間は止まってくれない。様変わりした世界で生きていかなければならない。
「でも、王妃さまには、陛下がいらしたのでしょう?」
 エリザベスの背後から、セシリーがおずおずと口を挟んだ。
 アンは先の内乱で父と夫を亡くし、イングランドに戻ってからリチャードと再会したのだ。そして二人は結婚した。宮廷で噂されていたような理想的な恋物語ではなかったが、二人が信頼しあっているのは明らかだ。ほんのわずかな時間を形だけの夫婦として過ごした相手を、アンは忘れることができなかった。リチャードはその事実ごとアンを引き受けた。
 めまぐるしく移りゆく現実に翻弄され続けたアンにとって、そこはこのうえなく幸せな安住の地だっただろう。
「ええ、そう。わたしは幸せだった」
 エリザベスの考えたとおりのことを、アンは口にした。
「あの人にぜんぶ任せておけば、何も心配はいらなかった。あの人のすることや言うことは、いつだって正しいの」
 アンは思いのほか強い口調で言うと、エリザベスの目を見た。
「あなたはこんなふうに思わないわね、エリザベス? あなたは自分でものを考えることのできる人だから」
 エリザベスは何も答えなかった。アンの話がどこへ向かっているのかまったくわからない。
「王妃さまは、お幸せだったのではないのですか」
「幸せだったわ。あの人と一緒にいれば、何も考えなくて良かった。わたしは自分の育った城で、子どものころと同じように守られていた。父が生きていた時のように」
「それでは」
「でも、あの人は、わたしを守り、支えてくれたその手で、あなたの弟から王位を奪った」
 アンが口を閉ざすと、寝室の中が静まりかえった。
 エリザベスも向かいにいる女官も、アンをさする手を止めて凍りついた。背後にいるセシリーの様子はわからないが、おそらく同じだろう。
「王妃さま、陛下は――」
「わかっているわ。あの人は、自分のためにそれをしたわけではないって。誰よりもわかっているわ」
「それでは、王妃さま」
「でも、あの時――わたしのエドワードが死んだ時、わたしは気がついたの。あなたたちのお母さまに、わたしと同じ思いをさせてしまったと」
「弟たちは生きていますわ」
「でも、元どおりにはならないわ。永遠に」
 アンがエリザベスの手をつかんだ。呼吸がまた乱れ、顔色も青ざめてきている。
 この光景には見覚えがあった。王太子が早逝してまもなく、セシリーとともに王妃を見舞った時だ。
「わたしの時間が元に戻らないように、お母さまの時間もきっと戻らない」
 アンは息を弾ませながら言葉を吐き出した。
 アンの時間というのがいつのことなのか、一人息子を亡くす前のことなのか、ランカスター家の王子と結婚する前のことなのか、エリザベスにはわからなかった。
 けれども、今日とよく似たあの日、アンが母に言ったことがどんな意味だったのか、エリザベスはようやく理解することができた。
 お悲しみをお察しします。わたしに償えることがあれば、なんでもいたします。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
 アンはエリザベスの手をつかんだまま、目を閉じて何度も繰り返した。エリザベスに話しているのか、エリザベスの母に話しているのか、自分でもわかっていないようだった。
「お休みになったほうがよろしいですわ」
 エリザベスはアンの手を優しくほどき、寝台の上に置いた。女官が再びアンの背をさすり始める。アンは一度も目を開けず、人形のように静かに横たわっていた。
 エリザベスはセシリーと目をあわせ、二人は黙って寝台から離れた。そのまま部屋から出ていこうとすると、うわごとのような声が背中を追いかけてきた。
「ミドゥラムに帰りたい」
 エリザベスはびくりと足を止め、振り返った。隣にいたセシリーも同様だった。
 寝台のほうを見ると、アンが女官の腕にすがりつき、子どものように泣き叫んでいた。
「帰りたい、帰りたい――あの子が待っているの」


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