テューダーの薔薇 [ 7−3 ]
テューダーの薔薇

第七章 王妃 3
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 リチャードの執務室にはセシリーも一緒に呼ばれ、エリザベスに付き添ってくれた。そのあとをラヴェル子爵が当然のように付いてきた。
 リチャードは机に向かって何かを書いていたが、エリザベスが入ってきたのに気づいて目を上げた。顔をあわせるたびに前よりやつれていると思っていたが、今日は疲労の色がいちだん濃く見えた。
 子爵に責められている時は感じなかった罪の意識が、今はじめてエリザベスに襲いかかってきた。この人の苦労を増やしたのは自分だ。王妃の病状が悪化し、ヘンリー・テューダーが侵攻をすすめ、国内外で反乱の火があがっている時に。
「フランシスから話を聞いたか」
 リチャードが筆記具を置き、エリザベスに訊いた。
「はい。その前にセシリーからも」
「このようなことになって申し訳ない。きみの名誉を守るために噂は早急に消してみせる」
 リチャードの口調はいつものように淡々として、いつものように事務的だった。疲れてはいても動揺はしていない。この醜聞を、片づけなければならない懸案の一つとしか思っていないらしい。
 エリザベスは宮廷に来たばかりのころを思い出した。リチャードは、甥たちの命を奪ったという不名誉な噂を否定せず、臣民への心証を良くしようとはまったく考えていなかった。今も同じだ。この人は、他人の目や耳がどれほど恐ろしく、どれほど重要なものかわかっていない。気にしなければならないのは自分の名誉だというのに、そんなものは存在しないかようにエリザベスの名誉だけを考えている。ヘンリー・テューダーが正統の王に名乗りを上げようとしている今、悪評一つが命とりになりかねないことを理解していない。
「噂がおさまるまで、きみは義姉上のもとにいなさい。ちょうど会いに行くつもりでいただろう」
 エリザベスは自分の身がこわばるのを感じた。リチャードが、目的は異なるとはいえ、子爵と同じことをエリザベスに命じるとは思わなかった。
「きみたちの母上に手紙を書いたところだ。セシリーも一緒に行ってやってくれるか」
「わたしは出ていきません、陛下」
 セシリーが隣でうなずく前に、エリザベスはきっぱりと言った。
 リチャードはもちろん、セシリーも子爵も示しあわせたようにエリザベスを見た。
「レディ・エリザベス、まだそのようなことを」
「陛下の言うとおりにしたほうがいいわよ、ベス」
「出ていきなさい。これは命令だ」
 他の二人の言葉を遮るようにして、リチャードが言った。エリザベスがこの宮廷に来てからはじめて、命令という言葉を使った。
「このままここにいては、きみがどのような目に遭わされるかわからない。どんな視線を向けられるか、どんな言葉を聞かされるか。結婚前にきみの評判に傷がつくことになっては、義姉上に申し訳がたたない」
「もう傷はついていますわ。わたしの嫁ぎ先のことでしたら、陛下が世話してくださるのですから心配はございません」
 エリザベスは静かに言葉を続けながら、自分が怒っていることに気がついた。リチャードがエリザベスの意見を聞こうともせず、ただエリザベスを守るためだけに、一人で勝手に話を進めようとしている。それがどうしようもなく腹立たしかった。
「わたしがいま罪人のように宮廷を出ていけば、噂は事実だったと公の前で認めているようなものです。噂に動じていないところを見せつけて、恥じるようなところは何もないのだとわからせてやるべきです」
「きみの姿が見えなくなれば、面白がって噂を広める者はいなくなる」
「いいえ、そうはなりませんわ。わたしが去ったことでますます話を膨らませて、ありもしないことを言いふらすに決まっています」
 リチャードがエリザベスから目をそらし、うつむいて口を閉ざした。
 エリザベスは場違いにも、勝てる、と思った。リチャードがエリザベスを案じてくれているのはわかるが、エリザベスもリチャードのことを考えたうえで言ったのだ。噂をこれ以上広めないため、リチャードの敵をこれ以上増やさないために。何があってもここは譲るわけにはいかない。
 審判を待つように立ち尽くしていると、リチャードが顔を上げた。まだ何か言われるのかと身構えたが、そうではなかった。
 リチャードは机に手をついて立ち上がり、その場所からエリザベスを見つめて言った。
「義姉上のところに行ってくれ。頼むから」
 懇願するような表情に、エリザベスは勢いを削がれた。自分を手で支えながら立っているリチャードが今にも倒れそうに見えて、もう少しで駆け寄って手を差しのべるところだった。
「わたしは行きません、陛下」
「行ってくれ。これ以上きみを傷つけるわけにはいかない」
 わたしは何を言われても傷つかない、それよりもあなたを守ることのほうが大切だ。
 エリザベスはそう言おうとして、ふと声をつまらせた。
 いま自分は何を言おうとしたのだろう。この人の役に立ちたい、力になりたいという思いは以前からあった。けれども、自分が傷つくことも厭わずに守りたいと思うほど、この人は自分にとって大切だったのだろうか。
「すまない、ベス。わたしの考えが足りなかった」
 エリザベスが押し黙ったのを見て、リチャードがたたみかけた。
「わたしたちはきみに頼りすぎた。このようなことに巻き込んでしまって、本当にすまない。手遅れになる前にわたしたちから離れてくれ」
 エリザベスは自分の中で、何かが切れる音を聞いた。
 頼りすぎた? 巻き込んだ? この人は何を言っているのだ。
 王妃に仕え、宮廷を飾りつけ、異国の使者と踊り、客人たちをもてなしたのは、すべてこの人の役に立つためだった。この人の微笑を見るためになんでもできた。
 リチャードもそれを喜んでくれていると思っていたのに、今さらエリザベスを部外者あつかいして、宮廷の外へ追い払おうとしている。エリザベスはこの人のために傷ついても構わないと思っているのに。
「わたしは出ていきません。絶対に」
 リチャードがまだ何か言おうとしたが、エリザベスはそれを封じるように正面から見つめて、言い放った。
「わかってくださらなくてもけっこうですわ」

 エリザベスは執務室を飛び出すと、空気を蹴散らすように早足で歩き続けた。空気ではなく壁でも蹴飛ばしたいくらい腹が立っていたが、何にそれほど腹が立つのか自分でもよくわからなかった。
「ベス、ベス」
 セシリーが背後から駆け寄ってきて、エリザベスの隣に追いついた。
「だいじょうぶ?」
「なんでもないわ」
 癇癪を起こしたように部屋から出てくることがなんでもないはずがない。エリザベスもそれはわかっていたが、他に妹に返す言葉が見つからなかった。
「だいじょうぶじゃないでしょう。ベス、落ち着いて」
「落ち着いているわ」
「だったらどうしてそんなに早く歩いているの」
「歩きたい気分なのよ。少しでいいからほうっておいて」
 エリザベスは妹に構わず歩き続けた。歩きながら、先ほど起こったことを頭の中で振り返ってみた。
 リチャードに宮廷から出ていけと言われた。エリザベスはそれを断り、その理由を述べた。するとリチャードは立ち上がり、エリザベスに謝った。
 たったそれだけのことで、なぜここまで取り乱さなければならないのだ。
「ベス、ちょっと待って」
「待てないわ」
「お願いだから少し話をさせて」
「話せることなんて何もないわ。自分でもよくわからないの」
「わたしはわかるわ、たぶん」
 エリザベスは立ち止まった。隣に並んだセシリーの顔にようやく目を向ける。
「何がわかるの、セシリー?」
「あなたが今、どんな気持ちなのか」
 エリザベスは思わず左右を見た。妹にそう言われただけで、宮廷じゅうの人間に胸の内を見透かされているような気がした。自分でも見ることができずにいるというのに。
 幸いにも、二人の声が届きそうなところに人の影は見えなかった。
「ベス、あなたは陛下のそばを離れたくないのよ。陛下に恋をしているから」
 エリザベスは妹の目を見つめて立ち尽くした。
 何を言われるのかはわかっていたような気がするが、実際に言われてみると殴られたような衝撃があった。
「何を、言っているの、セシリー」
「ベスもほんとうは気づいていたのでしょう?」
「違うわ。そんなはずないでしょう。わたしはキリスト教徒なのよ」
「神の教えに反していたって、恋してしまうことはあると思うわ」
「わたしは違うわ。そんなことは絶対にしない」
「陛下のことが好きなんでしょう、ベス。だから出ていくように言われて、あんなに怒ったんでしょう?」
「やめて、セシリー」
 出ていけと言われて怒りを覚えたのは本当だ。輪の外へ追いやられるような気がして腹が立ったし、傷つきもした。意地でも出ていってやるものかと思った。
 悪評をこれ以上広めないためにも、エリザベスは宮廷から出ていかないほうがいい。それよりも、近くにいてリチャードの役に立ちたい。
 それが恋なのかと問われたら、たぶん違うと答えると思う。だが、恋というものについて、エリザベスが知っていることは皆無に近い。恋愛とは人の運命を変えてしまうほど大きなもの、苦しくて、楽しくて、時に恐ろしくて、けれど素晴らしいものだと聞いてはいるが、エリザベスにはよくわからない。
 わかっているのは、自分が生涯それをすることはない、ということだけだ。
「違うわ、セシリー。わたしは恋なんてしていない」
 エリザベスがなおも言い張ると、セシリーは真顔で姉を見返した。憎らしいほど冷静な表情だった。
「わたしは恋だと思うわ、ベス」
「違うと言っているでしょう」
「ベスは今まで恋をしたことがないじゃない。だから、その時が来てもそうだと気づいていないのよ」
「セシリー、あなただって、恋をしたことなんてないくせに!」
 エリザベスは思わず声を上げ、はたと気がついた。セシリーよりはるか向こうにラヴェル子爵が立って、姉妹のほうを眺めている。
 姉が凍りついたのを見て、セシリーも振り返った。そして同じように凍りついた。
「失礼、声をかけようと思ったのですが」
 子爵はさして気まずそうな様子もなく、肩をすくめながら歩いてきた。
「今のは聞かなかったことにしましょうか。それとも、わたしも議論に加わりましょうか?」
「お忘れくださいませ」
 エリザベスは即座に答えた。今の会話をどこから聞かれていたのかと考えるだけで、熱くなった頭が一気に冷えていく。
「何かご用ですか、子爵」
 子爵は少し首をかしげ、困ったように笑った。先ほどまでの激しい怒りはどこかへ消えたようだった。
「あなたにお詫びしにきました」
「お詫び?」
「先ほどは頭に血がのぼって、あなたに不適切なことを申し上げました。お許しを」
 子爵は言葉だけではなく、態度でも詫びの気持ちを示した。エリザベスの前にひざまずき、深く頭を下げた。
 エリザベスは子爵の頭を無言で見つめた。リチャードに出ていけと言われたことで頭がいっぱいで、その前に子爵から言われたことはすっかり忘れていた。振り返ってみれば厳しいことを言われたような気もするが、どれも一方的な言いがかりではなかったと思う。
「お立ちくださいませ、子爵。わたしが許してさしあげることなど何もございませんわ」
 エリザベスは貴婦人らしく手をさしのべた。この人がエリザベスを嫌っていることはよくわかったが、今はそんなことを気にしている余裕がない。
 子爵はエリザベスの手に口づけると、すっくと立ち上がった。先ほどまでひざまずいていたとは思えない冷ややかな目だった。
「それで、宮廷から出ていってはいただけないのでしょうか」
 エリザベスは顔には出さずにうんざりした。結局これなのである。
「あいにくですが、そのつもりはございません」
「わたしではなくリチャードの望みだったとしても?」
「先ほどわたしが陛下に申し上げたことを聞いていらしたでしょう。わたしが出ていけば噂はますます広まるばかりです」
「それについてはあなたのほうが正しいと認めましょう。ですが、あなたが噂の届かない場所に行くだけでもリチャードの気は休まります。出ていっていただけませんか」
「お断りいたします」
「もう一度ひざまずいても?」
「出ていきませんわ」
「――リチャードより融通の利かない人間をはじめて見ました」
 子爵はエリザベスを見て肩をすくめ、聞き捨てのならないことを言った。この場で説得するのはあきらめたらしく、呆れたような顔になって続けた。
「口さがない連中に、どんなことを言われるかわかりませんよ」
「おおよその想像はつきますわ」
「考えなおしていただけないものですか。アンの最後の安寧のためにも」
 エリザベスははっと目を見開き、子爵の顔を凝視した。思いもよらない言葉だった。
 エリザベスが驚いたことに子爵もまた驚いたようで、当惑した表情でエリザベスを見つめ返している。
「王妃さまは――それほどお悪いのですか」
 子爵はためらったのち、静かにうなずいた。
「春まで持つかどうかと言われています。ご存じなかったのですか」
 エリザベスは子爵の言葉にうなずくことも、首を振ることもできなかった。隣にいたセシリーが腕にすがりついてきたが、そちらを振り向くこともできない。ただ妹の手を握り返すだけでやっとだった。
 アンが春まで持たない。
 この愚かしい醜聞に満たされ、ヘンリー・テューダーの侵攻に怯える宮廷で、リチャードの最愛の妻が世を去ろうとしている。


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