テューダーの薔薇 [ 7−2 ]
テューダーの薔薇

第七章 王妃 2
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 王妃の居所を訪れ、侍女に冷たく拒絶された日から数日が過ぎた。
 エリザベスは考えられる限りのことを考えてみたが、あの場であんな態度をとられる理由はどうしても思いつかなかった。アンの容態がまた悪化したのだろうかとも思ったが、この数日でそんな話は聞いていなかった。
 日を開けてまた訪ねてみよう。エリザベスを追い払ったのはあくまで侍女であり、アン自身に拒まれたわけではないのだ。部屋に入る前にあの侍女にさえ会わなければいいのだし、アンがエリザベスを歓迎してくれれば侍女の態度も変わるかもしれない。
 そう思ったものの、あの時エリザベスを見た侍女の目は、そうたやすく忘れられるものではなかった。あれがいったい何だったのか、いまだにエリザベスにはわからない。
 とにかく数日が過ぎたので、エリザベスは再び王妃の居所に向かうことにした。セシリーも一緒のほうがいいと思ったので、宮殿の中を歩いて妹の姿を捜した。セシリーは休暇を終えてからも夫や婚家の人々と過ごしていることが多く、エリザベスと使っている部屋にはめったに戻ってこない。
 中庭に面した回廊でようやく妹の姿を見つけ、エリザベスは足を速めた。
「セシリー」
 声を発した瞬間、セシリーと、一緒にいた数人が驚いたように振り向いた。エリザベスやセシリーと同年代の若い女官ばかりだった。
 なぜ驚かれたのかわからず、エリザベスは足を止めた。場を取り繕うようににっこりほほえんでみたが、女官たちは戸惑いを深めて顔を見あわせるだけだった。
「ベス、どうしたの」
 ぎこちない空気の中をセシリーが歩いてきた。そのうしろで、女官たちがエリザベスとは反対の方向へ歩き出すのが見えた。
「あなたを捜していたのよ。何を話していたの?」
「なんでもない――後で話すわ。わたしに何の用?」
「王妃さまのお見舞いに行こうと思うの。一緒に行かない?」
 セシリーは喜んでうなずくかと思ったが、押し黙ったままエリザベスの顔を見つめた。その目には怯えに似た困惑が浮かんでいた。
「エリザベス、王妃さまのところへ行ってもいいの?」
「どういう意味? 行ってはいけないの?」
「いけないことはないけれど……王妃さまに会っても平気なの、ベス?」
「意味がわからないわ。どうして平気ではないと思うの?」
「だって、あなた――」
 セシリーは言いかけ、少し考えてから口を閉ざした。姉の顔を見て、続きを言うべきかどうか考えているようだった。
 エリザベスは王妃の侍女のことを思い出した。先ほどの、セシリーと一緒にいた女官たちの目つき。そして、妹のこの表情。彼女たちは何か同じことを考えているのだろうか。エリザベスとアンの双方にかかわりのある、たぶん良い話とは言いがたいことを。
「ベス、ちょっといいかしら」
 セシリーがエリザベスの不安を煽るように、姉の手をとって人目を避けるように歩きだした。回廊の角を曲がり、左右を見まわし、近くに誰もいないことを確かめると、セシリーは再びエリザベスと向きあった。
「訊いてもいい?」
「何を?」
「あの噂がほんとうなのかどうか」
「何の噂なのかわからないと、答えようがないわ」
「エリザベス、もしかして聞いていないの?」
「だから、何を?」
 なかなか核心を突かない妹の話に、エリザベスはいらいらしてきた。
 弟たちが殺されたという噂を、それも使用人たちの根も葉もない言葉を鵜呑みにしていたセシリーだ。どうせ、真実からはほど遠いが刺激があっておもしろい、宮廷のゴシップに乗せられているに違いない。さっさと口にしてくれれば否定して笑ってやれるのに、何をためらっているのだろう。
「わたしが聞いたのは、その」
「何なの?」
「だから、その、結婚の話よ」
「結婚?」
「つまり――新しい王妃が決まったというお話」
「新しい王妃?」
 エリザベスは愚者のように妹の言葉を繰り返した。
 目新しい話ではなかった。王妃の病状が悪化するたびに、野心にはやる貴族や噂好きの女官のあいだでは、次の王妃は誰かという憶測が飛び交っていた。結婚が王族の義務であることはわかっているが、アンと親しい身としては気分のいい話ではない。
 妹がそんな噂ばなしを真に受けているのだと思うと、エリザベスの苛立ちは増した。
「そう。それで、誰なの? その幸運なご婦人は」
「あなたよ」
「は?」
「エリザベス、あなたが次の王妃になるに違いないって、みんなが言っているの。ほんとうなの?」
 セシリーは一息に言い切ると、エリザベスの視線から逃れるように目を伏せた。エリザベスはよほど鋭く妹を見つめていたのだろう。実際は、驚愕のあまり身動きがとれず、前にいる妹から目が離せなかったに過ぎないのだが。
「みんなって、誰なの」
 暴れまわろうとする頭を必死でなだめながら、エリザベスはやっと訊いた。訊くべきことは他にあるような気がしたが、さしあたり浮かんだ言葉を口にするのがやっとだった。
 セシリーは詰問されたように感じたのか、うつむいたまま目を上げなかった。
「昨日と今日お話した女官全員に、同じことを言われたわ」
「噂好きのおしゃべりな人たちでしょう」
「いいえ。面白がっている人もいたけれど、真剣に心配してくれている人もいたわ。それに、レイフさまにも訊かれたの。兄の男爵から聞いたけれど、ほんとうなのかって」
 セシリーの義兄にあたるスクループ男爵は、即位前からのリチャードの忠臣だ。決して面白半分に噂を流したりするような人柄ではない。
「ほんとうなの、ベス? お願い、わたしには正直に言って」
 セシリーが意を決したように顔を上げ、すがるように言った。この突拍子もない噂に動揺し、心から姉を心配しているのがよくわかる。冗談や皮肉の色はほんの少しも混じっていない。
 エリザベスにとっていちばん大きい打撃はそれだった。この噂を暇つぶしのゴシップではなく、事実として真摯に受け止めている人間が、セシリーの他にもいるかもしれないのだ。
 こんな根も葉もない噂ばなしを。異教徒のように罪深く、堕落者のように恥知らずな縁組みを。
「どうして、ほんとうだと思うの?」
 エリザベスは怒りを抑え、冷静に妹を問いただそうとした。
 ところがセシリーは、こともあろうに驚いたようだった。
「ほんとうではないの、ベス?」
「だから、どうしてそう思うのよ」
「だって、このところのベスは、まるで宮廷の女主人のように振る舞っていたじゃない。祝宴の準備をするためにみんなに命令して、王妃さまと同じドレスを着て」
「同じドレスを望んだのは王妃さまよ」
「だから、王妃もすべて承知の上だとみんなは思っているの。自分の地位を引き継がせるために王妃の務めをさせて、同じドレスを着せて、陛下と踊らせようとしたんでしょうって」
 何もかもが事実とは逆の意味にとられている。疑いの種が一つ蒔かれただけで、育んできたものがすべて毒の実に変わっていく。
「馬鹿馬鹿しいにもほどがあるわ。わたしは王妃さまの女官よ。女官の仕事をしていただけよ」
「どこの王さまだって、王妃の女官の一人や二人を愛人にしているわ」
「セシリー!」
 エリザベスは叫んだ。生まれてはじめて妹に手を上げそうになった。
 セシリーもそう感じたらしく、さっと身をすくませた。しばらく経っても姉が動かないことに気がつくと、顔を上げて同じことを訊いた。
「違うの? ほんとうに違うの、ベス?」
「違うわよ。どうしてそうだと思ったの。どうして、わたしが」
 エリザベスは言葉を止め、自分が何を言おうとしているのかに気がつくと、足もとから突き上げてきた恐怖に倒れこみそうになった。
 違う、そうではない。セシリーが言ったようなことは、エリザベスの頭をかすめたことすらない。
 エリザベスはただ、二人の役に立ちたかっただけだ。アンを励まして、着飾らせて、王妃にふさわしい姿で廷臣の前に立たせたかった。宮廷を飾りつけ、花と音楽で満たして、異国や地方からやってきた客たちにヨーク家の繁栄を見せつけたかった。かつて父のためにしようとしていたことをリチャードのためにしただけだ。父に褒められ、感謝されるかわりに、リチャードに褒められ、感謝されたかった。そして、そのとおりになった。
 たったそれだけのことで、なぜセシリーが言うような誤解を受けなければならないのだ。
 エリザベスはイングランドのために異国に嫁ぐ。これまでずっとそう思ってきたし、今もそう思っている。誰のことも愛したり、恋したりはしない。
「ベス、大丈夫?」
 セシリーはエリザベスが倒れるとでも思ったのか、両手を差し出してエリザベスの腕を支えた。心配そうな目が次の瞬間、驚きに見開いた。エリザベスが妹の手を振り払ったせいだ。
「違うわ、わたしは――」
 聞いたこともないことを聞いた衝撃と、考えたこともないことを考えた動揺。そこにセシリーの手の熱が加わり、エリザベスは追いつめられた獣のように怯えていた。自分に近づいてくるすべてのものが恐ろしかった。今までに一度も味わったことのない恐怖だった。これ以上、一人で考えていたら、自分は恐怖のあまり死んでしまう。
 一人で考え込むのはやめなさい。誰かが、そう言った。
 エリザベスは自分の記憶にすがるように、もう一度その言葉を頭で繰り返した。
 それから、自分でも気づかずに歩きだしていた。

「レディ・エリザベス、どちらへ?」
 王の執務室に向かう途中、ラヴェル子爵に呼び止められた。
 エリザベスは話しかけられたことに気づかず、そのまま横を通り抜けようとした。子爵が慌てた様子で追ってきてエリザベスの前に立ちはだかり、はじめてエリザベスは我にかえった。
「陛下とお話に」
「お話はできません。このままお引き取りください」
 エリザベスはむっとした。このあいだの侍女といい、子爵といい、エリザベスが国王夫妻に会おうとすると、当人たちではなく他人が遮ろうとする。
 それから、気がついた。子爵はもう噂を聞いているのだ。王妃の侍女も、だからエリザベスをあのような目で見つめ、感情もあらわに追い払おうとしたのだ。
「恥知らずな噂のことなら、わたしがいま話したところです」
 エリザベスの考えを裏づけるように、子爵が低い声で言った。いつもの人好きのする笑みはなかった。
「いつか、こんなことになるのではないかと思っていましたよ。想像していたよりもはるかにひどかったですがね。この場から、いえ、この宮廷からお引き取りください。今すぐにでも」
「お待ちください。子爵は誤解なさっていますわ」
「誤解などしていませんよ。リチャードが愛しているのはアンだけです。暇を持て余した者たちが憶測を言いたてているのに過ぎません。でも、原因をつくったのはあなたですよ、レディ」
 追いかけてきたセシリーが姉に追いつき、エリザベスの腕をとった。子爵の剣幕に怯えているようだった。
 エリザベスもこんな子爵を目にするのははじめてだ。王妃の居所で顔をあわせて以来、穏やかな笑みを絶やさずにエリザベスを気遣ってくれていたのに。こんな敵意を見せつけられたことなど、一度もなかった――だろうか?
「レディ・エリザベス、あなたがいつか災いとなることはわかっていました。ウッドヴィルの娘でテューダーの妻。それなのに、リチャードはただ自分の姪だという理由だけで、大切な甥御がたの居場所をあなたに教えた。トマス・スタンリーを信用したのと同じくらい愚かな選択でした。あなたは最悪の形でそれを証明してくれましたね」
「ヘンリーと婚約しているから、わたしを信用できないというのですか。わたしが王妃の冠ほしさに弟たちをヘンリーに売るとでも?」
「今さらそのようなことは考えません。だが、あなたはネヴィルの姫君の心を傷つけた」
「わたしはただ、王妃さまのために」
「役に立ちたかった? ええ、まったくご立派でしたよ。あなたはなんでもできて、なんでも持っている。あなたのその美しさや明るさが人を傷つけているということが、おわかりにならないのですか」
 まったくわからなかった。
 エリザベスはアンの力になりたくて、そのためにできることはなんでもした。それがこの噂を招いたことは理解できたが、子爵が怒っているのはそのことではないらしい。
「わかりませんわ、子爵」
「わたしはわかるわ」
 隣から思ってもみなかった声が聞こえ、エリザベスはぎょっとした。セシリーが真顔でエリザベスを見つめていた。
「ベス、あなたは知らないのよ。王妃さまと同じドレスを着たあなたが、まわりからどんなふうに見えていたか」
「そのとおりです、レディ・セシリー」
 子爵は思いがけない賛同に面食らっていたが、すぐにエリザベスに向きなおった。
「あの日、あのドレスを着たあなたが、どんなに美しく、どんなに活力に満ちていたか。王妃は病みやつれて座っているのもやっとだというのに、あなたは広間を駆けまわって今にも踊りだしそうにしていた。王妃にかわって自分が整えた祝宴を満足そうに見つめて。口さがない者たちが何をささやいていたかご存じですか」
「いいえ」
「では、手あたりしだいに訊いてみるといい。あの広間にいた二人の女性のうち、どちらが王妃に見えたのか」
 十二夜の祝宴の光景が、悪い夢のようによみがえってくる。
 エリザベスが飾りつけた広間。エリザベスが招待した客。王妃と同じ生地のドレス。人だかりをくぐり抜けて、エリザベスにダンスを申し込みにきた王。
「リチャードとアンを少しでも知る者なら、二人を引き裂くことができるのは神だけだとわかっています。ですが、二人を知らない者、真実よりもくだらない憶測を好む者、そしてヘンリー・テューダーに与する者は、この醜聞に喜んで飛びつくでしょう。リチャードがイングランド全土の忠誠を必要としている時に、あなたはそれを引きちぎって海に捨てたのです。ヘンリーが渡ろうとしている海に」
 エリザベスは愕然とした。
 この噂がリチャードから力を奪い、ヘンリーに力を与えるとは思ってもみなかった。
 だが、子爵の言うことは正しい。甥を幽閉して王位を奪い、姪を後添えにしようとする王に、誰が忠誠を捧げてくれるだろう。
「宮廷から出ていってください。これ以上、リチャードとアンを傷つける前に消えてください」
 エリザベスは押し黙っていたが、やがて顎を持ち上げて子爵の顔を見返した。
 この人はエリザベスを信用していなかった。エリザベスを疎ましく思っていた。こんなかたちでそれを知らされても、悲しいとも苦しいとも感じなかった。
 むしろ、こみ上げてきた怒りのおかげで、頭が先ほどよりも冴えていた。国王夫妻ならまだしも、子爵からここまで言われる筋合いはない。
「いいえ、出ていきません」
「レディ――」
「確かに軽率なところはありました。でも、罪人のように宮廷を追われなければならない理由は持ちあわせていませんわ」
 子爵の目の中で怒りが燃え上がった。
 何か言われる、と思ったその時、別の声が割り込んできて、エリザベスを救った。
「レディ・エリザベス。陛下がお呼びです」


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