テューダーの薔薇 [ 6−5 ]
テューダーの薔薇

第六章 聖夜にさす影 5
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 クリスマスの祝祭が始まる前日に、エドワード四世の幼い娘たちが宮廷にやってきた。ウエストミンスター宮殿は深雪にすっかり覆いつくされていたが、エリザベスとセシリーは外に出て妹たちの到着を待った。
 アン、キャサリン、ブリジットの三人は、姉たちを見つけて子犬のように駆け寄ってきた。
「エリザベス! セシリー!」
「会いたかったわ。三人とも元気だった?」
 姉妹は交互に抱きあい、お互いの顔にキスして再会を祝った。聖域を出て宮廷と母の家に分かれてから半年以上が過ぎている。小さかった妹たちは少しずつ背が伸び、日ざしをふんだんに浴びて見違えるように元気になっていた。
 妹たちの表情から察するに、エリザベスとセシリーについても同じことが言えるようだ。九歳のアンが二人の姉を見上げ、恥じらうようにつぶやいた。
「お姉さまたち、きれい」
 妹たちの頭には、聖域で身も心も困窮していた姉たちの記憶しかないらしい。髪を結って着飾ったエリザベスとセシリーに見とれている。
 姉の姿だけではなく、他のあらゆるものが妹たちの目をみはらせた。特に五歳のキャサリンと四歳のブリジットは父がいたころをほとんど覚えていないようで、かつて住んでいた宮殿をはじめて訪れる場所のように見回していた。クリスマスの祝宴のために飾りつけられた広間、国内外から集まってきたおおぜいの人々、姉たちが暮らしている部屋にいちいち歓声をあげて目を輝かせた。
 母はとうとう招待に応じてくれなかったが、妹たちだけでも宮廷に来ることができて良かった。エリザベスは心からそう思った。
 王と王妃のもとへ順にあいさつに行き、あたたかい歓迎の言葉をかけてもらった。姉妹で宮廷を歩いていると、すれ違う人々がほほえみを送ってくれた。かつての五人の王女がそろっている光景は、エドワード四世が王座にいた平和な時代を思い起こさせるようだった。
 その晩、妹たちがエリザベスの寝室に泊まり、五人でさまざまなことをしゃべり明かした。
 この半年は妹たちにとって、聖域にいた一年よりも短く、そして長かったようだ。母と暮らし始めた家が見たことのない物で溢れていること、管理者が飼っている犬と毎日遊ばせてもらうこと、母と一緒にお菓子をつくったこと、姉たちに手紙を書くために綴りの勉強をしていることを、三人は先を争って話してくれた。
 そして、姉たちの話を聞きたがった。
「セシリーは結婚したんでしょう? 旦那さまはどこにいるの?」
 アンが寝台の上で身を乗り出し、すぐ上の姉に訊いた。
 セシリーは祝宴の客として夫とともに部屋を与えられているが、妹たちと過ごすためにこの寝室に移ってきていた。
「宮殿にいるわよ。明日にでも会わせてあげるわ」
「わたしも結婚式を見たかったのに。結婚するってどんな感じ? セシリーは旦那さまのことを愛してるの?」
 妹の無邪気な問いに、セシリーは真っ赤になった。
「愛ているから結婚したわけではないのよ、アン」
「じゃあ、どうして結婚したの? 旦那さまはセシリーを愛してるの?」
「そうではないと思うけど、とても優しくしてくれるわ」
「優しくって、どんなふうに?」
 矢継ぎ早に質問を浴びせられ、セシリーはすっかり恥じらってうつむいてしまった。
 九歳のアンはもう自分をいっぱしの貴婦人だと思っていて、姉たちとともに宮廷に出られなかったことにも憤慨していたらしい。晴れて宮廷にやって来たからには、姉たちから聞ける限りのことを聞き出すつもりのようだ。
「わたし知ってるわ。結婚は自分と旦那さまだけではなくて、みんなが幸せになれるように考えなくちゃいけないのよ」
 末の妹の口からそんな言葉が飛び出して、エリザベスもセシリーもアンも目を丸くした。
「よく知っているのね、ブリジット。誰に教わったの?」
「ベイナード城のおばあさま。自分たちのことしか考えないで結婚したら、みんなが不幸せになるんですって」
「愛しあって結婚したらだめなの?」
「愛しあってても、みんなのことを考えていたらいいと思うわ」
 ブリジットは神の教えを説く修道女か何かのように、ひどく生真面目な顔で言った。九歳と四歳の妹たちの問答に、エリザベスとセシリーはぽかんとする他にない。おっとりした性格のキャサリンは、聞いているのかいないのかわからない顔で黙っている。
「そうよ。わたしとレイフさまは、みんなが幸せになれるように結婚したの」
 セシリーは妹の高説に乗じて、ほっとしたように話をまとめた。
「わたしは、わたしが愛している人と結婚したいわ」
 アンがなおも言い張り、エリザベスは妹に目を細めた。セシリーに次いでアンの縁談もまとまりかけていると先日リチャードが教えてくれたが、妹にそれを話すのはもう少し先でいい。
「ベスは?」
 アンが急に顔を上げる。
「なあに、アン?」
「ベスももうすぐ結婚するんでしょう。みんなの幸せのためなら、愛していない人と結婚できる?」
「ええ、できると思うわ」
「愛しあっていないのに?」
「アン。愛しあって結婚できる人は、世界に一握りしかいないのよ。ほとんどの人はセシリーみたいに、みんなの幸せのために結婚するの」
「お父さまとお母さまは?」
 ふいに、黙って聞いていたキャサリンが口を開いた。アンとブリジットも顔を見合わせ、三人そろってエリザベスの返事を待っている。
 エリザベスはくすりと笑った。確かに、父と母は一握りの中に入ることができた稀有な夫婦だったと言える。今の国王夫妻もそちらに入るのだろう。彼らの夫婦仲の良さはうらやましいと思うが、同じような結婚がしたいとは思わない。エリザベスがするべきなのはあくまで叔母のマーガレットのように、異国に嫁いでイングランドのために働くことである。
「そうね、キャサリン。お父さまとお母さまは幸運だったわ。心から愛した人と結婚したのだから」
「ベスはそうしたいと思わないの?」
「思わないわ」
 エリザベスはきっぱり言い切った。今までもこれからも、この気持ちが揺らぐことはないと断言できる。
「わたしはきっと、誰のことも愛さないと思うわ。結婚する人の他には誰も、一生」



 宮廷でのクリスマスは、聖誕祭の前夜から十二日間に渡って祝われる。
 毎晩の宴に加え、エリザベスが企画したさまざまな催しが行われ、そのたびに成功をおさめた。宮廷にやってきた人々の中にはエドワード四世の葬儀以来はじめてエリザベスを見た者も多く、遠まきに疑問や憶測の混じった視線を送ってきた。エリザベスは彼らに積極的に近づき、にこやかに会話を交わした。エリザベスが反逆者の妻ではなくヨーク家の娘であることを、すべての人の頭に刻みこんでおく必要がある。
 リチャードはほとんどの集まりに顔を見せていたが、隣にアンの姿がないことも多かった。体調をうかがいつつ必要があれば休んでいるのだろう。クリスマスの最後を飾る十二夜には回復していてほしいとエリザベスは願った。
 エリザベスの母が、エドワード四世の寡婦が姿を見せていないことも、人々のあらゆる関心を呼んでいた。あからさまに話題にする者はいなかったが、エリザベスに話しかけて母のことをほのめかす者はいた。彼らが母の不在を喜んでいるのか、嘆いているのかはわからない。エリザベスは適当に言い繕い、母と現王のあいだには何のわだかまりもないことを強調しておいた。下の妹たちがクリスマスの華やかさに浮きたち、愛らしい笑顔で人々の気持ちを和ませ、エリザベスの主張を補強してくれた。
 不安が完全に消えることはないことはエリザベスにもわかっている。宮廷がクリスマスに浮かれている間にも国のどこかで城が攻め落とされ、ヘンリー・テューダーはイングランドに上陸するためにフランス王を口説いている。エリザベスにはそれを防ぐ手だてはないが、かわりに今できることをやるだけだ。このクリスマスを栄華と幸福で満たし、ヨーク家の王位には何の揺らぎもないことを人々に知らしめる。

 十二夜の祝宴が始まる寸前、エリザベスは王妃の化粧部屋で満足げにうなずいていた。アンはエリザベスが選んだドレスに身を包み、エリザベスが見立てた型に髪を結っている。
「王妃さま、ご気分はいかがですか」
「だいぶいいと思うわ」
「とてもお美しいですわ」
「ありがとう、エリザベス」
 アンは椅子にかけたまま手を伸ばし、エリザベスの手を取って引き寄せ、エリザベスの頬に口づけした。
「あなたもきれいだわ。とても」
「ありがとうございます」
 エリザベスはアンと同じ生地で仕立てたドレスを着ている。金糸の入った部分は使わず、装飾品も控えめにしているが、アンの言ったとおりエリザベスにもよく似合う。部屋中に控えている女官がエリザベスと王妃に注目している。
 広間に集まったすべての人が、これから同じものを目にすることになる。一人息子を喪った悲しみから立ち直り、今日のために美しく着飾ったイングランド王妃。それを手伝った見返りに同じ装いを許されている、義理の姪でもあるお気に入りの女官。
「もう一度よく見せて、エリザベス」
 アンにせがまれて、エリザベスは椅子から一歩引いた。
 王妃のまなざしがエリザベスの全身を包み込む。こんな美しいものは見たことがないとでも言うように、心からの賞賛と愛情をもってエリザベスを見つめている。花嫁衣装の着付けでもするようにアンの身支度を手伝ったが、今はアンのほうが娘を嫁に出す母親のようだ。
「あなたがわたしだったら良かったのに」
 アンは穏やかな声のまま言ったので、エリザベスは思わずうなずきそうになった。
 少し遅れて言葉の奇妙さに気づき、意味を考えてみようとしたが、答えがわかる前に他の女官が声を出した。
「国王陛下がいらしたようですわ」
 エリザベスはアンにほほえみかけ、彼女の夫を迎え入れるために扉に向かった。
 入ってきたリチャードはエリザベスに何か言いかけ、吸い寄せられるように妻のほうを見て口を閉ざした。その目に驚嘆が浮かぶのを見て、エリザベスは一人で笑った。祝宴の準備に心を砕いたのは、一つはヨーク家の安定のため、もう一つはこれを見るためだ。
 まっすぐにアンのもとへ歩いていくリチャードを見て、エリザベスはやり遂げたという誇らしさでいっぱいになった。

 国王夫妻が広間に姿を現すと、人々はいっせいに頭を低くして出迎えた。音楽が奏でられ、上座についたリチャードが宴の始まりを告げると、クリスマスの最後を祝う舞踏が繰り広げられた。しかし、人々の視線は踊りの輪よりも王と王妃、特にアンの姿に多く集まった。あれほど元気そうで、しかも美しい王妃は久しぶりに見たと口々にささやきあった。
 二人に次いで注目を集めたのがエリザベスだった。人々はエリザベスの衣装に目を落とすと、戸惑ったような表情を浮かべてエリザベスを褒めた。エリザベスは王妃の厚意について説明し、彼らの疑問に先まわりして答えてやった。
 同じことを何度も繰り返して疲れ果ててきたころ、ノーフォーク公ジョン・ハワードが老齢に似合うゆったりした足どりで近づいてきた。
「ずいぶんとお疲れのようで、レディ」
「みなさま、わたしよりもわたしのドレスのほうがお好きなようですわ」
 エリザベスが肩をすくめると、公は低い声で笑った。エリザベスのドレスのことは何も尋ねない。あいかわらず祖父のような穏やかな雰囲気で、隣に立ってくれるとどこかほっとする。
 祖父というのもあながち間違いではない。エリザベスの妹のアンは、このノーフォーク公の孫と婚約する予定なのである。
「美しいドレスが人の目を引くのは、美しいご婦人が着ているからでしょう」
「ありがとうございます。でもわたしは、王妃さまのお美しさにかなうとは思っておりませんわ」
「あなたの陛下がたへのご献身を存じている者は、それがアン王妃のご厚意によるものだとすぐにわかりますよ。ご心配なさることはない」
 公の率直な言葉はエリザベスを慰めてくれた。やはりこのドレスは辞退するべきだったかと後悔しかけていたのだ。王妃よりはるかに地味にしてきたつもりだったのに、これほど人の注目を集めるとは思わなかった。
「スタンリー卿夫人とはお手紙のやりとりを続けていらっしゃいますか?」
 ノーフォーク公が急に話を変え、エリザベスは身をこわばらせた。
「いいえ――なぜですの?」
「夫人がロンドンにおいでだったころ、足しげく見舞っていらっしゃったでしょう」
 そうだった。弟たちに会うためにスタンリー家の別邸に通っていた時、エリザベスはマーガレットを見舞っていることになっていたのだった。すっかり忘れていた。
 弟たちがロンドンから旅立った今、エリザベスがスタンリー家を訪問する理由はない。口実にしていたマーガレットもランカシャーの領地に移されたことになっている。
「手紙は書いておりません。レディ・マーガレットにお会いしていたのは王妃さまのお気遣いからで、わたしはそれほど親しくさせていただいていたわけではありませんもの」
 ヘンリー・テューダーの母親とのつながりははっきりと否定しておかなければならない。エリザベスはここぞとばかりに声を高くした。
 ノーフォーク公はエリザベスの意図を汲んでくれたのか、間を空けずに続けた。
「それは失礼を。ご心配なのではないかと思ったものですから」
「何を?」
「奥方だけではなく、スタンリー卿もこの場にいらっしゃらないということです」
 今度は公の言うとおりだった。スタンリー卿は妻のいるランカシャーに向かったきり、しばらく宮廷に姿を見せていない。クリスマスには戻ってくると思っていたが、今もこの広間に卿の長身は見あたらない。エリザベスは密かに心配していた。弟たちの失踪さわぎとその後の移送が、卿とヨーク家の間とに溝をつくったのではないかと。
「確かにお寂しいですわ。スタンリー卿はわたしの父のこともよくご存じでしたので」
「奥方が領地での暮らしに慣れるまで付き添っていらっしゃるのでしょう。またじきに宮廷に戻られますよ」
 ノーフォーク公のあたたかい声から、エリザベスは彼に他意がないことを悟った。エリザベスを安心させるために話をふってくれたようだ。
「そろそろ場を譲りましょう。ラヴェル子爵があなたをダンスにお誘いしたいようです」
 そう言われてはじめて、エリザベスは自分を見つめるもう一つの視線に気がついた。
 当の子爵も気づかれるとは思っていなかったのだろう、面食らった様子を見せていたが、すぐに気を取り直して二人に近づいてきた。
「レディ・エリザベス。今日はいちだんとお美しい」
「ありがとう存じます」
 子爵はエリザベスの姿に目を落とし、ノーフォーク公と言葉を交わしたあと、再びエリザベスを見た。
「今日こそは踊っていただけると思って待ちわびていたのですよ」
「嬉しいお言葉ですわ。でも、少しだけ待っていただけますか。陛下がお誘いくださることになっておりますの」
「リチャードが」
 以前から思っていたが、この王の腹心は感情を隠すのがあまり上手くない。今もエリザベスの言葉に凍りついた上に、公の場で王の名前を呼び捨てにした。ずいぶん前に社交が苦手だと自認していたが、言葉のやりとりではなくこういうところを言っていたのだろうか。
 エリザベスは子爵の顔を見つめ、どう返そうか迷っていたが、その必要はなくなった。名前が出たリチャードがちょうどエリザベスに向かって歩いてきたからである。
 上座から離れたここまで一人で歩いてきた王を見て、周囲にいた人々がぎょっとして道を空けた。驚いたのはエリザベスも同じである。確かにダンスに誘ってほしいとは頼んだが、エリザベスを探してわざわざ歩いてこなくてもいいのに。
「陛下」
 エリザベスは礼の姿勢をとった。
 周囲は少しずつ下がって横に並び、王とその姪が話すのを見守った。二人のまわりを丸く取り囲むように空間ができた。
「顔を上げてくれ。きみを探していた」
 リチャードは短く言った。押し寄せてくる無数の視線を一向に気にかけていなかった。
「王妃さまはよろしいのですか?」
「今日は元気そうだ。きみのおかげだ」
 リチャードは歩み寄り、エリザベスの手をとって掲げた。
「どれほど感謝してもしきれない。本当にありがとう」
 エリザベスはにっこり笑った。
 この言葉をもらうために、自分にできることはなんでもやった。
「それがダンスのお誘いですか?」
 エリザベスは喜びを隠すために、わざとからかうような声を出した。
 リチャードが少し笑い、何か言おうと口を開きかけた時、上座のほうで小さな悲鳴があがった。続いて、抑えがちに咳き込む声がゆっくり届く。人々がそれに気づいて会話を中断したので、静まった広間に咳の音がいっそう強く響いた。
 エリザベスは首を伸ばし、人だかりの間から視線をくぐらせた。王妃が椅子の手すりに身を伏せているのがはっきりと見えた。
「――アン」
 リチャードがエリザベスの手を離し、一度も振り返らずに上座へ走り去った。
 エリザベスもその後を追おうとしたが、急に何かに道をふさがれた。顔を上げてすぐにラヴェル子爵だとわかったが、わざと阻まれたことに気づくまでしばらくかかった。
「あなたはここにいてください、レディ」
「でも――」
「大丈夫です、軽い発作ですよ。あなたまで駆けつけては大事のようにとられかねません」
 リチャードはすでに上座にたどり着き、倒れ伏したアンの背に手をかけている。近くにいた数人の女官が慌ただしく動いている。退出するほど悪いのかどうか、ここから見ただけではよくわからない。
 元気そうに見えた王妃の急変に広間じゅうが静まり返り、ところどころで不安そうにささやく声がする。咳の音はまだ途切れずに響き続けている。あまりに苦しそうに咳き込むので、アンの着ているドレスの赤が一瞬、血の色に見えた。
 ラヴェル子爵が歩き出した。
「様子を見てまいります」
「わたしも」
「いいえ、ここでお待ちください。大丈夫、じきにおさまるでしょう」
 しかし咳の音は止まらず、子爵がそばに行ってからしばらくして、アンは夫に伴われて広間から出ていった。
 それきり、二人は戻ってこなかった。


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