テューダーの薔薇 [ 6−4 ]
テューダーの薔薇

第六章 聖夜にさす影 4
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 王妃の居所に向かいながら、エリザベスはセシリーに、母と会った時のことをあらためて話させた。
「では、トマスからの手紙は本当に来ていなかったのね?」
「来ていなかったわ。お母さまにはっきり尋ねたのよ。わたしだって兄のことは心配だもの」
 セシリーはエリザベスの隣を歩きながら首を振った。
 姉妹の部屋から王妃の居所まで歩いてそれなりにかかる。すれ違ったり通り過ぎたりする人々が、そのつど二人に視線を向けていくのがわかる。セシリーが宮廷に戻ってきて、久しぶりに二人が一緒にいるせいだろう。
「お母さまはどんな様子だった?」
「聖域にいた時よりも落ち着いていて、元気だったわ。何度も話したじゃないの、ベス」
「陛下に訊かれたのよ。あなたも連れていけば良かったわ。お母さまのことをより詳しくお伝えできたのに」
 セシリーは急に黙りこみ、エリザベスから目をそらした。機嫌を損ねると無口になるのはいつものことだが、何が妹の気に入らなかったのかエリザベスにはわからない。
「何を怒っているの、セシリー?」
「お母さまの言いなりになってここへ来たのに、今は陛下の言いなりね」
 エリザベスはとっさに言葉が出てこなかった。思わず足を止めなかっただけでも大したものだ。
「何を言っているの。わたしは何も変わっていないわ」
「いいえ、変わったわ。しばらく離れていたからわかるのよ」
「どこが変わったというの」
 セシリーが顔を向けた。怒っているわけではないようにも見えた。ただ、何か言いたくて言えないことを抱えているのは確かだ。
「どこがって言われてもわからないけれど、今のベスはなんだか変だわ」
「たとえばどういうところが変なの」
「たとえば――王妃さまのところに毎日のように訪ねていっているところ」
 エリザベスは妹に呆れ、同時になぜかほっとした。
「あたりまえでしょう、それが女官の務めよ。今はクリスマスの準備もあるし」
「クリスマスの準備をどうしてベスがしているの」
「言ったでしょう。王妃さまがご病気で無理がきかないから、わたしがお手伝いしているの」
「準備だけではなくて、お体のお世話までしているじゃない。今のベスはまるで――」
「まるで、何?」
「王妃さまの女官みたいだわ」
 エリザベスは呆れるのを通り越して、吹き出しそうになった。芝居がかった動きで肩をすくめる。
「わたしたちは王妃さまの女官ですわ、スクループの奥さま」
「そうだけど――そうだったかしら、あら?」
 セシリーは言葉を見失い、自分に向かって何かを問いかける。話しているうちに言いたいことがわからなくなってしまったらしい。もともとセシリーは、自分の考えを筋道たてて話せるたちではない。
 エリザベスは妹のかわいらしさにすっかり心を和ませた。つまりセシリーは、久しぶりに会った姉が国王夫妻と親しくなっていたので、戸惑っているのだろう。セシリーも同じくらい宮廷になじめば違和感はなくなるはずだ。

 王妃の居所がこれほど華やいで見えるのははじめてだ。ありとあらゆる生地が並べられ、広げられ、満開の時季を迎えた花園のようになっている。
 その中心にいるアンは、目にあざやかな色たちに囲まれてどことなくくすんで見えた。すべての色の所有主であるにもかかわらず、過分な下賜品をもらった侍女のように気おくれしている。
「こんなにたくさんしまってあったなんて思わなかったわ」
「どれもきっとお似合いになりますわ。王妃さまのために選ばれたものなのですから」
 エリザベスは生地の一つを両手に抱え、アンの前に歩み寄った。
 エリザベスがいま着ているのも、アンから贈られた生地で仕立てたものだ。緑がかった水色はエリザベスに似合う色の一つだが、金髪で色の白いアンが着てもきっと似合っただろう。アンは気に入りの女官に美しいものを下げ渡すのは好きだが、自分が美しく装うとなると萎縮してしまう。病気がちでめったに人前に出ないのだから無理はないのかもしれないが。
 アンはあいかわらず枝のように細かったが、顔色は悪くなかった。クリスマスまでなんとかこれを保ってくれればと思う。王妃が健康で美しいことは国の繁栄の象徴になる。多くの招待客たちにそれを見せることは今のヨーク家にとって何よりも必要だ。
 エリザベスは手にしていた生地をアンの肩にあてた。夜明け前の空のような、濃淡がかかった紫色である。
「――お好きではありませんか」
「ええ、わたしには派手だわ」
 紫は王妃にふさわしい、高貴な色だ。淡い色合いならアンにも似合うかと思ったが、あわせてみると顔色がくすんで見える。アンの表情もあまり嬉しそうには見えなかった。
「深い色のほうがお肌がよく映るかもしれませんわね」
 エリザベスは部屋の中を見渡し、二、三の生地を見つくろって他の女官に持たせた。エリザベスはこの中ではセシリーに次いで若いが、今はまるで女官たちの長のようになっている。いつも王妃のかたわらにいる年配の侍女は、離れたところに立って主とエリザベスを見守っている。
 生地を持った女官たちを脇に立たせ、エリザベスはそれらを順にアンの肩に載せる。
 もともと王妃に献上された生地だけに、どれもアンに似合わないということはない。しかし、これだけ数があるとかえって小さな欠点が目について、より美しいもの、より映えるものを求めてしまう。
 緑は瞳の色に合わないし、青は顔色が悪く映るし、赤は小さな体には浮いて見える。
 大きめの柄は迫力負けしてしまうし、レースを使ったものは夜の祝宴にはふさわしくない。
 エリザベスはおびただしい生地を一つ一つアンにあわせ、そのたびに考え込んでは首を振って次を持たせた。
「どれでもいいのではないかしら、エリザベス。どれもきれいだわ」
 椅子に腰かけたままアンが口を開く。溢れかえるような彩りを目にして疲れたのか、湯にあたったように顔がぼんやりしている。
「ええ、どれもお似合いですわ。だからこそ、中でもいちばんお似合いのものを選ばなければなりません」
 エリザベスはまだ試していない生地の山の前に立ち、頬に手を当てて悩み抜いた。
 いっそのこと、リチャードをここに連れてきて、いちばん気に入るものを選んでもらうか。エリザベスの母はドレス選びで迷った時、よく父の意見を求めていた。
「王妃さま、お疲れではございませんか」
 エリザベスの背後で低めの声がした。黙って見ていた年配の女官が動き、王妃のそばに歩み寄るところだった。
「平気よ、ありがとう」
「少しお休みになりますか?」
 エリザベスも振り向きながら声をかけた。生地選びにのめり込むあまり、アンの体を気遣うのを忘れていた。
 アンの目が侍女からエリザベスに移り、同時にぱっと輝いた。
「エリザベス、それ、素敵だわ。あなたによく似合うわ」
 エリザベスは自分が手にしていた生地を見下ろした。赤――というよりは深い緋色に近い、厚手の織りだ。何の模様も柄もないかわり、金糸の刺繍をところどころに施してある。
「広げて見せて」
 エリザベスは床につかないように気をつけながら、生地を腕から足もとに垂らして見せた。
「きれいだわ、エリザベス」
 アンの顔からは疲れが消え、今日いちばんの歓喜が浮かんでいる。
 エリザベスは苦笑した。
「ありがとうございます。でも、わたしに似合っても仕方がありませんわ」
「王妃さまにもきっとお似合いになりますよ」
 年配の女官が真顔で言った。王妃からエリザベスに目を移し、食い入るように見つめた。
 エリザベスはあらためて生地を見下ろした。真紅よりも暗い緋色には深みがあり、華やかでありながら高貴な感じがする。金糸の刺繍は細やかで、美しいがきらびやかではない。
 両手に持ったまま歩み出し、アンの肩から胸にあてる。女官たちの喜ぶような、ほっとするような空気が部屋の中を満たした。
「お美しいですわ、王妃さま」
 エリザベスは心から言った。緋色と金色の高雅な組み合わせは、アンの楚々とした雰囲気によく似合った。
「そうかしら」
「ええ、とてもよくお似合いです」
 部屋にいた他の女官たちが、次々にエリザベスに同調した。美しい生地をまとったアンと、かたわらに立つエリザベスは、感嘆の声と視線に包まれた。
「あなたのほうが似合うわ、エリザベス」
「ありがとうございます。金糸はお顔の近くには使わずに、遠くから見た時に映えるようにしましょう。お体が生き生きとして見えますわ」
 エリザベスは生地を寄せ、これをドレスに仕立ててアンに着せるところを想像した。そのアンが王妃の冠を身につけ、リチャードと並んでクリスマスの祝宴の席に着くところを。
 当のアンはいまだに戸惑ったような顔をして、エリザベスと生地を見比べている。
「お気に召しませんか、王妃さま?」
「いいえ。そんなことはないわ」
 アンはまた生地を見て、部屋じゅうに散らばった色とその隙間にいる女官たちを見て、ようやく笑みを浮かべた。
「そうね、これがいいわ。これにしましょう。ありがとう、エリザベス」
「良うございましたわ。お疲れになりましたでしょう、ひと休みなさってくださいな」
 エリザベスは選ばれた生地をたたみ、受け取りに来た従僕に手渡した。
 それからアンの正面に立ち、一歩さがってその顔に視線を注いだ。
「あとは装飾品と髪型ですわ。こちらもわたしに選ばせてくださいね。得意なんですの」
 アンはほほえんだ。ドレスがやっと決まってほっとしたのか、やわらかな表情が戻ってきていた。
「あなたは本当に素敵だわ、エリザベス。なんでもできてしまうのね」
 他の女官が椅子をすすめてくれたので、エリザベスはそこに腰を下ろした。アンと向かいあうかたちになる。
「なんでもとは言い過ぎですわ。わたしにもできないことはございます」
「そう?」
 アンは首を傾げ、自分の両手を見下ろした。他の部分と同じで白く細く、何かをつくったり、支えたり、見せつけたりするのには向かない手だ。
「わたし、取り柄が何もないのよ。縫い物がちょっと上手にできるくらい。わたしにできてあなたにできないことなんて、一つもないような気がするわ」
「ありますわ、王妃さま」
「そうかしら?」
「ええ」
 エリザベスはほほえんだ。
 宮廷に来たばかりのころ、エリザベスが持て余していたセシリーの心をたやすく開いてしまったのは、アンのこの小さな手だった。そのことを思い出すたびに、エリザベスはこれまで一度も感じたことのない、苦々しい思いにとらわれる。
 鬱屈を抱えたまま遠くへ行ってしまった弟のエドワードも、アンならばもっと上手く励ましたのではないかと思ってしまう。
「今回は幸いにもわたしの得手だっただけですわ。でも、お役に立てて嬉しく思います」
「本当に助かるわ。ありがとう」
 アンはまたほほえみ、一息に言ってしまおうと決めたように先を続けた。
「リチャードも、あなたにはとても感謝しているのよ。そんなふうに見えないかもしれないけれど」
「見えなくてもわかりますわ。いつも光栄なお言葉をいただいておりますから」
 リチャードは口数こそ少ないが、感謝や謝罪を表すための言葉を惜しんだりはしない。特にエリザベスがアンのために何かをするたびに、見合わないと思えるほどの感謝が必ず返ってきた。
「本当にありがとう、エリザベス」
 アンが念を押すように繰り返すので、エリザベスは苦笑した。
「それほどでもございませんわ、王妃さま」
「あの人を、たくさん笑わせてくれて、ありがとう」
 この夫婦はいつも、相手のために何かしてくれたとエリザベスに感謝する。エリザベスはたぶん、二人のそういうところが好きなのだ。リチャードのためにアンを、アンのためにリチャードを元気づけたい。
「クリスマスにはもっと笑っていただけますわ。王妃さまのお美しいお姿をご覧になれば」
「ありがとう。本当に」
 ゆっくりと噛みしめるような、それでいて急ぐような言いかたをどこかで聞いたとエリザベスは思った。そして考えをめぐらせ、答えがわかった瞬間に寒気を感じた。あれは王太子エドワードが亡くなってすぐ、病床に臥していたアンを見舞った時だ。蒼白な顔の中で目だけが鋭くエリザベスを見つめ、死人のように骨ばった手がエリザベスの手をつかみ、遺言のような言葉でアンはエリザベスに語りかけていた。
 なぜ、今になってあの時のことを思い出したのだろう。アンは悲しみも癒え、病状もだいぶ落ち着き、祝宴を前に幸せそうにほほえんでいるというのに。
「ドレスのことだけれど」
 アンが急に話を変え、エリザベスは物思いから引き戻された。
「さっきの生地はあなたに本当に似合っていたわ。あれであなたのドレスも仕立ててはどうかしら」
「まあ、いけませんわ。そんな」
「あなたがあれを着ているところが見たいの。あなたと同じドレスを着たいのよ、わたし」
 アンは首を傾げ、十歳も年下のエリザベスに甘えるように言った。姉と揃いのドレスがほしいとねだる妹のようだ。
 実際のところ、アンは小さくて頼りなくて、義理の叔母というより妹のような感じがする。
 エリザベスは笑って肩をすくめた。妹のわがままに根負けした姉のように。
「ありがとうございます、王妃さま。そうさせていただきますわ」
「ほんとうに? うれしいわ。きっと似合うわ」
 アンは目を輝かせた。自分のドレスが決まった時よりも嬉しそうだった。
 エリザベスは喜ぶ王妃を見ながら、生地を思い浮かべて考えた。金糸の部分は使わないようにして、アンのものより地味な型に仕立てよう。クリスマスの祝宴では王妃を美しく見せることが何よりも重要だ。この後は生地にあう装飾品を選び、髪の結いかたを考えなければ。何ならエリザベスが自分の手で結ってみてもいい。それから――そうだ、すっかり忘れていた――リチャードの衣装もアンにあわせて選ばなければ。隣に立った時にアンの美しさが映えるように。
 エリザベスは思わず含み笑いをした。だんだん婚礼の準備をしているみたいになってきた。
「エリザベス、ちょっと」
 顔を上げると、セシリーがそばに立ってエリザベスに耳打ちしていた。指された先に目をやると、扉の脇で衛兵がエリザベスを見ている。
「王妃さま、少し失礼しますわ」
 エリザベスはアンから離れ、扉の外へ向かった。驚いたことに、先ほど衣装を選ばなければと思った人がそこに立っていた。
「王妃さまのドレスを見にいらしたの? 残念ながらもう決まってしまいましたわ」
 リチャードの顔に浮かんだ表情を見て、エリザベスは軽口をきいたことを後悔した。良くない知らせだ。
「義姉上のところから使者が帰ってきた。欠席だそうだ」
 リチャードは淡々と事実だけを述べた。よく知らない者が見たら、その事実が彼に何の影響も与えていないように思えただろう。だが、エリザベスにはリチャードの落胆が手に取るようにわかった。
「きみの妹たちは来てくれる。セシリーときみとで迎えてやりなさい」
「そうですか」
 エリザベスは力なく答えた。
 小さな妹たちに会えるのは嬉しいが、祝宴を完全なものにするにはそれだけでは不十分だ。前王エドワード五世の母親が来なければ、ヨーク家が再び結束したという証はたてられない。クリスマスの祝宴は、セシリーの結婚式に次いで母を宮廷に呼ぶ絶好の機会だった。ヘンリー・テューダーの侵攻を前にそれが叶えば、きたる決戦に備えて大きな力になってくれたに違いないのに。


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