テューダーの薔薇 [ 6−2 ]
テューダーの薔薇

第六章 聖夜にさす影 2
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 宮廷でもひときわ静かな王妃の居所に、華やいだ音楽が響きわたっている。
 女官たちは仕事の手をとめ、魅入られたようにその音色を聴いていた。普段はこのあたりで見かけない顔もある。
 エリザベスは彼らの視線を感じながら、しかしそれを意に介さずに楽器を奏でていた。美しい装飾を施されたギターは、アンが眠らせていた献上品の一つだ。手入れは怠っていなかったらしく、エリザベスの指の動きにあわせて艶のある音をはじき出す。
 最後の音が余韻とともに空気の中を漂い、やがて消えていった。しんとした部屋の中に、アンが手を叩く音が響いた。エリザベスは広がっていく拍手の中で立ち上がり、優雅に膝を折ってみせた。
「ありがとう、エリザベス。とても素敵だったわ」
「お気に召していただけたなら光栄ですわ」
 エリザベスはギターを両手に持ち直し、再び腰を下ろした。
 王妃の居所がいつになく浮き立っているのは、クリスマスの祝宴が近づいているせいである。
 クリスマスの十二日間、宮廷ではありとあらゆる行事が催される。活人画や無言劇といった出し物に加え、晩餐会、舞踏会には地方の領主や外国からの使者もやってくる。廷臣たち、特に若い女官たちは目に見えて色めきたっている。
 エリザベスは頻繁にアンを訪ね、祝宴の準備のために王妃の意見を聞いていた。今も劇の一幕のために作った曲を披露したところである。ギターの音が外まで響いていたのか、いつの間にか新しい顔ぶれも加わっていた。彼らは羨望と賞賛のこもったまなざしを一様にエリザベスに注いでいた。
「作曲も演奏もご自分でなさるなんて、さすがはエドワード四世陛下のお嬢さまですわ」
 女官の一人がアンに向かってささやき、アンはうなずきながらエリザベスに顔を向けた。
「ほんとうね。あなたは何をやっても上手だわ、エリザベス」
「ギターの質が良いせいですわ。先ほどの曲ですけれど、劇の導入部に使ってはいかがでしょう」
「あなたがいいと思うなら任せるわ」
 アンはにっこりしたまま言い、エリザベスもほほえみで応えた。アンは万事においてこの調子で、何を訊いてもにっこり笑って、あなたに任せるわ、としか答えない。
「クリスマスにはお母さまも来てくださるそうね、エリザベス」
「ええ、陛下にお招きいただきました。まだ返事は来ていないのですけれど」
「お会いできたらわたしも嬉しいわ。妹さんたちも一緒なのでしょう。あなたの帰ってくる時期と重なって良かったわね、セシリー」
 アンはエリザベスの隣に視線を向けた。結婚休暇を終えて宮廷に戻ってきたセシリーは、再び姉とともに王妃の居所に通うようになっていた。
「はい、王妃さま。クリスマスが楽しみですわ」
 結婚によって生まれ変わる人間がいるとすれば、セシリーは紛れもなくその一人だった。まだ進んで会話に入ろうとはしないものの、以前の物怖じしたような態度は消え、まっすぐ相手の視線を受けて言葉を返すようになっている。表情に落ち着きが出てきたせいか、美貌にもいちだんと磨きがかかったようだ。はじめて出た社交界で人の視線に怯えていたころから一年も経っていないとは思えない。
 スクループ家の若者と結婚したことは、セシリーにとって幸運だったのだ。弟たちにとって北部への旅立ちが良いことだったのと同じように。
 美しく大人びたセシリーの目には、かすかに戸惑いの色が浮かんでいた。エリザベスはその理由を考え、少しして思いあたった。毎日のように顔をあわせているエリザベスにはわかりづらいが、セシリーが結婚した時に比べると、アンは明らかに病みやつれて弱っているのだ。
「王妃さま、ジョンから手紙は来ているのですか?」
 エリザベスは空気を変えようと、別の話題を探した。ギターの演奏を聴くために集まっていた者たちは、一人また一人と立ち去り始めていた。
「ええ。よく書いてきてくれるわ。あちらでもがんばっているみたい」
「彼なら、どこに行っても立派にやれると思っていました」
「そうね。セシリーときちんとお別れできなかったのが残念だと書いていたわ」
「わたしもお別れを言いたかったですわ。クリスマスに帰ってくることはございませんの?」
「今年は難しいみたい。寂しいけど仕方がないわね」
 ジョンがいるのは大陸の入り口、フランスと隣接したカレーである。つまり、ヘンリー・テューダーが新たに逃げこんだ場所にもほど近い。ヘンリーが大陸ですぐさま軍を起こし、カレーに攻め込むということはないだろうが、心配がまったくないとは言い切れない。リチャードがアンにどこまで話しているのかはわからないが。
 そしてエリザベスは同時に、大陸にいる兄のことを考えずにはいられない。ジョンの手紙は無事に届いているのに、トマスの手紙は一向に届く気配がないのだ。
「王妃さまは――ほんとうにジョンのことをかわいがっていらっしゃるのですね」
 唐突にセシリーが隣で言い、エリザベスは妹の顔を見た。何気ない世間話のように聞こえるが、表情は思いのほか真剣である。
「そうね。ジョンも彼の姉のキャサリンも、二人ともとてもいい子だもの」
「ええ。ジョンがいい子なのは存じておりますけれど、どうしてそれほど仲良くできるのかと」
「どうしてって、どうして?」
「だって、ジョンは――その、他の女性の子どもでしょう」
「セシリー!」
 エリザベスはほとんど悲鳴のような声を上げた。この妹は、結婚して少しは落ち着いてきたと思ったらこれである。
 アンは一瞬きょとんとしたが、ほほえみを絶やすことはなかった。
「ジョンとキャサリンが産まれたのは、わたしたちが一緒になる前だもの」
「でも、王妃さまと陛下は確か、ご結婚よりずっと前から」
「セシリー、やめなさい」
 エリザベスは見かねて妹をたしなめたが、セシリーは王妃から目をそらそうとしなかった。以前はこういう話題を毛嫌いしていたセシリーだが、自分も既婚者になってみて何か思うところでもあったのだろうか。
 エリザベス自身、まったく気にならないと言ったら嘘になる。家庭の外に子どもを持つ夫はめずらしくないし、その子を公然とかわいがって見せる妻もいないでもない。宮廷をはじめとする上流社会には、そうした夫婦はいくらでもいる。しかし、アンとリチャードは幼いころから想いあっていたというだけあって、誰の目にもはっきりわかるほど仲が良いのに。
「ああ、セシリー。あなたも信じていたのね」
 アンは恥じらうでも、慌てるでもなく、穏やかな雰囲気のまま続けた。
「わたしとあの人が小さいころから誓いを交わしていたなんて、そんな噂が流行ったのはずいぶん昔のことだけれど」
 一瞬、エリザベスは意味が呑み込めず、アンの言葉を頭の中で繰り返した。セシリーも他の女官も同じだったようで、少しの間をおいて全員が驚愕をあらわにした。
「じ、事実ではなかったのですか?」
 若い女官が思わず声を上げ、その直後にしまったという顔をした。セシリーも他の者も衝撃を隠せずにいる。動揺していないのは、いつもアンの隣に付き添っている年配の侍女だけだった。
 驚いたのはエリザベスも同じである。二人が結婚したのは十年以上も前のことだが、その時の宮廷のどよめきははっきりと覚えている。王弟と大貴族の娘の結婚はそれだけでも噂の的だが、それが政略によるものではなかったとくればなおさらだ。幼少期をともに過ごした二人が困難を経て結ばれたという物語は、宮廷でささやかれるどんな詩よりも貴婦人たちに好まれた。この宮廷で二人の仲の良さを目にしたエリザベスも、その噂は事実だとすっかり思いこんでいた。
「仲が良かったのはほんとうなのよ。あのころ父の城には貴族のご子息が何人も暮らしていたから、姉とわたしもよく一緒に遊んでもらったの。みんな本当のきょうだいみたいな気がしていたわ」
「きょうだいですか」
「わたしは自分の結婚相手は父が決めるものだと思っていたし、リチャードは騎士の修行に打ちこんでいたから、まだそんなことは考えていなかったんじゃないかしら。二人とも、ほんの子どもだったんですものね」
 エリザベスは何かが崩れ落ちる音を聞いた。セシリーも他の女官たちも同じ音を聞いているに違いない。
 幼いころから想いあっていたから、今でもあれほど仲がいいのだと思っていた。長い時間をかけて育んできたからこそ、あれほど大切にできるのだと思っていた。そうではなかったなんて、にわかには信じられない。
「みんな、がっかりさせてしまったかしら」
 アンは部屋にいる全員を見まわした。この件については噂されることに慣れているらしい。
「あの、お訊きしてもよろしいですか」
 エリザベスは気分を落ち着けると、自分から口を開いた。ここまで聞いてしまったのだからもういいだろう。知りたくてうずうずしているくせに、興味がないふりをしていても仕方がない。
「何かしら、エリザベス」
「噂が事実ではなかったのなら、お二人はどうしてご結婚なさったのですか」
 二人の結婚をめぐって流れていた噂は、ロマンチックなものばかりではなかった。王位継承順位の低い王弟が、広大な領地の相続人であるアンに目をつけたのだという者もいた。反対に、父親を亡くして後ろ盾を失った貴族の娘が、旧交と同情をよすがにリチャードに取り入ったのだという者もいた。結婚後の二人の仲睦まじさが評判になるにつれ、どちらも自然とささやかれなくなったのだが。
 エリザベスもそのような噂は今さら信じないが、では、一体なぜという気持ちは抑えきれない。
「どうしてかしら」
 アンは、髪に飾る花を選んででもいるように、おっとりと首を傾けた。
「難しいわね。はっきりした理由があったわけではないから」
「そうなのですか」
「まず、わたしは前に別の人と結婚していたから」
 アンはなんでもないことのように言ったが、冷たい空気が部屋を通り抜けた。
 アンの口から以前の結婚のことを聞いたのははじめてだ。そもそも、それを結婚と呼んでいいのかどうか、エリザベスにはわからない。
 リチャードより前にアンの夫になろうとしていたのは、ランカスター家の王ヘンリー六世の嫡男だった。もちろん、アンの父の意志によるものである。エドワード四世を『つくった』と言われるウォリック伯は、彼と仲違いをして宮廷での権勢を失うと、別のイングランド王を『つくる』ために奔走した。はじめはクラレンス公ジョージを、それから亡命していたヘンリー六世を。彼らのもとで自分の地位を確かなものにするために、ウォリック伯は自分の娘を王たちに与えたのだった。ジョージにはイザベルを、ランカスターにはアンを。
 しかし、王をつくった男の娘たちは、少なくともその時は王妃にはならなかった。ジョージは気を変えて兄エドワード四世の臣下に戻り、王弟として確実に手にできる利益のほうを選んだ。ヘンリー六世とその嫡男は、エドワード四世が率いるヨーク派と戦い、一度は取り戻しかけた王位を再び失った。そして、父はロンドン塔に幽閉され、息子は戦死した。
「王妃さまがその方と一緒にいらしたのは、本当に短い間だったとお聞きしています。ご結婚ではなくご婚約で終わったとか」
 エリザベスは慎重に話を進めた。廃位されたランカスター家の王の息子であり、現王妃の前夫であった彼の名前は、今の宮廷では決してささやかれることのない名の一つだ。
 しかし王妃は、エリザベスのまわりくどい言いまわしにほほえんだ。まるで懐かしむように、愛おしむように。
「わたしは、あれは結婚だったと思っているわ。ほんとうに短い間だったけれど、あの方はわたしの夫だった。リチャードが今のわたしの夫であるのと同じように」
 先ほどまでの好奇の熱が嘘のように、部屋じゅうが静まりかえっていた。興味本位で掘り下げた噂ばなしがこんなところに及ぶなんて、エリザベスも誰も想像していなかっただろう。
「かわいそうな人だったわ」
 アンは空気を見つめたまま、小さくつぶやいた。
「王妃さまはその方と――お親しくなられたのですか」
「いいえ。あの方はわたしのことなんて目に入っていなかった。お父さまと自分の地位を取り戻すことにしか興味がなかった。子どものころからそんな境遇で育ったのだから、無理もないわ」
「でも、王妃さまはそれがご結婚だったと」
「結婚ではなかったと、みんなが言ったわ。悪い夢だったと思って忘れればいいって。でも、わたしは忘れられなかった。だからリチャードが求婚してくれた時もすぐに答えられなかったの。前の結婚をなかったことにしてしまうみたいで」
 アンの話が途切れると、部屋の中はしんと静まりかえった。
 ランカスター家の王太子のことを宮廷ですすんで話題にしようとする者はいない。何かの折りに触れるとしても、それは侮蔑や嘲笑をともなったものであり、アンのような表情で語られることは決してなかった。
 アンは何を話す時でも、しがらみやしきたりにとらわれることなく、心からの言葉を口にする。言葉の紡ぎ方は決して巧みなほうではないが、何を話しても自然で無理がない。
「でも、陛下からのご求婚をお受けになったのですね」
「ええ、そうね」
「どうしてですか」
「なかったことにしなくていいって、あの人が言ってくれたから」
 アンは答え、それから何かに気づいたように、にこりと笑った。
「そうね。それが結婚した理由なのかもしれないわ」


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