テューダーの薔薇 [ 6−1 ]
テューダーの薔薇

第六章 聖夜にさす影 1
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 冬の気配が近づく前に、エリザベスの弟たちはシェリフ・ハットンに向けて旅立った。同時に宮廷では、スタンリー卿夫人マーガレットがランカシャーに移されたという噂が流れ始めた。もちろん弟たちの移送を隠すための偽装であり、マーガレットはもともとランカシャーにいたのだが。
 そんな偽りの噂も、新たに入ってきた知らせに押し流されてしまった。ヘンリー・テューダーがブルターニュから逃亡し、反乱の援護を得るためにフランス王との交渉に入ったということが、宮廷人たちの知るところとなったのである。
「どちらを向いても、きみの婚約者の話で持ちきりだ」
 回廊を歩くエリザベスの隣で話しかけてくるのは、従兄のリンカン拍ジョン・ド・ラ・ポールである。彼は最近になっていくつかの要職を与えられ、宮廷と領地を頻繁に行き来するようになっていた。王がクラレンス公ジョージの遺児ではなく、この年長の甥を後継者にするつもりだということは、すでに宮廷では暗黙のうちに認められている。
 その従兄がこうして隣を歩いてくれるのは、今のエリザベスにとってありがたいことだ。宮廷のどこで誰と会っても、ヘンリー・テューダーの婚約者を見る目を向けられる。せっかくこの場所になじんできたというのに、またよそよそしい態度で接されることもある。顔のきく従兄と並んでいなければ、戻ってきたばかりの居心地の悪さに逆戻りだ。
「そんなに噂するほどのことかしら。ある異国に逃げていた反逆者が、また別の異国に逃げたというだけの話でしょう」
 エリザベスはわざと声を高くした。
 エリザベスにとってヘンリーは正統の王でも未来の夫でもなく、ヨークの平和を脅かしている憎むべき反逆者に過ぎない。そのことを宮廷人たちの耳という耳に吹きこんでやりたかった。吹きこんだところで、何かが変わるわけでもないのはわかっているけれど。
「ただの反逆者でも、味方につく者によって本人の器を越えた力を持つこともある」
「シャルル王がヘンリーに味方するかどうかはまだわからないわ。援護をとりつけたとしても、彼につくのはフランス人よ。イングランド王としての正統性を強めることにはならないわ」
「そのとおり。大陸育ちのウェールズ人がこの国の王座を狙うには、異国の王の援軍だけではだめだ。彼自身の価値を高めてくれるような人間と手を取りあわなければ」
 エリザベスは横目で従兄を睨んだ。
「いやな人。わたしがその話を聞きたくないのは知っているくせに」
「聞きたくないと言って耳を塞ぐことはできる。でも、それで現実が変わるわけではない」
 従兄はにこやかに続けたが、目が笑っていなかった。口では冗談めかしたことを言っても、彼はその現実を決して面白がってはいない。第三代ヨーク公の孫として今の王朝に忠誠を誓い、自分がその王位を継げるかもしれないことを喜んでいるのだ。そこに横槍を入れようとしているヘンリーには本気で腹を立てているらしい。
 ヘンリーの野心が面白くないのはエリザベスも同じだが、エリザベスがこの話にできるだけ関わりたくないのに対し、この従兄はあえて話すことによって鬱積を消そうとしている。エリザベスは忘れていたかった婚約者の名前を思い出さずにはいられなくなる。
 ヘンリー・テューダーはウェールズで育ち、十四年前にヘンリー六世が復位した際、ランカスター家の後継者の一人として認められた。直後に六世とその王太子がヨーク派に倒され、ランカスター派最後の王位請求者となったため、ヨーク家の追跡から逃れて大陸に亡命した。それ以来、一度もブリテン島の土は踏んでいないはずである。エリザベスより九歳年上と聞いているから、いま二十七歳だ。
 従兄の言うとおり、ヘンリーがフランス王の援軍を得て戦に勝ったとしても、それだけではイングランドの王にはなれない。彼に必要なのは自身の王位の正統性を強めることと、それに異を唱えるヨーク派と歩み寄ること。この二つを同時に遂げられるのが、エリザベスとの結婚である。
 テューダー家はもとはウェールズの豪族で、イングランドの王家の血は一滴も混ざっていない。ヘンリーの祖父はランカスター家に仕えており、未亡人になっていた王妃キャサリンと密かに結ばれた。そうして生まれた庶子が長じてから娶ったのが、今のスタンリー卿夫人、マーガレット・ボーフォートである。ボーフォート家は初代ランカスター公の子孫ではあるが、公妃との結婚前に生まれた子らを始祖としているため、王位継承権は認められていなかった。
 ボーフォートの母とテューダーの父の間に生まれたヘンリーには、プランタジネットの王位を継ぐ正統な権利があるとは言いがたい。だからこそエドワード四世の王女を、ヨーク家の王冠つきの娘を妻にして、王権の強化を図らなければならないのである。エリザベスはそんな結婚など少しも望んでいないというのに。
 それよりもエリザベスが気がかりでならないのは、今も大陸に残っている異父兄トマスのことである。母を通じて帰国を促しているにもかかわらず、いまだにトマスが帰ってくるという話は聞かない。ヘンリーとともにフランスに移ったのか、ブルターニュに残っているのかさえわからない。
 リチャードに会ったら、まず何より先に兄のことを相談しなければ。ちょうど今はいつもの報告のために執務室に呼ばれ、従兄とともに向かっているところなのである。

 目的の場所に着くと、そこにはリチャードだけではなくラヴェル子爵の姿もあった。しばらく宮廷を空けていたが、数日前に戻ってきていたようである。王の姪と甥が入ってきたのを見ると、目線だけでにこやかに笑いかけた。
 リチャードも顔を向けたが、笑みはまったくなかった。エリザベスが立ち止まるのも待たずに彼は口を開いた。
「義姉上から手紙は来たか」
「参りました」
「ドーセット侯の帰国は?」
「わかりません」
 エリザベスは首を振った。訊きたかったことをリチャードのほうから切り出してくれてほっとしていた。
「母は兄に何度も手紙を書いていますが、返事が来ないようなのです。兄が母の手紙を読んでいるのか、無事に届いているのかもわかりません」
「届いていても返事を送れる状況ではないのかもしれない」
 手紙は人から人へ託されて海を渡り、異国に向かう。当然、信頼できる者にしか預けられないので、届け手の数は限られてくるし、日数もただの旅の数倍はかかる。事故で失われてしまうこともあるし、何者かの妨害が入ることもある。ブリテン島から大陸へ、大陸からブリテン島へ、どちらの旅路も事情は変わらない。
 母の手紙は大陸の兄のもとに届かなかったのかもしれない。届いていても、読んで返事を書くことはできなかったのかもしれない。返事を書いていても、それがイングランドに無事に届かなかったのかもしれない。どれも考えられることには違いない。
「せめて、本人に帰国の意思があるか否かだけでもわかればいいのだが」
 リチャードが、エリザベスのいちばん恐れていることを言った。
 兄は母の勧めを無視して、自分の意志でヘンリーのもとに残るつもりなのかもしれない。その心配はエリザベスの頭にも薄い靄のようにかぶさっている。
 異父兄のトマスはエドワード五世の廃位より前に聖域を脱出し、大陸に渡ってヘンリー・テューダーの傘下に入った。エリザベスをヘンリーの妃に推したのも彼だ。この宮廷では高い声で言えないが、トマスは両親を同じくするただ一人の兄弟を、即位前のリチャードに処刑されている。ヘンリーの即位を支持する意志は母よりも兄のほうが堅いのかもしれない。
 その先のことを考えると、エリザベスは気が遠くなるほど怖くなる。ヘンリーのもとに残るということは、反乱軍の一員になるということだ。戦場で国王軍に迎え討たれる兵士の中に兄がいるところは想像したくない。
「できる限り情報を集めて、ドーセット候の今の居場所だけでもわかるようにする。義姉上にもそう伝えてくれ」
「はい、陛下」
「それから――フランシス」
 リチャードが視線を動かすと、近くで会話を聞いていたラヴェル子爵が進み出て、にっこり笑った。
「お久しぶりですね、レディ・エリザベス。先日は大変な時にお役に立てず、申し訳ありませんでした」
 弟たちの失踪のことを言っているのだ。
「とんでもない。あの折りは陛下やみなさまにご迷惑をおかけしました」
「いちばんご心配なさったのはあなたでしょう。何ごともなかったようで本当に良かった」
 ラヴェル子爵の姿と声は、エリザベスに弟たちのことを思い出させた。二人がまだロンドンにいた時に、スタンリー家の別邸にエリザベスを送ってくれていたのが子爵だったからだ。こうして彼と会話していると、このあと弟たちに会えるような気がしてくる。
 けれど、子爵がロンドンに戻ってきても、もう弟たちに会いに行くことはできない。
「ノッティンガムの城塞を見に行っていたのですが、帰りに旅の一行と出会いまして」
 子爵はエリザベスの表情には構わず、にこやかな顔のまま続けた。
「彼らはロンドンから出てきたというので話を聞いてみたら、どうやら高貴な身分の方をお送りしていたところだったようです」
 エリザベスは目を見開いて子爵の顔に見入った。
 子爵は歩いてくると、エリザベスの前に両手を差し出した。何も書かれていない、飾りもない封筒がそこに載っている。
「ご一緒できたのは一晩だけでしたので、急いで書いていただきました。短いですが、中に二枚、入っています」
 エリザベスは弟たちの書いた手紙を見つめた。しばらくは手紙のやりとりもできないと思っていたのに、思いがけず早く受け取ることができた。
 リチャードから預かっている一年間の手紙は、木箱に入れたまま部屋で大切にしまってある。その中にこれも加えておかなければ。もちろん、読んで返事を書くのが先だ。
「ありがとうございます、ラヴェル子爵」
「返事を書くんだったら預かるよ。来月から北部に向かうから」
 横から口を挟んだのは従兄のリンカン伯だった。
 きょとんとして王と従兄の顔を見比べるエリザベスに、リチャードが説明を加える。
「いくつかの城の管理を彼に任せることにした。シェリフ・ハットンで従弟たちの面倒も見てくれる」
 シェリフ・ハットン城には今や、エリザベスの弟たちと、クラレンス公ジョージの遺児二人、あわせて四人の子どもたちが暮らしている。年長の従兄が彼らをまとめて守ってくれると思うと心強い。
 やはり、弟たちの再びの移送は、あらゆる意味で正しかったのだ。エリザベスはそう思うことで、二人に会えない寂しさを埋めあわせようとする。
「良いところですよ、シェリフ・ハットンは。ロンドンよりもよほど安全です」
 ラヴェル子爵がほほえんだまま、少し強い口調で言った。
 そういえば、子爵ははじめから弟たちを北部の城で匿うべきだと言っていたのだった。ヘンリー・テューダーの継父に預けることは危険だと見なし、彼のことも快く思っていなかった。
 その継父、スタンリー男爵はこのごろ宮廷で見かけていない。預かっていた王の甥たちを手放さざるを得なかったことをどう感じているのだろう。
「わたしが着くころには新しい暮らしにも慣れているだろう。しばらく滞在して、クリスマスを一緒に祝うつもりだ。妻も連れていくしね」
 従兄の明るい声が、エリザベスの不安をかき消した。久しぶりに聞く言葉に、良い意味で胸が高鳴る。
「――クリスマス?」
「宮廷でもそろそろ準備を始めなければなりませんね」
 寒くなってきたと思っていたが、もうそんな時期だとは。去年の今ごろはまだ聖域で暮らしていたので、クリスマスを祝うどころではなかった。
 ロンドンでもそろそろ雪がちらつき始める。そうなれば、聖夜の祝祭はすぐそこだ。
「陛下、お願いがございます」
 エリザベスはリチャードの前に立ち、おごそかに切り出した。
「下の妹たちを祝宴に呼んでやってもよろしいでしょうか。宮廷のクリスマスを見せてやりたいのです」
 幼い妹たちには、父が生きていたころの宮廷の思い出がほとんどない。自分たちがかつて王女だったことは知らないほうが幸せかもしれないが、飾りつけられた宮殿や手の込んだ料理、華やかな催しの数々はぜひ見せてやりたい。エリザベスが十七まで毎年のクリスマスに見てきたものだ。
 それに、妹たちを招くことを口実にすれば、母も顔を出す気になってくれるかもしれない。
「きみはクリスマス休暇をとって、義姉上のもとに帰ればいいと思っていたのだが」
「ありがとうございます。そうするのもとても素敵ですけれど、できればここに残らせてくださいませんか」
「きみがそうしたいなら構わない。それでは、義姉上にもここに来ていただけるように話してみよう」
 近くにいたラヴェル子爵が、ぎょっとしてリチャードの顔を見た。
「グレイ夫人を招く? 本気でですか」
「今までにも何度か招待は送っていただろう。この機会にもう一度ためしてみてもいい」
 リチャードは同意を求めるようにエリザベスのほうを見た。
 望んでいたとおりに話が進んだので、エリザベスは思わず舞い上がった。
「とても素敵ですわ。そうなったらうれしいとわたしも思っていましたもの」
「そうですね、子どもたちの付き添いなら伯母上もいらっしゃるかもしれない。わたしはロンドンを離れるのでお会いできませんが、父と母は良いお相手になると思いますよ」
 従兄が隣でエリザベスの言葉にうなずいてくれている。
 ただ一人、ラヴェル子爵だけが首肯しかねると言った顔で、エリザベスとリチャードを交互に見つめていた。
「本当にグレイ夫人が招きに応じると思うのですか? 娘御の結婚式にさえいらっしゃらなかったのに」
「招待してみなければわからないだろう。断られてもこれまでと同じことだ」
「では、断られなかったとしたら? グレイ夫人は晩餐でどの席に着くのです。あなたやアンは夫人のことをなんという名で呼ぶのですか」
 たたみかけるような子爵の問いに、エリザベスは笑みを失った。
 宮廷での母の立場のことはすっかり記憶から抜け落ちていた。エリザベスとセシリーでさえ、はじめは腫れ物にでもさわるように扱われていたのだ。まして母ともなれば、廷臣たちに、そしてリチャードとアンに、何倍も気を遣わせてしまうのは目に見えている。
「心配はいらない」
 リチャードは質問を浴びせた子爵ではなく、エリザベスの顔を見て言った。
「義姉上にご不快な思いをさせないように、席次も呼びかけも考えておく」
「陛下、王妃さまにご心労をおかけするようでしたら」
「きみは心配しなくていい」
 宮廷に戻ってきてから、この言葉を何度も聞いた。リチャードは、ある問題についてはエリザベスに意見を求める一方で、ある問題についてはエリザベスを決してわずらわせない。心配しなくていいと言ったら本当にエリザベスを心配させない。
 だからエリザベスは、自分にできることでこの人の役に立とうと思えるのだ。
「それでしたら、わたしにクリスマスの準備を手伝わせてくださいな。王妃さまの手や足となってお助けいたしますわ」
 祝宴の招待客を選び、晩餐の献立を決め、広間を飾りつけ、音楽や余興の準備をする。これらはすべて宮廷の女主人の仕事だが、病気がちのアンにそのすべてが務まるとは思えない。エリザベスならそれらを完璧にこなしつつ、表向きは手伝いを装って王妃をたてることができる。
「やりかたがわかるのか」
「母の務めをずっと見て参りましたもの。自分もいつかフランスで同じことをするのだと思っていました」
 エリザベスには断られない自信があった。エリザベスが何に向いていて、何ができるのか、リチャードはこれまでもよく見てきているはずである。大切な妻に無理をさせるよりは、出来のいい姪に任せたほうがいいに決まっている。
 読みどおり、リチャードは長く迷わずに言った。
「では、頼んでもいいか」
「ありがとうございます」
 エリザベスはほほえみ、リチャードの前で膝を折った。
 新しく与えられた大きな使命が頭の中を満たし、エリザベスの心を浮き立たせた。今まで学んできた得意と言えることを活かす、またとない機会である。廷臣たちを、地方から来る人たちを、そして王と王妃をどのようにして喜ばせようか、あらゆる考えが次々に湧き出てくる。
 部屋の中を見まわすと、リチャードも、従兄も、従僕たちも、喜ぶエリザベスをあたたかく見守っていた。
 ラヴェル子爵だけがただ一人、母を呼ぶことに反対した時の顔のまま、エリザベスとリチャードを見比べていた。


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