テューダーの薔薇 [ 5−7 ]
テューダーの薔薇

第五章 僭称者 7
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 外が明るんで来る前に従僕が知らせを持ってきた。弟たちはスタンリー家の別邸の敷地内で見つかった。
「住み込みの園丁に頼んで匿わせていたようです。暗いうちに姿を隠し、明るくなったら外に逃げるつもりだったと」
「元気にしているのか」
「はい。ひとまず寝室にお連れしたそうです」
 重たかった部屋の空気が一瞬でとけた。捜索に当たってくれた側近たちは顔を見あわせて笑いあい、互いの肩を叩く者もいた。
 エリザベスは椅子から立ち上がり、彼らの間を縫って王の前に進み出た。心配が消え去り、次にするべきことがはっきりと見えていた。
「お詫び申し上げます。弟たちがご迷惑をおかけしました」
 部屋の中に響きわたらせるように言うと、全員の視線が控えめに集まってきた。
「いや」
 リチャードはエリザベスの言葉に動じず、淡々と言った。
「こちらの管理が甘かった。心配させてすまない」
「その園丁を咎めないでやってくださいませ。すべて弟たちが悪いのです」
「それを決めるのはきみではない」
 リチャードはもう、いつもの調子に戻っていた。エリザベスから視線を離すと、側近たちに労いの言葉をかけて次の指示を与えている。
「陛下、レディ・エリザベスをお送りしてもよろしいでしょうか」
 ウィリアム・ケイツビーという廷臣がエリザベスの隣に立ち、あたたかみを感じさせる声で言った。彼もラヴェル子爵と同じく、リチャードの即位前からの側近なので、声をかける時も必要以上に気負った様子がない。
 ケイツビー卿の申し出がなくても、エリザベスは自分は去るべきだと思っていた。弟たちが無事に保護された今、エリザベスがここに残っている理由はない。夜通し働いてくれていた側近たちには疲労の影が見える。エリザベスが立ち去ることで荷物を一つ減らし、彼らに早く休んでもらうべきだ。
 リチャードも同じことを考えていると思ったが、彼はすぐに返事をしなかった。やがて、エリザベスの顔を見つめて言った。
「もう少し話せるか」
「はい、陛下」
 エリザベスは驚いたが、すぐに答えた。弟たちの無事がわかって疲れが出てきていたが、耐えられないほどではなかった。
 リチャードはケイツビー卿に礼を言って下がらせた。部屋の中にいた廷臣たちは一人また一人と去り、残っているのは数人の従僕だけになっている。そのうちの一人が運んできた椅子にエリザベスは座り、リチャードの言葉を待った。
「きみの弟たちをロンドンに置いておくことができなくなった」
 エリザベスは、自分に触れる空気が急に冷たくなったような気がした。
「二人の様子が落ち着いたら、スタンリー家の屋敷から別の場所へ移らせる」
 リチャードが話すのを迷っていた理由がわかった。弟たちの無事を知って安心した矢先に、あまりに耐えがたい話だ。
「陛下、それだけはご容赦くださいませ。もう二度とこのような騒ぎは起こさないとお約束します」
「いや、エリザベス」
「弟たちにはわたしからよく言って聞かせます。どうか、二人を今より遠くへやらないでください。お願いです」
「そうではない。話を聞きなさい」
 リチャードは遮っておきながら、すぐには先を続けなかった。弟たちを遠ざけること以上に打ち明けづらい話などあるだろうか。
「ヘンリー・テューダーがフランスに逃げた」
 リチャードが重い口を開いた時、エリザベスは自分の認識の甘さを思い知った。
「ブルターニュ公との交渉を密告した者がいたらしい。フランスの宮廷に身を移し、シャルル王に援護を願い出るようだ」
 エリザベスは、どこかの遠い国のできごとのように、リチャードの話を聞いた。
 フランスでもイングランドと同じ年に代替わりがあり、エリザベスと婚約していた王太子がシャルル八世として王位についた。まだ年若い新王に代わって政務を執っているのは、年の離れた姉とその夫だと聞いている。
 そのフランス王家とヨーク家との間では、父の死の以前から緊張状態が続いている。
「フランス王家は、ヘンリーの即位に力を貸そうとするのでしょうか」
「その可能性は高い」
「戦になりますか」
 エリザベスの拙い言葉に、リチャードは黙ってうなずいた。
 血を流さずに内乱を鎮める道は、これで完全に閉ざされた。ヨークとランカスターが再び王冠をめぐって戦場で相対する。勝ったほうが正統の王で、負けたほうが僭称者。イングランドの運命を何度も変えてきた審判が、再び下されようとしている。
「ロンドンはもう安全とは言えない。万一に備えて、きみの弟たちを少しでも危険から遠ざけておきたい」
 戦場でヘンリーが勝てば、ロンドンは再びランカスター家のものになる。そこまでは至らなくとも、ヘンリーが王位をあきらめない限り、どんな陰謀が王都に忍び寄るかわからない。リチャードはそう言っているのだ。
「フランドルに行かせるのですか」
 エリザベスは訊いた。弟たちが叔母のもとへ行くのは喜ばしいと思っていたが、こんなかたちでは明るい気持ちで見送れそうにない。
「いや。シェリフ・ハットンに移す。二人がロンドン塔にいた時から検討していた場所だ。ロンドンからはじゅうぶん離れているし、信頼のおけない者は一人も置いていない。ジョージの子どもたちが遊び相手になってくれる」
 シェリフ・ハットンという地名は、エリザベスの耳には異国の名前のように響いた。ロンドンよりはるか北、スコットランド国境にもほど近い土地だ。これまでのように頻繁に会いに行くことはできないだろう。母のいるところからもさらに遠くなってしまう。
 だが、リチャードの言うことは正しい。王都から遠く、それでいてリチャードと縁の深い北部の城で、従弟妹たちとともに守られていれば、弟たちに差し迫った危険は及ばない。
「出立の前に弟たちに会わせていただけますか」
「もちろんだ」
 リチャードは即座に答え、視線を手もとに伏せた。エリザベスはこの時はじめて、彼がとても疲れていることに気がついた。
「暗い話ばかり聞かせて悪かった」
「いいえ」
「送らせるから戻って休んでくれ」
 リチャードが手をついて立ち上がり、エリザベスもそれにならった。
 部屋から出てすぐ、入れ違いに大柄な人物が歩いてくるのが見えた。別邸からやってきたらしいスタンリー卿だった。エリザベスに気がつくと、急いでいた足をとめて顔を向けた。
「知らせはお聞きになりましたか」
「はい。ご迷惑をおかけいたしました」
「いいえ、とんでもない」
 卿の顔には笑みがなかった。一晩じゅう弟たちの捜索を指揮し、一睡もしていないに違いない。二人の無事を見届けてから急いで宮廷に駆けつけたのだろう。王に一連のことを報告するために。
「屋敷にお預かりしておきながら、このようなことになって申し訳ない。お二人はお元気です。ご安心なさってください」
「ありがとう存じます」
 スタンリー卿は言うべきことを一気に述べると、エリザベスから離れて扉の中に消えた。エリザベスがリチャードから聞いた話を、これから彼も聞くのだろう。
 エリザベスはふと思った。今回のことで誰よりも深い傷を負ったのはこの人なのかもしれない。信頼の証のように預かっていた王の甥を失踪させ、見つかっても手放さざるを得なくなった。時を同じくして大陸で旗を揚げようとしているのは彼の義理の息子だ。リチャードはこの人に、弟たちの再びの移送をどう説明するのだろう。



 弟たちには翌日に会わせてもらえた。ラヴェル子爵がいないので、夜が更けてから人目を忍んでの訪問になったが、二人は眠らずに姉を待っていた。
 姉弟だけで部屋に残されると、エリザベスは真っ先に下の弟を抱きしめた。嫌がって逃げるかと思ったが、意外にもリチャードはおとなしくしていた。
「リチャード、元気?」
「うん」
 リチャードは姉から離れて目をそらすと、もっと意外なことを言った。
「キスしたかったらしていいよ」
「あら、いいの?」
 エリザベスは弟の顔を見つめた。
 北部の城に移されることは弟たちもすでに聞いているはずだ。これまでのように姉と会えなくなると知り、心細くなっているのだろうか。あるいは、姿を消して姉を心配させたことを少しは悔やんでいるのだろうか。
 エリザベスは愛しくてたまらなくなり、弟の顔を両手ではさんで口づけた。リチャードは自分の言ったことを後悔したらしく、すぐさま姉の手を振り切って逃げた。
 そして、エリザベスは上の弟と向きあった。
 エドワードは姉の顔を一度も見ようとせず、エリザベスが歩いていくとびくりと身を震わせた。
 失踪を企てたのはエドワードのほうであり、下の弟はほとんどそれに従っただけだと、エリザベスは気づいていた。エドワードが姉と目をあわせようとしないのが何よりの証拠だ。
「エドワード、あなたも元気?」
 弟は黙ってうなずいた。
 捜索に手を尽くしてくれた廷臣たちはみな、二人をあまり叱らないようにとエリザベスに言ってくれた。エリザベスは彼らの顔を思い出し、感情に任せて言葉を出さないように心がけた。頭ごなしに弟を責めてもしかたがないことはわかっている。
 何かを言うかわりに、エリザベスは弟を抱き寄せた。エドワードはおとなしくしていたが、離れたがっているのが腕の中の気配でわかった。大人の庇護から逃れようと姿を消したのに、その大人たちに助けられ、守られ、あまつさえ許され、幼子のように姉の腕に抱かれているのは、少年にとって屈辱でしかないだろう。
 エリザベスは腕をはなした。この時になって、ようやく安堵が押し寄せてきた。宮殿の一室で知らせを待ち続けた夜は、もう二度と会えないかもしれないと思ったのだ。
 エドワードは姉の気持ちを知ってか知らずか、うつむいたまま顔を強ばらせている。
「ベス、許して」
「いいのよ。エドワード」
 エリザベスはささやいた。
「ここを出て、どこへ行くつもりだったの」
「ロンドンの外ならどこでも良かった。人の多くも少なくもない土地へ行って、別の名前と身分をつくって、雇ってもらえるところを探すつもりだった」
 エリザベスは呆れて声も出なかった。賢くなってきたといっても、やはり子どもだ。こんな高貴な身なりをした兄弟が、雑踏の中に姿を隠せるわけがない。うまく紛れこんだとしても、二人だけで無事にロンドンを出られたとは思えないし、宮廷で育てられた王子たちにできる仕事などあるはずがない。それくらいのことがわからなかったわけでもないだろうに。
「ここにいるのがそんなに嫌だったの?」
 エドワードは答えなかった。
「陛下に守られて、養われていることに耐えられない?」
 エドワードは答えなかった。
 下の弟は少し離れて、姉と兄のやりとりを見ている。口をはさんではいけないと察しているようだ。
「そうだけど、そうじゃない」
 やがて、エドワードは不可解なことを言った。
「ぼくは、エリザベスが思っているほど、陛下のことを嫌いじゃないよ」
 エリザベスは驚いて弟を見つめた。エドワードは自分を憎んでいるわけではない、というリチャードの言葉を思い出した。
「ぼくは父上が亡くなってからの騒動をぜんぶ間近で見ていたんだ。陛下が自分のためだけにぼくを廃位させたのではないことはわかっている」
「それなら、何に耐えられないの。何が辛いの」
「――自分が、子どもだってこと」
 エドワードはひどく大人びた顔で、ひどく子どもじみたことを言った。エリザベスは驚いたというより、拍子抜けした。
「あの場所にいたのに何一つ自分では決められなくて、事態が動いていくのを見ていることしかできなかった。もう、あんな思いを味わいたくない」
 漠然とした言葉の一つ一つから、一年前のエドワードの姿が見えるようだった。王座のまわりで争う大人たちを見つめることしかできず、いつの間にかそこから引き下ろされていた、十二歳の少年王。彼が憎んでいたのは、しかし、その大人の誰でもなく、自分自身だった。
「ばかだわ、エドワード」
「……そうかな」
 エリザベスは思わず弟の顔に触れた。エドワードは怒ったように目線をそらす。
 一年半ぶりに再会した時よりも、その目はさらに高い位置にある。エリザベスの背を追い越すのも時間の問題だろう。大人の庇護から抜け出そうと足掻かなくても、エドワードは確実に大人に近づいている。
 この弟が聖域で生まれた日のことを、エリザベスはまだはっきりと思い出せるのに。
「聖域のエドワード」
 エリザベスはそう口に出した。
「あなたがこう呼ばれている理由は、知っているでしょう」
「もちろん」
「あなたが聖域で生まれた時、お父さまは王ではなかった。僭称者として国を追われて、大陸に逃げていたわ」
 エドワードはうなずいた。姉が何を話し始めたのかわからず、戸惑っていた。
 エリザベスは少しのあいだ迷った。本人の気持ちに任せるべきだというリチャードの言葉が頭をよぎった。理屈を聞かせて説き伏せようとしても、効果がないことはわかっていた。
 けれども、けっきょく続けることにした。どうせエリザベスはアンとは違う。相手の心に黙って寄り添えるような才能はない。
「そのとき一緒に亡命していた人が、後になって話してくれたの。エドワード王は、王座から追われている時こそ、誰よりも王らしかったって」
 エドワードははじめて姉の目を見た。
 弟にこの話が理解できるだろうか。エリザベスもこの意味がわかるようになったのは、もっと後になってからだった。
「エドワード、あなたは王位を継ぐために育てられてきた。そうして学んだことを本当の意味で問われるのは、王位を失った今なのではないかしら」
「今?」
「わからなかったら考えてみてちょうだい。時間はたくさんあるのだから」
 エドワードは答えずにエリザベスを見返していた。大きな目を見開いて無心に考えこむ顔は、年相応にあどけなかった。
「わかった」
 エドワードは言った。すぐに答えを出すことをあきらめたせいか、どこかすっきりした顔をしていた。
「考えてみるよ。シェリフ・ハットンで」
「ええ、そうね」
「シェリフ・ハットンには男の子がいるんでしょう。ぼくより小さいみたいだけど」
 下の弟のリチャードが、待ちかねていたように口をはさんだ。ようやく自分にもわかる話題になったと踏んだらしい。
「女の子もいるわ。あなたと同い年よ」
「女の子はいらない」
「そんなことを言わないで、みんなで仲良くするのよ。従兄弟どうしなのだから」
 エリザベスは弟たちと一緒に、久しぶりに笑った。

 二人と別れて屋敷を出ると、空気の冷たさに驚かされた。手をこすりあわせながら、エリザベスは自分を慰めた。雪が始まってからの長旅は辛い。弟たちの出立が今のうちに決まったのは良かったのかもしれない。
 そう思うと同時に寂しさがこみ上げてきた。弟たちはこれまで以上に遠いところに行ってしまう。エリザベスが会いに行くこともできない場所へ、母に顔も見せないままで。
 冷たい風に研ぎ澄まされたように、闇に浮かび上がる月はいっそう冴えている。
 季節が移ろっていくように、イングランドもまた変わろうとしている。いちばん寒く、いちばん厳しい時が、少しずつ忍び寄ってきている。


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