テューダーの薔薇 [ 5−6 ]
テューダーの薔薇

第五章 僭称者 6
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 けっきょくエリザベスは、リチャードに言われたとおりにした。自分にできることをやり遂げることにしたのである。エリザベスにできることと言えば、弟たちに会いに行って話し相手になることだけだ。
 そう決めていたにもかかわらず、それすらできないことがわかった。スタンリー家の別邸まで付き添ってくれているラヴェル子爵が、いつの間にかロンドンを離れていたせいである。
 主君と同じで、あの子爵も一つのところに留まっていることがないらしい。本来なら腹心の臣下として常に宮廷にいて、国王夫妻にいちばん近い席に陣取っていてもおかしくないのに、ロンドンに戻ってはすぐに次の場所へ発つということをこれまでも繰り返してきたようだ。
 エリザベスの弟たちがどこにいるのかを知っていて、なおかつスタンリー郷夫人を見舞う王妃の女官に付き添える。そんな宮廷人の数はごく限られている。エリザベスは子爵が早く戻ってきてくれるのを待つしかなかった。
 宮廷でいつもどおりの日々を過ごし、母や妹たちの手紙を読み返し、弟たちに話してやる話題を蓄えておく。王妃の居所に通い、友人たちと語り、夜会で崇拝者たちをあしらい、各国の使者たちに顔を売っておく。
 侍女一人を連れて宮殿の一角を歩いていると、向かいから近づいてきた人物に会釈をされた。エリザベスはその場で立ち止まり、相手が来るのを待って膝を折った。
「レディ・エリザベス」
「ごきげんよう、スタンリー卿」
 弟たちに会いに行った時はいつも出迎えてくれていたが、宮廷の中で顔をあわせるのは久しぶりだった。スタンリー卿も同じことを思ったらしく、エリザベスを見て目を細めた。
「王妃陛下にお会いになっていらしたのですか」
「ええ。このごろ毎日のように呼んでいただきますの」
「あなたがいらっしゃればどのような場でも明るくなりますから。わたしの妻もあなたにひどくお会いしたがっておりますよ」
 スタンリー卿は声の調子を変えずに言った。彼の妻というのはもちろん、言葉どおりの意味ではない。
「奥さまがおっしゃったのですか。わたしにお会いになりたいと」
「そうは申しておりませんでしたが、次にあなたが来てくださるのはいつかと尋ねられました」
 エリザベスは視線を足もとに下げ、弟たちが卿に尋ねるところを想像した。
「わたしもお会いしたいですわ。奥さまに、そう伝えていただけますか」
「お伝えしましょう。手紙などお渡ししたいものがあればお預かりしますよ」
「じかにお話ししたいのでけっこうですわ。でも、ご親切にありがとう存じます」
「ラヴェル子爵がいらっしゃる時しかおいでになれないというのは残念なことですね」
 エリザベスはあいまいにほほえんだ。
 子爵の帰りを待たなくても、自分の送迎で弟たちに会いに来ればいい。スタンリー卿は言外にそう言っているのだ。
 エリザベスもできることならこの誘いに乗りたいが、リチャードの許しを得ずに勝手に動くわけにはいかなかった。弟たちのところへ通い始めた時から、子爵の付き添いなしでは行かないと約束している。たとえ弟たちを住まわせている屋敷の主であっても、エリザベスを自分の意志で招くことは許されない。
「待っているあいだに、次にお話しすることを考える楽しみもありますわ。奥さまはお元気でいらっしゃいますか」
「ええ、とても」
 エリザベスはスタンリー卿と目をあわせて、にっこり笑いあった。
 このごろは二人が宮廷で話していても、以前のように冷ややかな目は向けられなくなっている。エリザベスが宮廷になじんできたのと同じように、卿も人々に受け入れられつつあるようだ。ヘンリー・テューダーの継父ではなく、古参の廷臣として扱われるようになっている。エリザベスが王妃の女官として郷の夫人を見舞っているのもその原因の一つだろう。
 卿とはなごやかな雰囲気のまま別れ、エリザベスは自分の部屋に戻った。スクループ家からの使いが来ており、セシリーの手紙を携えてきていた。セシリーは手紙を書くのが好きで、婚家での暮らしを細やかににつづっている。あいかわらず幸せそうな妹の様子に、エリザベスの心もほころんだ。弟たちに話してやることがまた増えた。



「お嬢さま、お嬢さま」
 耳の近くで誰かの呼ぶ声がする。
 エリザベスは寝返りを打ち、重い瞼を持ち上げた。侍女が手燭をかざして寝台を覗きこんでいるのが見えた。
「お休みのところ申し訳ありません、お嬢さま」
「いいのよ……なあに」
「国王陛下がお呼びだそうです」
 その一言で、エリザベスの目は急激に覚めた。
 リチャードがこんな夜更けに、眠りを妨げてまでエリザベスを呼び出したことはない。どんな用があるにしろ、いい話ではないことは確かだ。
 エリザベスは突き動かされたように起き出し、侍女に手伝わせて寝間着から平服に着替えた。髪を整えさせているあいだも、さまざまな推測が頭の中を駆けめぐった。母のことか、弟たちのことか、大陸にいる兄のことか。あるいはもっと別の、エリザベスの想像の及ばないことだろうか。話を聞いてみなければ始まらないのはわかっていても、胸騒ぎをなだめるために考えてみずにはいられない。そして、考えれば考えるほど不安が胸を満たしていく。
 部屋の中は暗闇に染まっているが、侍女が捧げ持つ手燭だけがまぶしいほど明るい。その明るさがかえって、照らされないまわりの闇を濃くしているようだった。エリザベスはその明かりに導かれて部屋を出た。
 いつもの執務室の前までたどり着くと、見覚えのある従僕が無言で出迎えた。にこりともせずに扉を開け、エリザベスに中へ入るよう促した。
 リチャードは一人ではなく、側近らしき数人と話しこんでいるところだった。エリザベスが入ってきたのに気がつくと、輪を離れて足早に歩いてきた。
「遅くにすまない」
「いいえ」
 短い言葉を交わし、二人は立ったたまま向きあった。エリザベスの後ろで従僕が扉を閉めた。
「悪い知らせだ。落ち着いて聞いてくれ。二人が屋敷からいなくなった」
 その言葉は、石のつぶてとなってエリザベスを撃ち抜いた。
 聞くまでは一刻も早く知りたいと思っていたが、聞いてしまった今は何も知らなかった数秒前に戻りたかった。
 二人がいなくなった。誰か、この重い石を取り除いてほしい。
 二人がいなくなった。二人がいなくなった。弟たちがいなくなった。
 エリザベスを現実に引き戻したのは、部屋にいた誰かの短い叫び声だった。
 我に返った時、エリザベスはリチャードに腕をつかまれて、支えられながらどうにか立っていた。
「大丈夫か」
 エリザベスはうなずいたが、声を出すことはできなかった。
 リチャードはエリザベスの腕を支えたまま、少しずつ歩かせて部屋の奥へ連れていった。誰かが運んできた椅子に座らされ、誰かが差し出した水を受け取るあいだ、エリザベスは一言も口をきくことができなかった。かわりに、聞きたくなかった言葉が頭の中で鳴り響いていた。
「大丈夫か?」
 リチャードが重ねて訊いた。部屋の中に何人いるのかはよくわからなかったが、その全員がエリザベスに気遣わしげな目を向けていた。
「すまない、落ち着いてくれ。きみに訊きたいことがあって呼んだ」
 エリザベスはうなずき、手にした水をひとくち飲み込んだ。
「知らせが来たのはつい先ほどだ。世話役の使用人が、寝室にいたはずの二人がいないことに気づいたらしい。眠るまでは確かにそこにいて、特に変わったことはなかったようだ」
 話を聞き始めると、漠然としていた恐怖が次第に現実味を帯びてきた。恐ろしいことに変わりはなかったが、聞きたくなかったという後悔よりも、詳しく知らなければという焦燥が勝った。
「今は屋敷の中をくまなく探させている。二人のことを知っていた全員に話を聞くつもりだ」
「わたしは、二人の居場所を誰にも伝えていません。母にもです」
「そんなことは訊いていない」
 リチャードはエリザベスの訴えを一蹴した。
「義姉上が何かを企てたとは考えられない。きみの言うとおり、二人を取り戻そうというならロンドン塔に手を伸ばすはずだ」
「では、いったい誰が」
「それを訊きたくてきみを呼んだ。最後に二人に会った時、何か変わったことはなかったか」
「変わったこと」
「どんな小さなことでもいい。二人が外の人間と接している様子はなかったか。どのようなことを話していたか、ゆっくりでいいから思い出してくれ」
 エリザベスは手もとに目を落とし、言われたとおりにしようとした。
 最後に会った時に話したのは、エドワード自身のことだけだ。屋敷から出ることのできない境遇を憂いながら、けれど外に出ていく日が来ることを恐れてもいた。このことはリチャードにもすでに打ち明けている。会いに行くたびに二人のまわりにいるのは決まった使用人ばかりで、見覚えのない人物を見かけたことは一度もない。まだ幼い弟たちが外にいる誰かと連絡をとっているとも考えられない。そんなことができていれば、下の弟はあれほど塞ぎこんでいないはずだ。
「何もなかったか?」
 リチャードが耐えかねたように言った。エリザベスからわずかな手がかりでも得ようとしているのが伝わってきた。
 エリザベスは力なく首を振った。
「本当に何もないのか」
「ございません。弟たちはきっと、自分から姿を消したのだと思います」
 エリザベスがかすれた声で言うと、部屋の中の空気が変わった。思わず顔を見合わせる者もいれば、何かを言いかけてやめる者もいた。
 エリザベスは彼らに見つめられながら、吐き気に似た後悔が突き上げてくるのを感じた。
 最後に会った時、もっと話を聞いてやれば良かった。気の利いた励ましの言葉でもかけてやれば良かった。
 弟たちの異変に気づき、この失踪を防ぐことができたのは、ロンドンじゅうでただ一人、エリザベスだけだったというのに!
「わかった。ありがとう」
 リチャードは場違いなほど冷静な声で、短く言った。囲んでいた側近たちとは逆に、彼はむしろエリザベスの言葉に力を得たようだった。
「屋敷の近辺を中心に探させよう。子ども二人で夜道を遠くまで歩けるとは思えない」
 主君の言葉を聞いて、側近たちは目を覚ましたように動き出した。エリザベスだけが座りこんでいる前で、リチャードもすでに立ち上がりかけていた。
「送らせるから戻って休んでいなさい。二人が見つかったらすぐに知らせる」
「待ってください」
 エリザベスは弾かれたように立ち上がった。おさまったと思った恐怖が再び湧きあがってきた。
「一人になるのは嫌です。わたしもここにいさせてください」
「しかし」
「部屋のすみに放っておいてくださるだけでいいのです。どうぞ、一人で出て行けとはおっしゃらないで。お願いです」
 寝室に戻っても、どうせ一睡もできないに決まっている。この恐怖を打ち明ける相手がいない場所で、一人で知らせを待ちながら眠るなどできるはずがない。
 ここにいて、リチャードや他の者たちが手を尽くしてくれているのを見ていれば、まだこの恐怖と闘うことができる。
「わかった」
 リチャードは長く迷ってはいなかった。エリザベスの手をとって再び座らせると、もう表情を切りかえていた。
「ここにいなさい。そのかわり、誰もきみに構っている暇はない」
「もちろんです」

 エリザベスはもう何年も、ここに座っているような気がした。
 リチャードの指示に従って側近たちが動き出すあいだ、エリザベスは最初に座った場所で両手を握りしめていた。体が石になってしまったかのように、少しも動かすことができなかった。まばたき一つせずに目の前の光景を眺めていたが、心の目では別のものを浮かべて見つめていた。
 弟たちが何者かに連れ去られたのではなく、自分からどこかへ身を隠したのだとしたら、リチャードの言ったとおりそう遠くへは行っていないだろう。まだ屋敷の中にいるということもじゅうぶんに考えられる。使用人たちが探し忘れていたところに隠れていて、ふと思い出したように姿を見せるのかもしれない。そして、大人たちをひどく心配させたことに気づいて謝るのかもしれない。
 だが、不用意に屋敷の外に出て、誰かに姿を見られていたらどうだろう。育ちの良い金髪の兄弟が二人だけで夜道を歩いていれば、否応なく人目を引くことはエリザベスでも想像できる。二人を見つける者が親切で口の堅い市民であるとは限らない。ましてや、ヨーク派であるという保証はどこにもない。
「レディ、大丈夫ですか。どなたかご婦人をお呼びしてきましょうか」
 頭上から優しげな声がかかった。顔を上げると、先ほどから部屋にいた廷臣の一人、ジェイムズ・ティレルがかたわらに立って見下ろしていた。
「お気遣いなさらないでください。わたしは大丈夫です」
 エリザベスは唇の端を上げて笑って見せた。エリザベスがここにいれば皆が気をつかい、捜索がかえってはかどらない。それはわかっていたが、一人で出て行くことだけはどうしても耐えられなかった。
 ティレル卿はまだ何か言おうとしたが、別の者に呼ばれてエリザベスから離れていった。
 何人かの側近が出入りし、短く言葉を交わしては散らばることが続いた。ティレル卿のようにエリザベスに目をとめ、声をかけようとする者もいたが、リチャードに見とがめられて任務に戻っていった。
 リチャードは戻ってくる側近たちの全員から報告を聞き、指示を与えてまた出て行かせた後は一人で何かを考えていた。同じ部屋にいるエリザベスには見向きもしなかった。
 まわりは同じ暗さのままだったので、どのくらいの時間が過ぎているのかわからなかった。そもそも、この部屋に呼ばれたのがいつだったのかもわからない。窓の外が一向に明るくならないところを見ると、それほどの時間は経っていないのだろう。
 出ていった側近の一人がまた戻ってきて、リチャードに何かを告げた。エリザベスがその光景を見つめていると、リチャードが立ち上がり、机から離れて歩み寄ってきた。
「屋敷の中にはいなかったそうだ」
 覚悟したとおりの言葉だった。
 捜索には思ったより時間がかかっている。弟たちがスタンリー家の別邸にいたことを知る者は限られており、そのわずかな人数であの広い屋敷や周囲を探しまわっているのだ。何も知らない者に悟られないよう探すのにも、かなりの労力を費やすだろう。そうしているあいだにも時間は進み、弟たちは遠ざかっていってしまうかもしれない。
「まだ時間がかかる。きみは一度もどって休んだほうがいい」
 リチャードが言い終わらないうちに、エリザベスは首を振った。
「一人で待っているのは嫌です」
 頑として動かない姪を見て、リチャードもそれ以上は言わなかった。
 エリザベスはすがるようにリチャードを見上げた。
「二人は見つかるのでしょうか」
「わからない」
 リチャードはいつもと同じように、そっけなく答えた。こういう時でさえ気休めを言ってくれない。
 永遠に明けないような夜を過ごすのも恐ろしいが、何の知らせもないまま夜明けを見るのはもっと怖い。このまま弟たちが見つからなければ、エリザベスは死ぬまで後悔することになるだろう。二人を救うことができなかった。母に会わせてやれなかった。屋敷から無理やり連れ出してでも、母のところに帰してやれば良かった。
「夜が明けても見つからなければ、ロンドンを封鎖して、二人が消えたことを公表する」
 エリザベスは思わず顔を上げた。リチャードは表情を変えず、次にするべきことを冷静に考えていた。
 二人の失踪を都じゅうに知らしめれば、彼らがロンドン塔から移されていたことも知られてしまう。王が甥たちの身柄を密かに移し、そのうえで逃げられたという事実を、臣民たちはどう受け止めるだろう。この騒動一つでヨーク家が負うことになる傷の深さははかり知れない。リチャードはそこまで読んだ上で判断しているのだ。
 これまでとは違う恐怖がこみ上げてきて、エリザベスは自分の腕を抱いた。
 リチャードが身をかがめてエリザベスの顔を覗きこんだ。
「大丈夫か?」
 すぐそばでその声を聞いた時、エリザベスは急に気がついた。この人も怖がっている。エリザベスと同じくらい、もしかしたらそれ以上に弟たちの身を案じ、エリザベスをなだめることで自分を落ち着けようとしている。
 リチャードが手を伸ばし、エリザベスの背をゆっくりさすった。恐怖が少しずつ引いていくのを感じた。
 エリザベスがうなずくと、リチャードは黙って離れていった。


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