テューダーの薔薇 [ 5−5 ]
テューダーの薔薇

第五章 僭称者 5
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「エリザベス」
 部屋に入ると、弟のエドワードがすぐに歩み寄ってきた。
「エドワード、元気にしていた?」
 抱擁をかわし、一歩下がってからエリザベスは弟の姿を見つめた。
「少し痩せたみたいだわ」
「前と変わらないよ」
「そう? 背が伸びたせいかしら」
 エドワードの成長には会うたびに驚かされるが、今日は背丈だけではなく顔つきも違って見えた。輪郭がほっそりと大人びてきたせいかもしれないが、やつれているように見えなくもなかった。
 送ってきてくれたラヴェル子爵はすでに別室に下がり、部屋には見覚えのある使用人しかいない。エリザベスは弟に手をとられ、いつもの席に向かった。
「食事はちゃんととっているの、エドワード?」
「食べているよ。心配しないで」
 一年以上も会うことができず、今も離れて暮らしている弟を心配しないでいられるわけがない。エリザベスはただ弟たちに会いに来ているわけではなく、母に彼らの様子を伝える使命も帯びているのだ。母への手紙に良くない知らせを書きたくない。
 下の弟のリチャードは椅子の上に身を投げ出して、姉を出迎えもせずに黙ってうつむいていた。エリザベスが近づいていくと、目線だけを上に向けた。
「リチャード、久しぶりね。元気だった?」
「ジョンが大陸に行ったってほんとう?」
 リチャードは姉の言葉は無視して、出し抜けに訊いた。
「ええ。カレーに行って総督としての仕事を学ぶのですって」
 エリザベスの答えを最後まで聞かずに、リチャードは立ち上がった。笑顔がないのはいつものことだが、今日はそれ以上に浮かない顔をしていた。姉と兄を押しのけるようにして走り去り、部屋の扉に手をかけた。
「どこへ行くの、リチャード」
 エリザベスの問いにも答えず、下の弟は扉の向こうに消えた。エリザベスは追いかけようとしたが、そばにいたエドワードに引きとめられた。そのあいだに使用人の女性が部屋を出て、リチャードを追いかける。
 部屋にはエリザベスとエドワード、年少の使用人だけが残され、重たい沈黙が流れた。
「どうしてしまったの?」
 エリザベスはつぶやいた。
 エドワードはすぐには答えず、姉を椅子に座らせた。先ほどまで下の弟が座っていた場所に。
「リチャードは、自分も大陸に行きたいんだと思う」
 エドワードが隣に腰を下ろした。
「大陸に?」
「いや。ここから出ることさえできれば、どこでもいいのかもしれない」
 エリザベスは下の弟が去っていった扉を見つめ、自分の浅慮を恥じた。
 弟たちはもう一年間もこの屋敷から出られず、限られた人間としか会えずにいるのだ。ジョンが大陸へ旅立ったという知らせはかなりの痛手だったに違いない。ずっと会いたがっていた仲の良い従兄が、自分に会いに来ることもなく遠くへ行ってしまったのだから。それも、自分には決して行くことのできない場所へ。
「かわいそうなことをしたわ」
「しかたがないよ」
 エドワードはすぐさま答えた。姉をなぐさめようとしているようで、どこか冷めたような声である。
 エリザベスは弟の顔を見つめ、少しの間をおいて尋ねた。
「あなたはどうなの、エドワード?」
「ぼくが何?」
「あなたも外に出たいでしょう? 会いたい人はいない?」
「母上やセシリーたちには会いたいよ」
 エドワードは冷めた声のまま、他人ごとのように言った。
「ロンドンの景色をまた見たいし、馬に乗って遠くにも行きたい」
「それなら――」
「でも、その後は? 外に出て、やりたかったことをやって、その後は何をするんだろう」
 エリザベスは口を閉ざした。それならもうすぐ叶うわ、と言いかけた声が深く沈んでいった。
 ヘンリー・テューダーがイングランドに引き渡されれば、弟たちは母のもとに帰ることができる。それを話してやれば弟はきっと喜ぶと思ったのに。
「お母さまと暮らしたいと思わないの、エドワード?」
「母上はいいんだ。ぼくとリチャードが戻ったら、喜んでくれることはわかってる」
「では――」
「エリザベス。ぼくは永遠に子どものままではないんだよ」
 エリザベスは弟の顔を見た。
 一年のあいだに驚くほど成長していたエドワードは、今も成長し続けている。会うたびに前より背が高くなり、肩が広くなり、口数が少なくなり、そのぶん目で語るようになっている。
 だからこそ、ここを出た後のことを考えてやらなければならない。エリザベスは姉としてそう思っていたのだ。
「ここを出て、母上や妹たちとまた暮らすことができたら、はじめはすごく幸せだと思う。でも、ぼくもリチャードもずっと子どものままではいられない。いつかは母上のもとを離れなければならないんだよ。その時が来たら、ぼくは何をすればいいんだろう」
「エドワード、それは」
 エリザベスはまた、言いかけた言葉を呑み込んだ。
 弟たちが成人した後のことは、おそらく王も考えてくれている。母が望めば相応の、あるいはそれ以上の地位も職務も与えてくれるはずだ。しかしエドワード自身にとって、それは屈辱でしかない。
「何を考えているのかわかるよ、ベス。ぼくがするべきことは陛下が決めてくださるんだろうね」
 エドワードは言った。姉の心中をすっかり見透かした言葉も、自分を嘲笑うような表情も、エリザベスが見たことのないものだった。
「それに従うべきなのはわかっているよ。ぼくたちは父のいない私生児だ。ベスもセシリーもそれを受け入れて王妃に仕えているし、セシリーは廷臣の一人と結婚までした。ぼくだけがいつまでも逃げ続けているなんて許されないんだ」
「エドワード」
「ぼくは命を奪われなかったことに感謝して、陛下が与えてくださるものを喜んで受け取らなければならないんだ。それが最初から自分のものであるはずだったとしても」
「エドワード、ごめんなさい」
 エリザベスは弟の顔を見ることができず、床に視線を落とした。部屋の中は沈黙で満たされた。
 姉たちが今の境遇を受け入れていることで、エドワードが何を感じているのかは知っていた。知っていてあえて隠そうとはしてこなかった。エドワードが言ったとおり、弟たちもいつかは折り合いをつけなければならない。過去にあったことにとらわれるより先へ進まなければならない。
 弟にそのことを伝えて、今いる暗い場所から救い出してやりたいのに、その方法がわからない。ただ、正論で説き伏せてはいけないということだけはセシリーの時に学んでいる。
 言葉が見つからないうちに、エドワードが立ち上がる気配がした。
「謝るのはぼくのほうだ。ごめん、ベス」
 エリザベスが顔を上げられずにいると、弟の気配がそばから遠ざかっていった。
「どこへ行くの」
「一人になりたい。今日はもう、話さないほうがいいと思う。本当にごめん」
 エリザベスはあせり、目でエドワードを追った。引き止める言葉が一つも浮かんでこなかった。
「リチャードを呼んでくるよ。ここから出られるあてがあるんだったら、あの子に話してあげて。あの子はぼくと違って純粋に外に出たがっているから」
 エドワードは姉が話そうとしていたことを見抜いていたらしい。それを喜びもせず、聞き出そうともせず、部屋から出ていこうとしていた。ほとんど音も立てずに扉が閉まった。
 弟を元気づけたくてここへ通っているのに。今、それをできる人間はエリザベスの他にいないというのに。今日も何一つできないまま、エドワードは姉のそばから去っていってしまった。



「弟たちをどうなさるおつもりですか?」
 リチャードの執務室に呼ばれた時、エリザベスは思いきって訊いた。いつものように母からの手紙のことを報告し、エリザベスの縁談についていくつか考えを述べあい、話題が尽きてきたころのことだった。部屋にはもちろん、いつも見ている従僕の他に人影はない。
 リチャードは顔を上げ、眉一つ動かさずに訊き返した。
「どう、とは?」
「母のところに帰ってからのことです。今は二人とも子どもですが、すぐに大きくなるのは明らかです。大人になったら弟たちはどうなるのでしょうか」
「本人と義姉上の希望にできるだけ沿いたいと思っている」
 予想どおりの答えが返ってきた。エリザベスの訊きかたではこう返されるのは無理もない。
 訊きたいのはそういうことではないのだ。エドワードの希望が叶えられるかどうかではなく、エドワードが何も望まなかった場合のことを知りたいのだ。エドワードが王位を継げなかったことを悔やみ、そのためにあなたのことを憎み、あなたから何かを受け取ることを嫌っているとしたら、あなたは、そしてエリザベスは、弟のために何をしてやればいいのかと。
 そういうことを訊きたくて口を開いたものの、まさかそのまま言葉にすることはできない。
「今度は何を思いつめている」
 リチャードはエリザベスを見たまま問いを重ねた。まるで、エリザベスが常に何か思いつめているかのような口ぶりである。
「思いつめているわけではございませんわ」
「今の答えでは解決には至らないのだろう。何を知りたいのか言ってくれないとこちらも答えられない」
 リチャードはそっけない物言いのわりに、人の話を聞く時の気は長い。エリザベスが本音を出し始めるまで待つ姿勢になっている。
 エリザベスは膝の上で手を重ね、背筋を伸ばした。どこまで正確に伝えることができるだろうか。
「エドワードは十二歳まで、王位を継ぐためだけに育てられてきました」
 リチャードがうなずくのを見てから、エリザベスは言葉を続けた。
「両親のもとを離れて教育を受けていたのも、すべて王位についた時のためでした。でも、あの子が王になることはもう永遠にないでしょう。そのエドワードが、この先の自分に対して望めることがあるのでしょうか」
「考える時間はいくらでもある」
「エドワードはもう子どもではありません。この一年であらゆることがよく見えるようになりましたし、あと数年あれば戦場にも立てるようになります」
 リチャードが怪訝そうな顔を見せたのも無理はない。話をしているエリザベスでさえ、自分の言っていることがよくわからないのだから。今の言いかたでは、エドワードはいずれ王位を取り戻すために戦おうとするだろうから、早めに手を打っておいてほしいと頼んでいるようなものだ。
 早く言い正さなければと思うものの、どう続ければいいのかがわからない。言葉を選びすぎるあまり、自分が何を言いたかったのかを忘れかけている。
 リチャードは部屋の中に落ちた沈黙にもかまわず、エリザベスの話を続きを待っていた。エリザベスが詰まっていることに気がついたのか、しばらくしてから口を開いた。
「エドワードは王位を継げなかったことでわたしを憎んでいて、この先わたしが何を与えようとしても受け取らないかもしれない。そういうことか」
 エリザベスは短く迷ってから、うなずいた。言い当てられてしまった以上は否定してもしかたがない。
「あの子はわたしやセシリーと違って、この一年間ほとんど誰にも会わずにいるのです。まだ子どもですから、政治むきのこともよくわかっていません。だから王位を奪われた時から先へ進むことができないのです」
「きみが弁解することはない」
「わたしから、エドワードに話してやろうと思うのですけれど」
「何を」
「陛下が聞かせてくださったことです。一年前にイングランドで何が起きていたのか」
「それを話せば、エドワードは納得して先へ進めるのか」
「わたしはそう思っていますわ」
「やめなさい」
 間髪を入れずに止められ、エリザベスは唖然とした。
「なぜですか。わたしにはお話しくださったのに」
「きみが聞きたいと言ったからだ。エドワードも何があったのか知りたいと言っているのか」
「いいえ。でも、聞かせてやればあの子も変わることができると思います。わたしにそうできたように」
「宮廷に戻ってきてすぐ同じ話を聞いたとしても、きみは同じように変わることができたと思うか」
 エリザベスは言い返せなかった。
 宮廷に戻ってきてすぐ、つまり聖域から出てすぐのころ、エリザベスは一年前に起こったことを知りたいなどとは思わなかった。すでに何もかもを知っていると思ったからだ。自分の知っていることだけがすべてだと思い込み、自分からあらゆるものを奪ったこの人のことを憎んだ。そうすることが正しいのだと信じていた。
 そんな時、誰かから一年前にあったことを聞かされ、あれは仕方がなかったのだと諭されたとしたら。
 エリザベスがエドワードにしようとしているのは、そういうことなのだ。
「きみは人のことを先まわりして心配しすぎる。本人に任せるということを覚えるべきだ。エドワードのことはエドワードにしかわからないのだから」
「では、わたしが弟にしてやれることは何もないのですか」
 リチャードは少し黙り、考えてから言った。
「間を空けずに会いに行って、きみの元気な姿を見せて、エドワードが話したがることだけを聞いてやりなさい」
「それだけ?」
「それだけのことをできる人間はきみの他に誰もいない。できないことをしようとして途中で折れるよりも、できることを最後までやり遂げるべきだ。あとはエドワード自身に任せるしかない」
「放っておけということですか」
「そうだ」
「弟のことが心配でたまらないのに、救ってやる方法を考えることすらできないのですか」
「自分一人で誰かを救えるなどと考えるのは傲慢だ。エリザベス」
 胸に重いものを、それも一つではなく、いくつも投げ込まれたような気がした。
 エリザベスは姉として弟を行く末を案じているだけなのに。弟を救うために何かしてやりたい、そう思うことが傲慢だというのか。
 言い返そうとして、同時に別の感情がこみ上げてくる。エリザベスに誰かを救えたことがこれまで一度でもあっただろうか。王位奪還にとりつかれた母を、身分を取り上げられて泣いていた妹を、一人息子を亡くして臥せっていた王妃を、本当の意味で救ったのはエリザベスだっただろうか。特に、母のことはエリザベスの頭のほとんどを占めているにもかかわらず、いまだに何かをしてやれたためしがない。
 そもそも、自分では母を救えないと思ったからこそ、エリザベスはこの人に助けを求めたのではなかったか。
「きみが心配しなくても、エドワードは自分を救う方法を見つけるだろう。弟を信じてやりなさい」
 リチャードは言い過ぎたと思ったのか、エリザベスの目を見てゆっくりした口調で言った。
「陛下はどうなのですか」
 エリザベスは黙ろうと思ったが、一瞬の差で口が先に動いてしまった。言い負かされたくないという子どもじみた反発と、話を聞いているうちに浮かんできたある疑問が、エリザベスを黙らせなかった。
「エドワードの誤解をとかずに放っておくのは、自分を恨むことでエドワードの気が休まるとお思いだからでしょう。そのように、真実を包み隠すことで誰かを救えると考えるのは、傲慢とは、違うのですか」
 さすがに口が過ぎただろうかと思い、最後のほうで言葉がつかえてしまった。しかし、口に出したことでより自分の疑問がはっきりした。
 リチャードは姪たちに恨まれていることに気づいていたはずなのに、王位についたことについて謝罪も弁解もしなかった。エリザベスに請われて一年前のことを話すまで、自分のためだけに甥の地位を奪ったと思われる不名誉に甘んじてきた。そして今、事情を知ったエリザベスが弟にそれを話そうとするとやめろと言う。自分が憎まれ役になることで、甥姪たちの気が晴れると思っているのだ。思いやりに満ちた犠牲にも見えるが、エリザベスに言った傲慢と何が違うのか。
 リチャードは怒っていなかった。エリザベスの目を見たまま、思いもよらないことを言った。
「エドワードはわたしを憎んでいるわけではないと思う」
 予想外の言葉を返され、エリザベスは飛びつくように訊いた。
「なぜおわかりになるのですか」
「わかるわけではない。憶測だ」
「憶測でも、なぜそのように思われるのですか。最近のエドワードにお会いになったのですか」
「会っていない。だから完全に憶測だ。何かを憎んでいないと自分を支えられない時、本当にそれを憎んでいるのか否かはさして重要ではない」
 エリザベスは無言でリチャードの顔を見つめた。そして、ゆっくりと気がついた。
 この人も、何かを憎むことで――憎んでいると思いこむことで――自分を支えていた時があったのだ。
「最初の話に戻るが、きみの弟たちの将来のことは、本人の希望にできるだけ応えたいと思っている。イングランドにいることを嫌うなら、異国で学ぶことを考えてもいい」
「異国?」
「エドワード四世の遺児を受け入れる国はいくらでもある。わたしはフランドルが最良だと思っているが」
「マーガレット叔母さまのところですか?」
 エリザベスは思わず笑顔になった。
 マーガレットは父の下の妹で、姉妹の中でただ一人、異国の君主と結婚した。嫁ぎ先のブルゴーニュ公家が治めるフランドルは、十四年前の内乱の際、王位を追われた父が亡命した土地である。ブルゴーニュ公が父を受け入れてくれたのも、復位に向けて援助してくれたのも、マーガレットの進言があってのことだと聞いている。異国の宮廷に嫁ぐことになっているエリザベスにとって、マーガレットは手本とするべき憧れの叔母である。
 エドワードがイングランドを離れると思うと寂しいが、マーガレットのもとへ行くのだと思えば心配はいらない。
「まだ決まったわけではない。エドワードが望めばそうするというだけだ」
 すっかりその気になっているエリザベスをたしなめるように、リチャードが付け加えた。
「つまり、イングランドをいったん出ることも含めて、できるだけ多くのものの中から望みのものを選ばせてやりたい。エドワードはまだ若いし、きみの言うとおり日に日に成長している。彼の将来をここで潰すつもりはない」
「ずいぶん目をかけてくださっているのですね」
「きみの弟は、わたしの兄の嫡男だった」
 リチャードはめずらしく饒舌になったあと、短い理由を述べた。兄の嫡男だったというその一言で、すべての説明がつくとでも言うように。
 エリザベスはその顔を見つめながら、ふと思った。
 ラヴェル子爵が話していたように、リチャードはエリザベスのこともかわいがってくれている。しかし、この人が誰よりもかわいいと思っているのは、エリザベスでもセシリーでも、王位継承者に据えようとした他のどの甥でもなく、みずから廃位に追い込んだ兄の嫡男なのだ。


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