テューダーの薔薇 [ 5−4 ]
テューダーの薔薇

第五章 僭称者 4
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 ジョンの居所を訪れるのははじめてだった。そこは王妃の病室からも、エリザベスたちが王女時代から暮らしている部屋からも離れており、この宮殿で育ったエリザベスも訪れたことのない場所だった。
 部屋は広くはなかったが清潔で明るく、旅立ちを控えているせいか多くの人間が出入りしている。その中心にいたジョンはエリザベスの来訪に気がつくと、すぐに笑顔になって駆け寄ってきた。
「レディ・エリザベス。いらしてくださってありがとうございます」
「お忙しそうね、ジョン」
「騒がしくてすみません。こちらへ」
 エリザベスは従弟に導かれて、窓に近い明るい場所に座った。慌ただしく働いていた人々が去っていき、一人の従僕とエリザベスが連れてきた侍女だけが残った。
「カレーにいらっしゃるのですってね。おめでとう」
「ありがとうございます」
「出発は今月中?」
「はい。その前に姉のところと、ベイナード城の王母さまのところに寄っていくつもりです」
「寂しくなるわ。でも、あなたなら総督として立派にやっていけるわね」
「まだ、これから学ばなければならないことばかりです。弟があんなことになって、何も手につかない時もありましたから」
 ジョンが一心に目指していたのは、異母弟の良き補佐役になることだった。王太子がこれほど早く世を去ってしまわなければ、ジョンの願いは叶っていたはずだ。
「正直に言うと、まだどうしていいかわからないこともあります」
 ジョンは続けた。
「でも、イングランドのために働きたいという気持ちは変わりません。カレーでも自分のやるべきことをやるために努力するつもりです」
「素晴らしいわ、ジョン。陛下もあなたのことを誇りに思っていらっしゃるはずよ」
 ジョンはにこりと笑った。
 こうして見てみると、ジョンはリチャードにはあまり似ていない。顔だちもそうだが、生き生きとよく動く目や人好きのする笑顔は、父王から受け継いだものではないようである。
「レディ・セシリーにもご挨拶したかったです。お元気でいらっしゃいますか」
「手紙によると幸せにしているそうよ。セシリーもあなたに会いたかったと思うわ」
「よろしく伝えてください。次に帰ってきた時にお会いできるのが楽しみです」
 ジョンはそこで言葉を切ると、しばらく黙り込んだ。まだ何か言うのかエリザベスが測りかねているうちに、ジョンは前かがみになって小声でささやいた。
「父から、弟君たちのことを聞きました」
 エリザベスは小さく目を見開いた。
「もうお会いできたそうですね。お元気でしたか」
「元気だったわ。あなたにとても会いたがっていた。またあなたと一緒に遊びたいって、そればかり言っていたわ」
「ぼくも会いたいです。そう伝えてくださいますか」
「もちろんよ」
 エリザベスは心から言い、思わず従弟の手を取った。
「ありがとう、ジョン。あなたは最初から弟たちのことを気にかけてくれていたわね。無事に会えたことを知らせもしないでごめんなさい」
「いいえ」
 ジョンは首を横に振り、エリザベスの手を軽く握り返した。
「お礼を言わなければならないのは、ぼくのほうです」
「え?」
「あの時――弟が亡くなった時、ぼくは、自分はここを出ていくべきではないかと思っていました。ぼくがいるせいで、父や義母が苦しむのがわかっていましたから」
「そんな、ジョン」
 エリザベスは否定したが、ジョンの言うとおりだと知っていた。
 王太子は幼くして亡くなったのに、王位を継げない異母兄は生きている。この事実を何の感情も交えずに見ることのできた人間が、あの時の宮廷に一人でもいただろうか。好意のある者は憐れみを、悪意のある者は嘲りを、この少年の上に注いでいた。ジョンはそのすべてをただ一人で引き受けていたのだ。自分のせいで王妃が責められていることも知っていたに違いない。
「父と親しくしてくれている人ほど、ぼくの顔を見たがらないことも知っていました。だからあの時は誰にも会いたくなかった。そんな時にあなたと妹君が招いてくださって、弟の話を聞いてくれて、かわりに楽しい話も聞かせてくれました。本当に嬉しかったです。ありがとうございました」
 エリザベスは従弟の顔を見つめた。王妃の居所から帰る途中、この少年を誘ったことを思い出す。エリザベスはジョンがいま言ったようなことを考えて、同情から彼と親しくしたいと思ったのだった。
 そして、今はじめてその理由に気がついた。
「わたしも同じだったのよ、ジョン。だからあなたに声をかけたのだと思うわ」
 エリザベスの言葉にジョンが首をかしげる。
「わたしの弟が生まれる前のことよ。あの時は父の王位がまだ不安定なものだったから、誰もが早く王太子をほしがっていたの。王女ばかりが三人も生まれるなんて、とはっきり口に出す人もいたわ。父も母もわたしや妹たちをかわいがってくれたけれど、嫡男が生まれなくて焦っていたことにもわたしは気づいていたの。自分が男の子だったら良かったのにって思ったわ」
 ジョンがエリザベスの目を見つめ返す。
 手と手をとりあったまま、エリザベスと従弟はしばらく何も言わなかった。けれど、同じことを考えているのだとエリザベスは知っていた。
「本当に寂しくなるわ、ジョン」
「ぼくもです」
 ジョンはうなずき、それから笑顔になった。
「でも、カレーの地でがんばってきます。レディ・エリザベスもどうかお元気で」
「ありがとう。帰っていらした時はまたお話しましょうね」
 エリザベスは、イングランドを去ろうとしている従弟のために、心からの笑顔を浮かべた。
 セシリーは結婚し、ジョンも大陸へ旅立っていく。エリザベスも将来を見据えて、一歩ずつ先へ進まなければならない。



 夜会や園遊会、馬上槍試合などの行事が開かれるたびに、エリザベスはたくさんの青年たちに囲まれている。いつもは彼らをあしらうのに手間どるところだが、今日は違っていた。白昼の庭園に人々が集まり、音楽と舞踏が披露される中、護衛役のようにエリザベスに寄り添って離れない人物がいるのである。
「人気者も楽ではありませんね」
 遠くからエリザベスを見つめる青年たちを横目に、ラヴェル子爵は面白そうに笑った。子爵がいてくれるおかげで、彼らはエリザベスに近づくこともできない。王の姪と腹心の側近が一緒にいるので、視線はいつもより多く集まってくる。しかし、話しかけてくるのは子爵よりも身分の高い貴族だけだ。
「もったいないお話ですわ。わたしは三つ年下の妹に先を越された嫁き遅れですのに」
「そんなことはないでしょう」
 子爵が苦笑した。
「皆が噂していますよ。陛下が妹君のほうを先に嫁がせたのは、あなたにはよほどの相手と縁組みできる見込みがあるからだろうと」
「あら」
 エリザベスはわざとらしく笑った。
 わざとらしいのは子爵も同じだ。彼はもちろん、自分の言ったことが噂にとどまらない事実であることも知っている。その上でエリザベスに悪い虫がつかないようにこうして付き添ってくれているのだ。
 その証拠に、子爵はこんなことを言った。未練がましい崇拝者たちに憐れみのこもった視線を送りながら。
「陛下もお人が悪いですね。あなたをイングランド貴族に与えるつもりがないなら、早めにそう教えてやればいいものを」
「まだ正式に決まったわけではありませんもの」
「そう遠くないうちに決まるでしょう。あなたをそれもお望みなのですね」
「もちろん。わたしはイングランドの良き外交官になりますわ」
 それがエリザベスの父の望んでいたことだった。リチャードにそう言われた時から、エリザベスの心はもう決まっている。
 エリザベスは上座を目にやり、今日も公に顔を見せているリチャードを見た。見慣れない異国の使者と話し込んでいる。今日の集まりはあの使者のために開かれたものである。
「陛下はあなたのことがかわいいのでしょうね」
 隣でそんなことを言われ、エリザベスは子爵の顔を見た。
「かわいい?」
「かわいいでしょう。敬愛していた兄上のご息女でいらっしゃるのですから」
 エリザベスは思わず考え込んだ。良くしてもらっているとは思うが、果たしてかわいがられているのだろうか。というよりも、あの人が誰かをかわいがっているところが想像できない。
 しかし、他人の目にそう映っているのならそれに越したことはない。エドワード五世の姉が国王夫妻にかわいがられているところを見せるのは、ヨークの王朝にとって決して悪いことではないはずだ。
 音楽がいったんやみ、踊っていた人々が列を組み直している。子爵はそれを見ると、エリザベスの前に出て頭を下げた。エリザベスもその意味を悟り、腰をかがめて手を差し出そうとした。だが同時に従僕が二人に歩み寄ってきて、子爵に何か耳打ちする。子爵は苦笑して姿勢を正し、エリザベスの隣に立った。
「陛下があなたをお呼びのようです。お連れしてよろしいですか」
「わかりましたわ」
「あなたとわたしが踊ろうとすると、どうしていつも邪魔が入るのでしょうね」
 エリザベスは子爵につられて笑った。笑いあいながらまた腕を組み、二人して上座へ歩いていく。
 リチャードは先ほどと同じ外国人とまだ話をしていた。エリザベスと子爵に気がつくと話を中断し、エリザベスを近くに呼び寄せた。
「これが、エドワード王の長女です」
 エリザベスではなく、異国の使者に向かって言う。
 エリザベスは背筋を伸ばし、はじめて会う使者と向きあった。いま着ているのも王妃から贈られたもので、フランドル製のレースをあしらった清楚な昼のドレスである。美貌の母ゆずりと言われる笑みを浮かべ、優雅に礼の姿勢をとってみせる。イングランド王の自慢の姪の姿を異国の使者の目に焼きつけるように。
「エリザベス・プランタジネットですわ。お見知りおきを」
 プランタジネットは王家の姓である。先々代の王の庶子とはいえ、この姓を名乗ることを許されているのだと強調する。
「レディ・エリザベス、お噂はかねがね……いや、しかし、これほどお美しい方だとは」
 使者は言葉につまり、本気でエリザベスに見とれていた。狙いどおりの良い反応である。
「お褒めにあずかって光栄ですわ。お美しい女王陛下を見慣れていらっしゃるお目には、わたくしなど鄙びた田舎娘のようなものでしょうに」
 たたみかけるように言うと、使者のみならず近くにいた全員がエリザベスに注目した。言っていることは謙虚なようだが、使った言葉はラテン語である。ヨーロッパ各国の宮廷における国際語だが、誰もが完璧に使いこなせるわけではない。
「あなたのような貴婦人がいらしたとは……以前イングランドに来た時は、確かウエストミンスター寺院に……」
 使者は途中まで言いかけて、慌てて口をつぐんだ。リチャードの前で、エリザベスの母との確執を話題にするのは賢くないと気づいたようだ。
「おっしゃるとおりですわ。わたくしは敬虔な母のおかげで、一生に一度しかない十七歳の日々を寺院で過ごすはめになりました」
 エリザベスは話を笑いに変え、使者の失言を取り繕ってやった。
「今はその一年間のぶんまで踊り明かしたいと思っておりますの。それなのに、あなたは何もおっしゃってくださらないのですね」
「ああ、これは失礼を」
 使者は流れが変わったことに安心して、今度はリチャードに向きなおった。
「陛下、ご姪御をダンスにお誘いしてよろしいですか」
「ぜひ」
「では、レディ・エリザベス」
 使者が手を差し出し、エリザベスを促す。
 晴天の下、エリザベスはたくさんの観衆の目に見つめられながら、異国の使者と軽やかな舞踏を披露した。

 三曲めが終わると、エリザベスは相手を他の女性に譲って、リチャードのいる上座に駆けもどった。側近たちの拍手に迎えられながら、どうだと言わんばかりに首を傾げてみせる。
「はりきりすぎだ。別にきみをあの国に嫁がせることに決まったわけではない」
「でも、顔を売っておくに越したことはないでしょう?」
 異国の使者はなかなかの踊り手だった。エリザベスは彼の複雑な動きに負けずについていき、一度も失敗せず、笑顔も絶やさなかった。相手は楽しんでいたし、二人の舞踏はこの場の誰よりも人目を引いていた。
 エリザベスがただの女官ではなく、王族の花嫁にふさわしい娘なのだ、と印象づけておくのにはこういった場がいちばんである。ヨーロッパのすべての国の使者に美貌と教養を見せつけてやるつもりだ。
「今日は王妃さまもいらっしゃると聞いていたのですけれど」
 エリザベスは話題を変えた。リチャードの隣の席は、今までほとんどそうだったように空いている。
「具合が良くなかったので休ませた。後で顔を見せてやってくれ」
「わかりました。今日のことを聞いていただかなくては」
「アンもきみの話を聞くのをいつも楽しみにしている」
「お役に立てて嬉しいですわ」
 エリザベスはにっこり笑った。
 ジョンが大陸に旅立ってしまって、アンは目に見えて寂しがっている。エリザベスが会いに行くと今までにも増して喜び、さまざまな話を聞きたがる。アンは子どもが好きなようだから、下の妹たちを呼んでやればもっと喜ぶかもしれない。アンを元気づけることができれば、それだけリチャードの役に立てることになる。
 ふと視線を感じて、エリザベスは顔を上げた。視線をめぐらせてみると、かなり離れたところにいる一団が上座を見ているのに気がついた。名前と身分は知っているが言葉を交わしたことはない、イングランドの地方貴族だった。エリザベスが顔を向けたことに気づいて目をそらしたが、それまでは明らかにこの席を見つめていた。
 王の様子をうかがっていたのかと思ったが、たぶん違う。彼らが見ていたのはエリザベスだ。敬意も賞賛も交えない、美しい異国の獣でも見るような目で、彼らはエリザベスを眺めていたのだった。


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