テューダーの薔薇 [ 5−3 ]
テューダーの薔薇

第五章 僭称者 3
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「義姉上から手紙は来たか?」
 リチャードが大きな布の包みを解きながら、エリザベスに訊いた。
「参りました。ブルターニュにいる兄に、すぐに帰国を勧めてみるそうです」
「そうか」
 リチャードは短く答えた。エリザベスの返事に喜んでいるのかどうか、よくわからない声である。エリザベスの母をまだ信用していないのかもしれないし、兄が帰ってくることを手放しでは喜べないのかもしれない。どちらにしても、この人の考えていることはエリザベスにはわからない。
 一見してわかるのは、彼の視線が机の上にある大きな包みに注がれているということだ。定期的に呼ばれて母のことを報告するようになってから、リチャードがエリザベスと話しながら他の何かをしていることは珍しくない。羊皮紙をめくっていることもあれば、地図を広げて何か書きつけていることもある。しかし、今日はそのどちらでもないようだった。
 かぶせてあった布をめくると、現れたのは一冊の書物だった。厚みはなく、装丁もさほど凝っていない。表紙には何の文字も飾りも見えないので、中に何が書かれているのかもわからない。
「見たいのなら近くに来なさい」
 リチャードが顔も上げずに言い、エリザベスはたじろいだ。目を離せずにいたのが伝わっていたらしい。
「よろしいのですか」
「構わない」
 エリザベスはためらいながら進んだ。机を挟んで、リチャードと一冊の本をのぞき込むかたちになる。
 リチャードがエリザベスに見せるように、本の表紙を開いた。現れた文字の列を見て、エリザベスは目をみはった。
「印刷されたものですね」
「そうだ」
 大陸で生まれた印刷技術は、ドイツやフランドルの商人を通じてイングランドに渡ってきた。エリザベスの父エドワード四世の在世中、イングランド人による最初の印刷会社が設立され、現在もロンドンで営業を続けている。
「数日前に印刷所を視察した時に刷っていたものだ。素晴らしい技術だと褒めたら完成品を届けてくれた」
 リチャードは本の両側に手を置き、印刷された文字の一つ一つに見入っている。表情には出ていないが、この献上品を喜んでいるのがよくわかる。
「わたしも印刷所には行ったことがあります。父が連れていってくれました」
「そうか」
「また行きたいわ。今度いらっしゃる時は連れていってくださる?」
「だめだ」
 すげない言葉が返ってきて、エリザベスはむっとした。
「きみを連れていくとどこも大騒ぎになるだろう。護衛の数も増やさなければならないし、印刷所にも迷惑をかける」
 そういえばそうだった。一度だけこの人と一緒に街に出た時、市民たちが押し寄せてきて混乱を起こしたのだ。エリザベスはそれ以来、宮殿の外で人の多いところには出ていない。
 リチャードは話を切り替えるように、見入っていた本の表紙を閉じた。
「それで、義姉上の手紙には他に何とあった?」
「弟たちのことを書いてやったので、とても喜んでおりました」
 エリザベスは机から離れ、近くにあった椅子に腰を下ろした。ここに来た回数もずいぶんと増えたので、従僕の指示を待たずに自由に振る舞うようになっている。リチャードもまったく気にとめない様子で、エリザベスの好きにさせてくれていた。部屋にいる数人の従僕たちにもエリザベスの存在はすっかりなじんだようで、気遣いはそのままにもの慣れた雰囲気で迎えてくれるようになった。
「兄の帰国のためにも、わたしの婚約を解消したいとも書いてみたのですけれど」
 エリザベスとヘンリーの婚約を積極的に推したのは兄である。兄がイングランドに戻るためにもヘンリーとの縁は断っておきたい。
「義姉上の返事は」
「返事はございませんでした。兄に帰国を勧めるとありましたが、わたしの婚約のことにはいっさい触れておりませんでした」
 母はすでにセシリーの結婚を許した。娘たちが義弟の庇護下で生きていくことを受け入れつつあるようである。それならば、エリザベスがヘンリーとの婚約を解消することも許してくれても良さそうだ。
 兄をイングランドに帰国させさえすれば、エリザベスの婚約は自然に切れるものと思ってもいいのだろうか。
 しかし、母の言動には不可解なところが残る。セシリーの結婚を許しながら、式には顔を見せなかった。弟たちに会えたと知らせたら喜んでくれたが、早く二人を帰すようにと急かすのはあいかわらずである。兄の帰国はさっそく勧めると言いながら、エリザベスの婚約を切るとは言ってくれない。リチャードと和解する気があるのか、ないのか、エリザベスにも判断がつきかねる。
「もしかすると母は、エドワードを王位につけることをあきらめていないのかも知れません」
 エリザベスは言った。以前ならこの人にはとうてい言えなかったことだが、今ではこの人にこそ打ち明けておきたいと思っている。
「きみの兄上を帰国させ、弟たちを返すと言っても?」
「子どもたちと一緒に暮らすことだけで母が満足するとは思えません。聖域にいた一年間、母の頭には王位のことしかありませんでした。――子どもの命よりもそのほうが大切なのかと思うほど」
「自分の母親をそのように言うものではない」
 たしなめるような声が返ってきて、エリザベスは思わず相手の目を見た。この人から母を庇う言葉を聞くとは思わなかった。
「きみの婚約のことだが」
 リチャードはエリザベスが考えていることに構わずに、話を先に続けた。
「セシリーの結婚の許しを得る際に、きみのことも義姉上に訊いてみた。きみの嫁ぎ先もそろそろ定めたいが、先の婚約は消えたものと思っていいだろうかと」
「母はなんと?」
「返事はいただけなかった。セシリーのことを許す言葉だけで、きみの件は無視されたようだ」
 エリザベスの手紙に対する返事と同じだ。婚約を反故にしてもいいとも、いけないとも言ってくれない。
 答えがないということは、許されたと思ってもいいのだろうか。兄の帰国はあっさり許したのだから、母はすでにヘンリー・テューダーを見限っているようにも思える。しかし、それならそうとはっきり言ってくれても良さそうなものだ。セシリーの結婚には賛成の意を示したのに、エリザベスに関してはそうではないということは、母はエリザベスがヘンリーに嫁ぐ可能性を残しておきたいのだろうか。エドワードを再び王位につけるための援助を得るために。
「これは憶測だが」
 リチャードの声が、エリザベスの思案を遮った。
「義姉上は、エドワードを王にしたいのではなく、きみを王妃にしたいのではないのか」
「王妃に――わたしを?」
 エリザベスは目をしばたたかせた。
 考えたこともないことだった。母が望んでいるのは、あくまで弟のエドワードを王位につけることであるはずだ。ランカスター派と手を結んだのは反乱のための助力が欲しかったからで、エリザベスをヘンリーと婚約させたのはそのための手段に過ぎなかった。母もエリザベスも、ランカスター家の傍流であるヘンリーが本当に王になれるとは思っていない。最初にこの縁談を持ちかけてきたのはヘンリーの母マーガレットだが、条件はエドワードが復位後に義兄ヘンリーを後継者にすることだった。
「母は、ヘンリーが王になれるとは本気で考えていないと思います。婚約に同意したのは、あくまで味方を増やすためでしたもの」
「ヘンリーはそう思っていないようだが」
「ええ。反乱後にヘンリーが王位を宣言した時は驚きました。でも、母がエドワードではなくヘンリーを王位につけたがるとは思えません。娘のわたしが王妃になれるのだとしても」
 話しながら、エリザベスの頭にはまったく反対の考えが浮かび上がってきた。
 エドワードが王になるかわりに、エリザベスが王妃になる。かつて母のものだった地位が娘のものになる。母がその話に魅力を感じることがないと言い切れるだろうか。
 エリザベスの逡巡とは逆に、リチャードは素直にうなずいた。本当にただの憶測の一つだったらしい。
「いずれにしても、ヘンリーを拘束できれば義姉上の野心は潰える。きみもそれでいいのだろう」
「ええ。ブルターニュ公は引き渡しの要請に応じてくれそうですか」
「まだわからない」
 リチャードは短く答えた。気休めでも大丈夫だと言ってくれればいいのに、事実をそのままにしか言わないところがこの人らしい。
「うまくいったとしても、すべてに片がつくまでは時間がかかる。きみの嫁ぎ先を決めるのもその後になるがそれでもいいか」
「構いませんけれど、待たなくてもいいようにも思います。セシリーの時のようにお相手を決めていただいてから許しを乞えば、母も賛成してくれるのではないかと思いますの」
「セシリーの婚約を義姉上に伝えたのは、本人と婚家の意志を確かめた後だ。まだ公にはしていなかった」
「ですから、公にしてから母に知らせればよろしいのでは? 宮廷のみなさまに祝福していただいた後でしたら、さすがの母も異を唱えることはできませんわ」
 宮廷で婚約を発表し、敵味方を問わずあらゆる有力者から周知してもらう。そうなればもう結婚したも同然である。
 リチャードは感情のない目をエリザベスに向けていた。同じことを考えたことがないわけではないのだろうが、エリザベス自身の口からそれを聞くとは思わなかったのだろう。ぬけぬけとこんな策を口にする小娘に呆れているのかも知れない。
「きみはそんなことを考えなくてもいい」
「でも、いい考えだとお思いになりませんか?」
「義姉上を説得するのはわたしの役目だ。きみが自分の母親を出し抜くような真似をすることはない」
 エリザベスは思わず黙った。父がなぜこの人をあれほど信頼していたか、今の一瞬で理解できた気がした。
 華やかな美丈夫だった兄王に比べて、弟のほうは陰気で面白味がないという人たちには、この人のこういうところが見えていない。
「すべてが落ち着くまでまだ時間はある。その間にきみの相手はゆっくり選べばいい」
「選べるほど候補があるかしら」
「あるだろう」
 リチャードが即答したので、エリザベスは思わず頬をゆるめた。十八にもなって未婚のままでいるとは思わなかったが、こうして一から結婚相手を選ぶのも悪くない。
「ためしに競りに出てみましょうか。わたしはきっと良い値がつきますわ」
「そういう言い方をするものではない」
 予想どおりの答えが返ってきて、エリザベスはさらに笑みそうになった。そうやってすぐ眉間に皺を寄せるからますます老けるのだと言ってやりたい。
 良い値がつくかは別として、エリザベスが引く手あまたであることは間違いない。特にセシリーが結婚してからというもの、独り身の貴族たちが目の色を変えて群がってくる。夜会でダンスの申し込みにかこつけて、あからさまに口説こうとしてきた者もいる。レイフ・スクループに続いて王の義理の甥になりたくて必死なのである。
「確かに、きみをもらい受けたいという家は少なくない」
「光栄ですわ」
「だが彼らの望みを聞き入れるつもりはない。きみにはイングランドの貴族ではなく、異国の王家に嫁いでほしいと思っている」
 エリザベスは目を見開いた。顔から笑みが抜けていくのがよくわかった。
「異国――というと」
「どこと決まったわけではない。慎重に選ぶつもりでいる」
「王女ではないわたしを受け入れてくださる国があるのでしょうか」
「条件を合わせれば見つからないことはないだろう。きみはその心配はしなくていい」
 エリザベスは椅子の上でいずまいを正した。考えたことのない話ではなかったが、いざ具体的な話を持ち出されると緊張してしまう。
「きみをフランス王妃にすることが、エドワードの望みだった」
 リチャードは続けた。声も表情も変わっていないが、父のことを口にする時は間の取りかたがゆったりしている。
「王妃は無理だろうが、王位継承者と結婚してそれに近い身分になってほしい。エドワードもそれを望んでいるはずだ」
「だから、わたしを異国にと」
「イングランドを離れることになっても平気か。母上やきょうだいたちと別れることになってしまうが」
「あら。構いませんわ」
 エリザベスの中に、父が生きていた時のことがよみがえってきた。イングランド王の娘であり、フランス王太子の婚約者だった時のことが。異国の宮廷でイングランドのために働くことこそ、父がエリザベスに望んでいたことだった。
「王家の娘として育ちましたもの。国のために海をわたる覚悟はできておりますわ」
 リチャードはエリザベスの言葉にうなずき、それきり何も言わなかった。話はついたということである。
 ラテン語とフランス語を一から学び直さなければならない。それから、各国の政治情勢と、芸術の教養。次の夜会からは手当たり次第に誘いを受けたりせず、踊る相手を慎重に選んで、自分の価値を高く見せなければ。ドレスは王妃から贈られたものしか着ないことにしよう。
「良いお話をありがとうございます、陛下。フランドルにいらっしゃるマーガレット叔母さまのように、異国にいてもイングランドの力になるとお約束しますわ」
「まだ先のことだから気負わなくていい。それより、きみにもう一つ頼みたいことがある」
「なんですの」
 すぐにも立ち上がろうとしていたエリザベスは、椅子の上で自分を落ち着けた。今なら何を頼まれても引き受けていい気がする。
「ジョンが近いうちに大陸のカレーに行くことになった」
 急にがらりと話題が変わり、エリザベスは目を丸くする。
 フランス西部に位置するカレーは、イングランドに残された大陸での唯一の領地である。ジョンは王の庶子としてこの地の総督の地位についているが、実際に治めているのは現地にいる代官であり、名目上の総督であるジョンは今もロンドンの宮廷にいる。
「そろそろ現地にやって統治を学ばせたい。今月中にも船を出させるつもりでいる」
「寂しくなりますわね」
「ジョンもそう言っている。出発前にきみに挨拶したいそうだ」
「出発前に? 見送りには行けないのですか」
「きみは人目の多いところには出ないほうがいい。いつでも構わないから宮廷にいる間に会いに行ってくれるか」
「もちろんですわ」
 セシリーの婚礼以来、ジョンとは一度も顔をあわせていない。エリザベスのところには訪ねてこないし、王妃の居所でも見かけないと思っていたが、旅立ちの準備で忙しかったのだろう。
「すぐにでも行って参ります。わたしもきちんとお別れを言いたいですもの」
「ありがとう」
 リチャードは机上の書物を持ち上げ、そばに来た従僕に渡した。そのまま次の仕事にかかりそうな雰囲気である。エリザベスと違って、リチャードには次にやるべきことが絶えず控えている。話が済んだらさっさと視線をそらされるのにも慣れてしまった。
「スタンリー卿夫人はお元気だったか」
 エリザベスは立ち上がりかけて思わず静止した。リチャードは書きものを始めていたが、まだエリザベスに注意を向けているようである。
「――元気でした。わたしが会いに来たことをとても喜んでくれました」
「そうか。良かった」
 リチャードはそれだけ言うと、今度こそ手もとの仕事に集中した。弟たちが元気だったということさえわかれば、それ以上のことに立ち入る気はないようだ。
 エリザベスは立ち上がりかけの姿勢のまま、リチャードの顔から目をそらせなかった。もっと聞いてほしかったという気持ちと、聞かれずに済んで良かったという気持ちが同時に湧きおこる。
 この人は知っているのだろうか。自分が廃位させた甥が、自分のことを恨んでいることを。十三歳の少年が王位を奪われたことに憤りを覚え、暗い感情をたぎらせているということを。そして、エリザベスがその弟を救う道を見つけられずにいることを。


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