テューダーの薔薇 [ 5−2 ]
テューダーの薔薇

第五章 僭称者 2
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 宮廷に来てからはじめて、母の手紙に良い返事を書くことができた。弟たちに会えました、と。
 エリザベスはすらすらとペンを走らせた。弟たちに会わせてもらえたこと、二人がとても元気にしていたこと、一年前よりずっと大きくなったこと、身のまわりのことも何一つ不自由なく、大切にされているようだったこと。あの夜、自分の目で見た弟たちの様子と、自分の耳で聞いた弟たちの言葉を、ほとんど一つ残らず書きつくした。
 書かなかったことといえば、二人がいま暮らしている場所と、エドワードが抱えている鬱屈くらいだ。
 ヘンリー・テューダーが片づいたら二人を自由にする、というリチャードの言葉もそのまま書いた。それに連ねて、兄のトマスに帰国を促すようにと勧めてみた。うまく事が運べば、エリザベスが望んでいたことがすべて叶えられることになる。なんとしてもこの流れを止めたくなかった。
 リチャードが預けてくれた弟たちの手紙は、その日のうちに一通ずつすべて目を通した。そのまま母のもとへ送ってやりたかったが、そうはいかなかった。思ったとおり弟たち、特にエドワードは、母に知られてはならないことを手紙に書いていた。去年の秋にロンドン塔から移され、別の場所で暮らしていることは、母に知らせるわけにはいかない。母にその気がなかったとしても、弟たちを担ぎ出そうとする者は少なからず残っている。母を通じて彼らに弟たちの居場所を知られたら、取り返しのつかないことになる。
 手紙の中でも取るに足らない部分、弟たちの他愛のない近況や、母や姉妹たちへの愛のこもった言葉は、伝聞というかたちでエリザベスが自分の手紙に書くことにした。
 すべてが良い方向に進み、弟たちが再び母と暮らせるようになったら、その時こそ母にこの手紙を渡してやろう。それまではエリザベスが大切に隠し持っていなければならない。王位を奪われて幽閉された二人の少年が、今はロンドン塔にいないという秘密とともに。

 二年ぶりに宮廷で過ごす夏が、いよいよ盛りを迎えようとしていた。
 エリザベスは今日も王妃の居所を訪れ、快く迎え入れられた。寝台のそばまで来ると、アンが横たわったまま頭だけ動かすのが見えた。
「エリザベス」
「王妃さま。お加減はいかがですか」
 酷暑が身にこたえたのか、アンは以前より床に臥すことが多くなっていた。この日のアンも熱があるようで、抜けるように白い頬を朱に染めていた。しかし、苦痛を感じさせない表情でにこりと笑った。
「咳がおさまったらずいぶん楽になったわ。ありがとう」
 エリザベスは侍女がすすめてくれた椅子に腰かけず、寝台のすぐそばで身をかがめた。長居をするつもりはないが、会いに来るとアンが喜んでくれるので、できるだけ間を空けずにここを訪れ、短い話をしていくようにしていた。王妃の侍女たちもエリザベスの存在にすっかり慣れたようで、ここに来るたびに当然のように迎え入れてくれるようになっていた。
「セシリーから手紙は来ているの?」
「ええ、元気そうですわ。婚家のみなさまに、とてもかわいがっていただいているようです」
「良かったわね。――エリザベス、新しいドレスね」
 アンが視線を動かして、エリザベスが纏っている衣装を見た。
 エリザベスはにっこり笑った。
「いただいた生地で作らせました。おかしいところはございませんか」
「いいえ。よく見せてちょうだい」
 エリザベスは立ち上がり、寝台から一歩さがって、アンに全身を見せた。室内にいる侍女たちの視線もいっせいに集まってきた。
 あかがね色の生地は華やかなのに品が良く、何より着心地がすばらしい。王妃への献上品の中からアンが分けてくれたものである。アンは着るものをめったに新調しないので、高価な生地や装飾品を気前よく侍女たちに分け与えている。エリザベスもこれまでに何度となく贈り物をもらっていた。
 寝台のそばでくるりとまわると、感嘆のまなざしを全身に感じた。
「とてもきれいだわ、エリザベス」
「ありがとう存じます。このような立派な生地は、わたしには似合わないかと思ったのですが」
「あなたは背が高いから、何を着てもよく映えるわ。お母さまに似てきたのね」
 エリザベスは笑顔のまま椅子に腰をおろした。以前なら、アンに母のことを言われただけで、胸に暗い靄がかかったものだった。今はそんな過去の自分をほほえましく思うことさえできた。
「若いころの母をご存じですか」
「もちろん。何年経っても昔のままにお美しくて、いつも素敵なドレスを着ていらして。わたしも姉もロンドンに出てくるたびに見とれていたわ。お美しいだけではなくて親切で明るくて、わたしたちにも本当のお姉さまのように優しくしてくださったの」
 アンはめずらしく饒舌に語ったが、無理に母を讃えている様子はなかった。本当に見聞きしたことを心を込めて話しているのだろう。実際に、王妃だったころの母は気丈で面倒見の良い女性だった。
「お母さまはお元気?」
「はい。セシリーの結婚をとても喜んでいます」
「良かったわね。近いうちにお会いできるといいのだけど」
「母もそう思っているはずですわ」
 エリザベスは笑みを崩さずに、今日はじめての嘘をついた。
 母が宮廷に来ることを望んでいるのはアンだけではない。今の治世が続くことを願っているすべての者が、エドワード四世の寡婦が和解の証をたてにやってくる日を待ち望んでいる。けれども、実際にその日が来たとしても、彼らは身の置き場に困るに違いない。王妃の身分を奪われた母と、かわりにその位についたアンが、どのような態度でお互いに見えるのか。廷臣たちはどのような面もちで、二人の女性の対面を見守るのか。

 王妃の寝室を出て歩き始めて、すぐに呼びとめられた。その従者に導かれて角を曲がると、リチャードが立っているのが見えた。共の従者は二人だけで、雑務の合間にふらりと立ち寄ったような雰囲気だ。多忙を極める中で時間をつくって妻を見舞いに来たらしい。あいかわらずの仲睦まじさである。
 エリザベスは歩み寄って姿勢をかがめた。
「お呼びでしょうか、陛下」
「アンの具合が悪い時はきみは来なくていい」
 リチャードは即座に言った。視線は、エリザベスが抱えている水を張った盥に注がれている。
「氷をいただいてこようと思いますの。王妃さまのお熱がまた上がっていらしたようですから」
「きみはそんなことをしなくていい。仕事をさせるために宮廷に住まわせているわけではない」
 エリザベスはようやく理解し、思わずほほえんだ。
「母には申しませんわ。言ったとしても、母は褒めてくれるだけだと思います」
「義姉上は関係ない」
「ご迷惑でしたら遠慮しますわ。でも、わたしのために仰ってくださっているなら、どうぞお気遣いなさらないでくださいな。わたしはこういった仕事には慣れているのです。妹たちの世話をずっとしてきましたから」
 聖域に住んでいたころの話である。使用人もほとんどいない暮らしでは、自分の面倒は自分で見なければならなかった。幼い妹たちが熱を出すたびに看病していたのも本当である。
 長患いの王妃に仕えることが楽な仕事だとは思っていない。妹たちの世話をするのとはわけが違うこともわかっている。エリザベスにできることは気まぐれにアンを訪ね、話し相手になり、ときどきこうして侍女の仕事を手伝わせてもらうことくらいである。
 しかし、それさえやめろと――それもアンのためではなく、エリザベスのために――言われても、従うつもりはまったくなかった。
 エリザベスの意志が伝わったのか、リチャードもそれ以上は言わなかった。
「世話をかけてすまない」
「かまいませんわ。王妃さまがお元気になられたら、どこかの富豪に嫁がせて良い暮らしをさせてくださいね」
 エリザベスがおどけて言うと、リチャードは少し笑った。それから思い出したように付け加えた。
「明日の早朝に、前回と同じ場所に出てきなさい。フランシスを待たせておく」
 エリザベスはきょとんとした。意味はすぐに呑み込めたが、喜んでいるのを顔に出していいものかわからなかった。
「――会わせていただけるのですか」
「スタンリー卿夫人に。あまり具合が良くないようだから、見舞ってさしあげなさい」
 エリザベスは深くうなずいた。

 一度だけ訪れたことのあるスタンリー家の別邸は、二度めの訪問ではずいぶんと印象が違った。以前は宵闇の中で人目を避けてやってきたせいか、暗く冷たい監獄のような場所に見えたものだった。ちょうど、テムズ川の対岸から眺めたロンドン塔のように。
 早朝の明るい光の中で見ると、内側の雰囲気と同じようにあたたかい家に見えた。
 案内された部屋に入ると、弟たちはすでにそこで待っていた。はじめに駆け寄ってきたのは下の弟のリチャードだった。
「ベス、また来たの」
「ええ。会いたかったわ――」
「ジョンは?」
 抱き寄せようとする姉の腕を巧みに避けて、弟は左右前後を探しまわった。
「彼は来ていないの。わたしと子爵だけよ」
「なんだ」
 弟は遠慮なく言うと、きびすを返して元の場所に戻っていった。エリザベスの隣では、ここへ連れてきてくれたラヴェル子爵が笑いを噛み殺している。
 実の姉よりも従兄のほうにそれほど会いたいのか。そう思うと腹が立ったが、リチャードは昔から姉妹に構われるのを嫌がって、男兄弟と一緒にいたがる子どもだった。兄がラドロウ城に行ってしまった時もたいそう寂しがり、両親や子守を困らせたものだ。聖域から連れ出されていく時でさえ、兄とまた会えることを純粋に喜んでいた。
 その兄、エドワードは弟と入れかわりにやってきて、素直にエリザベスの腕に抱かれた。
「ベス、会いたかった」
「わたしもよ。エドワード」
 エリザベスは腕をはなし、弟の姿を惚れ惚れと見つめた。たった数ヶ月のうちにまた背が伸びたようだ。
「それでは、わたしはここで。時間が来たらお迎えにあがります」
 ラヴェル子爵がエリザベスに言い、その場を離れようとした。はじめてここに来た時と同じく、馬車でエリザベスを連れてきてくれたのは子爵である。夜も更けてから訪ねるのは少年たちに良くないから、別の目的に見せかけて明るいうちに行ったほうがいい、と提案してくれたのも彼らしい。エリザベスは表向き、王妃の使者としてスタンリー卿夫人を見舞いに来たことになっている。
 立ち去ろうとする子爵をエドワードが黙って見つめていた。しかし、言葉をかけようとする様子はなかった。
「座ってお話しましょう、エドワード」
 弟はうなずき、姉を椅子に導いて座らせた。
 部屋の中には他に、以前ここに来た時にも見た年配の女性がいるだけである。編み物を手にして窓辺に座っており、エリザベスを見てにこりとほほえんだだけで、何も言葉を挟まなかった。姉弟を気づかってあえて気配を消しているのかもしれない。
 それでもエドワードは彼女の存在が気になるようで、姉と話しながら何度もそちらに目をやっていた。
「元気にしているの、エドワード?」
「変わりないよ」
「こちらのお屋敷のみなさまに迷惑をかけていない? 良くしていただいているのでしょう」
 エリザベスも窓辺の女性に目をやった。ここの使用人たちが行き届いていることは知っているが、エドワードのよそよそしい態度が気になった。気を許せない人々に囲まれて暮らしているとしたら、自由がない少年たちにはあまりにも酷な話だ。
「すごく親切にしてもらっているよ。心配しないで」
「心配はしていないけれど」
「セシリーが結婚したってほんとう?」
 エドワードが急に話題を変えた。
 エリザベスは戸惑いつつも、弟の問いに答えた。
「ええ、とても良い方よ。あなたも話は聞いたのでしょう」
「聞いたよ。でも、ベスに聞くまではわからなかったから」
 エドワードは言った。やはり、少し神経質になっているようだ。他人が話してくれることを素直に信じられなくなっている。
 エリザベスにも身に覚えのないことではなかった。聖域で暮らしていた一年間、母のもとにはさまざまな人がさまざまな話を携えてやってきた。外で起きたことを報告してくれる人もいれば、共謀を持ちかける人もいた。あまりにもたくさんの話を聞いていると、どれを信じればいいのかわからなくなってくるものだ。ことに、一つの場所に閉じこめられて外に出られずにいる時は。
 それでなくてもエドワードは、一年前の政争で深く傷ついている。大人たちが互いを欺き、裏切り、争うさまを目の当たりにしたのだから。
「セシリーはとても幸せそうよ、エドワード。外国に嫁いだわけではないから、あなたとも近いうちに会えるでしょうね。お義兄さまができたことにもなるわ」
「ベスは結婚しないの?」
「いつかはすると思うわ。まだ相手も決まっていないけれど」
「そう」
 自分の王位を奪った人の治世下で、姉たちが宮廷になじみ、新しい生き方を見出している。エドワードにとって楽しい話ではないことはわかっていたが、エリザベスは意を決して続けた。エリザベスも母も妹たちも、王座にエドワードがいないイングランドで生きていかなければならない。エドワード自身にとってもそれは同じだ。いつかはこの運命と折りあわなければならない。
 エリザベスやセシリーがどうやってそれをやり遂げたのか教えてやるべきだろうか。
 あるいは、リチャードが話してくれた一年前のことを、そのまま弟にも伝えたほうがいいのだろうか。
「エリザベス!」
 いきなり、下の弟のリチャードが姉と兄のあいだに割り込んできた。エリザベスとおざなりの会話を交わしたきり、一人で遊んでいるのかと思ったが、急に姉をめがけて走ってきたらしい。
「戦争ごっこの相手をして。ベスでもいないよりはましだから」
「いいわよ?」
 エリザベスはにっこり笑って立ち上がると、弟の耳をつまんで軽く上に引き上げた。
「人にものを頼む時の口の利きかたを、あなたがちゃんと覚えたらね、リチャード!」
「痛い、痛い、痛い。エドワード、やめさせて!」
「ちゃんと謝ったらベスはやめてくれるよ」
 弟の味方をするかと思ったが、エドワードは真面目な顔で言った。リチャードは悲鳴を上げた。
「ごめんなさい、ベス。遊んでください」
「よろしい」
 エリザベスは弟の耳から手を離した。笑みが自然にこぼれ出した。こんな時間はずいぶんと久しぶりだ。
 弟が一人ではなく、二人で一緒にいられて本当に良かった。二人ともお互いがいなければ、とてもこの環境には耐えられなかっただろう。
「じゃあ、こっちに来て、ベス。エドワードもやろうよ」
「ぼくはもうそんな遊びはしない」
 弟の呼びかけを、エドワードはそっけなくかわした。
 エリザベスは声をかけようとしたが、もう一人の弟に腕を引っぱられた。
「エドワードは最近ずっとああなんだ。もう子どもじゃないからって言って、遊んでくれないの」
「そうなの?」
 エリザベスは振り返り、置いてきた弟を見た。エドワードは姉と弟のほうを向かず、一人で何もない場所を見つめている。もう少し話を聞いてやるべきかと思ったが、下の弟の相手もしてやらねばならない。
「ジョンがいれば良かったのに。あの子、隊列の組みかたとかすごく上手なんだ」
 エリザベスを持ち場に立たせ、そのまわりを歩きながら、下の弟は暢気にぼやいた。
 エリザベスはぎょっとした。下の弟の口から、聞き慣れない言葉が飛び出したせいだ。
「戦争ごっこって――木剣で戦うのではないの?」
「それこそ子どもの遊びだよ、ベス。ジョンが本当の戦争ごっこを教えてくれたの。今日はクレシーの戦いにしよう。ぼくがエドワード三世で、ベスがフランスだよ」
 あの気だてのいい従弟は、いったい弟に何を教えてくれたのだろう。
 フランス軍に見立てられたエリザベスは、弟が率いるイングランドの長弓隊にたっぷり攻撃されるはめになった。


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