テューダーの薔薇 [ 5−1 ]
テューダーの薔薇

第五章 僭称者 1
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 エリザベスは久しぶりに王の執務室に座っていた。
 壁ぎわに置き物のように立っている二人の従僕をのぞけば、部屋にはエリザベスの他に誰もいない。エリザベスは膝の上で重ねた自分の手を見つめながら、これから言わなければならないことを頭の中で繰り返した。ここでこうしているのはずいぶんと久しぶりだった。
 やがて、足音が近づいてきて、リチャードが部屋に現れた。
 エリザベスは立ち上がり、深く膝を折った。
「待たせてしまってすまない」
「いいえ、陛下」
 型どおりの挨拶を済ませ、従僕が扉を閉めて定位置に戻ると、エリザベスはリチャードと向かいあって座った。
「お話の前に、一つよろしいでしょうか」
 いつものように前置きもなく始まるのを待たず、エリザベスは先に自分から切り出した。リチャードがうなずいたのを確かめてから、空気を吸い、用意していた言葉を口にした。
「セシリーのことをお礼申し上げます。本当に良くしていただいて、ありがとう存じました」
 セシリーの結婚式は、数日前に無事に挙行された。ロンドンの廷臣たちはもちろん、地方からも名だたる貴族や有力者たちが駆けつけ、久しぶりの大がかりな祝儀となった。一介の女官の結婚とは思えない、王女が嫁ぐかのような盛況ぶりだった。実際のところ、花婿の生家にとっては王女を貰い受けるも同然だっただろう。
 王妃から贈られた花嫁衣装に身を包み、気心の知れた夫の隣に立ったセシリーは、エリザベスが知っている中でいちばん幸せそうだった。
「きみたちの母上には来ていただけなかったな」
 リチャードが何気なく言った。
 母はセシリーの結婚には賛成したものの、式そのものには姿を現さなかった。列席していた人々にとっては意外なことだったに違いない。苦い思いをした者もいれば、密かに喜んだ者もいただろう。
 いちばん驚いたのはエリザベスだった。母は来るものだと思いこんでいたので、手紙で確かめてみることさえしていなかった。式の当日になって、母が来ないと知った時の落胆はあまりにも大きかった。
「申し訳ございません、陛下」
「きみが謝ることではない」
「母には、なぜ来なかったのかと手紙で尋ねてみました。まだ返事は来ておりませんが」
 エリザベスはたたみかけるように続けた。今日この場でどうしても言っておかなければならないことの一つがこれだ。
「式には参りませんでしたが、母もセシリーのことでは陛下に感謝しているはずです。セシリーの結婚を許したのなら、わたしの時も同じようにしてくれると思います。――以前にあった別のお話のことは、もう本気では考えていないはずですから」
 ヘンリー・テューダーとエリザベスの婚約のことである。エリザベスがそれを望んでいないのと同じように、母もすでにその気がないのだと思ってもらわなければならない。
「ウエストミンスター寺院から出てきた後は、レディ・マーガレットとも一度も連絡を取っていないはずです。お疑いでしたら、母の手紙をすべてお見せします」
「そこまでしなくてもいい」
 リチャードがようやく口を開き、エリザベスの言葉を止めた。
「そう先走らずに、まずこちらの話を聞きなさい。今日きみを呼んだのは、母上のことを弁解させるためではない」
 エリザベスは口をつぐんだ。そういえば、今日はエリザベスから話したいと申し出たのではなく、リチャードのほうがエリザベスを呼び寄せたのだった。
「失礼いたしました、陛下。お話をお伺いいたします」
 椅子の上で姿勢を正し、リチャードが言葉をかけるのを待つ。
「きみの母上に訊くつもりだったが、式の日にお会いできなかったのできみに訊く。きみは、兄上のドーセット侯の帰国について、母上から何か聞いていないか」
 エリザベスは不意をつかれ、すぐに答えることができなかった。
 ここでその名前を聞くとは思わなかった。エリザベスの異父兄、ドーセット侯トマス・グレイ。エリザベスの母が前夫との間にもうけた長男。エドワード四世の死後の混乱期、王太后派の先頭に立って働いていたのがこの兄だ。母や弟妹たちと一緒に彼も聖域に逃げ込んだが、勢力の挽回のために密かにそこを脱出した。各地で反乱に荷担したもののすべて失敗に終わり、海を渡って大陸に亡命した。
 行き先はブルターニュ公国。ランカスター派の王位請求者、ヘンリー・テューダーが身をひそめている場所である。
 エリザベスとヘンリーとの縁談が持ち上がった時、誰よりも強くそれを勧めたのもトマスだったという。
「兄のトマスには、聖域を出てくる際に母が手紙を書いているはずです。陛下と協定を結ぶことにしたので、大陸での行為はやめて早めに帰国するようにと」
 ヘンリー・テューダーを見限って、リチャードの傘下に入れという話だ。エリザベスたちが聖域を出る際、リチャードは母だけではなく、トマスのことも刑罰に処さないと約束した。イングランドに戻って恭順を示せば、亡命前に取り上げた地位や領地も返還すると。相次ぐ反乱の失敗に弱っていた母は、力尽きるようにこの申し出に乗った。そして、海の向こうにいる息子に帰国を勧める手紙を書いた。
「その後は? 実際に帰国するという話は聞いていないか」
「いいえ、陛下」
 エリザベスは首を振った。
 母のもとに手紙の返事は来ているはずだが、帰国がいつになるという話は聞いていない。
 エリザベスとしてはもちろん、早く帰ってきてほしいところである。エリザベスや弟妹たちがリチャードの庇護下にある今は、大陸にいる兄とは敵と味方に分かれてしまったことになる。このまま溝が深まっていくのを防ぐためにも、トマスには一刻も早くイングランドに帰ってきてほしい。兄がヘンリーを見限って離反すれば、エリザベスをヘンリーの妃にという話も立ち消えるだろう。何より、母も年長の息子に会いたがっているはずだ。
 けれど、なぜ今になってリチャードがそれを気にかけるのかがわからない。
「あちらで何かがあったのでしょうか」
 エリザベスは耐えきれずに訊いてしまった。
 大陸にいるヘンリー・テューダーの一派に、また不穏な動きでもあるのだろうか。それにトマスがかかわっているとすれば、エリザベスにとって嬉しくないことである。
「ブルターニュ公にヘンリー・テューダーの引き渡しを求めている」
 エリザベスはまばたきした。何を言われたのかわからなかった。
「あと少しでヘンリーの身柄を確保できる。その前に、きみの兄上にはこちらに戻ってきておいてもらいたい」
 すぐに答えることも、感情を表すこともできなかった。予想よりはるかに先に話が進んでいて、頭がついていかなかった。
「意味がわかるか」
 エリザベスの頭の中を読んだように、リチャードが続けた。
「ヘンリー・テューダーが王位僭称者としてイングランドに送られくる。そうなれば、今ある懸念のほとんどを片づけることができるだろう」
 一瞬の間のあと、エリザベスは深い安堵に包まれた。自分の望みが一度に叶えられようとしていることに、ようやく気がついた。
 ヘンリーが王位につくことなく、僭称者として裁きにかけられる。ヨーク家が王位争いに勝利する。イングランドは内乱から、エリザベスは望まない婚約から解放される。
「ヘンリーを捕らえたら、大陸で彼に与していた者たちも刑に処すことになる。できれば、きみの兄上にはその中に含まれてほしくない」
 リチャードが説明を補い、エリザベスは夢中でうなずいた。
「帰国を再び促すように、母に申してみます。わたしからも兄に手紙を書いてみます」
「そうしてくれ。すべてが無事に終わったら、ランカスター家が絶えたことを国内外に周知させる。きみの弟たちを母上のもとに帰すのはそれからだ」
 エリザベスは思わず口を開けた。にわかには信じられなかった。これほど思い通りに話が進んでいいのだろうか。
「弟たちを返していただけるのですか」
「きみはそれを望んでいたのではなかったか」
「はい、陛下。でも――」
 エリザベスは言葉を呑みこんだ。
 リチャードはエリザベスの母を信用していない。エリザベス自身も、母が弟の王位を望まないという確信はないし、以前この人にもそれを打ち明けた。弟たちに会わせてもらった日にも、二人をすぐに返すことはできないと言われた。
「母上の考えていることがわからないと、きみは言った」
 リチャードも同じことを思い出していたのか、そんなことを言った。
「はい、陛下」
「考えていることなどわからなくていい。わたしは義姉上に恭順を示していただこうとは思っていない。二度と乱を起こさないという誓いを求めるよりも、それが不可能な状況を築き上げるほうが、根本からの解決になる」
 エリザベスは話を理解しようと、懸命に頭の中を整えた。
「つまり、ヘンリーが捕らえられれば、母の野心は潰えるということですか」
「ランカスター派の後継者を名乗る者が他にもいれば別だが」
 エリザベスの知る限り、いないはずだ。だからこそヘンリーは、十三年前の父の復位以来、ヨーク派の追手を逃れて大陸にいるのである。
「ヘンリーが無事にイングランドに引き渡され、ヨーク家の王位が脅かされる懸念がなくなったら、きみの弟たちを義姉上に返す。きみはそれでいいか」
 エリザベスはうなずいた。
 ヨーク家の王位ではなく、あなたの王位ではないのですか。そんな皮肉が頭に浮かびはしたが、それを口に出そうとは思わなかった。むしろ、一瞬でもそんなことを考えた自分を笑ってやりたいくらいだった。
 エリザベスは今日、話をするためだけではなく、自分を試すためにここに来たのだ。
 セシリーがそうできたように、この人を憎まなくてもいいと思えるかどうか。この人を信頼し、この人に信頼されることができるかどうか。
「二人に会わせていただいたことは母には伝えておりません。もちろん、会った場所についても」
「そんなことは知っている」
 エリザベスが念を込めて言ったことに、リチャードは短く答えた。それから、一瞬だけ――エリザベスは自分の目を疑ったが、見間違いではなかった――リチャードは、にこりとほほえんだのだった。
 エリザベスはうろたえるのを隠しながら、自分の言ったことを思い返した。なぜ今の言葉で笑われたのかまったくわからなかった。
 エリザベスが気を取り直すのを待たずに、別の人影が静かに近づいてきた。リチャードが目線で呼び寄せたらしい。壁際に立っていた従僕の一人が、エリザベスのそばに来て立ち止まった。
「きみに預かってほしいものがある」
 リチャードはそう言い、従僕に合図を出した。
 その従僕は、一抱えもある木箱を両手で支えていた。エリザベスの前にそれを差し出すと、蓋を持ち上げて中身を見せた。その瞬間、エリザベスの目はそこに釘づけになった。
 木箱の中に入っていたのは、蝋で封じられたたくさんの手紙だった。ぜんぶで十数通はあるのだろうか。宛名が見える数通には、すべて同じ名前が、同じ拙い字で書かれていた。
「この一年間で、二人が義姉上に書いた手紙だ」
 リチャードの説明を聞かなくても、エリザベスにはもうわかっていた。
「必ず届けると約束しながら、こうして留めていた。申し訳ないことをした。文面はわたしも誰も読んでいないし、開封もしていない」
 エリザベスは震える手を伸ばし、手紙の一通を持ち上げた。
 聖域にいた間も出てきてからも、母はどんなにこの手紙を読みたがっていただろう。弟たちはどんな気持ちでこれを綴ったのだろう。
 破棄されてしまったとあきらめていたが、そうではなかった。木箱そのものは簡素だが中にはやわらかい布が敷かれ、手紙はその上にていねいに重ねられている。
「これをきみに預かってほしい。どのように扱うかはすべてきみに任せる」
 エリザベスは顔を上げ、リチャードの目を見た。
 幽閉された前王とその弟が書いた手紙だ。内容は読んでみなければわからないが、おそらく公にできないことも書かれているに違いない。たとえば、二人がロンドン塔にいないということや、今はどこで暮らしているのかということも。
 その手紙をすべてエリザベスに預けると、この人は言った。
「わたしが読んでもよろしいのですか」
「任せる」
「他の方にお見せしても? ――母に送ってやっても?」
「任せる。本当に他人に見せたいのなら、わたしではなくこれを書いた二人に許可を求めなさい」
 リチャードは本気のようだった。
 エリザベスは手にした手紙と彼の顔を何度も見比べ、ようやく先ほどの笑みの意味を知った。思わず手紙を胸に押しつけた。
「ありがとう存じます、陛下。このご親切とご信頼に報いられるように努めます」
 リチャードがうなずくと、木箱を抱えた従僕が下がった。エリザベスは手にした一通を彼に渡すと、再びリチャードに向き直った。
 信頼し、信頼されることができるかどうか。
 今日ここに来た目的は、じゅうぶんに果たされた。
「このあいだは悪かった。少し言い過ぎてしまった」
 エリザベスはきょとんとした。
「このあいだ、ですか?」
「きみの父上を悪く言うつもりはなかった。わたしの話のためにエドワードの印象が変わったのなら、訂正して付け加えておく。きみが覚えているエドワードは紛れもなく本物だった」
 エリザベスは首をかしげた。言われた意味がすぐには呑み込めなかった。
 リチャードは様子をうかがうように、黙ってエリザベスの返答を待っている。
 その真摯な目を見て、エリザベスはゆっくりと悟った。このあいだというのは、弟たちと再会した後に、一年前の話を聞いた時のことだ。まさかこの人は、エリザベスの前で父のことを悪いように言ったのを悔やんでいるのか。
「わたしは気にしておりませんわ、陛下」
「そうなのか」
「ええ。そのようなご心配をいただいていたなんて、思いもしませんでした」
「それならばいい。きみに嫌われたらエドワードが気の毒だ」
 リチャードは声色を変えずに続けた。
「エドワードが過去にしたことを知ったからといって、幸せだった時のことを忘れないでほしい。決して許されないことをしたのはきみを守るためでもあったはずだ。王位を手に入れた手段がどうであれ、きみのような娘を王女にできてエドワードは幸せだった」
 言い終えると同時に、リチャードが表情をがらりと変えた。めずらしく顔に出して驚いている彼を見て、エリザベスは自分が泣いていることに気がついた。あたたかい涙がひとりでに頬をつたい、服の上にこぼれ落ちていた。
「しばらく外にいよう」
 リチャードが目をそらし、立ち上がって出ていこうとした。
 エリザベスは慌てて立った。
「お待ちください。わたしが出ていきます」
「その顔で人前に出ていってどうする」
「では、すぐに泣きやみます。お気遣いには及びません」
 リチャードはやっと思いとどまり、椅子に座りなおした。エリザベスのほうを見ようとはせず、ばつが悪そうに顔だけ横を向いていた。めずらしいことに彼は明らかに狼狽していた。もう幼くもない姪が目の前で泣き出したのだからあたりまえである。
 エリザベスもまた、自分の涙に驚いていた。宮廷に戻ってきてから、いや父の葬儀が済んでから、一度も泣いていなかったことを思い出した。よりによって、なぜこの場で、この人の前で。涙の調整もできないようでは貴婦人とは言えないのに。
 恥ずかしくて情けなくてたまらなかったけれど、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。気持ちのままに涙が流れ出るのをほうっておくのは心地よかった。リチャードは黙って顔を背けたまま、エリザベスが泣きやむのを待っていてくれた。
 ようやく涙がかわくと、深く息を吸い、吐き出した。
「落ち着いたか」
「はい。申し訳ありませんでした」
「いや」
 リチャードはまだエリザベスを見ようとせず、気まずそうに横を向いていた。
 エリザベスは思わず笑った。それからすぐに真顔に戻り、ふいに思い出して口を開いた。
「父は十日近く病床にいましたが、最期はとても穏やかでした」
 ずっと言えなかったことを、言わなければならないと思っていたことを、ゆっくりと口に出した。
「エドワードとあなたがそばにいなかったことを除けば、幸せな臨終だったと思います」
 リチャードは振り向いたが、エリザベスの目を見ようとしなかった。何もないところに何かが見えるかのように、宙の一点を見つめていた。
 やがて、つぶやいた。
「ありがとう」


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