テューダーの薔薇 [ 4−4 ]
テューダーの薔薇

第四章 王冠つきの娘 4
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 エリザベスは広間の隅に立って、群集を睨みつけていた。
 今日も夜会にはおびただしい人数が集まっている。その中で目を凝らし、一人一人の動きや、顔つきや、交わされる言葉に気を配る。今日という今日は、セシリーの恋人とやらの正体をつきとめてやるのだ。
 セシリーはあいかわらず姉と一緒にいたがらず、人だかりの中に紛れこんで誰かと話している。エリザベスはあえてその中には飛びこまず、離れた場所から妹の、一緒にいる人物の動向を見張っている。セシリーは数人の男女と楽しそうに話しているものの、その中の誰かと特に親しい様子ではない。輪の中にいるすべての人と等しく言葉を交わしているようである。
 取り囲んでいる男たちのほうはどうだろう。セシリーの愛らしい美貌を、あるいはその隣にある王冠の幻を、熱っぽいまなざしで見つめてはいないだろうか。
 彼らの一人が気の利いたことを言ったらしく、セシリーが肩を揺らして笑った。何がそんなにおかしいのだろう。姉がこれほど気を揉みながら見守っているというのに!
「レディ・エリザベス? お一人でいらっしゃるのですか」
 エリザベスの耳に、期待に満ちた声がまとわりついてくる。一人や二人の声ではない。
「悲しいことにそうですわ。でも、一人でいるのも悪くないと思っていたところですの」
「あなたほど一人がお似合いにならない方はいらっしゃいませんよ」
「そうですとも。しかし、われわれには幸せなことです。こうしてお近づきになれる機会ができたわけですから」
 社交辞令の中で相手の本音を見きわめる、夜会ならではの会話は嫌いではない。いつもならもったいぶった返事をして、自分と相手を楽しませてやるところだ。だが、今日はできない。
 つくり笑いで彼らをまこうとしているうちにも、妹を見失ってしまうかもしれないのだ。
「ただ一度でもあなたの目を見て言葉を交わすことができたらと、はるか以前から想いこがれておりました」
「わたしも同じですわ。こうしてその願いが叶えられた今は、もう何も望むことはございません」
 だから、これ以上わたしに構わないでください。
 そんな含みを持たせた言葉も、野心に燃える若者たちにはまったく通じないらしい。
「レディ・エリザベス、こちらを向いてください。あなたの美しい瞳の色を覚えておきたいのです」
 若者の一人が必死でエリザベスを振り向かせようとする。エリザベスが覚えておきたいのは、妹に言い寄る輩の名前と顔である。
「わたしの両目など、この宮廷では一瞥の価値もございませんわ。お心に刻みつけておくのにふさわしい、もっと美しいものが他にあるでしょうに」
「あなたより価値のある美しいものなど、ブリテン島のどこを探しても見つかりませんとも」
「あなたにお目にかかることができた今は、これまで美しいと思ってきたものはなんだったのかと、自問せずにはいられません」
 本音を笑みで包み隠そうとしても、相手は嬉々としてそれを剥がしにくる。どうすれば、相手の名誉にも自分の評判にも傷をつけず、この場を切り抜けることができるだろうか。
「レディ・エリザベス」
 意識を向けていなかった方向から声がかかった。エリザベスよりも早く若者たちが目を向け、小さく驚く雰囲気がする。少し遅れてエリザベスも振りかえる。
 ラヴェル子爵がそこに立っていた。若者たちの行く手を阻む、何かの番人のように。
「お話し中のところを失礼いたします。陛下がお呼びです、レディ・エリザベス」
 エリザベスを追いかけていた若者たちが、しおれるように静かになった。王の側近の登場に加え、この決定的な言葉まで出されてはもう手も足も出ない。歯の浮くような別れの言葉を残しつつ、おとなしく引き下がっていった。
 きれいに片がついたその場に、エリザベスは子爵と二人だけで残された。
「ありがとうございます」
「感謝されるようなことをしましたか?」
 エリザベスが思わず礼を言うと、子爵はとぼけたような表情を見せた。エリザベスもつられて笑顔になる。
 次の瞬間、目を覚ますように我に返った。広間の群集に目を向けると、セシリーの姿はすでに見えなくなっている。しつこい者を振り払おうと必死になっているうちに見失ってしまったらしい。今さら悔やんでもどうしようもない。
「お気持ちのかわりに先日の埋めあわせを、と言いたいところですが」
 子爵が軽やかな声のまま切り出した。そういえば先日の夜会では、この人と踊る機会をすんでのところで逃したのだった。
「その幸運は次にとっておきましょう。このまま陛下のもとへあなたをお連れしなければ、広間中の若き騎士たちから嫉妬を買うことになりますから」
「陛下のところへ?」
 エリザベスはきょとんとして、先ほどの子爵の言葉を思い出した。方便かと思っていたが、どうやら本当のことだったらしい。セシリーのことに気をとられてすっかり忘れていたが、今日も広間の上座にはリチャードがいるのだった。
 弟たちに会わせてもらって以来、リチャードとは一度も話をしていない。聞かされたことやその時の自分の態度を思い出すと、しばらく顔をあわせたくないというのが本音である。リチャードのほうもエリザベスを呼び出して話そうとはせず、先日の夜会でも一度も声をかけてこなかった。
 それにもかかわらず、今日は自分からエリザベスを呼び寄せてきた。何か重大な、それも急を要する話でもあるのだろうか。
 たとえば、弟たちの身に何かがあったのだとしたら。
「陛下、お連れしました」
 子爵がうやうやしく告げると、リチャードが座ったまま顔を向けた。エリザベスは胸さわぎを抑えながら深く膝を折った。
 リチャードはいつもの、感情の読みとれない目でエリザベスを見た。今日は隣にアンの姿はない。いったい何を言われるのだろうと思ったが、渡された言葉は一つだけだった。
「そこにいてくれ」
 エリザベスは首をかしげそうになりながら、うなずいた。エリザベスに話があるわけではなかったのか。それなら何のために呼んだのだろう。
 子爵が当然のようにエリザベスを連れ、上座の端に移動する。エリザベスは王やその側近と並んで、広間を見渡すかたちになった。
 視線を横に滑らせて、小さく叫びそうになった。見失ったと思っていた妹が同じ列に立ち、エリザベスと同じように広間を見つめているのである。
 セシリーも姉の存在に気づいたのか、視線だけをこちらに向けた。しかしすぐに目をそらし、すましかえった顔で群集のほうを見た。
「聞いてほしい」
 エリザベスが戸惑っているうちに、リチャードが沈黙を破った。いつの間にか音楽も歓談もやみ、広間にいる全員が上座に目を向けていた。
「レイフ・スクループ」
 リチャードに名を呼ばれた青年が群集の中から現れた。宮廷ではなじみの顔で、エリザベスも何度か話したことがある。年齢は二十代の前半。スクループ家は即位前からリチャードとつながりの深い男爵家である。レイフというこの青年は当主ではなくその弟にあたる。
 広間にいるほとんどの人間が、好奇心と戸惑いを隠さずに彼を見守っている。エリザベスも彼らと同じ気持ちで次の瞬間を待った。いったい、何が起ころうとしているのだろう。
 衣擦れの音が聞こえそうな中で、エリザベスの近くから一人で歩み出る者がいた。それがセシリーであることに気がつくと、エリザベスは今度こそ顔に出るのも構わずにぎょっとした。続いてリチャードが言葉を添えなければ、本当に声を上げてしまっていたかもしれなかった。
「エドワード四世の息女セシリーを彼に嫁がせる。みな、わたしの姪の婚約を祝福してほしい」
 リチャードは馬車の到着でも告げるように、淡々と述べた。
 セシリーとレイフ・スクループは互いに歩み寄り、見つめあってにっこり笑った。それから、二人して群集のほうを向いた。
 一瞬の静寂のあと、広間をどよめきが包んだ。驚きと戸惑い、多くの歓喜と少しの落胆。さまざまな感情が行き交ったあと、やがて一体となって拍手へと変わっていく。ほほえみを交わすセシリーとその婚約者に対して、誰もが惜しみない祝福を注いでいる。
 エリザベスは上座の端から呆然と見つめていた。この広間の中でただ一人、何が起こったのかわからないまま、やむことのない拍手の音を聞いていた。
 セシリーが離れたところからこちらを見た。エリザベスと目があうと、妹は姉にだけわかるような笑みを見せた。誇らしそうな、満ち足りているような、エリザベスが見たこともない顔だった。
 見守っていた宮廷人たちが、一人、また一人とセシリーに近づいて祝いの言葉を述べる。ある者は遠くから拍手を送り続け、ある者は連れと何かをささやきあう。エリザベスだけが何をすればいいのかわからないまま、それまでと同じ場所に立ち尽くしていた。
「何も聞いていなかったのか」
 急に近くで声がしたので、エリザベスは飛びのきそうになった。
 顔を向けると、座っていたはずのリチャードがごく自然に隣に立っていた。話があるならエリザベスを呼びつければいいのに、わざわざ自分がここまで歩いてきたらしい。こういうところが王ではなく臣下の一人に見えてしまう所以である。
 エリザベスはぎこちなく首を振った。
「何も聞いていません。何も知りません」
「セシリーをスクループ家に嫁がせることにした。話があがったのは先月だが、決まったのは数日前だ。公にする前にセシリーを相手に会わせて、本人の意見を聞いてみることにした。何度か話をして了承を得たので正式に発表した」
 リチャードは例の事務的な口調で、順を追って説明してくれた。エリザベスがなぜ驚いているのかわからないようだった。
「本当に知らなかったのか」
「存じませんでした。妹からそのようなことは一言も聞いておりません」
「セシリーは、きみには自分から話すと言っていたが」
 エリザベスは目を剥いて妹のほうを見た。リチャードの言葉と、この数日のセシリーの言動を振りかえり、ようやく自分が出し抜かれていたことに気がついた。後で二人きりになったら、納得がいくまで妹を問いつめてやらなければ!
「セシリーは彼なら結婚してもいいと言うし、スクループ家もセシリーを歓迎している。時期から言っても妥当だとわたしは思っている。きみと順番が逆になってしまってすまないが」
 エリザベスが怒りに燃えているのも知らず、リチャードはそんなことを言った。
 セシリーはいま十五歳と、結婚するのに早すぎる年齢ではない。宮廷に戻ってきてから幾月も経つし、そろそろ嫁ぎ先はどこかと噂が立ちはじめてもおかしくない。母がリチャードとの協定を交渉していた時から、エリザベスら姉妹の結婚には多くの条件がつけられていた。
 エリザベスははっとした。
「良縁だと思います。でも――母は何と言うでしょうか」
 リチャードの目がわずかに見開かれた。小さな驚きがやがて憐れみの色に変わっていく。
「きみたちの母上にはすでに知らせて、許しをいただいている。きみは、母上と手紙をやりとりしているのではなかったのか」
 大きな衝撃が、再びエリザベスの上に落ちてきた。セシリーが婚約者と手を取りあった時と同じくらい、信じられないという気持ちが頭を満たした。
 母がセシリーの結婚を許した。あれほど憎んでいた義弟が選んだ相手に、娘を嫁がせることを受け入れた。
「何も存じませんでした。母が、許したのですか」
 エリザベスはうわごとのように言った。隣に立って聞いているのが誰なのか、ほとんど忘れかけていた。
「わたしは、妹が一人で勝手なことをしているのだと……だから、やめさせなければとばかり――」
 上の空のままで、言ってはならないことを言ってしまった。はっとして口をつぐみはしたがもう遅い。
 おそるおそる目を向けたが、リチャードは怒っても呆れてもいないようだった。いつもの感情の読みとれない目でエリザベスを見つめているだけだった。
「きみはなんでも一人で深く考えすぎる。少しは他人を頼ることも覚えたほうがいい」
 予想しなかったことを言われ、エリザベスはとっさに返事ができなかった。意味を問い返していいものか悩んでいるうちに、鳴り響いた音楽に邪魔された。広間を再び歓声が包み、多くの視線が中央に注がれる。セシリーが婚約者と踊りはじめたようだった。

 セシリーは今夜は姉を置き去りにせず、広間を出て居所に戻るまで従った。完全に二人きりになるまでエリザベスは何も言わなかった。言いたいことはいくらでもあったが、まわりの人目を忘れるわけにはいかなかった。
 二人で部屋に入り、侍女たちを追い払ってしまうと、エリザベスは文字どおり妹をつかまえた。腕をつかんで振り向かせ、両肩を押さえると、ぶつかりそうなほど近くまで顔を寄せた。
「説明しなさい」
 セシリーは姉の目を見つめて凍りついた。深刻な表情をしたのはつかの間で、やがて耐えきれずに笑み崩れ、くすくすと声を立てた。数えきれないほどの祝福の言葉を浴び、何度も踊って頬を上気させた妹は、婚約が決まったばかりの幸せな女そのものだった。
「何がそんなにおかしいの、セシリー!」
「ごめんなさい。だってベスったら、すごい顔をしているのだもの。そんなにびっくりしたの?」
「したに決まっているでしょう。いったいどういうことなの」
「十日くらい前かしら。陛下に呼ばれて、わたしに縁のお話があると言われたの」
 弟たちに会わせてもらった日よりも後だ。エリザベスが過去のわだかまりに気をとられている間に、そんな話が持ち上がっていたなんて。
「何度かお話してみて、気があわなかったら断ってもいいからって。わたしの決心がつくまでは公にしないでおくからって。ちょっと怖かったけれど、思いきってお会いしてみることにしたの」
「それで、気があったということ?」
 問いつめるような口調で言うと、セシリーはにっこりした。
「レイフさまはとてもいい方なの。優しいし、わたしがうまく話せなくても怒ったりしないで、よく話を聞いてくれるの。宮廷の中で何度もお話して、すっかり仲良くなったわ」
 その、すっかり仲良くなったところを、従妹の侍女が見かけたというわけだ。
 リチャードはセシリーの性格をわかっているらしい。はじめから有無を言わさず押しつけたりせずに、相手と知りあってゆっくり考える時間をくれた。そのあいだ、噂にすらならないよう隠しとおしたのは、見事としか言いようがない。スクループ家も王の姪をもらうために喜んで協力しただろう。
 エリザベスだけが一人で悪いほうに思いこんで、なんとかしなければと躍起になっていたのだ。
 自分はうぬぼれるほど賢くはないと、思い知ったばかりだったというのに。
「セシリー、本当にそれでいいの? 一時の感情にとらわれてしまってはだめよ。結婚は一生のことなのよ」
「わかっているわ。別に恋に落ちたわけではないの。この人となら夫婦としてうまくやっていけると思っただけよ」
 エリザベスは軽いめまいを覚えた。あの内気でおとなしいセシリーが、夫となる人との相性について話している!
「あなたの婚約者がいい方なのはわかったわ。でも、本当にそれでいいの?」
「何がよくないの、ベス?」
「いくらいい方でも、陛下がお決めになった相手よ。陛下に命じられるまま嫁ぐことになってもいいの?」
 エリザベスは神妙な面もちに戻って、訊いた。
 他の何よりもそこに納得がいかなかった。セシリーはリチャードのことをあれほど憎んでいたのに。宮廷で暮らすことさえ嫌がっていたというのに、なぜこの縁談を受け入れる気になったのだろう。スクループ家はリチャードに忠義を尽くし、多くの見返りを得ている一族の一つである。セシリーに気をつかってくれたリチャードも、優しくしてくれたという当の婚約者も、純粋にセシリーのためだけにそうしたわけではないだろう。
 セシリーは笑顔のまま、少し困ったように首をかしげた。
「よくわからないの。でも、この身分でいることが前ほど嫌ではなくなった気がするのよ」
「王妃さまのことが好きだから?」
「それも理由の一つかもしれない。でも、それだけではなくて――うまく言えないわ。ただ、今までみたいに陛下のことを憎み続けなくてもいいような気がしたの。そのことに気がついただけで、びっくりするくらい楽になったのよ」
 エリザベスはセシリーの目を見つめた。妹の言うことがよくわかるような気も、決してわからないような気もした。
 振りかえって分析してみれば、理由はいくらでも出てくるのだろう。庶子にされてからも決して無体には扱われていないということ。王妃や従弟のジョンと親しくなったこと。宮廷で仲のいい友人がたくさんできたこと。それから単純に、時間がやわらげてくれたものもあるのかもしれない。
 どれも大きな理由ではあるが、心を変える決め手にはならなかった。もしかすると、結婚が決め手になったということだろうか。
 いきさつはどうであれ、セシリーはこの運命を受け入れた。受け入れることを自分に赦した。
 それは、セシリーの中で――エリザベスは言葉を探し、ある人が言っていたことを思い出した――筋が通ったということなのかもしれない。
「こんな説明ではいけないかしら、ベス。わたしのこと、考えなしだと思う?」
 セシリーは笑うのをやめて、姉と同じくらい真剣な目になった。
「いいえ、セシリー」
「わたしが陛下を憎むのをやめて、陛下が選んだ人と幸せに暮らしたら、アンソニー叔父さまやお兄さまは悲しむと思う?」
 亡くなった人たちの気持ちがエリザベスにわかるはずがない。ただ、妹が欲しがっている言葉はわかった。この時ばかりは。
「いいえ、思わないわ。セシリー」
 セシリーの顔が笑み崩れた。
「わたしもそうなの。ありがとう、ベス。ありがとう」
 泣いているのか笑っているのかわからないまま、セシリーはエリザベスに抱きついてきた。エリザベスは戸惑いながら抱きとめた。
 ずっと、自分が妹のことを支え、守り、導いてやっているつもりだったのに。気がつけば、妹のほうがエリザベスよりもはるかに先へと歩み出していた。結婚が先に決まったということではなく、もっと大きな意味で。
 憎み続けなくてもいいと気がついただけで、びっくりするくらい楽になった。
 妹の言葉がエリザベスの中で、ゆっくりと沁みわたった。何かがとけていくような心地がした。
「セシリー、良かったわね。本当におめでとう」
 エリザベスは妹を抱きしめて、ようやく心からの祝福を送った。


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