テューダーの薔薇 [ 4−3 ]
テューダーの薔薇

第四章 王冠つきの娘 3
[ BACK / TOP / NEXT ]


「レディ・エリザベスですわ、王妃さま」
 エリザベスは一人で王妃の居所に入った。いつもの女官に案内されて近づくと、アンが手を休めて顔を上げた。
「エリザベス。来てくれてありがとう」
「お呼びいただいて嬉しいですわ、王妃さま」
 互いにほほえみを交わし、エリザベスはすすめられて椅子に掛けた。
 向かいあってすぐに、アンの手もとに目が吸い寄せられた。アンは話をしながら手を動かしているのが好きで、エリザベスが会いに来た時もたいてい何かを縫っている。いま手にしているのは、王太子の生前にアンが息子のために縫っていたものだ。
「最後まで仕上げて、シェリフ・ハットンの甥に送ってあげようと思うの。ジョンにも縫ってあげたいけれど、彼はこれを着るにはもう大きすぎるから」
 エリザベスの視線に気がつくと、アンはにこりと笑った。それから、また少しずつ針を動かし始める。一針一針、ゆっくりとていねいに。
 エリザベスは黙ったまま、縫い物を続けるアンを見つめた。
 アンの言ったとおり、日に日に背が伸びていくジョンにはこれはもう着られないだろう。シェリフ・ハットンにいるアンの甥は確か九歳だ。会ったことのないエリザベスにはよくわからないが、彼も目まぐるしい速さで成長しているに違いない。早く仕上げてやらなければ彼にも合わなくなるだろう。これを本当に着るはずだった少年は、もう永遠に大きくならないというのに。
 しかし、アンは途絶えていた縫い目に再び針を入れた。もう地上にはいない息子ではなく、同じイングランドにいる甥のために、最後までそれをやり遂げようとしている。
「お手伝いいたしますわ、王妃さま」
 エリザベスは立ち上がり、アンのそばに進んだ。
 アンは顔を上げてにっこり笑った。
「ありがとう。ここを持っていてくれるかしら」
 手を伸ばし、アンが差し出した生地の端を指ではさむ。
 エリザベスはアンの手もとに目を落とし、しばらく黙っていた。何をするにもおっとりしているアンは、針仕事だけは慣れているのか手が速い。きれいに整った縫い目がみるみるうちにできあがっていく。
 他の侍女たちは続きに下がっており、部屋にはエリザベスとアンしかいなかった。ここはいつ来ても静かで、空気が澄んでいる。
「今日は、セシリーはどうしたの?」
 エリザベスは思わずアンの顔を見た。
 アンは針と糸に目を向けたまま、同じ速度で手を動かしていた。穏やかな微笑を浮かべているのもそのままだった。
 エリザベスが入ってきた時から疑問に思っていたはずなのに、今まで訊かずにいたのは気をつかってくれたのだろうか。姉妹そろって呼んだのに一人しかやってこなかったのは、二人のあいだに何かあったせいではないかと。
 エリザベスが答えにつまっていると、アンは顔を上げてくすりと笑った。
「けんかでもしたの?」
「――申し訳ありません」
「謝らなくてもいいのよ。わたしもよく姉とけんかをしたわ」
 アンがおおらかに笑ってくれればくれるほど、エリザベスは情けなくてたまらなくなる。
 セシリーは、恋人がいることを打ち明けて以来、エリザベスを避けるようになった。一緒にいてもほとんど言葉をかわさず、エリザベスが話しかけてもはぐらかして逃げてしまう。夜会でも姉とではなく親しい友人と過ごし、外出に誘われても姉と一緒には決して応じなかった。
 怒っているわけではないようだった。少なくとも、エリザベスにとげとげしい態度をとることはない。あからさまにエリザベスに反発することもない。ただ、姉と一緒にいたがらず、姉の言葉を聞かないというだけだ。
「二人とも元気ならいいの。でも、何か心配なことがあるのなら、いつでも相談してちょうだいね」
「ありがとうございます、王妃さま」
 エリザベスはぎこちなく答えた。アンに本当のことを言えるはずがない。
 心の中でセシリーへの怒りが増した。庇護を受けている宮廷ではしたない真似をした上に、ただ一つの仕事である王妃の相手さえおろそかにして。セシリーはエリザベス以上にアンを慕っていると思ったのに。
「何もございませんわ。セシリーは、今日は宮殿におりませんでしたの。友人たちとどこかへ出かけてしまったようですわ」
「いいことだわ。セシリーもだいぶここに慣れてきたようね」
 それはもう、大いに慣れてきたようですわ。友人どころか恋人というものまで自分で見繕ってしまうくらい。
 などということをアンに言えるはずもなく、エリザベスは無難な笑みを浮かべた。
「わたしも、いろんなことに慣れなくてはいけないわね。とても難しいことだけれど」
 アンが静かに言った。絶えず動かしていた針がいつの間にか止まっている。
 エリザベスは、久しぶりの夜会に顔を見せていたアンを思い出した。夫や友人たちに守られて緊張しながら来客の相手をしていたアンは、宮廷の女主人にはとてもではないが見えなかった。王冠を身につけて広間中の視線を集めていたあの時よりも、自分の居間でくつろいで針を手にしている今のほうが、不思議と王妃らしく見えるのだった。
「先日の夜会では、王妃さまのお姿を拝見できてみな安心したと思います。でも、ご無理をなさることはございませんわ」
 エリザベスは慎重に言葉を探した。あたりさわりのないことしか言えない自分が嫌になったが、他にアンを励ます言葉が見つからなかった。
 それでもアンは、心から感謝しているように嬉しそうに笑った。
「ありがとう。わたし、わかっているのよ。自分が宮廷に向いていないことも、けれどそんなわがままが許されないことも。ミドゥラム城にいた時は気楽にしていられたけれど、ロンドンではそうはいかないものね」
「それまでとは違った場所や環境には、誰でもすぐにはなじめないものだと思いますわ」
「でも、誰にでもそういうことは起こってしまうものなのね。二年くらい前は自分がここでこうしているなんて、思ってもみなかったわ」
 アンは手にした針に目を落とした。
 二年前のアンも、こうして座って誰かの話を聞きながら、勤勉に針を動かしていたのだろう。生まれ育った場所でもあるミドゥラム城で、ただ一人の息子をかたわらに座らせて。
 今、アンが座っているのは、ロンドンにあるウエストミンスター宮殿の王妃の居所だ。子どものかわりにたくさんの侍女に囲まれて、息子ではなく甥のための衣服を縫っている。
 エリザベスもそうだ。二年前の父がまだ生きていたころは、自分が元王の庶子として女官をしているなど考えてもみなかった。王の娘として育った宮廷で王の姉となり、そう遠くないうちに異国に嫁いでいくのだと思っていたのに。
「どんなに思いがけないことが起こっても、時間はそこで止まってくれないのね。すっかり様変わりした世界で生きていかなくてはならないのだわ」
 アンはそう言うと、また針を動かし始めた。

 王妃の居所から自分の部屋に戻ると、エリザベスは一人で机に向かった。返事を出しそびれていた母からの手紙をすべて並べてみた。
 あいかわらず、母の手紙には弟たちのことばかりが書かれている。二人には会えたのか、返してもらうことはできそうなのか、何か話だけでも聞いていないのか。
 無事に二人に会えたことを母には伝えておきたいが、セシリーに話せないのと同様に母にも話せない。そうして悩んでいるうちにも母からの手紙は溜まっていく。
 煮えきらない返事を書いて母を苛立たせるのが嫌で、リチャードにすべてを打ち明けて助けを求めたのに。弟たちには会わせてもらえたけれど、問題は何一つ解決していないのだ。けっきょく、エリザベスは母のためにも、弟たちのためにも、何かをできたためしがない。
 いったん思い出してしまうと、考えまいとしていたことが次々とよみがえってきた。
 一年ぶりに弟たちと会い、この腕に抱いた日から十日以上が経っている。セシリーのことをのぞけば、それ以前とまったく変わらない日々が過ぎていく。王妃と話し、廷臣たちと語らい、夜会で友人と踊る。あの夜のことは夢だったのではないかと思うほど平穏な毎日だ。
 記憶が揺らいでくるたびにあの夜のことを思い出し、弟たちの顔を、声を、抱きしめたぬくもりを胸に刻む。夢ではなかった。弟たちは確かに生きていて、今も元気に暮らしている。ロンドン塔で殺されているなどという話は、やはり根も葉もない噂に過ぎなかった。
 なぜ、殺されずに済んだのだろう。
 不安が消え去ると、今度は疑問が大きく膨らんできた。
 なぜ、リチャードは二人を生かしておいたのだろう。母との争いで確実に勝ちを得た今なら、殺さなければならない理由はほとんどない。しかし、以前は違ったはずだ。エリザベスたちが聖域を出る前、母や他の貴族はエドワード五世の復位を望んで、何度も反乱を企てていた。そうした時に二人の命を奪い、その死を国中に知らしめれば、反乱の大儀を潰すことができたし、将来の憂いを摘んでおくことにもなった。なぜリチャードはそうしなかったのだろう。母の報復を恐れたのだろうか。甥殺しの汚名を避けたかったのだろうか。
 そこまで考えて、エリザベスは身震いした。弟たちがこれまで生かされていたのは、小さな幸運がいくつも重なった結果だったのだ。一つでも何かが違っていたら、きっと永遠に二人には会えなかった。
 無事でいることはわかったが、再び二人に会える日は来るのだろうか。手厚く庇護されているとはいえ自由がないことに変わりはないし、王位争いで深く傷ついたままのエドワードのことも心配だ。母のところに返すことができないのなら、せめてエリザベスがたびたび会いに行ってやりたい。
 もう一つ、気がかりなことを思い出した。弟たちが母に書いた手紙はどうなったのだろう。聖域で母が書いた手紙に対して、弟たちはきちんと返事を書いていた。それが母のもとに届いていないということは、リチャードが故意に届けさせなかったのに違いない。母に読まれたくないこと――たとえば、弟たちが暮らしている場所――について書かれていたのだろう。今からでも取り戻せるものなら母に読ませてやりたいが、おそらく流出に備えて破棄されてしまっただろう。母のために拙い文字を綴った弟たちを、それを読みたがっていた母を思い、エリザベスの胸は痛んだ。そして、抑えていた怒りがよみがえってきた。
 仕方のないことだ。弟たちを守るためには二人を幽閉し、王位からも母親からも引き離すしかなかった。リチャードがしてくれたことは正しかった。その正しさを前に、エリザベスはあの時も何一つ言い返せなかった。
 リチャードがしたことを非難する権利など、エリザベスにはないのだ。これまでにもそうやって守られてきたのだから。
 十三年前、父が廃位と亡命を経て再び王位についた時、ランカスター家のヘンリー六世は王位を奪われて幽閉され、間もなくロンドン塔で生涯を終えた。当時は自然死と発表されたが、それが真実でないことは今のエリザベスにはわかる。父がそうまでして守ろうとしたものの中には、五歳だったエリザベスも含まれていたのだ。
 わからなかったわけではない。わかるのが恐ろしかっただけだ。ヘンリー六世は長く精神病を患い、幽閉された時にはそこがどこなのか、自分が誰なのかもわからない状態だったという。エリザベスの父はその老王から、王冠とそれ以上のものを奪った。エリザベスがこれまで自分のものとして受け取ってきたものは、すべて父が流血と引きかえに他人から奪ってきたものだった。そのことから目を背けておいて、リチャードを責められるわけがない。
 何も書かれていない手紙の上に額を載せ、目を閉じた。信じてきたこと、信じようとしてきたことがばらばらになってしまった。父、母方の親族、親兄弟との暮らし、王女として何の悩みもなく育った日々。エリザベスが大切にしてきたそれらはみんな壊れてしまって、二度と元には戻らない。父が生きていたころの世界を取り戻せるものなら、エリザベスはなんだってやるのに。
 思いがけないことが起こっても、時間は止まってくれない。様変わりした世界で生きていかなければならない。
 アンが言った言葉の意味は、エリザベスにもよくわかる。わかるということとできるということは別なのだ。たとえできたとしても、心のどこかがそれを認めない。王女ではなくレディと呼ばれ、かつて臣下だった人々と親しみ、顔に笑みを貼りつけて夜会で踊ることはできても、二年前までの自分が必死でそれに抗おうとする。
 ふと、宮廷に来たばかりのころのセシリーを思い出した。セシリーはエリザベス以上にリチャードを憎んでいた。両親の名誉を汚し、弟の王位を奪い、肉親を殺した者に養われることに屈辱を感じていた。その宮廷で恋愛というものにふけっているのは、彼女なりの反抗なのだろうか。女官として王妃に仕えることはできても、一生を決める結婚のことまで従うつもりはないというのだろうか。
 手紙は一行も進まなかった。母には弟たちのことはもちろん、セシリーのことも決して書けなかった。母は、娘たちのことは何一つ心配しなくてもいいと思っている。幼くて頼りない三女のことは長女に任せておけばいいと安心しきっているのだ。その長女が、宮廷で何を思って過ごしているのか、少しも考えようとしないまま。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.