テューダーの薔薇 [ 4−2 ]
テューダーの薔薇

第四章 王冠つきの娘 2
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 その日の夜会は、いつもにも増して盛況だった。廷臣たちはもちろん、外国の大使や地方からやってきた領主たちも残らず顔をそろえている。エリザベスとセシリーが宮廷に来た時の夜会と同じくらい、ことによってはそれ以上の人数で賑わっている。
 理由は、エリザベスから遠く離れた広間の上座にあった。王妃がそこに座っているのである。
「思ったよりお元気そうだわ」
 エリザベスと一緒にいた女官が言った。彼女は王妃付きの侍女ではないので、病床でのアンの姿は見ていないのだろう。
 アンは夫である王と並んで座り、次々にやってくる臣下たちの奏上を聞いている。遠すぎて表情はよく見えないが、手にキスを受ける時や短い言葉を返す時、緊張してつっかえているのが伝わってくる。しくじりそうになるたびに隣にいるリチャードが手を貸し、二人のまわりを腹心の側近たちがとりまいている。何重にも守られながらたどたどしく言葉をかわす王妃は、遠目に見ると幼い子どものようだった。
 エリザベスは冠を戴いているアンをはじめて目にしたが、広間にいる多くの者もその点は同じであるようだ。
「お体は大丈夫なのかしら。こんなにおおぜいの人の前に出られたら、ご心労もかかると思うのだけど」
 エリザベスと並んで上座を見つめながら、セシリーが言った。自分も人前に出るのは決して得意ではないくせに、もののわかった顔で人並みに王妃の心配をしている。
 実のところ、先ほどからエリザベスの頭の中は、アンよりもこの妹のことでいっぱいだった。
 内気で人見知りの激しかったセシリーだが、このところは社交にもだいぶ慣れてきたようだ。宮廷に来たばかりのころはいつもエリザベスの陰に隠れ、せっつかれてようやく挨拶をかわせる程度だったのに、今は初対面の相手とも短い会話ならできるようになっている。公爵家の従兄弟たちが気をつかってくれたおかげもあって、同年代の友人もいくらかできたようだ。エリザベスはそうした妹の姿を見てほっとしていたのだ。ようやく妹も宮廷になじみ、年相応の社交ができるようになってきたと。
 そうして喜んでいたところへ、従妹のあの話である。
 ぐうぜん見かけたのが従妹の侍女で幸いだった。従妹はエリザベスの他には誰にも話していないと言うし、侍女にも他言しないよう念を押してくれたという。今のところ別の誰かからそうした話は聞かないし、噂になっているような気配もない。従妹に打ち明けられてから数日間、エリザベスは問いただす時を決めかねながら、妹の動向をうかがっているところである。
 姉が気をもんでいるのも知らずに、セシリーは別の女官と楽しそうに話している。これまでのところ、セシリーに目立ってなれなれしく話しかけてくる男性はいない。今日は広間の関心が王妃に向いているので、エリザベスたちを囲みにくる若者の数も少ないほうだ。それでも手がかりが見つからないとは言い切れない。エリザベスはそつなく会話をこなしながら妹のほうをうかがい、耳慣れないことを話題に挙げていないか、意味ありげに視線をかわす相手はいないか目を光らせている。
 未婚でありながら男性と親しくなり、親の目を盗んで交流を続ける。そんな娘が少なくないことは宮廷人なら誰もが心得ている。それを、恋愛、と呼ぶことくらいはエリザベスでも知っている。
 もちろん、エリザベス自身はそれほどの恥知らずではない。父が生きていたころは常に決まった婚約者がいたし、王女という身分もあって軽々しく言い寄ることなど許さなかった。三つ年下の妹もとうぜん同じだと思っていた。
 今はエリザベスもセシリーも王女ではないが、そんなことは問題とは関係がない。というよりも、王女であったころよりもややこしい身分になってしまったと言える。
 従兄から聞いた話が頭の中を駆けめぐる。エリザベスやセシリーと結婚すれば、王冠がついてくる――と考える男性がいるかもしれないのだ。
 仮に、セシリーの相手がそのような野心を持っておらず、心からセシリーを愛してくれていたとしても、それはそれで厄介である。イングランド王の姪に求婚できるほどの地位や力がなければ、かわいそうにも二人は別れなければならない。たとえ身分が釣りあっていたとしても、名ばかりの女官として庇護を受けている宮廷で、セシリーが自分勝手に恋人をつくったと知ったら、国王夫妻や廷臣たち、そして母はどう思うだろう。
 噂になってしまう前に、エリザベスがなんとしても真相をつきとめ、ことによっては妹を戒めなければならない。そう思って神経をとがらせているにもかかわらず、手がかりになりそうなことは何ひとつ見つけられていない。
「レディ・エリザベス、レディ・セシリー」
 また一人、エリザベスとセシリーに近づいてくる男性がいる。エリザベスは挑むような気持ちで目を向けたが、そこに見つけたのは見覚えのある顔だった。
「ごきげんよう、ラヴェル子爵」
 先日はお世話になりました、と言うべきかと思ったが、まわりにいる人々のことを思い出してやめた。子爵もにこりとしただけで、余計なことは何も言わなかった。
「陛下がたのおそばにいらっしゃらなくてよろしいのですか?」
「他の頼もしい方々がついていますから。わたしはこういった場所は、あまり得意ではないのです」
「あら、そんなことはないはずですわ」
 エリザベスはにっこり笑った。
 国王夫妻の友人にして腹心の側近、フランシス・ラヴェル子爵は、宮廷人たちが今もっとも気を引きたがっている人物の一人である。現に子爵が話しかけてきたとたん、集まってくる視線が倍ほどに増えたことがわかる。本来なら上座の王と王妃のそばにいてもいいものを、わざわざそこを離れて群衆の中に紛れ込んだのだからなおさらだ。話しかけた相手が王の姪たちときては、いっそうまわりの関心を引くのは当然である。
 当の子爵は、自分が広間の空気を動かしたことなど気にしていないようだった。もしかしたら気づいてさえいないのかもしれない。そう思わせるほど屈託のない様子で、エリザベスに笑いかけた。
「いいえ、本当なのです。上座にいるとどうにも落ち着かないので、なけなしの忠誠心を捨てて逃げてきたところですよ。今ごろ陛下がたはわたしを裏切り者と見なしていらっしゃるに違いありません」
「まあ、それはたいへんな悲劇ですわね」
 エリザベスは笑いながら、子爵の表情を観察した。これだけの言葉がすらすらと出てくる人間が、社交ぎらいであるはずがない。自分ひとりを悪者にして、誰も傷つけずに人を笑わせるのはたやすいことではないのである。
 親しさからもこの物なれた様子からしても、リチャードは彼を近くに置きたがっているのではないだろうか。今日は王妃が慣れない社交に久しぶりに臨んでいるところである。そのような時に、子爵があえて国王夫妻のそばを離れ、エリザベスに近づいてきたのはなぜだろう。リチャードが何かを命じたのか、それとも子爵自身の意志なのだろうか。十日前のことと何かかかわりがあるのだろうか。
「ラヴェル子爵が裏切り者だなんて、そのようなことがあるはずがございませんわ。子爵は陛下がたとは昔からお親しくしていらっしゃったのでしょう」
 深読みしようとしていても埒が開かない。エリザベスは、十日前のことをほのめかすのはやめて、当たり障りのない話題を選んだ。
「ええ、アン王妃の父君のもとで学ばせていただきました。当時は王弟グロスター公だった陛下と知り合ったのもその時です。いま陛下のおそば近くに仕えている者のほとんどは、当時ミドゥラム城でともに学んでいた仲間たちです」
「それでは、ずいぶんと長いご交友ですのね」
「ええ」
 子爵は上座のほうに視線をやった。つくりものではない笑みがその顔に浮かんでいた。
「今も昔も変わらない仲間です。アン王妃と姉君のレディ・イザベルも、われわれの大切な友人でした」
 広間では音楽がかかり、若者たちを中心に舞踏が始まっている。エリザベスの左右にいた女官たちも誘い出されて中央に進んでいく。
 子爵はそれに気がつくと、居住まいを正してエリザベスと向きあった。
「踊っていただけませんか、レディ・エリザベス。半年前から申し込んでおかなければ無理でしょうか」
「そのようなことはございませんわ」
 エリザベスはくすりと笑った。この程度の世辞を言われるのには慣れている。
「あなたはいつの夜会でもたいへんな人気だそうではありませんか。この宮廷では、王に拝謁することの次に難しいのが、レディ・エリザベスと踊ることだ、などと言われておりますよ」
「まあ、そんなこと」
 抜け目のない人だ、とエリザベスは思った。やはり、宮廷が苦手だというのは事実ではないに違いない。エリザベスに聞かせる世辞の一つ一つが、ロンドン育ちの貴族のそれとまったく変わらない。
 だが、決して不愉快ではなかった。国王夫妻のもとを離れてエリザベスに近づいてきた真意はつかめないが、少なくとも王の姪の気を引きたいなどという野心は抱いていないはずである。子爵はそんなことをせずとも、王自身の知遇をじゅうぶんに得ているのだから。もしかすると、エリザベスのことを心配して声をかけてくれたのかも知れない。十日前の夜も彼はずいぶんと親切にしてくれた。
「場慣れしないわたしが夜会で一人にならないよう、お優しいみなさまが気をつかってくださるのですわ。喜んでお受けいたします、子爵。わたしのほうこそ、誰もがお近づきになりたがる方と踊れて光栄ですわ」
 エリザベスは膝を折り、子爵の差し出した手に触れようとした。
 広間に満ちていた音楽が少しずつ小さくなり、やがて完全に消えた。人々の視線がいっせいに上座に向いている。国王夫妻が退席するようだった。
「レディ・エリザベス、とても残念ですが――」
 子爵が表情を変え、上座とエリザベスを見比べている。
 エリザベスはにこりとした。
「王妃さまがお相手では、わたしは取り残されても仕方がありませんわ。どうぞ、いらっしゃってくださいませ」
「申し訳ありません。ぜひ次の機会に」
 子爵は短く言うと、退席する国王夫妻に従おうと上座に向かっていった。
 広間にいる全員が二人を見送るために姿勢を低める。エリザベスも同じようにしながら、瞬間的に思い出した。セシリーはどこにいるのだろう。子爵が話しかけてきた時は隣にいたはずなのに、気がつくと姿が見えなくなっている。とっさに広間じゅうを見回しそうになったが、王と王妃が完全に見えなくなるまでは動けない。視線だけをゆっくり左右にめぐらせると、妹の顔がかろうじて目の端にとまった。
 セシリーは、エリザベスが話したことのない数人の男女に囲まれて、優雅に見送りの姿勢をとっていた。

 部屋に戻ったのはエリザベスのほうが後だった。セシリーをつかまえて一緒に帰るつもりだったのに、話しかけたり誘ったりしてくる人々をあしらっているうちに、また妹の姿を見失ってしまったのだった。セシリーのほうも何人かと話したり踊ったりしていたが、エリザベスが気がつくと広間からいなくなっていた。
 ようやく部屋に着くと、エリザベスは探していた顔に出迎えられた。
「エリザベス。遅かったのね」
 妹は姉にそう言ったが、セシリーもいま部屋に入ったばかりのようである。結い上げた髪をていねいにほどいて梳き下ろしている。
「先に帰るなんてめずらしいわね、セシリー。何かあったの?」
「ごめんなさい。声をかけていこうと思ったのだけど、あなたはどなたかとお話していたから」
「謝らなくてもいいのよ。ただ、何かあったのではないかと思ったの」
「何もなかったわ。仲良くなった人たちと一緒に広間を出てきただけよ」
 エリザベスは妹を見た。広間と違ってこの部屋にはほとんど明かりがない。小さな燭台と月の光だけが頼りだが、窓を背に立っているセシリーの顔はよく見えなかった。ただ、立ち姿は月明かりの中にはっきりと見ることができた。
 妹は美しかった。もともとエリザベスと同じくらいあった背丈が、姿勢正しく立つことでさらにすらりと高く見えた。ほどいた金髪が肩から胸へ流れ、深い緑のドレスの上で白く輝いていた。
「仲良くなった人たち?」
 エリザベスは思わず訊いた。妹の姿に見とれていたため、思わず強く言ってしまった。
「エリザベスも知っている人たちよ。どうしたの、ベス?」
 セシリーは小首をかしげた。本当に思いあたることがないようだった。
 エリザベスは言葉を呑み込み、一瞬、迷った。妹に訊くべきか、訊かないべきか。
 従妹の侍女が見かけたという話を、その従妹が教えてくれただけなのだ。噂にもなっていなければ、セシリー自身にもおかしなところは見られない。そもそもが考えられないような話である。何かの間違いだったのではないだろうか。その侍女が何かを、あるいは誰かを見間違えたのではないか。
「良くない話を聞いたのよ、セシリー。あなたのことで」
 エリザベスは思いきって声を出した。間違いなら間違いで、セシリー自身にはっきり否定してほしい。
「わたしのこと? なあに?」
「あなたが殿方と二人で歩いているのを、たまたま見かけた人がいるのですって」
 こんなことを言ったらセシリーはびっくりして、あわてて否定するはずだ。ひょっとしたら泣いてしまうかもしれない。姉に信じてほしくて、必死で自分の潔白を訴えようとするだろう。
 そうなったら、もちろんエリザベスは妹を信じてやり、おかしなことを言ったりしてごめんねと謝るのだ。
 セシリーはすぐには答えなかった。返事が返ってくるまでを待つ間が、エリザベスには一晩中のように長く思えた。
「本当ではないわよね。あなたはそんなはしたないことをする娘ではないでしょう?」
 どうかうなずいてくれますように――というエリザベスの願いを振り切るかのように、セシリーはくすりと笑った。笑ったように見えた。
「愛する人と一緒にいることが、はしたないことだと言うの?」
「セシリー!」
 エリザベスは叫んだ。
 身を持ち崩した恥知らずの娘たちは、決まってこんなことを言うのだ。恋に落ちたのだから仕方なかっただの、愛しあうことは悪いことではないだの。
 けれども、まさか、あのセシリーが。家族以外の人間に話しかけられると緊張してしまい、目を合わすことさえままならなかった内気な妹が。
「本当ではないのでしょう? 何かの間違いなのでしょう? あなたがそんなことをするなんて」
「そんなにいけないことかしら。宮廷女官ならみんなやっていることだわ」
「わたしたちはただの女官ではないのよ、セシリー!」
 社交界で結婚相手を見つけるため、あるいはただの行儀見習いのために宮廷に出仕している娘なら、確かに一度くらい羽目を外してしまうこともあるだろう。だが、エリザベスとセシリーは違う。地方の領主や豪商の娘などではなく、かつては王女と呼ばれていた身分だ。王位をめぐって争った母と現王の和解を世に知らしめるためにここにいるのだ。王妃によく仕え、廷臣たちとうまく付き合い、礼儀を守って宮廷になじんでいけば、そのうち王が良い縁談を世話してくれるというのに。勝手に親しい男性をつくり、あろうことかそれを愛などと呼ぶなんて。
「相手はいったい誰なの? 答えなさい、セシリー」
「いやよ」
「では、もう会わないと誓いなさい。今のうちに別れれば、あなたも相手も傷つかずに済むわ」
「いや」
「セシリー!」
 エリザベスが再び叫ぶと、セシリーは黙った。何かを考えるように少し俯いてから、再び姉に顔を向けた。
「元気になったみたいね、ベス。このあいだまであんなに悩んで、よく眠れていないみたいだったのに。でも、何にそんなに安心したのか、わたしには話してくれないのね」
 急に目を覚まされた思いだった。弟たちの身を案じるあまり体調を崩し、妹や友人たちに心配をかけたのはつい最近のことだ。無事に会えてからはひとまず安心し、夜に眠れないようなこともなくなった。しかし、それを妹に話しておこうなどとは思ってもみなかった。
 弟たちのことを気にかけていたのは、セシリーもエリザベスと同じだ。宮廷にいる王の二人の姪のうち、一人は弟たちに会わせてもらえたのに、もう一人は安否すら知らされずにいるということになる。
 迷いがエリザベスの中を駆けめぐった。弟たちは無事で、元気で、大切に守られているということを、セシリーにも教えてやりたい。けれどもそれを話せば、どこで弟たちと会ったのかという話になる。弟たちがロンドン塔にいないということは、宮廷でも一握りの人間しか知らないのだ。エリザベスが自分の一存で他言していいはずがない。
「話してくれないのはいいの。でも、あなたがそうやって隠しごとをするのなら、わたしだってあなたに秘密を持っていてもいいはずだわ」 
 セシリーは、姉が何かに迷っていることに気づいたはずだった。しかしそのことには触れず、落ち着いた様子でこう言った。
 エリザベスは何も言い返せなかった。それとこれとは話が違うと言いたかったが、自分だけ弟たちに会えたという負い目がそれをさせなかった。
「セシリー」
「おやすみ、ベス」
 セシリーは姉の呼びかけを遮り、体の向きを変えた。月の光が顔にあたり、ほほえんでいるのが見えた。
 妹は一人で寝室に去っていった。


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