テューダーの薔薇 [ 4−1 ]
テューダーの薔薇

第四章 王冠つきの娘 1
[ BACK / TOP / NEXT ]


 ロンドンはゆっくりと夏に向かっていた。宮廷人たちは毎日のように騎馬で駆け出し、快い季節が過ぎ去っていくのを惜しんでいる。
 エリザベスとセシリーも、サフォーク公爵家の従兄弟たちに誘われて、ピクニックに出かけることになった。
 馬での遠出は久しぶりだった。鞍の上で小気味よい揺れに身を任せていると、美しい緑が左右を流れていく。父が生きていたころは毎日のようにこうして駆けていたものだ。ラドロウ城にいた弟に代わって父の狩猟や遠駆けに付き従うのは、まだ幼い下の弟ではなく娘のエリザベスだった。
「このあたりでいいだろう」
 先頭を切っていた従兄が馬を止めた。平たい芝の上を木陰がやさしく覆っている場所だ。
 一行は次々に馬を下り、エリザベスもそれにならった。馬から下ろした荷物を広げ、全員がくつろげる場所をつくる。一緒にやってきたのは公爵家のリンカン伯ジョン、エドワード、エドマンドの三兄弟に、彼らの姉妹エリザベス、そして王の庶子のジョンだ。
「ジョン、剣術を見てあげようか」
 エドワードに声をかけられて、ジョンはぱっと顔を輝かせた。
「はい。お願いします」
「エドマンドもおいで。二人で手合わせしてみよう。こっちだよ」
 少年たちが年長者に呼ばれて駆け出していく。エリザベスはそれを見つめながら、従兄が用意してくれた場所に座った。
 剣の音と勇ましい掛け声が聞こえてくる。近くでセシリーが従姉妹と話しながら軽やかに笑っている。季節が変わる前の最後の恵みとばかりに、あたたかい日ざしが惜しげもなく降りそそぎ、ときおり通る風がそれをほどよく冷やしていく。
 エリザベスは少年たちの手合わせを見ながら弟たちを思った。一年ぶりに再会できた夜からもうすぐ十日が経つ。無事の姿を見ることができてからは気が抜けてしまい、深くものを考えられなくなっていた。
 急に、エリザベスのまわりだけ影が濃くなった。顔を上げると、少年たちのそばにいたリンカン伯がいつの間にか隣に立ち、エリザベスを見下ろしている。
「稽古をつけてあげないの?」
「エドワード一人でじゅうぶんだ」
 従兄弟どうしの少年たちによる勇敢でかわいらしい声は、今も途切れることなく聞こえてくる。
「隣に失礼していいかな」
 エリザベスは年上の従兄のために、少し寄って場所を譲った。
 二人は並んで座り、のどかな光景を見守った。しばらくの間はどちらも何も言わなかった。
「子爵とずいぶん親しくなったようだね」
 この日の陽気にふさわしい穏やかな声で、リンカン伯は言った。
 エリザベスは顔を上げた。この宮廷で話題にのぼる子爵と言えば、王の側近のフランシス・ラヴェルしかいない。彼とそれほど親しくした覚えはないが、十日近く前に確かに世話にはなった。
「なんのことを言っているの?」
「睨まないでくれ。きみが慎み深い淑女だということはよく知っているよ。夜会が行われている時間に宮廷を抜け出して、妻のある男性と馬車で出かけたのは、よほどの理由があってのことだったのだろう」
 宮廷人らしい、本音を包み隠したまわりくどい言い回しだ。他の場面でこのようなことを言われれば、黙って席を立つところである。今のエリザベスはそうはしなかった。
 答える言葉を探しながら、相手の目を見つめた。従兄は悪意のない笑みを浮かべた。
「わたしが子爵とどこに出かけたのか知っているのね」
「ああ。そこできみが何をしたのか――何を見たのかも知っている」
 エリザベスは大きく息を吐き出した。なんとなく、体の力が抜けてしまった。
「あなたは知っていたのね。陛下があなたにお話しになったの?」
「わたしに、というより、わたしの両親にね。二人の移送先が決まる前のことだ」
 リンカン伯の母親はエドワード四世の上の妹で、リチャードにとっては姉である。リチャードは甥たちを匿う場所について、姉夫婦にも相談していたということか。
 エリザベスは気の抜けた心地で再び従兄を見た。はじめから彼に尋ねていれば良かったのだろうか。もちろん、そんなことはできるはずがなかったけれど。
 少年たちの掛け声に、従兄弟のエドワードの言葉がかぶせられる。エリザベスたちから少し離れた場所では、セシリーが従姉妹と笑っている。鳥たちが全員の上に澄んだ歌声を注いでくれている。
「きみが心配していたことも知っていた。本当のことを知らせて安心させてやりたかったけれど、わたしの独断で話すわけにはいかなかったんだ。すまなかった」
「いいのよ。わたしが一人で考えすぎていたんだわ」
「本当に思っていたのか? ――彼らがもう生きていないと」
 エリザベスは黙ってうつむいた。
 リンカン伯は巧みに言葉を選んで、決定的なことを口に出さないようにしている。そうでなくても、他の従兄弟たちは離れた場所でそれぞれに楽しんでいるので、二人が話していることは耳に入らないだろう。
「彼らにはもう王位継承権がないんだ。今さら二人を消したところで、陛下が新たに得るものなど何もない」
「それは、わたしも考えたわ」
「では、これはどうかな。陛下がもし、王位のために兄の子を消さなければならないとしたら、それは幽閉されている二人ではなく、他にいる」
 エリザベスは顔を上げた。本気で考えかけて、すぐに思い当たった。
 従兄はかすかな笑みを浮かべて、エリザベスの目を見つめている。
「わたしのこと?」
「そうだ、未来のリッチモンド伯妃。女には王位を狙うことはできないが、夫となる男に野心を抱かせることはできる」
「――伯妃ではないわ。ただのテューダー夫人よ」
 エリザベスは冷たく言った。ヘンリー・テューダーはリッチモンド伯爵位を剥奪されているし、そもそも彼はエリザベスの夫ではない。
「わたしがヘンリーと婚約しているから、陛下がわたしを目ざわりに思うと言うの? それならわざわざ殺さなくたって、他の殿方に嫁がせれば済む話じゃない」
 自分で話しながら、エリザベスの中で苛立ちが増した。
 本当にそうなのだ。ヘンリーとの婚約を理由にエリザベスを疑うくらいなら、母との約束など律儀に守っていないで、さっさと別の夫を見繕って嫁づけてしまえばいいのだ。
 エリザベスは健康で容姿もいいし、フランス王妃になるために学んで身につけたものもある。エドワード四世の娘として臣民にも人気がある。どこに嫁いでも、実家と婚家のために務めを果たせる自信はある。
 リチャードもそれはわかっているのだろう。ヘンリー・テューダーとの婚約は早々に切らせて、自分の持ち駒として廷臣や側近と縁づかせたいはずだ。
「陛下はそれほど、ヘンリーを脅威に感じていらっしゃるの? 海を隔てた向こうの大陸にいる人よ」
「ヘンリーのことは別にしても、きみやセシリーが独り身で宮廷をうろついているのを良く思わない者はいる」
「どうして」
「たとえば――ヘンリーと同程度にプランタジネットの血を引いている貴族がいたとする。彼はふとしたことから今の王権に不満を感じて、自分が王位を請求してもいいのではないかと考えるんだ。リチャード二世陛下の廃位以来、そういったことは繰り返されてきたからね。そして彼がついに決意した時、目の前に先々代の王の娘がいたら、彼や彼の腹心たちは何を考えると思う? たとえその娘に王位継承権がなかったとしても、法律など結婚した後でいくらでも変えられる」
 エリザベスはすぐに意味を悟ったが、答えなかった。
 莫大な財産や領地の女子相続人と結婚した夫は、妻の権利によってそれらの所有を主張できる。王位争いという特殊な舞台ではなくても、そうした駆け引きは常に行われているのだ。
「すまない、嫌な気分にさせたかな」
 エリザベスの不機嫌を見抜いて、リンカン伯が声色を変えた。
「もちろん、王位を狙うつもりなどなかったとしても、きみの美しさだけで結婚したいと思う男はいくらでもいるさ」
「お優しいお言葉ありがとう。美しい上に財産つきならなおのこと結構ね」
「財産どころではない。ついてくるのは王冠だ」
 エリザベスはうんざりした。王である父が亡くなっても、庶子の身分に落とされても、王位をめぐる人々の思惑からは逃れられないのだ。
 せめて、弟たちの無事がわかった今は、煩わしいことを考えずにいたいというのに。
「そんなに王冠がお好きなら、あなたこそわたしを口説いて王位を狙ってみたら?」
「いや、その必要はない」
 投げやりな気持ちで皮肉を言ったにもかかわらず、返ってきた声は思いのほか真剣だった。
「わたしはエドワード四世とリチャード三世の甥で、第三代ヨーク公の孫の一人だ。妻の権利などなくても自ら王位を請求できる」
「待って――どういうこと」
 エリザベスは声を低めた。頭から冷水を浴びせられたような気分だった。この従兄は安全だと思っていたのに。
「本気ではないのでしょう? あなたが王位を――なんて、そんな」
「いや、本気だよ。そんな青い顔をしないでくれ、きみが心配しているようなことは起こらないから。わたしが言っているのは、陛下がわたしを後継者に指名してくれるという話だ」
 いったん安心しかけたが、ますます話がわからない。
「後継者ならもう決まったではないの。ジョージ叔父さまのご子息に」
「あれは一時的なつなぎだろう。あの子には王位を継ぐことはできないと思うよ」
「そうなの?」
「ああ、従弟のことを悪く言いたくはないが、彼にはその、少し――弱いところがあるらしいからね」
 リンカン伯はあいまいに笑い、言葉を濁した。それでエリザベスにも察しがついた。
 シェリフ・ハットンにいるクラレンス公ジョージの遺児、王位継承者に指名されたエドワードのことは、エリザベスも風の噂に聞いていた。それによると健康上はまったく問題がないが、知恵や知能といった点は『あまり芳しくない』とのことだった。
「だから、次の後継者はあなたということ? 叔母さまたちはご存じなの?」
「もちろん知っているし、それなりに喜んでもいるよ。母も父も」
 エリザベスは夜会で見た義理の叔父の顔を思い出した。少なくとも、サフォーク公爵家はリチャードと悪くない関係にあるらしい。
 シェリフ・ハットンのエドワードであろうが、サフォーク公爵家のジョンであろうが、ヨーク家の王位がリチャードから甥へ、平和のうちに譲り渡されるのは望ましいことだ。
 エリザベスは十日近く前に会った弟のことを考えた。背が高く、たくましく、父の世継ぎだった時よりはるかに賢くなったエドワード。それなのに、王冠はまた彼の頭上を素通りしていくのだ。
 弟のことを考えると、同時にさまざまなことを思い出しそうになる。母のこと、王位のこと、あの朝にリチャードから聞いた話。
 エリザベスはぎゅっと目をつむり、また開いた。今は考えたくない。もう少しだけ休んでいたい。
 エリザベスが目を開けたと同時に、近くで控えめな拍手が起こった。少年たちが決着をつけたのだ。ジョンとエドマンドが息を弾ませながら駆けてくる。
「勝敗を見逃したな。どちらが勝ったんだ?」
「ジョンだよ」
 エドマンドが悔しそうに、けれど潔く従兄弟を指した。ジョンははにかんだように笑った。
 稽古をつけていた年長のエドワードが、二人の後ろからやってきた。
「二人ともよくやった。ジョンはすごく呑み込みがいいんだ。言われたとおりに体がすぐ動く」
「わかりやすく教えてくださったおかげです」
「少し休んでまたやる? それとも、今度は馬に乗ろうか?」
 二人の少年は顔を見合わせ、同時ににっこりした。
「馬!」
「よし、こちらにおいで。エリザベスも来ないか?」
「わたしは遠慮するわ。ここで見ていたいの」
「では、レディにお見せできるような馬術をやろう。おいで、ジョン、エドマンド」
 エドワードに率いられて、二人がつないである馬のほうへ駆けていく。この晴天の下では一瞬たりともじっとしていられないようだ。
「ジョンは、いい子だな」
 隣でリンカン伯がつぶやく声がした。彼の視線も、去っていく弟たちと従弟に向けられている。
「ほんとうね。あの子を見ていると励まされるわ」
 エリザベスも心から言った。この宮廷に来てからの短いあいだ、あの年下の従弟に何度も元気づけられた。
「あの子に王位を継ぐことができたら、誰にとってもそれがいちばん良かったのだろうな」
 エリザベスは少し驚いて従兄を見た。たった今、自分が王位を継ぐ可能性について嬉しそうに語った彼は、心から残念そうに王の庶子を見ていた。
 王太子の急逝のあと、同じことを考えた者は何人もいただろう。ジョンは現王の甥どころか、今やただ一人の子息である。心身ともに健やかで、学問にも武芸の稽古にも熱心で、目をみはる早さで成長している。素直で気だてが良く、誰とでもすぐに打ち解け、育ての母である王妃にもかわいがられている。そのジョンに王位を継ぐことができないというのは、イングランドにとってもヨーク派にとっても不幸なことに違いない。
 ジョン自身はそのことに気づいているのだろうか。他人の心の動きに敏い彼のことだから、たぶん気がついているのだろう。気づいたところで、彼にはどうすることもできないのだ。
 エリザベスは考えるのをやめ、座り直した。
「ここは素敵なところね。下の妹たちも連れてきてあげたかったわ」
 振り返ってみると、この日にふさわしくない話ばかりをしてしまっていた。あらためて目の前を見つめると、果てしなく続いていく緑が美しかった。強い風が通り抜け、エリザベスたちの下の木陰を揺らす。
「今度はきっと連れてきてあげよう」
 従兄はおおらかに笑った。
「伯母上だって、そろそろ宮廷に顔を出してもいいのではないか。聖域を出てきてからずいぶん経つだろう」
「そうね」
 エリザベスはあいまいに答えた。
 少年王を間に挟んでの義姉弟の確執は、宮廷の人にとっては過去のできごとになりつつあるようだ。エリザベスとセシリーが宮廷になじんできたことも関係しているのかもしれない。夜会でも、エリザベスに母のことを尋ねる者が少しずつ増えてきていた。リチャードとその妃のアンは、はじめから母が宮廷に来ることを歓迎している。
 当の母にとってはどうだろう。エリザベスは、部屋に残してきた手紙の束を思い出す。弟たちに会えたことは、まだ母には伝えていない。
 従兄との会話をやめ、少年たちの馬術を眺めていると、隣に別の人物が座った。セシリーかと思ったが、先ほどまで彼女と話していた従妹だった。音も立てずにエリザベスのそばに寄り添い、そっと顔を近づけてきた。
「エリザベス。少しいいかしら」
「なあに?」
「ここでは話したくないの。あちらで」
 エリザベスは従妹に促され、座っていた場所から離れた。入れ違いにセシリーが腰を下ろすのが視界の端に映った。
 従妹はエリザベスを、大きな木の裏側へ連れていった。他の者たちに聞かれないことを確かめてから、ささやくような声で切り出した。
「伝えておきたいことがあったの。もし、何かの間違いだったら申し訳ないのだけれど」
「何かしら」
「セシリーのことなの」
 従妹はエリザベスの耳元に顔を寄せ、手短に語った。ささやき声の上に風の音が重なった。
 顔が離れると、エリザベスは目を見開いて従妹を見た。
「ほんとうなの?」
「間違いなくレディ・セシリーだったと、侍女は言っているの。その――もう一人のほうは、わからなかったって」
「わかった。わたしが確かめておくわ」
「侍女には口止めしておいたわ。彼女の勘違いならいいのだけれど」
 従妹は心配そうに眉をひそめた。彼女は人を傷つけるような嘘をついたり、面白半分に噂を流したりする性格ではない。だからこそ、こうして人目を避けてエリザベスだけに打ち明けてくれたのだろう。
 それでも信じられないという気持ちで、エリザベスは振り返った。視線の先には、はにかみながら従兄弟たちと談笑している妹がいる。
 あのセシリーが、男性と二人だけで宮殿を歩いていたなどと、とても信じられるものではない。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.