テューダーの薔薇 [ 3−7 ]
テューダーの薔薇

第三章 ロンドン塔の王子たち 7
[ BACK / TOP / NEXT ]


「エリザベス」
 誰かが名前を呼んだ。
 エリザベスは目を開け、大型の椅子の上で体を起こした。いつの間にか眠っていたらしい。
 部屋の中は暗く、窓から入りこむ月光の他に明かりはない。
 エリザベスは椅子から下りた。使用人たちが気遣って近づいてくる気配がしたが、それには構わず声のしたほうへ進んだ。厚みのある天蓋をあけ、足音を立てずに中に入る。
 大きな寝台の中央には、数日前から寝ついた父、エドワード四世が体を横たえていた。
「エリザベス」
 父が再び呼んだ。蝋燭の明かりに照らされて、かたく目を閉じている。
「お母さまは隣で休んでいるわ。呼んできましょうか、お父さま?」
「いや。おまえを呼んだのだ、ベス。そばに来てくれ」
 父は目を開け、エリザベスの顔を見るとほほえんだ。
 エリザベスは寝台に近づき、父の顔に触れた。髪が汗で湿り、額や頬に貼りついている。この数日間、父の身を苛んでいる高熱は、いまだに少しも引こうとしていない。
 父が臥してからというもの、母は一睡もせずこの場所に付き添っていた。娘や侍女に説かれてようやく休むと言ったものの、自分の寝室には戻らず隣室に寝床をつくらせて休んでいる。
「ラドロウ城に使いを送ったのよ、お父さま」
 エリザベスは父の顔を覗きこんだまま、明るい声を出した。
「エドワードはすぐにロンドンに帰ってくるはずよ。だから、早く良くなってくださらないといけないわ」
 エリザベスは、自分の声がどんなふうに響いているのか知っていた。天蓋の外でそれを聞いている使用人たちが、ひそかに涙を浮かべていることも知っていた。弟のエドワードが今すぐラドロウ城を発ったとしても、決して間に合わないだろうということもわかっていた。
 それにもかかわらず、父は満足そうな笑みを浮かべた。愛する娘の言うことならなんでも信じられるとでもいうように。
「わたしのベス、おまえにふさわしい夫を見つけてやれなかったのが残念だ」
「これから見つけてくださるのでしょう?」
「フランス王よりも素晴らしい相手が見つかるだろう。この手でおまえを彼に託してやりたかった」
「そんなことを言うのはやめて」
「言うのをやめたところで何も変わらないよ、ベス。でも怖がらなくていい。わたしにできなかったことはリチャードがやってくれる。リチャードにすべて任せておけば、何も心配はいらない」
 ロンドンから遠く離れた領地にいる叔父の名前が、父の口からこぼれ落ちた。
 エリザベスは笑うのをあきらめ、父の枕元に顔を伏せた。叔父がロンドンにやってくるのは、エリザベスの幼い弟を補佐するためだ。弟が王座を継ぐ時が迫っている。父は王座から、イングランドから、エリザベスのそばから去ろうとしている。
「エリザベス」
 頭に父の手の感触がした。
「おまえたちと別れるのは寂しいが、おまえは何も怖がることはない。お父さまがいなくなった後も、おまえは幸せに生きていけるよ」
「お父さま」
 エリザベスは顔を上げ、父のほうを見た。
 父はゆっくりとほほえみ、歌うように言った。
「わたしのベス、わたしの宝石」

 それから一年以上が経った今、エリザベスは再びイングランド王と向かいあっている。父でもない、弟でもない、まったく別の王がエリザベスの前に座り、その位につくまでのことを話そうとしている。
「きみの父上の訃報が届いた時、わたしは北部にある自分の領地の城にいた」
 リチャードは言葉を一つ一つ選ぶように、ゆっくりと始めた。
「その時点で、すでに十日近くが過ぎていた。わたしは家臣を連れてヨーク大聖堂に行き、エドワードのためにミサをあげた」
 エリザベスの胸が、忘れかけていた小さな痛みを思い出す。この人は父の臨終にも、葬儀にも間に合わなかった。そのことを思うたびに、同情のような、罪悪感のような、いてもたってもいられない気分にとらわれる。
「ロンドンの情勢が伝わってきたのはその後だった。当時の様子についてはきみのほうがよく知っているな」
「はい、陛下」
 リチャードが前王の死を悼んでいたころ、エリザベスの母とその親族は、すでに戦いを始めていた。王室の財宝を押さえ、艦隊を支配し、多くの兵を召集したのは、母の弟や前夫との息子だった。そして、ラドロウ城にいた親族と連絡を取り、一刻も早く新王をロンドンに、と急きたてたのは母だ。エドワード五世を母方の親族だけで囲い、その庇護のもとで戴冠式を挙げられるように。
 エリザベスは後で知ったことだが、諮問会議では父の遺言までもが破られようとしていた。リチャードを新王の摂政にはせず、諮問会議そのものが国政を司ると決まったのである。戴冠式の挙行を急いだのもリチャードの上京に先んじるためだった。廷臣の中にはもちろん、これに異を唱える者もいた。
 エドワード四世の側近だったヘイスティングス男爵――ウィリアム・ヘイスティングス卿がその筆頭だった。
「ヘイスティングス卿がわたしに使いを送って、ロンドンで起きていたことを知らせてくれた。彼は諮問会議で孤立に近い状態にあったようで、早急にロンドンに向かってほしいとわたしに言ってきた」
 ヘイスティングス卿は父がもっとも信頼した臣下の一人で、私的にも親くしていた友人のような存在だった。エリザベスのこともずいぶんかわいがってくれたが、母やその親族のことは良く思っていなかった。身分の低い女が美貌で王をたぶらかし、その一族だけで富や地位を独占したと恨んでいたようだ。
 父が間にいた時は小さな溝で済んでいたが、その急逝で大きな亀裂が生じてしまった。ヘイスティングス卿は前王の遺言を守るべきだと主張したが、諮問会議の多くは母の一族の味方についた。
 破れたヘイスティングス卿は、イングランド北部にいた王弟に助けを求めたらしい。
「わたしは六百ほどの兵を集めてヨークを出発した。きみの弟がラドロウ城を後にしたのと同じ時期だったと思う。道中で使いを送り、ロンドンまで新王の護衛につきたいと申し出て許されたので、ノーサンプトンできみの弟と合流することになった」
 ノーサンプトンという地名を聞いて、エリザベスは一瞬、凍りついた。そこで何が起きたのかを今のエリザベスは知っている。
「ノーサンプトンに先に着いて新王の到着を待ったが、現れたのはきみの叔父上のリヴァーズ伯だけだった。新王と他の側近や護衛は、ストーニー・ストラトフォードに残してきたそうだ」
 エリザベスは息を呑んだ。アンソニーは甥である少年王と別れ、単身でリチャードのいるノーサンプトンに赴いたのか。
「わたしは彼に宿泊をすすめ、居合わせた者で会食することになった。その席でリヴァーズ伯がロンドンの詳しい情勢を話してくれた。わたしがヘイスティングス卿から書簡を受け取っていたように、彼はきみの母上と連絡を取りあっていたのだろう。翌日の早朝、わたしは伯を捕らえて監禁した」
「はじめから、そのおつもりだったのですか?」
 話が始まってからはじめて、エリザベスは口を挟んだ。
 リチャードの話はただ事実を追うばかりで、彼が何を考えていたのかがまったくわからない。
「はじめから、リヴァーズ伯を捕らえるために、彼を一泊させたのですか」
「捕らえるべきだと考えたのは、伯からロンドンの話を聞いてからだ」
「理由をお訊きしてもよろしいでしょうか」
 リチャードは視線を落とし、しばらく沈黙した。
 エリザベスにも理解できる言葉を探しているのだろうか。それとも自分の、あるいはアンソニーの名誉を守ろうとしているのだろうか。
 けっきょく、リチャードは簡潔に語った。
「きみも知ってのとおり、この時点でロンドンは二派に分かれていた。きみの母上の親族と、それに敵対する者と。リヴァーズ伯は前者に、わたしは後者に属しており、ロンドンに着く前に敵を減らしておく必要があった」
 エリザベスは膝の上で手を握り、そこに視線を落とした。聞きたくなかった、と思った。
「それからすぐにストーニー・ストラトフォードに向かい、新王の側近数名を逮捕した。トマス・ヴォーガン、リチャード・ホウト、ジョン・オルコック――それに、リチャード・グレイ卿」
 リチャード・グレイは、エリザベスの母が前夫との間にもうけた息子の一人だ。エリザベスにとっては異父兄にあたる。
「わたしは新王を説得し、彼をロンドンまで連れていく許可を得た」
「弟のエドワードは、どんな様子でしたか」
「きみの弟は立派だった。父親を亡くしたばかりだというのに、すでに王にふさわしい立ち居振る舞いが身に付いていた。彼が毅然とした態度で抗議してきたので、わたしはその場を収めるのに苦労した」
 エリザベスは、つい数時間前に再会した弟の顔を思い出した。
 かわいそうなエドワード。自分のまわりで大人たちが、それもよく見知った親族が権力をめぐって争うのを、すぐそばで見つめていなければならなかったのだ。
「こうしてわたしは、新王を護衛してロンドンに向かうことになった。この知らせはロンドンにもすぐに伝わったようだな」
 エリザベスはうなずいた。
「母はその日の深夜に知ったようです。翌日の夜、わたしたちは聖域に入りました」
 リチャードが言ったとおり、ロンドンの宮廷はすでに二つに引き裂かれていた。王太后であるエリザベスの母と、摂政になるであろうリチャードと、それぞれの勢力に。母は味方を集めようとしていたが、思うようにはいかなかったようだ。エリザベスや弟妹たちを連れてウエストミンスター寺院に逃げ込んだ。
 エリザベスがはじめて状況を理解したのは、この時だったのかもしれない。父を喪った悲しみの余韻がまだ残っていて、死を理解できない妹たちをなだめるのに精いっぱいだったし、ロンドンに向かってくる弟のエドワードのことも心配だった。聖域に行くから荷物をまとめろと言われた時はわけがわからず、十三年前の夢を見ているのかと思った。
「ノーサンプトンを発った四日後、わたしたちはロンドンに到着した。わたしは摂政に就任し、諮問会議で今後のことを話しあった。人事を動かし、戴冠式の日どりを決め、新王の住まいをロンドン塔に定めた。おおむね順調に運んでいると思っていた。バースとウェルズの司教、ロバート・スティリントンが訪ねてきたのはこのころだ」
 エリザベスは思わず胸を押さえた。この名前を聞くたびに、胸の奥をつかまれているような心地がする。
「前王のことで重大な報告があると言うので通した。そして聞いたのが、きみも知っている話だ」
 リチャードは慎重に言葉を選び、明言を避けた。
 エリザベスは思わず苦笑しそうになった。気をつかってもらわなくても、父がしたことはよくわかっている。人目を忍んで王の求婚を受けたのは、エリザベスの母だけではなかったのだ。
「レディ・エリナー・バトラーのことですね。その司教は、諮問会議でも証言なさったのですか?」
「いや、その場で帰らせた」
 エリザベスの顔から苦笑が引いた。聞きまちがえたのだと思い、しばし黙ってみた。
「彼の主張を受け入れる気はないと伝え、丁重に礼を述べてから引き取らせた。口止めはしなかったが、他の場所でその話をするつもりはないようだった」
「受け入れる気はない……?」
 そんなはずはない。スティリントンの証言は、この人が王位を請求する直接の根拠だったはずだ。父がエリナー・バトラーと結婚していたからこそ、母との結婚が無効となり、弟たちは王位継承権を失った。その事実を受け入れなかったのならば、今この人が王位についているはずがない。
「念のために伝えておくが、司教は何ひとつ嘘偽りを言っていない。この話を使ってわたしに取り入るつもりも、誰かを陥れるつもりもないようだった。証言に来たのはあくまで聖職者としての良心のためだ」
「それなのに、陛下は彼の話をお信じにならなかったのですか」
「信じなかったというのとは違う。エドワードは確かにその女性と言いかわしていたようだし、司教の話によれば教会に正式な予告も出していた。人によればこの主張が正しいと考える者もいたかもしれない。ただ、わたしはそう考えなかった」
「なぜですか」
「その女性が、きみの両親の結婚後すぐ――きみの弟が生まれる前に亡くなっていたことが一つ。エドワード自身がきみの母上を王妃としていたことがもう一つ。スティリントンにも同じことを伝え、この日はそれ以上は話さなかった。今でもわたしの考えは変わっていない。きみの母上はエドワードの正式な妻で、弟たちは王位継承者だと思っている」
 エリザベスは再び沈黙した。
 父の重婚についてはこれまで何度も考えてきた。ありえないことではないと考えながらも、偽りであってほしいと願っていた。仮に重婚が事実だったとしても、父が妻として愛したのは母だけだ。その記憶を支えに庶子の烙印に耐えてきた。
 いま同じことを口にしたのは、父の重婚を根拠に王位についた人だ。
「話を続けていいか」
 エリザベスは我に返り、うなずいた。
「スティリントンの訪問の翌日、今度は別の知らせが届いた。きみの兄上が、ウエストミンスター寺院から密かに抜け出したという」
 母は前夫とのあいだに二人の息子をもうけていた。ストーニー・ストラトフォードで逮捕されたリチャード・グレイが次男。そして長男は、一時期エリザベスたちとともに聖域にいた、ドーセット候トマス・グレイである。父が亡くなった直後、ロンドンで兵を徴集していたのもこの兄だ。
 他の親族は逮捕や亡命に追い込まれていたものの、国内外のそこかしこに健在だった。トマスが聖域を出て彼らと近づけば、王太后派が再び巻き返す可能性がある。摂政派はなんとしてもトマスを捕らえたかったのだろう。大がかりな逮捕劇の様相は、聖域にいたエリザベスにも伝わってきた。
「必死の捜索にもかかわらず、きみの兄上はついに捕まらなかった。わたしはヨーク市やノーサンバーランド伯、北部にいた親族に使いを出し、援軍を要請した。ちょうど同じころ、諮問会議でも不穏な動きがあったので、戦闘に備える必要があった」
「ヘイスティングス卿の離反ですね」
 エリザベスは先まわりして言った。
 父の死後、誰よりも早くリチャードの側についたヘイスティングス卿が、このころ少しずつ立ち位置を変えつつあった。政策において意見に齟齬が生じたのか、与えられた役職や領地に不満があったのか、リチャードを見限って母に近づいてきたのである。エリザベスがいた聖域にも卿の使いが何度か訪れていた。頼みの親族が次々に失脚して弱っていた母も、長年の確執を忘れて卿の手をとることを厭わなかった。
「援軍の要請を出した二日後の諮問会議で、ヘイスティングス卿、スタンリー卿、ヨーク大司教、イーリー司教を反逆罪で逮捕した。ヘイスティングス卿は処刑、他はロンドン塔に収監となった。諮問会議でわたしと対立する者はいなくなったが、他の貴族やロンドン市民、誰よりもきみの弟の反感を買うことは目に見えていた。このままでは戦闘は避けられないと考えて、わたしはスティリントンを再び呼び寄せた」
「スティリントンを? なぜ?」
「きみの父上の結婚に関する話をもう一度聞くため。必要があれば、その話を公の場で証言してもらうために」
 エリザベスはリチャードの目を見つめた。閉めきった室内にいるというのに、冷たい風にあたったような気がした。
「次にわたしがしなければならなかったのは、きみの下の弟を聖域から連れ出すことだった。この時のことはきみも知っているだろう」
 もちろん知っていた。使いにやってきたのはカンタベリー大司教だ。寺院のまわりを兵士たちに取り囲まれ、母は否と言えない状況に追い込まれていた。少年王の弟を聖域から連れ出す理由は、兄王の戴冠式に出席させるためとされていた。そんなことを本気で信じる者は、もうほとんどいなかったけれど。
 エリザベスはどうだったのだろう。弟の戴冠式が予定どおりに行われるとまだ思っていただろうか。思い出そうとしてみたが、どうしてもわからなかった。
「きみの弟たちをともにロンドン塔に入れたあと、わたしはスティリントンの話をもう一度たしかめ、それを噂として広めるよう側近に命じた。――フランシス、何も言わなくていい」
 リチャードは急に目線を変え、エリザベスの背後に言葉を投げた。この部屋にいたもう一人の人物、ラヴェル子爵がはじめて口を挟もうとしたらしい。
 けっきょく子爵は何も言わなかったが、エリザベスには彼のことを気にとめる余裕はなかった。
「聖域にもその噂は入ってきました。公爵や市長の弟君が、市民たちの前で演説なさったとか」
「そうだ」
「わたしや妹のセシリーは信じられませんでした。母も――本心はわかりませんが――そんな話は嘘だと言っておりました」
 本当だったかどうかということには意味がない。議会が認めたことが公の真実。
 エリザベスは、かつて妹に言い聞かせた自分の言葉を、夢に見るように思い出した。
「演説の翌日、わたしは議会の請願を受けるかたちで王位を宣言し、同時にリヴァーズ伯らの処刑を命じた。以上がわたしに話せることのすべてだ」
 リチャードは始めた時と同じように、淡々と話を締めくくった。何の抑揚も、感嘆も、余計な説明も付け加えなかった。エリザベスに何かをわからせようとしている様子もなかった。エリザベスが望んだとおり、事実だけを報告のように述べて終わった。
 終わったということに気がついてからも、エリザベスは言葉を返すことができず、呆然としたまま座っていた。
 リチャードの事務的な話からは、彼の考えのすべては読みとれなかった。けれど、エリザベスがいちばん知りたかったことはわかった。弟のエドワードが、なぜ廃位されたのか。
「スティリントンの話を、利用なさったのですか」
 エリザベスは、自分でも驚くほど低い声で言った。質問ではなく断定だった。
「エドワードこそが父の嫡男だと信じていらしたのに、はじめは歯牙にもかけなかった話を、後から拾い上げたのですか」
「無傷のままエドワードを王位から降ろすには、それしかなかった」
「――無傷?」
 エリザベスの胸に、数時間前に見た弟の顔がよみがえる。父から継いだ王位を奪われ、家族と引き離され、それでも憐れまれるのはいやだと叫んでいた。あれが無傷だと言うのだろうか。
「父は亡くなる前、あなたに任せておけば心配はいらないと言いました」
 以前はなりゆきで口にした言葉を、今度ははっきりと意識して言った。この言葉がリチャードにどれほど深く響くのかわかっていて、あえてこの人の前で繰り返した。
 リチャードは顔色も変えなかった。
「知っている。以前にも聞いた」
「父が、結婚のことで重大な過ちを犯していたのは、事実だったのかもしれません。けれども父は、あなたがそれを利用するなどと考えてもみませんでした。あなたに弟を託して亡くなった時、父がそんなことを望んでいたはずがありません」
「それは違う」
 リチャードは静かに言った。
「きみの父上はイングランドの王だった。国を治めることの難しさを誰よりもよく知っていた。それがイングランドのためだと考えたら、彼はどんなことでもしたはずだ」
 そんなはずはない、と言いかけた言葉は、すぐに押し寄せてきた記憶に呑み込まれた。
 父は生まれながらの王ではなかった。一度は忠誠を誓ったランカスター王家を武力で滅ぼし、精神を病んだヘンリー六世から王冠をもぎ取った。かつての功臣が叛意を示せば躊躇なく戦い、自分の弟さえも反逆罪で処刑した。
 王家とはそういうものだ。そしてエリザベスは、その父が築いた宮廷で、王女として守られながら生きてきたのだ。
「エドワードが世を去った時は、フランスとの戦争がいつ始まってもおかしくない状況だった。国内で勢力を分裂させて争っている時ではなかった。十二歳の子どもが王位につき、そのまわりで臣下たちが権力を奪いあう状態では、イングランドの安寧は守れない」
 リチャードがエリザベスの目を見た。エリザベスもまっすぐに見つめ返す。言いたい言葉は一つも出てこなかった。
 この人が正しいということはわかっていた。短期間で二人の王が入れかわったにもかかわらず、戦闘らしい戦闘は起こらず、流血も最小限で済んだ。反乱はいくつか起こったがすべて鎮圧され、エリザベスや妹たちは平穏な暮らしを取り戻した。弟たちも命までは奪われず、陰謀の手の及ばない場所で大切に守られている。
 この人が正しいということはわかっている。では、エリザベスはどうするべきなのだろう。ここで感謝の意を表し、弟たちを救ってくださってありがとうございましたと言うべきなのだろうか。
「無理に理解しようとしなくていい」
 エリザベスの沈黙をどう受け取ったのか、リチャードはそう言った。
「きみの弟の廃位とひきかえに、わたしが多くのものを手に入れたことは否定しない。わたしを恨みたければこれからも恨めばいい」
 恨みたいと思っているのか、エリザベスは自分でもわからなかった。
 思いたいように思えばいいと、話を始める前にリチャードは言った。エリザベスはその言葉を拒み、真実を知りたいと願った。その願いが聞き届けられた今、聞いて良かったのか、良くなかったのかもわからない。
 自分はいったい、どう思っていたかったのだろう。
「他に訊きたいことがなければ、下がって休みなさい。もう夜が明ける」
 沈黙を断ち切るようにリチャードが言った。
 部屋の窓は閉めきってあるが、朝の光が少しずつ入りこんでいる。昨日の朝、リチャードの伝言を受け取ってから丸一日が過ぎたのだ。頭も体も麻痺したように何も感じられなくなっている。
 最後に何を言ってその部屋を辞したのか、エリザベスは覚えていなかった。ラヴェル子爵が退室に付き添ってくれたことや、見送るリチャードの目が心配そうに見えたことは覚えている。ただ、自分が何を言い、どう振る舞ったのかはよくわからなかった。すでに半分は夢の中にいるような心地で、自分の部屋までかろうじて歩いてきた。
 一人になった瞬間、ようやく一つだけわかったことがあった。もう、弟たちの身を案じて、悪夢に苛まれることはない。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.