テューダーの薔薇 [ 3−6 ]
テューダーの薔薇

第三章 ロンドン塔の王子たち 6
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 夜明けまでの限られた時間、エリザベスとエドワードはさまざまな話をした。
 エドワードは驚くほど賢くなっていた。エリザベスが思っていた以上に情勢をよく見極め、自分なりの考えを持ち、姉の問いに的確な答えを返した。ロンドン塔でもこの屋敷でも、よく学んでいるようだ。
 かつての地位を追われても失意に閉じこもることなく、自分を磨いて成長を続けている。エリザベスはそれが嬉しかった。
 お互いに質問が尽きてきたころ、外していた二人が部屋に戻ってきた。
「レディ・エリザベス」
 ラヴェル子爵が近くまできて、ためらいがちに声をかけた。外が明るくなる前にウエストミンスターに戻らなければならない。
 エリザベスは子爵にうなずき、エドワードに視線を戻した。
「また来るわ。元気でね、エドワード」
「リチャードを起こさないと」
 エドワードは部屋のすみにいる弟を見た。椅子に横たわったまま、気持ちよさそうに寝息をたてている。付き添っていた女性が起こそうとしたが、エリザベスは手を振って彼女を止めた。
 立ち上がって歩み寄り、小さな弟のそばにかがむ。横を向いて寝ているので、長めの金髪が丸い頬にかかっている。目を閉じて口をきかない弟は、文句のつけようもなくかわいらしい。エリザベスはくすりと笑い、頬に口づけようとした。
 その瞬間、リチャードがぱちりと目を覚まし、椅子の上に身を起こした。
「ベス、帰るの?」
「ええ。また来るわね」
 エリザベスは微笑み、阻まれたキスを再開しようとしたが、リチャードはまたしても逃げた。先ほどまで熟睡していたとは思えない素早さで椅子から飛び降り、姉に背を向けて部屋の中を駆けだした。エリザベスも負けじと追いかける。十一歳になるリチャードも兄ほどではないが背が伸びていた。足も速くなったようで、部屋の半周ほどエリザベスを振り回した。
 ようやく捕まえて抱きかかえても、腕の中で弟は暴れ続けた。
「いやだ、はなして」
「お願い、リチャード。一度でいいからキスさせて。とても会いたかったのよ」
「ぼくは別に会いたくなかったよ! はなして、はなして、ベス。暑くて気持ち悪い!」
 エリザベスははなさなかった。これくらいで引き下がっていては、七人きょうだいの長姉は務まらない。天使のように愛くるしい顔をして、悪魔のように小憎たらしい言葉を吐くのが、弟という生き物なのである。
 両腕で押さえつけて頬にキスを済ませると、エリザベスはしぶしぶ腕をほどいてやった。解放された弟は迷惑そうに服の裾をはたき、エリザベスが口づけたところを手の甲で拭っている。一年ぶりの再会でなければ耳をつねり上げてやるところだ。
「宮廷に帰るわね、リチャード。また会いに来るわ」
「来なくていいよ」
「エドワードと仲良くして、大人の言うことをきちんと聞くのよ」
「ベス以外の人の言うことなら聞くよ」
「食事を残さずに食べて、お勉強もまじめにやるのよ。何か困っていることはない?」
「ないよ」
「お母さまやセシリーたちに伝えてほしいことは?」
「別にないよ」
 エリザベスはため息をつき、ふと思い出したことを付け加えた。
「従兄弟のジョンを覚えている? あなたにとても会いたがっていたわ」
「ジョンに会ったの?」
 そっぽを向いていた弟がはじめて顔を向けた。大きな目が素直な喜びに満ちていく。
「ぼくも会いたいな。ロンドン塔に住んでいた時、よく一緒に遊んだんだ。戦争ごっこがすごく楽しかった」
「ジョンにそう伝えておくわ」
「また来るんだったら、今度はジョンも連れてきてよ。ねえ、エドワード」
 リチャードは首を動かして兄のほうを見た。
 エドワードも顔を向けた。目を輝かせる弟とは違い、冷ややかな表情を浮かべている。
「あの子は、ぼくらとは生まれが違う」
「エドワード」
 エリザベスは静かにたしなめた。
 エドワードは頬を赤くして、隠すように顔を背けた。
 部屋にいる大人たちが苦笑を抑えている。もっと厳しく言い聞かせるべきかもしれないが、エドワードの境遇を考えるとそれ以上は言えなかった。
「ジョンにあなたのことを伝えておくわね、リチャード。ここでは寂しくない?」
「エドワードと一緒なら寂しくないよ。ロンドン塔にいる時は絶対に外に出してもらえなかったけど、ここではときどき庭で遊ばせてもらえるんだ」
「そう。良かったわね」
 エリザベスはほほえんだ。再び抱きしめたくてたまらなくなり、実際にそうした。ただし、今度は弟が逃げる前に腕をほどいた。
「またね、リチャード」
「またね、エリザベス。もう来なくていいからね」
 なおも憎まれ口を叩く弟に、エリザベスは満面の笑みで応えた。懲らしめてやるのはこの次に会った時でいい。
 エリザベスは向きを変え、上の弟のほうを見た。エドワードは自分から姉を抱き寄せた。
「またね、エドワード」
「――うん」
 力強くなった弟の腕が背中を締めつける。エリザベスもそれに劣らず強く、弟を抱きしめた。
 また会えると思いながら別れを告げて、二度と会えなかった人が何人いただろう。この弟たちの顔を再び見られる保証はどこにもない。口ではまた来ると言ったものの、その日がいつになるのか、本当にやってくるのかさえわからない。
 にわかに不安が込み上げてきて、腕をはなすのが恐ろしくなった。それでも永遠に抱きあっていることはできない。エリザベスは深く息を吸い込むと、弟から離れた。

 乗ってきた馬車に戻るまで、スタンリー卿が見送ってくれた。
 彼にも訊いておきたいことはあったが、どこまで口に出していいのかわからなかった。何よりも心身が疲れきっていて、口を開く気力が残っていない。
 スタンリー卿はそれを察したのか、自分からいくつか話をしてくれた。弟たちが一度も病気や怪我をせず、元気に過ごしていたこと。学問にも武芸の稽古にも熱心に取り組んでいること。母親のことは口には出さないが、本当は会いたがっているようだということ。二人がロンドン塔ではなくここにいることは、ごく限られた人間しか知らないということ。
「屋敷の使用人の半数以上が、ここにいるのはわたしの妻だと思っています」
 卿は低い声で言った。
「妻が幽閉されていると思われているので、訪ねてくる者もほとんどおりません。お二人には決まった者しか近づけないようにしております。みな信用のおける者たちばかりです」
「ありがとう存じます。こんなに良くしていただいて」
 エリザベスが言うと、スタンリー卿はほほえんだ。すでに屋敷の出口まで近づいている。前を歩くラヴェル子爵は一言も口を挟まなかった。
「しばらくご厄介になりますが、よろしくお願いいたします。――手のかかる弟たちですけれど」
 エリザベスは声をひそめた。素直で物わかりのいい従弟のジョンに慣れていたせいか、弟たちの幼稚さがなおさら目立つようで恥ずかしい。
 卿はあたたかく笑った。
「お二人ともご立派に成長していらっしゃいますよ。いつの日か、母君をこの屋敷にお招きできるのが楽しみです」
 母がこの屋敷にやってくる。それは、今夜のエリザベスのように二人に会いに来るという意味だろうか。それとも、二人を迎えにきて連れて帰るという意味だろうか。本当にそんな日は訪れるのだろうか。
 わからないことばかりの中で、一つだけ確かなことがある。
 ここにいる限り、弟たちは安全だ。おそらく、母のところにいるよりも。
 宮廷への帰途は行きとは違い、エリザベスはほとんど何も話さなかった。子爵も疲れていないかと一度だけ訊いたきり、その後はずっと黙っていた。使用人の女性は一度も口を開かなかった。
 馬車の外はまだ薄暗いが、朝の空気が広がっていくのを肌で感じる。
 長い一日だった。今日だけで新たにわかった多くのことが、頭の中を生き物のように駆けめぐっている。
 殺されているかもしれないと思った弟たちは無事だった。それどころか、ロンドン塔より安全な場所で大切に守られていた。二人は思っていた以上に大きくなり、エドワードは王位を奪われたことを恨んでいた。ロンドンの市民たちが語っていたような、またエリザベスが思い浮かべていたような、かわいそうな幼い少年王はどこにもいなかった。
 いったい、エリザベスは何をしようとしていたのだろう。弟たちを救えるのは自分だけだと信じ、誰にも相談せずに策を講じ、勝手に筋書きをつくっていた。自分は賢い、何でもわかる、何もかも一人でできるとでも思っていたのだろうか。

 ウエストミンスター宮殿に着くと、子爵はエリザベスを連れて一室へと導いていった。エリザベスが日中にリチャードと話した部屋である。
 リチャードはその時とほとんど変わらない様子で、机に向かって座っていた。一度もここから動かなかったわけではないだろうが、エリザベスの帰りをこの時間まで待っていたのは確かなようだった。
 気がつくと、エリザベスも同じように椅子に座り、リチャードと向かいあっていた。いつ部屋に入ったのか、いつ腰を下ろしたのかよく思い出せない。頭の半分が夢の中にいるようにぼんやりとしている。
 エリザベスから離れた後方で、子爵が椅子に掛ける気配がした。部屋の中には他に廷臣も使用人もいなかった。
「大丈夫か」
 エリザベスは目線を上げた。
 両脇にある燭台のあかりに照らされて、リチャードが険しい顔をこちらに向けている。部屋の中はほぼ暗闇と言って良かったが、二人のまわりだけが浮き上がるように明るかった。
 エリザベスは問いかけには答えなかった。ふと、言わなければならないことに気づき、その言葉を口にした。
「申し訳ございませんでした」
 リチャードが怪訝な顔になったが、エリザベスは構わずに続けた。
「弟たちの身を案ずるあまり、失礼なことを申し上げました」
「――ああ」
 リチャードは思い当たったらしく、短く相槌を打った。
 昼間ここで話した時とは違い、会話がまるではかどらなかった。ラヴェル子爵もすみに控えたまま、一つも言葉を発しようとしない。重苦しい沈黙が部屋の中にたちこめている。
「そんなことはいい。二人は、変わった様子はなかったか」
「はい」
「二人をロンドン塔から移したことは信頼のおける数人にしか話していない。申し訳ないが、きみの母上にはまだ二人を会わせられない」
「はい、陛下」
 エリザベスはうなずいた。
 リチャードを問いつめなくても、その理由はよくわかった。母のもとに弟たちを帰せば、かえって二人を危険に近づけることになる。
 弟たちは幽閉されていたのではなく、匿われていたということだ。実の母親のそばよりも安全な場所で。
「陛下」
 エリザベスはまっすぐ顔を上げ、リチャードの目を見た。膝の上で手を握りしめた。
「もう一つだけ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「言いなさい」
「お聞かせいただきたいのです。一年前のことを」
 リチャードが返事に詰まった。背後で子爵が立ち上がろうとする気配がした。
「一年前、弟が王位を継いでからそれを失うまでのあいだ、この国で何が起きていたのか、お聞かせいただけないでしょうか」
 エリザベスはゆっくりと、求めるのではなく祈るような気持ちで、静かに哀願した。
 以前ならば聞かされるまでもないと思っていた。一年近くも聖域にいて、何も見聞きしていないにもかかわらず、寄せられた情報と自分の想像だけで、何もかもわかったつもりになっていた。
 本当は、何ひとつわかっていなかったのかもしれない。
「そういうことなら、次の機会にしないか」
 リチャードが言った。
「長い話になるだろうが、きみは疲れている。あまり思いつめないほうがいい」
「わたしは大丈夫です、陛下。ご迷惑でなければ今、この場でお話しください」
「なぜ聞きたいと思った?」
 リチャードはエリザベスの目を見て言った。本当に心配してくれているように見えなくもなかった。
「一年前のことはすでに聞いているし、察しもつくだろう。なぜ今さら知りたいと思う?」
「わたしは聖域に隠れていて、実際にその場を見ていたわけではございません。聞いたのはすべて人づての話ばかりでした。わたしは、本当のことを正確に知りたいのです」
「きみが思いたいように思えばいい。経緯を知ったところで結果は変えられない」
「存じております。それでもお聞きしたいのです」
「なんのために」
 エリザベスは少し考えた。
 なんのために知りたいのだろう。リチャードが言ったとおり、知ったところで何かが変わるわけでもない。理由がどうであれ、王位はすでにこの人のもので、二度とエドワードのものにはならない。エリザベスが王女ではなく、庶子であるという事実も変わらない。
 過去にあったことを知らないままでも、未来はひとりでに前に置かれていく。エリザベスがどこに住み、なんという名で呼ばれ、どのように扱われるのかはすべて、そのとき王座にいる者が決める。
 それがわかっていてもなお、知りたいと思うのはなぜだろう。
「この先を生きていくために必要です」
 エリザベスはゆっくりと考え、浮かんできた答えを口に出した。
「何が起きたのか、なぜそうなったのかを知らなければ、この先も何を信じればいいのかわかりません。すべてを知った上でそれを受け入れ、筋を通して生きていくために必要です」
 身勝手な話であることはわかっていた。イングランドの運命とは何の関係もない、エリザベス一人の感情の問題にすぎない。伝えようとした言葉も抽象的で、理解してもらえるとはとても思えない。
 一蹴されてもおかしくないと思ったが、そうはならなかった。リチャードはエリザベスを見つめ、やがて口を開いた。
「わかった。それでは、他の人間から聞きなさい」
 エリザベスは目をみはった。思いがけない返事だった。
「わたしは一年前に起きたことの当事者の一人で、その利害に大きくかかわっていた。何もかも隠さずに話せるとは限らない。自分に都合の良いように話を歪めるかもしれない。きみがすべてを正確に知りたいと言うのなら、もっと公正な立場で話してくれる者に聞いたほうがいい」
 エリザベスは思わずほほえんだ。この部屋に戻ってきてから、はじめて表情が動いた気がした。
「そのようなことをご自分からおっしゃる方は、決して隠したり、偽ったりはなさらないと思いますわ」
 今度はリチャードが目をみはった。出し抜かれたような顔をしていたので、エリザベスは場違いにも笑い出しそうになった。
 ラヴェル子爵が再び腰を下ろす気配がした。口を挟む機会をうかがっていたのを、けっきょく思い直したようだ。
「わかった。きみがそれでいいのなら」
 リチャードが表情を改め、ようやく答えた。
「ありがとうございます、陛下」
「楽しい話にはならない」
「心得ておりますわ」
 エリザベスは真顔に戻り、うなずいた。
 すきま風が入り込んだのか、蝋燭の光が小さく揺れた。


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