テューダーの薔薇 [ 3−5 ]
テューダーの薔薇

第三章 ロンドン塔の王子たち 5
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 聖域のエドワードと呼ばれていた弟と最後に会ったのは、父が生きて王位についていたころだった。もう一年以上も前のことだ。エリザベスは十六歳、エドワードは十二歳だった。
「エドワード」
 エリザベスはそれだけつぶやくと、弟の前に駆け寄り、手を伸ばした。
 抱き寄せる瞬間、金髪の頭が思ったよりずっと高い位置にあることに気がついた。エリザベスは背が高いので、四つ年下の弟とはかなりの差があったはずだ。それなのにこの少年は、エリザベスの胸ではなく、肩に顔をつけてしまった。
 しばらく抱きあったあと、姉と弟は同時にお互いを離した。
「エドワード」
 エリザベスはもう一度呼び、弟の顔を両手で包んだ。
 これが本当にエドワードだろうか。背が伸びただけではなく、肩は広く、手は大きく、脚はしなやかに長い。美貌の母によく似た顔だちは、以前は女児と見まがうほどだったというのに、今は愛らしさよりも凛々しさがきわだっている。造作が大人びただけではなく、表情も落ち着いて怜悧になったせいだろう。蝋燭の光を映した青い瞳は、エリザベスが見入ってしまうほど深い。
「わたしのエドワード、本当にあなたなの。なんて大きくなったのかしら」
「一年以上も会っていなかったんだ、あたりまえだよ」
 エドワードはぎこちなく目をそらした。この仕草と声だけが、ほんの少し幼さを残している。下の弟と同じく、人前で強く抱きしめられて恥ずかしそうだったが、エリザベスから逃げるようなことはしなかった。
「ぼくたちもびっくりした。まさか本当にベスが来るなんて、ついさっきまで信じられなかったから」
 エリザベスはエドワードを見つめた。下の弟のリチャードも、先ほど同じようなことを言っていなかったか。
 視線を感じて振りかえると、この屋敷の主が苦笑しながら見つめていた。
「姉君が今夜いらっしゃるとお知らせしておいたのですが、なかなか信じていただけなかったのです。昼間のうちに休んでおかれるようにとも申し上げたのですが」
 二人の弟たち、特に十歳のリチャードは、スタンリー卿の言うことをろくに聞かなかったようだ。再会の驚きから冷めた後は、また眠そうに目を細め、連れてきてくれた女性の腕によりかかっている。子どもが起きていられるような時間ではないのだ。
 エリザベスが弟たちの顔を見ていなかったように、二人も姉の顔を見ていなかったのだ。父が亡くなったのが昨年の四月。下の弟が聖域から連れ出され、ロンドン塔で兄と一緒にされたのが六月。人目を避けてこの屋敷に移されたのが同じ年の秋。他の家族にも側近にも会わず、お互いの顔だけを見て暮らしていた一年間は、どれほど長かっただろう。突然の姉の来訪を信じられず、それでもこの深夜まで待っていてくれた。
「われわれはしばらく外しましょう」
 スタンリー卿が歩いてきて、エリザベスのそばでいったん足を止めた。
「ご姉弟でゆっくりお話を」
「ありがとうございます」
「レディ・エリザベス、夜明けまでにお呼びしに参ります」
 卿の後に続いて、ラヴェル子爵も言葉を残していく。エリザベスはうなずいた。
 弟のエドワードは何も言わず、二人の大人が出ていくのを見つめていた。扉が閉まり、姉弟と使用人たちだけが部屋に残される。
「お姉さまにお座りいただいてはいかがです、エドワードさま」
 下の弟を抱えた使用人の女性が、おっとりと切り出した。体が大きく、細長い目は賢そうで、熟練の子守のような雰囲気だ。下の弟は彼女の腕に支えられて、すっかり眠りに落ちてしまっている。
「座って、ベス。話したいことがたくさんあるんだ」
 弟がエリザベスの手を取り、先ほどまで座っていた椅子に導いた。貴婦人を扱う騎士の所作がすっかり板についている。エリザベスの知っているエドワードだとはとても信じられない。
「わたしもよ、エドワード。聞きたいことがたくさんあるの」
 姉弟で向かいあって座ると、エリザベスは早口に言った。
「元気にしていた? 病気はしていなかった?」
「ぼくもリチャードも元気だよ。エリザベスは?」
「もちろん、元気よ」
「母上は? 妹たちは?」
「みんな変わりないわ。手紙を読んでいない?」
「読んだよ。返事も書いた。母上に宛てたものだけど、ベスは読んでいないの?」
 エリザベスは一瞬、言葉を失った。
 聖域で暮らしていた時から、母は何度も弟たちに手紙を書き、人の手を通じてロンドン塔に届けていた。突き返されるようなことはなかったが、返事が来たことは一度もなかった。エリザベスたちが宮廷に来てからも同じだったはずだ。
 弟たちは返事を書いていた。けれど、母の手もとにそれは届いていない。何が起こっているのかは容易に想像がついた。弟たちには聞かせたくないことだ。
「――ええ、手紙はお母さましか読んでいないの。それに、手紙よりも顔を見たかったわ。お母さまもきっと同じよ」
「ぼくも会いたかった、ベス」
 エドワードが姉の顔を見つめた。蝋燭のあかりのせいか、瞳が潤んだように輝いている。
 エリザベスと弟はそれぞれ立ち上がり、お互いの顔にキスした。
「エリザベスとセシリーは、宮廷にいるって聞いたけど」
 エドワードが言った。
「ええ。前と同じ部屋に住んでいるのよ」
「アン王妃に仕えているの?」
「ええ。でも、仕事なんてほとんどないのよ。とても優しくしてもらっているわ」
「母上やブリジットたちは?」
「郊外にお屋敷をもらって、そこで暮らしているわ。楽しくやっているみたいよ」
 エリザベスは明るく言った。自由を奪われている弟には酷な話かと思ったが、エドワードは安心したように微笑んだ。姉妹たちをうらやむ気持ちはないようだ。
「エドワード、あなたは? ここで寂しくない?」
「寂しくないよ。リチャードもいるから」
「食事はちゃんととっている?」
「食べているよ」
「お勉強は?」
「ちゃんと続けてる」
「お祈りは?」
「毎日しているよ。あたりまえのことを訊かないでほしいな」
 エドワードは少し声を上げ、姉から目をそらした。すっかり大人びたと思っていた表情の中に、エリザベスの記憶にある幼さが現れる。
 エリザベスは少しほっとしたが、すぐに気をひきしめた。
「エドワード。外で何があったのか、どこまで知っているの?」
 できれば触れたくなかったが、これを確認しておかなければ何も話せない。
「ほとんどのことは知っている――と思う」
 エドワードはうつむいたまま答えた。
「わたしたちが寺院にいたことは?」
「知っている。三月までそこに住んでいたんだろう」
「お母さまがその間にしたことは?」
「知っているよ。でも、罪には問われなかった」
「ええ。あなたが――廃位された理由は知っている?」
「父上と母上が、正式な夫婦ではなかったから」
 エドワードは言った。膝の上に置かれた手が、小刻みに震えている。
 エリザベスは手を伸ばし、それを包み込んだ。
 小さく息を吸い、いちばん訊きたくなかったことを声に出す。
「――亡くなった方たちのことも、聞いているのね?」
 エドワードは目を上げず、うなずくだけで答えた。
 この弟が王位にいたわずか二月のあいだ、イングランドでは何人もの血が流された。権力闘争に敗れ、政治の舞台から、地上から姿を消していった人たち。エリザベスたちが親しく知り抜いていた者も少なくなかった。
 中でも、母のすぐ下の弟アンソニーと、前夫との息子リチャードの二人は、ラドロウ城でエドワードの世話をしていた肉親だった。エリザベスも彼らのことはよく知っていたが、同じ城で暮らしていたエドワードとはもっと親しかったはずだ。
 二人はロンドンへの道中で捕らえられ、エドワードと引き離され、二度と外には出られなかった。
「エドワード」
 エリザベスは弟の手を強く握った。弟は顔を上げようとしなかった。
「辛かったでしょう。一人で、よく耐えたわね」
「ぼくは何もしていない」
「そんなことはないわ」
 エリザベスは立ち上がり、弟を抱きしめようと手を伸ばした。
 その瞬間、エドワードも席を立ち、姉から逃げるように後ろに下がった。
「ぼくを憐れまないで、エリザベス」
 エリザベスは足を止めた。この部屋で再会してから、弟が大きな声を出すのをはじめて聞いた。蝋燭の光を映した二つの目が、燃えるようにエリザベスを見つめている。
「憐れんでなんていないわ、エドワード」
「いや、憐れんでいる。ぼくをかわいそうだと思っているんだろう。生まれながらの王子だったのに、王冠をとられて、幽閉されて、家族を殺されて、何もできないで泣いていた、哀れな子どもだって!」
 エリザベスはその場に立ち尽くし、弟の目を見つめた。
 エドワードが言ったとおりだった。エリザベスはずっと弟をかわいそうに思っていたし、救ってやりたいと思って動いてきた。それのどこが間違っていたというのだろう。
「何もかもみんな、ぼくのいないところで起こっていた。ぼくは陛下と呼ばれていたけれど、心からそう思っている人なんて、国じゅうに一人もいなかったんだ」
「エドワード。そんなことは」
「ぼくは何もできなかった。たくさんの人が殺されていくのを、ただ見ていることしかできなかった。今は違っても、あの時のぼくはイングランドの王だったのに」
 エドワードは姉の声に耳を貸さず、早口でまくしたてた。空中の一点を強く見つめ、握りしめた手を震わせている。エリザベスに話しているのではなく、見えない何かに訴えているようだった。
 この若者はいったい誰だろう。エリザベスが救おうとしていたのは、幽閉されて心細い日々を送っている、かわいそうな少年たちだった。幼い弟たちは王位争いに巻き込まれただけで、込み入ったことは何も知らないはずだと思っていた。
 しかし、エリザベスの前にいるこの弟は、ただ泣き暮らしているだけの子どもではなかった。背丈と顔つきが変わっただけでもない。
「エドワード」
 エリザベスは何度めかになる名前を呼び、弟に歩み寄ろうとした。弟はまた一歩さがり、姉を近づけようとしなかった。
 エリザベスは途方に暮れた。こういう時にどうしたらいいのかまったくわからない。何をしてやれば、何を言ってやれば、弟を慰めることができるのだろう。
 ふいに、アンの顔が頭の中に浮かんだ。あの王妃なら、エドワードが欲しがっている言葉がわかるのだろうか。エリザベスが持て余していたセシリーの心を、わけもなく開かせてしまった時のように。
 胸に小さな痛みを感じ、エリザベスは思わず首を振った。そんなことを考えても仕方がない。
 エリザベスは弟に近づくのをあきらめ、一人で椅子に座った。
「エドワード、掛けてちょうだい。もっとあなたの話を聞きたいわ」
 エドワードは素直に従い、再び姉弟は向かいあった。
 エリザベスは部屋の中にすばやく視線をまわした。控えていた使用人たちは持ち場を離れず、何も聞いていなかったという顔をしている。よく訓練されているようだ。この様子なら、弟に何をしゃべらせても問題はないだろう。
「王位を奪われたことを、恨んでいるの、エドワード?」
 エドワードは顔を上げた。瞳はまだ何かの感情に燃えていた。
「父上がぼくに遺してくださった王位だ。ぼくが継ぐべきだった」
「ええ、わかるわ」
 エリザベスもずっと同じことを考えてきた。聖域に身をひそめていた時も、そこを出て宮廷に戻ってからも。弟がいるはずだった王座になぜあの人がいるのかと、考えずにはいられなかった。
 その弟が同じように考えているとは思いもしなかった。母が王位をあきらめないかも知れないとは考えたが、エドワード自身は決してそれを望まないと信じていた。エリザベスの中で弟のエドワードは、最後に会った十二歳の子どものままだった。
「気持ちはわかるわ、エドワード。でもわたしは、あなたが無事でいてくれただけでも嬉しいのよ」
 エドワードは強く首を振った。
「王位を奪うのなら、命もとってほしかった」
 エリザベスは呆然として、弟の顔を見つめた。
「殺されずに済んだのは、ぼくが幼かったからだ。一人では何もできない、殺す価値もない子どもだったからなんだ」
「エドワード――」
「そうだろう、ベス? 一年前に王位をめぐっての戦が起こらなかったのは、ぼくが戦場に立つことのできない子どもだったからだ。そのかわりに、あんなやりかたで廃位させられた。ぼくだけではなく、父上や母上や、エリザベスたちの名誉まで汚されたんだ。そんなことをするくらいなら、はじめから殺してくれれば良かったのに!」
「エドワード、やめて」
 殺されたほうが良かったなどと、たとえ言葉だけでも聞きたくなかった。
 王位争いに敗れても生かされていたのは幸運だったと思っていた。ようやく無事に会えたことに安堵したばかりだった。それなのに、他でもないエドワード自身が、殺してほしかったなどと声を上げている。エリザベスや家族はこの弟の身を案じて、一年以上も気がふれそうな日々を過ごしていたというのに。
「――ごめん、ベス」
 エドワードは声を落とした。姉がどう思ったのか悟ったらしい。
 エリザベスは首を振った。
「わたしこそ、ごめんなさい。あなたがそんなふうに考えているなんて、考えもしなかったわ」
 エリザベスは弟の顔をあらためて見つめた。
 一年以上も見ていなかった間に、驚くほど大きくなった。この先もきっとどんどん大きくなるのだろう。姿かたちが変わるだけではない。幽閉されながらもさまざまなことを学び、力をつけ、自分なりの意志を育てていく。
 しかし、彼が王位につくことは、おそらく二度とありえない。
 聖域のエドワード。神に見守られて誕生した、ヨーク家の最初の王子。
 エリザベスは手を伸ばし、再び弟に触れた。
 エドワードは逃げなかった。姉から目をそらすようにうつむき、小さく言葉を吐いた。
「あと五年――いや三年、父上が生きていてくだされば良かったんだ」
 エリザベスは弟の手を握り、何度もうなずいた。


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