テューダーの薔薇 [ 3−4 ]
テューダーの薔薇

第三章 ロンドン塔の王子たち 4
[ BACK / TOP / NEXT ]


 夜が更けはじめたころ、エリザベスは一人で身支度を整えた。手持ちの中でいちばん質素な服を選び、その上に外出用のケープを羽織り、人目につかないように部屋を出た。
 夜の空気はひんやりとしている。階段の窓ごしに、半分の月が白く輝いているのが見えた。
 指定された場所まで行くと、やはり外出着で立っている人物が見えた。エリザベスの足音を聞くと、振り返って会釈してくれた。
「こんばんは」
 彼はそれだけ言い、エリザベスの名前は呼ばなかった。
 エリザベスはそれにならい、膝を折ってあいさつするにとどめた。相手がラヴェル子爵だということはここに来る前から知っていた。
「お手をこちらへ。馬車を待たせているところまで暗い道を通らねばなりません」
 子爵はエリザベスの手をとり、自分の腕につかまらせた。つい先日、王妃の居間で会った時のようににっこり笑うと、速くはない歩調で進みはじめた。
 月の光は届いていないが、少しずつ目が慣れてきて、まわりが見えるようになってきた。遠くから夜会の音楽が聞こえてきている。宮殿のどのあたりを歩いているのかはよくわからない。
 外に出てしばらくすると、人気のない街路に馬車が停まっているのが見えた。
 エリザベスは子爵の手を借りて、先に中へ入った。あとから続いて子爵が、最後に見慣れない女性が乗り込んでくる。エリザベスの侍女ではなく、子爵が連れてきていた使用人である。
 誰も何も言わないうちに、馬車が走りはじめた。
「お寒くはありませんか、レディ?」
 揺れが一定になると、子爵が口を開いた。
「ありがとうございます。わたしは平気ですわ」
「目的地まで少し時間がかかります。いらっしゃるのははじめてでしたね?」
「ええ――今までに一度もございません」
 馬車はウエストミンスター宮殿から遠ざかり、ロンドン市街を駆けていく。王の姪を、前王とその弟に会わせるために、スタンリー家の別邸を目指しているのだ。エリザベス自身がまだ信じられずにいるのにもかかわらず。
 こうして馬車に揺られていても、これは本当に現実だろうかと思ってしまう。けれど夢ではないのはわかる。夢の中ではいつも、弟たちは生きていなかった。
「子爵は、ご存じでいらしたのですか? 弟たちのことを」
 エリザベスは顔を上げて訊いた。誰かと何か話していないと、一人で夢の中に落ちてしまいそうで怖かった。
 馬車の中に月の光は届かないので、隣にいる子爵の顔もよく見えない。
「存じていました。お二人がお移りになる前に、陛下から相談を持ちかけられましたので」
「いつのことかお聞きしてよろしいですか?」
「わたしがはじめに聞いたのは去年の八月です。陛下がロンドンを空けていた時ですね。お二人の身に危険が及ばないよう、監視を強めることにしたと言われました」
「危険というと――」
「戴冠式が済んだ後も、ロンドンにはまだ、さまざまな思惑が潜んでいましたから」
 子爵はゆっくりと言った。どことなく歯切れが悪いのは、エリザベスに気をつかったせいだろう。子爵の言う思惑を抱えた人物の筆頭が、他でもないエリザベスの母親だったのだから。
 リチャードがロンドンを留守にして国内をまわっていた間、母やその協力者たちは、弟たちをロンドン塔から救い出そうと計画を練っていた。結果的には失敗に終わったが、何度か実行に移されたこともあったようだ。警護を厳しくしたのはそうした事態が重なったせいだろう。去年の八月というと、従弟のジョンが最後に二人に会ったという時期だ。
「陛下はさらに万一に備えて、お二人を別の場所に移すことを考えていました。わたしは北部にある城のいずれかに匿うことを提案したのですが、陛下はお二人をロンドンから離すことに反対でした。母君に会わせることが難しくなるからと」
 エリザベスは目を見開いた。暗がりで見えないのはわかっていながら、子爵の顔を思わず見つめてしまった。
「陛下は――弟たちを、母に会わせるおつもりでいらしたのですか」
「ええ。協定が結ばれて、母君やあなたが寺院を出て、弟君たちの安全が保障されれば。実際は、そうやすやすと事は運びませんでしたが」
 エリザベスたちが聖域から出た後も、リチャードは母を信用していなかったということだろう。
 完全な和解を成し遂げるには、母はリチャードを恨みすぎており、リチャードは母を疑いすぎていた。二人のいずれにも、それに足るだけの理由はあった。そして、そのために、エリザベスは弟たちに会うことを許されなかった。
「それでも陛下は、いずれは母君と歩み寄って、お二人に会わせるつもりでした。だからこそ、お二人をロンドンに留めておくことを望んだのですが、どこに移して匿うのかが問題でした。いくつか候補はあったのですが――」
 子爵はいったん言葉を止め、しばらく黙った。エリザベスにどこまで話していいか考えているのだろうか。
「どこを選ぶか決めかねているうちに、あの大きな反乱が起こり、お二人の移送はしばらく延ばされることになりました。あの時の混乱はあなたもよくご存じでしょう」
 エリザベスはうなずいた。
 反乱の首謀者は、リチャードの即位にもっとも貢献した貴族の一人だった。新王の腹心として輝かしい将来を約束されていた彼が、なぜリチャードに反旗を翻したのか、エリザベスにはわからない。この機に乗じようとした者は少なくなかったようで、他にもいくつかの反乱が並行して起きた。大陸に亡命していたヘンリー・テューダーも反乱軍と連絡を取り、兵士たちを乗せた船でブリテン島に迫っていた。
 聖域にいたエリザベスの母のもとにも、反乱側の使者が何度もやってきた。スタンリー卿夫人マーガレットも密かに手紙を送ってきていた。忘れもしない、エリザベスとヘンリーの縁談が最初に出たのはこのころだ。
 反乱そのものはすべて鎮圧され、ヘンリーも上陸をあきらめて引き返していった。
「陛下は乱の事後処理に追われていて、しばらくは甥御がたのことを考える余裕はありませんでした。そんな時に、スタンリー卿が申し出てきたのです」
「弟たちを預かりたいと?」
「いいえ。夫人を人質に差し出したいと」
 エリザベスはぎょっとした。人質とは穏やかでない話だ。
「スタンリー卿も必死だったのでしょう。夫人のみならず、弟や子息も反乱軍と通じていたことが判明しましたから。卿自身は鎮圧側にまわったとはいえ、忠誠の証をたてる必要を感じていたのでしょう。ただでさえ、ヘンリー・テューダーの継父として、常に疑いの目にさらされていましたからね」
「それで、陛下は? どうなさったのですか?」
「陛下ははじめから、スタンリー卿を処罰するつもりはありませんでした。内実はどうであれ、卿が反乱の鎮圧に貢献したことは事実ですし、スタンリー一族は敵にまわすには強大すぎます。そのうえ、卿はみずから妻を人質にと申し出てきたのです。こちらも信頼でそれに報いなければなりません。スタンリー卿夫人は人質ではなく、卿自身によって幽閉ということになりました」
「ロンドンのスタンリー家の邸宅に――」
「表向きは。実際には、夫人はランカシャーのスタンリー家の領地にいます。ロンドンのスタンリー邸に隠されているのが、あなたの弟君たちです。レディ・エリザベス」
 ラヴェル子爵が顔を向ける気配がした。
 エリザベスは笑おうとしたが、うまくいかなかった。どちらにしても、この暗さではお互いの顔はよく見えない。
 二人の弟たちはロンドン塔ではなく、スタンリー卿の邸宅にいた。こうして経緯をひととおり聞き終えても、いまだに事実として感じ入ることができない。
 何度も何度もテムズ川のほとりに立ち、ロンドン塔を見つめ、二人のことを考えた。あの時、エリザベスの視線の先に、弟たちはいなかったのだ。
 スタンリー卿とはじめて長く話したのも同じ場所だった。二人には会っていない、けれど無事であることは信じている、そう言い切った時の卿の顔を思い出す。理由もなくエリザベスに話しかけ、弟たちのことを持ち出していたのは、二人の消息をエリザベスにほのめかすためだったのだろうか。リチャードの意に背いてそんなことをするほど、卿はエリザベスたち姉弟を憐れんでいたのだろうか。
 リチャードは、スタンリー卿がエリザベスに近づいていることを知っていたのだろうか。一人はヘンリー・テューダーの継父、もう一人は婚約者。二人が裏で通じて、弟たちの身をどうかするとは考えなかったのだろうか。
「陛下は、スタンリー卿の忠誠を試すために、あえて弟たちを預けたのですか?」
 エリザベスは、さしあたり浮かんだ疑問を口にした。子爵は驚いたようだった。
「まさか。そのようなことにお二人を利用するはずがございません」
「では、なぜスタンリー卿のもとに? 他にも候補はあったのでしょう」
「ええ。わたしは別の場所を推したのですが」
 ラヴェル子爵はため息をついた。
「リチャードは人を信用しすぎです。よりによって、ランカスター派の王位僭称者の父に、大切な甥御がたを預けるなど――」
 感情の流れるまま、うっかりこぼしてしまったらしい。子爵は途中で慌てたように声を止めた。どうやら彼は、トマス・スタンリーにはいい感情を持っていないようである。リチャードの側近であれば無理もないことではあるが。
 スタンリー卿がヘンリーの父なら、エリザベスは未来の妻だ。エリザベス自身はまったくそのつもりはないが、リチャードはそうは思っていなかった。だから弟たちに会わせてもらえなかった。
 リチャードに信頼されるために、スタンリー卿は反乱軍と戦い、妻を人質に差し出そうとした。エリザベスは何をしてきたのだろう。
「レディ・エリザベス、お気を悪くさせてしまいましたか。あなたがお二人にお会いになるのは当然の権利です。姉君でいらっしゃるのですから」
 沈黙をどう受け取ったのか、子爵が声色を変えて言った。
 エリザベスは彼の意図をつかめず、しばらく考え込んだ。そして思い至った。彼はエリザベスと同じことを考えたようである。
「わたしをヘンリーの婚約者だとお思いにならないでください。彼の妻になるつもりは少しもございません」
 エリザベスは強く言った。リチャードともっとも親しい貴族である彼に、ランカスター派と通じているなどと疑われてはいけない。
「ええ、存じておりますよ」
「彼と婚約したのはただのなりゆきです。ランカスター派の王妃になりたいなどと露ほども思っておりませんわ。わたしはヨーク家の娘ですもの」
「ええ、ええ。そうでしょうとも」
 子爵は早口に続けた。
「プリンス・オブ・ウェールズの痛ましい知らせが届いた後、あなたと妹君が王妃のためになさったことは聞いております。それに、お従弟のジョンさまとも親しくなさっているそうですね。陛下はとても感謝していましたよ」
「感謝していただくようなことではござませんわ」
 エリザベスは冷たく言った。
 服喪中も王妃のそばを離れなかったのも、ジョンと仲良くしているのも、エリザベスとセシリーが心から望んでしたことだ。それを国王夫妻に取り入ったかのように言われるのは心外である。
「申し訳ありません、レディ。ご気分を害してしまったようで」
 子爵は苦笑しながら言った。エリザベスを傷つけるつもりではないようだ。
 エリザベスは小声で「いいえ」とだけ応えた。もっと愛想よくして会話を続けて、雰囲気をやわらげるべきなのかも知れないが、気力が残っていなかった。ただでさえ、昼間のリチャードとの会話で疲れきっているのだ。
 いま考えるべきことは他にある。実感はまだ湧かないが、これから一年ぶりに弟たちに会えるのだ。

 馬車が停まると、子爵はまたエリザベスの手を取り、暗がりの中を導いていった。
 出迎えた者はごくわずかだった。老年の従僕が一人と、年若い女中が二人。彼らはエリザベスの身分も、ここに来た目的も心得ているようで、無駄なことはしゃべらずに案内してくれた。
 導かれた部屋に入ると、この屋敷の主が待っていた。
 スタンリー卿は部屋の奥に立ち、エリザベスの姿を見ると礼の姿勢をとった。
「お待ちしておりました」
 エリザベスも腰をかがめ、二人は同時に顔を上げた。目があうと、卿はごくかすかに笑みを浮かべた。
 この人が弟たちを預かっていた。エリザベスが宮廷にやってくる前も、二人の身を案じて不安に苛まれていた時も、この人は弟たちの無事を知っていた。いまだに信じられないが、事実であることは間違いないようだ。その証拠に、彼はこうして部屋を用意して、エリザベスの来訪を待ちかまえていた。
「お座りください、レディ。お二人はすぐにいらっしゃいます」
 部屋の中央に置かれた椅子を、スタンリー卿は示した。真夜中であるにもかかわらず、何本もの蝋燭のおかげでここは明るい。出迎えてくれた使用人たちは壁ぎわに控えている。居心地のいい部屋だった。
 エリザベスはすすめられるまま座った。スタンリー卿とラヴェル子爵がその左右に立つ。謁見に臨む女王に付き従う忠臣のように。
 誰も口を開こうとしなかった。この夜、ロンドンじゅうで起きている者は一人もいないかのように、何の物音も声も聞こえてこなかった。
 エリザベスは膝の上で手を握りしめた。本当に弟たちはやってくるのだろうか。はっきりとそう告げられても、この場所に座ってみても、まだ信じられそうにない。一年以上も顔を見ていなかった。もう生きていないのかも知れないとさえ思った。その弟たちがこの部屋に現れて、エリザベスに姿を見せ、エリザベスに声を聞かせる。そんなことが本当に起きるのだろうか。
「――さあ、お二人とも急いで。お姉さまがお待ちですよ」
 開け放しの扉の向こうから、年配の女性の声が聞こえてくる。
 エリザベスは気づかないうちに、両手を口もとに持っていった。手は小刻みに震えていた。
 永遠に続くかと思った数秒のあと、扉のところに複数の人影が見えた。中央にいるのは恰幅のいい女性で、先ほどの声の主だとすぐにわかった。左右に小さな人影を従えるように連れており、そのうち一人の手を引いてやっている。
 その、手を引かれているほうが、部屋に入ってすぐに立ち止まった。
「エリザベス?」
 蝋燭の光を受けて、金髪が輝いた。眠そうに目をこすっていたが、寝間着ではなくきちんとした服装をしていた。エリザベスの顔をしばらく見つめると、少年は目と口を大きく開けた。
「すごい。本物のベスだ。本当だったんだ」
 一年前に聖域で別れたきりの下の弟、リチャードだった。
 エリザベスは椅子から立ち上がり、駆け出した。飛びかかるようにして抱きしめると、弟が小さな叫びを上げた。両腕におさまった少年の体は、夢の中とは違ってあたたかかった。
 生きていた。無事だった。ほんとうに会えた。
「はなして、ベス。みんなが見てる」
 弟が腕の中で身をよじり、暴れはじめた。エリザベスは彼を捕らえておこうとしたが、弟は器用にかわして姉の手をすり抜けてしまった。
 ぬくもりが名残惜しくて、エリザベスは離れてしまった弟を見る。その時、広くなった視界の端に、別の金髪の頭が見えた。
 背の高い少年だった。下の弟と同じような服装をしているが、立ち姿はしっかりとたくましく、顔つきもどこか大人びている。連れてきてくれた女性の陰に隠れるようにして、エリザベスのほうを黙って見つめている。
「エドワード」
 エリザベスはつぶやいた。
 かつての少年王、エドワード五世がそこにいた。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.