テューダーの薔薇 [ 3−3 ]
テューダーの薔薇

第三章 ロンドン塔の王子たち 3
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 日が高くなってきたころ、エリザベスは宮殿を出て歩きはじめた。今日も天候は良く、テムズ川のほとりには少なくない人の姿が見える。
 あと数時間後には、リチャードの前に立って、話を始めているはずである。これほど早く機会が訪れるとは思ってもみなかったので、何をどう話すのかまったく考えていなかった。宮殿を出てきたのは、一人で考えを整理したかったからだ。
 セシリーのおかげで昨夜は少し眠れたが、体の疲れはとれきっていない。
 ロンドン塔の前で足を止め、テムズ川を挟んで向かいあう。ここからあの場所を眺めて弟たちのことを考えるのは、もう何度めだろう。見つめ続けたところで、二人の様子がわかるわけでもないというのに。
 聖域を出て宮廷にやってきた時、弟たちを救うためならなんでもすると決めた。しかし、実際にエリザベスは何をしてきたのだろう。二人に会わせてほしいとリチャードに懇願し、そのたびにかわされていただけだ。一人で不安を募らせている時間のほうが、ずっと長かったのだ。
 このあと再びリチャードと話すことになるが、また同じ話を繰り返すしかないのだろうか。
 交渉がうまく進まない理由はわかっていた。母が王位をあきらめたことを、リチャードに信じてもらえなかったからだ。エリザベス自身も心の底では母を信じきれていない。そんな心もとない気持ちのままで、相手の信用を得られるわけがない。
 母の考えを確かめることはできそうにない。手紙ではあからさまなことは書けないし、じかに話しても母が本心を明かしてくれるかわからない。
 けれど、そのままでは弟たちを返してもらえない。二人に会いたいと頼んでもかわされるし、元気なのかと尋ねても元気だと言われるに決まっている。
 どちらを向いても大きな壁が立ちはだかっていて、一人では乗り越えることも、押し開けることもできそうにない。壁の向こうに何が待っているのかもわからない。
 この瞬間、弟たちが生きているのかどうかもわからないというのに、先に進む手だてが何ひとつ浮かんでこない。
「お父さま」
 ロンドン塔を見つめたまま、自分にだけ聞こえる声で、今いちばん会いたい人を呼んだ。
「どうすればいいの」
 声が空中に消えたあと、しばらく耳をすませてみる。川のせせらぎ、鳥のさえずり、遠くで笑う人の声。いくら待ち続けていても、他には何も聞こえてこなかった。
 父は遠いところへ行ってしまった。エリザベスはこの時はじめて、それに気がついたような心地がした。父はもうここにはいない。どれほど寂しくても、心細くても、助けてほしいと思っても、父が手をさしのべてくれることは、もう二度とない。
 泣きたいと思ったけれど、涙は出てこなかった。現実を突きつけられた今、エリザベスの頭はかえって冴えていた。これから何をどうするべきなのか、エリザベスは自分で考えなければならないのだ。
 できることはすべてやり、考えることはすべて考えた。この先は何をすればいいのだろう。
 母と弟たちのために、エリザベスがするべきことは何だろう。

 従僕に導かれて部屋に入ると、机に向かって書きものをしているリチャードの姿が見えた。エリザベスは、はじめてここに来た日と同じように、手前で足を止めて膝を折った。
「陛下。お時間をさいていただき、ありがとう存じます」
「掛けてくれ」
 リチャードは一度だけ顔を上げ、すぐ手もとに視線を落とした。
 従僕が椅子をすすめに来たが、エリザベスはそれを手で制した。姿勢を正し、笑顔はつくらず、目はリチャードからそらさなかった。
「いいえ、陛下。このままでけっこうです」
 リチャードが手を止め、顔を上げた。エリザベスと目が合うと、かすかに眉をひそめる。
「掛けなさい。アンが、きみの元気がないと言って心配していた」
 エリザベスは思わず目を見開いた。まさか、それが理由で、すぐに時間をつくって呼んでくれたのだろうか。
 張りつめていた気が少しだけゆるんだが、なんとか表情は崩さなかった。
「それは、お気遣いをありがとうございます。王妃さまにご心配をおかけして、申し訳ございません」
「いいから、座ってくれ」
「このままお聞きいただけないでしょうか。わたしはどこも悪くしておりません。いつもと様子が違って見えるようでしたら、きっと緊張しているせいだと思いますわ」
「なんの話だ」
 リチャードはいつもの調子で、そっけなく訊いた。目を合わせたまま短い沈黙が流れる。
 エリザベスは、深く息を吸い込んだ。
「それを申し上げる前に、お人払いをお願いいたします」
 部屋の中には先ほどの従僕と、エリザベスが連れてきた侍女が控えている。半開きの扉の前には、槍を手にした二人の番兵も立っている。エリザベスが願い出た瞬間、彼らの空気がかすかに動いた。
「ご無礼をお許しください、陛下。なぜこのようなお願いをしなければならないのかは、話が済んだ後でおわかりいただけると思います」
「それほどゆっくり聞いてやる時間はないが」
「長くはかかりませんわ」
「このままでは話せないのか」
「はい」
 リチャードは一瞬だけエリザベスの目を見つめ、すぐに従僕たちに下がるように命じた。後ろ髪を引かれる空気を残しつつ、彼らはすばやく去っていく。はるか後ろで扉が閉まる音がした。エリザベスはただ一人で、イングランド王の前に立っていた。
「ありがとうございます、陛下」
 エリザベスは言った。人が少なくなったせいか、声がより強く響くような気がした。
 リチャードはそれには応えず、手にしていた筆記具を机上に置いた。
「話しなさい」
 エリザベスはリチャードの目を見た。
 口では緊張していると言ったものの、本当のところエリザベスは落ち着いていた。恐れていた震えも、動悸も、寒気もやってこなかった。自分でも意外なほど静かに、エリザベスはこの場に臨んでいた。
 ここにやって来るまでに、心の中で何度も話を繰り返し、言葉を練り直した。これがいちばんいい方法なのかどうかはわからない。ひょっとしたら、最悪の結末しか待ち受けていないのかもしれない。
「お願いがございます」
「なんだ」
「母に、弟たちを返してください」
 エリザベスはゆっくりと言った。口に出してみると短い言葉だった。
「わたしの母が、陛下からご信用をいただくに足りないということは、よく心得ております。そのうえでお願い申し上げます。母に弟たちを返してください」
 リチャードがエリザベスを見上げ、わずかに身をそらせた。表情はこわばったように動かなかった。
「理由を聞こう」
「他に方法がないからです。わたしには、母を救うことができません。母が何を考えているのかすら、わたしにはわかりません」
 エリザベスは、ずっと言えずにいたことを、言ってはならないと思っていたことを、はっきりと口に出した。
「母は、弟を王にすることをあきらめていないかもしれません。弟たちを取り戻したら、王位のためにまた乱を起こすつもりかもしれません」
「待ちなさい」
 リチャードが手をあげて、エリザベスの話をさえぎった。気おされたような表情をしていたが、すぐに真顔にもどった。
「母上の前に、きみはどうなんだ。弟を王にすることを二度と望まないと言えるのか」
「弟のエドワードはまだ十三歳の子どもです。王位につくことも、そのために乱の陣頭に立つことも、自分からは決して望まないはずです。わたしは弟が望まないことを無理強いしたいとは思いません」
「ヘンリー・テューダーとの婚約は。どう説明する」
 エリザベスは両手を握りしめた。
 あれほど言葉を尽くして説明したつもりだったのに、伝わっていなかった。信用されていなかった。怒りとともに絶望が込み上げてくる。
「それについては以前にも申し上げました。ヘンリーとの縁組みを望んだのは母であって、わたしではありません。わたしは一方的に命じられただけで、一度は母に逆らって拒もうとさえしました。今でも正式な婚約だとは思っておりません。父も生きていれば決して許さなかったはずです」
「父上に誓えると言うのか」
「誓えます。何度でも申し上げます。わたしは、ヘンリーとの結婚も、彼が王になることも望んでおりません」
「王妃になれるとしても?」
「イングランドはわたしの生国です。この国の王女として育ったわたしが、この国の王妃になりたいなどと、どうして考えなければならないのでしょう」
 一気にまくし立てると、体が急に熱くなった。息切れと同時に軽いめまいがした。
 ヘンリーとの婚約については、言えることはすべて言った。信じてもらえないのであればもう何もできない。
 リチャードはエリザベスの目を見返したまま、押し黙っていた。何を考えているのかはやはりわからない。ただ、話を聞こうとしてくれているのは確かなようだった。
「きみの望みは、王位を争うための乱が起こることではなく、二度と起こらないことなのだな」
「はい、陛下」
「それでも、弟たちを母上に会わせたいと思うのか」
「ええ。その通りです」
 エリザベスはリチャードから目をそらさずに続けた。
「先ほども申し上げたとおり、わたしには母の考えがわかりません。弟たちと会わせることが良いことなのかどうかもわかりません」
「では、なぜ」
「宮殿にお招きいただいて以来、わたしは母からの手紙を何通も受け取りました。そのすべてに弟たちのことばかりが書かれていました。弟たちにもう会えたのか、何か消息はわかったのかと。母が、わたしを宮廷に上げることを許したのも、弟たちを返していただくためでした」
「知っている」
「わたしは母の望みを叶えるために、何度も陛下にお願い申し上げましたが、お聞き届けいただけませんでした。母のこともわたしのことも信じていただけなかったのは当然です。わたしは陛下に、いちばん大切なことをお伝えしておりませんでした」
 エリザベスは息をついで、続けた。
「弟たちが生きている限り、母が王位を望む可能性はなくなりません」
 恐ろしい言葉だった。それが事実であればイングランドの未来は、再びの内乱か、弟たちの死か、二つに一つしかないということになる。
 どちらも避けたいのであれば、弟たちがロンドン塔に幽閉されたまま、エリザベスが母の手紙をやり過ごすしかない。
 しかし、エリザベスは、別の道を選んだ。
「弟たちを返していただけるまで、母の手紙は続くでしょう。思わせぶりな返事を書いて時間を稼ぐことはわたしにもできます。けれど母はもう、聖域での一年間でじゅうぶんすぎるほど疲れきっていました。その母を救うことはわたし一人ではできません。陛下のお力添えをいただきたいのです」
「それが二人を返すことか」
「ええ。陛下はすでに、母と妹たちに穏やかな暮らしを与えてくださいました。そこに弟たちが加われば、母を救うことができるのではないかと思うのです。たとえ、二人が」
 エリザベスは言葉を止めた。
 この場所に立ってから、一度も感じなかった震えが、今になって急に襲ってきた。足もとをしっかり踏みしめ、崩れ落ちそうになるのをこらえる。
 ここで恐怖に負けてはいけない。できることはなんでもすると決めたはずだ。
「二人が――以前とは違う姿になっていたとしても、それを認めることで、母は戦いを終えることができると思うのです」
 エリザベスは言った。腕を抱きしめたくなるのをこらえ、かわりに胸の前で手を組んだ。
「母を救ってください。お願いいたします」
 広い部屋に声が響きわたり、それが消えたかと思うと、今度は沈黙が訪れた。
 エリザベスは手を組んだまま、リチャードの目を見つめ続けた。意気込んで話し続けていたせいか、少し息が上がっている。それを整えながら、表情を崩さないように自分に言い聞かせる。
 これがいちばん正しいやりかたなのかはわからない。それどころか、手の内をすべて明かしたことで、危険が増しただけなのかもしれない。
 けれども、これしか思いつけなかった。自分の知恵でものごとを動かすことも、他人を説き伏せることもできないのなら、正直に助けを求めるしかない。エリザベスはそう心に決め、リチャードにすべてを打ち明けることにしたのだった。父が信頼し、後を託していったこの人に。
 すべてを話し終えた今、エリザベスにできることは何ひとつ残っていない。
 リチャードは目線を落とし、机上の一点を見つめたまま、長いあいだ黙っている。エリザベスは震えを抑えながら、彼から目をそらさないように努める。
 空気が凍りついたように、何も聞こえず、何も動かなかった。
「他に言いたいことや、訊きたいことは?」
 リチャードがゆっくりと沈黙を破った。
「ございません」
「わかった。ひとまず座ってくれ、エリザベス。顔色が悪い」
「いいえ、陛下」
「座るんだ」
 リチャードはエリザベスの目を見て、今まででいちばん強い口調で言った。
 エリザベスは見返していたが、やがて根負けした。緊張のために体は冷えきっているし、ずっと立っていた足は悲鳴をあげかけている。椅子に腰を下ろすと、考えまいとしていた疲れがどっと押し寄せた。
「話していいか」
 リチャードが訊いた。よほどエリザベスは具合が悪そうに見えるらしい。
 エリザベスは疲れを隠すように、姿勢を正した。
「お願いいたします」
「きみに話していいか考えていた。本当のことを知っても、きみが納得できるかどうかわからない」
 リチャードにしてはめずらしい、長い前置きだった。エリザベスの鼓動が少しずつ速くなる。
「かまいません、陛下。本当のことを知りたいのです。どうか、ロンドン塔に行くことをお許しください」
「行っても意味がない。きみの弟たちはもうそこにいない」
 体がこわばるのがわかった。他には何も見えず、何も聞こえなかった。自分が息をしているのかさえわからなかった。
 真っ暗になった視界の中に、夢で何度も見た光景が浮かぶ。
「去年の秋、二人を密かに別の場所に移らせた。だからもうロンドン塔にはいない」
 エリザベスはリチャードの顔を見た。夢の記憶が消え、急に目の前の現実が見えるようになった。しかし、耳に聞こえたことはすぐに理解できなかった。
「申し訳ありません、陛下。もう一度――」
「きみの弟たちを、ロンドン塔から別の場所に移らせた」
 リチャードは表情を変えず、ゆっくりと繰り返した。エリザベスの理解の遅さに苛立ってはいないようだった。
 エリザベスは固まったまま、しばらく言葉を返せなかった。これまで考えてきたこと、考えてこなかったことが、頭の中を駆けめぐっている。それがようやく一本の線にまとまった時、口をついて出てきたのはただ一つの疑問だった。
「どこにいるのですか」
「スタンリー家の屋敷だ」
 エリザベスは目を見開いた。これ以上、驚くことはないと思っていたのに。
「ロンドンにスタンリー家の別邸があるのは知っているだろう。スタンリー卿がそこに住まわせているのは彼の妻ではなく、きみの弟たちだ」


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