テューダーの薔薇 [ 3−2 ]
テューダーの薔薇

第三章 ロンドン塔の王子たち 2
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 喪が明けてから十日ほど経ち、エリザベスは久しぶりにリチャードに使いを送り、話せる時間がほしいと申し出た。弟たちのことを話すためである。
 どう話せばいいのかわからないし、これがいちばんいい方法なのかもわからなかったが、何か動かずにはいられなかった。どのみち、すぐにいい返事は得られないだろう。
 それまでのあいだは、別のことをして待つことにした。

 活気が戻りはじめた宮廷では、ささやかながら夜会もよく開かれている。
 エリザベスはセシリーを従兄弟たちに任せ、広間の中を練り歩きはじめた。リチャードより前に会って、話しておきたい人物がいるのだ。従弟のジョンをのぞけば、弟たちのことを自分から話してくれたのは彼だけだ。トマス・スタンリー男爵である。
 エリザベスは歩きながら、すれ違う宮廷人を確かめた。さりげなく一人一人の顔を見て、カードを繰るように名前と一致させていく。しかし、探している顔はなかなか見つからない。
「レディ・エリザベス?」
 ふいに名前を呼ばれて足を止めた。やっと会えたかと思ったが、振り返った先にいたのはスタンリー卿ではなかった。同じくらい背が高く貫禄があるが、老年に近くそのぶんだけ雰囲気が優しい。
「ごきげんよう、ノーフォーク公」
「ごきげんよう。あなたがお一人とはめずらしい。どなたか、お探しの方がいらっしゃるのですか?」
 ノーフォーク公ジョン・ハワードは、父の在位中からのヨーク派である。エドワード五世の廃位に際してリチャードを支持したので、その功で公爵位と多くの領地を与えられた。母が裏切り者と呼んで憎んでいる貴族の一人だ。
 しかし、皺に縁どられたあたたかい目で見つめられると、彼に敵意をいだくのは難しかった。公ほどの年齢の者から見れば、エリザベスは孫娘のようなものだろう。
 エリザベスは少し迷ってから、けっきょく正直に口を開いた。
「スタンリー卿をお見かけしませんでしたか? 先日の夜会でもお探ししたのですが、いらっしゃらなかったようですの」
「ここ何日か、出仕なさっていないようですよ。陛下のご許可もいただいているようです」
「まあ、何かおありになったのでしょうか」
「奥方のご様子がよくないようですな」
「――レディ・マーガレットの?」
 思いもよらない名前が出てきた。スタンリー卿夫人マーガレットはランカスター家の傍系で、ヘンリー・テューダーの実の母だ。昨年の反乱の罪で幽閉されているが、夫の邸宅にいるのだからそれほど環境は悪くないはずだ。
「ええ。詳しくはわかりませんが、スタンリー卿は屋敷にとどまっているようで。奥方に何かあったのではないかと言われております」
「そうですか。ご心配ですね」
 それでは、しばらく会うことはできないのか。急いでいたわけではないが、すっかり話すつもりになっていたので、できないとなるとそれなりに落ち込んでしまう。
 マーガレットのことも少し気になった。以前スタンリー卿と話した時は、夫人は元気だと言っていたが、そのあと体調を崩したのだろうか。マーガレットに何かあったとなれば、王位の行方やエリザベスたちの立場にもかかわってくる。
「スタンリー卿に何かお話がおありですか、レディ?」
「いえ、たいしたことではないのです」
 エリザベスは慌てた。スタンリー卿とエリザベスの間には、ヘンリー・テューダーを挟んでわずかな縁がある。この宮廷では決して好意的には見られない縁である。
「以前、卿がわたしの父のことをお話しくださったことがあったのです。それが嬉しかったので、また同じようにお話できないかと」
 ノーフォーク公は目を細めた。
「エドワード王のお話でしたら、わたしにもぜひさせていただきたいものですな」
「まあ、聞かせてくださいますの?」
「もちろん。その前に、彼らを仲間に入れてさしあげましょう。あなたとお話したくてたまらないご様子ですから」
 公が示したほうを向くと、エリザベスたちを見つめる集団がいた。多くは年若い貴族の青年で、話しかける機会をうかがっていたようである。ノーフォーク公が気を利かせて声をかけると、彼らはあっという間に二人をとりかこんだ。
 公を中心にエドワード四世の話をして、エリザベスは何人かの若者と踊って、夜会の時間は過ぎていった。エリザベスは笑顔を装ったが、話せなかったことを忘れることはできなかった。
 スタンリー卿と話がしたかったのは、彼の言葉の意味を確かめておきたかったからだ。卿はエリザベスと会うたびに、リチャードへの擁護ばかりを口にしている。その中の一つが、今になって気になりだしたのだ。
 リチャードが王位についた過程がどうであれ、それは自分のためではなかった、と。
 自分のためでなかったとしたら、何のためだったのだろう。

 寝室で一人で横になっていても、眠りにつくことはできなかった。
 同じことばかり何度も考えすぎて、頭がすり切れそうになっている。日ごとに大きくなる不安のせいで体が重く、疲れが隠せなくなっているのが自分でもわかる。それなのに、眠って心身を休めることはできそうにない。
 眠れたとしても、また同じ夢を見るかもしれない。そう思うと目を閉じる気になれず、横たわったまま暗闇を見つめていた。
「エリザベス?」
 すぐそばで声がした。
 セシリーがエリザベスの寝台のはしに乗り、ひかえめに姉を見下ろしていた。暗いので顔はよく見えないが、心配しているのが雰囲気でわかった。
「どうしたの、セシリー」
「眠れていないのかと思って……やっぱり起きていたのね」
「そのうち眠るわ」
 エリザベスはほほえんで見せた。
 それが気休めであることも、セシリーがそれを見抜いていることもわかっていた。けれど、他にどう言えばいいのかわからなかった。
「いったいどうしたの、ベス? ここ最近、ずっと様子がおかしいわ。本当にどこも悪くないの?」
「悪くないわ。心配してくれてありがとう、セシリー」
「ねえ、何かあったのなら言って。わたしには言えないの? わたしはそんなに頼りにならない?」
 エリザベスは思わず笑った。
 宮廷に来たばかりのころは、この妹を周囲から守ろうと息まいていた。それなのに今、他の誰でもない自分こそが、セシリーに不安な顔をさせている。
 あの時、こうすると決めたことを、エリザベスは何ひとつ果たせていない。母からの手紙に良い返事ができたことは一度もないし、弟たちを取り戻すどころか、無事でいることさえ信じられなくなっている。不安を隠しとおすことができず、妹や友人たちや、病身の王妃にまで心配をかけている。
 けっきょくエリザベスは、自分で思っているほど賢くも、強くもなかったのだ。
「ごめんね、セシリー」
「どうして謝るの」
「なんでもない――ねえ、一緒に寝てくれない? そうしたら眠れるかもしれないわ」
 セシリーは戸惑ったようだったが、ゆっくりと体を動かしはじめた。エリザベスは寝台の上で少し横にずれる。セシリーのあたたかい体が隙間にもぐり込んできた。
 妹を安心させるために言ったことだったが、こうして並んで横たわってみると、本当にいくらか気持ちがやわらいだ。
 エリザベスは体を妹のほうに向け、ほほえんだ。
「聖域にいたころは、よく一緒に眠ったわね」
「ええ。キャサリンやブリジットも一緒だったわ」
「あの子たちが毎晩のように泣いていたから、なかなか寝つけなかったのよね」
「わたしもよく泣いたわ。あの時は明日がどうなるのかわからなくて、本当に怖かったもの」
 ウエストミンスター寺院にいた一年間は、せまい寝床をいつも姉妹で分けあっていた。宮殿の居心地のいい寝台とはまったく違う、固くて、冷たくて、じめじめとした場所だった。幼い妹たちが悪夢にうなされて泣き出すたびに、夜どおし抱きしめてあやしてやらなければならなかった。
 もう幾月も前のことなのに、いまだに忘れられない。エリザベスにとっては二度めの経験だった。先の内乱の記憶がないセシリーや、まだ生まれてもいなかった下の妹たちは、もっと辛い思いをしていただろう。
 明日は生きていられるのか、外にいる家族は無事なのかもわからず、眠れない夜が何日も続いていた。外からもたらされるのは暗い知らせばかりで、誰もが気力をなくして疲れきっていた。
 母のことがわからなくなったのもあのころからだ。十三年前には身重の体で気丈にふるまい、娘たちを励ましてくれた母が、この一年はまるで別人のようだった。恐ろしい陰謀を語り、呪いの言葉をつぶやき、しょっちゅう癇癪を起こして妹たちを怖がらせていた。
 母はたぶん、父が息を引きとった瞬間から、王位のために戦うことだけを考えていた。
「ねえ、エリザベス」
「なあに、セシリー」
「もしかして、弟たちのことを考えているの?」
 エリザベスは口を閉じて、妹の顔を見た。暗がりの中でわずかに読みとれる表情は真剣だった。
「弟たちが、その――無事でいるのかどうか心配なのでしょう? だから眠れていなくて、昼間も上の空なのではないの?」
 エリザベスは答えられなかった。否定することも肯定することもできず、妹の顔を見つめていた。
 セシリーには、弟たちについて考えていることを何も話していない。ジョンから聞いたことをそのまま話してやったくらいだ。姉が弟たちを取り戻そうとしていることも知らないはずである。
 そして、セシリーは以前、弟たちに関する噂を信じかけていた。
「ねえそうなの、ベス?」
「そうね。少し、心配しているわ」
「きっと大丈夫よ。二人は無事でいると思うわ」
 エリザベスは笑った。
「以前と言うことが違うじゃないの、セシリー」
「だけど、本当にそう思うのよ」
「どうして?」
「わからないの。そう思いたいだけかもしれないわ」
 セシリーの声が小さくなっていく。
 エリザベスはほほえみ、妹の顔を撫でた。久しぶりに同じ寝台にいる妹は、以前よりわずかに大きくなった感じがした。
 この宮廷に来たばかりのころ、セシリーはリチャードのことをただ憎んでいた。父が別の女性と結婚していたことも、そのために自分たちが庶子にされたことも、すべては王位のための陰謀だと思っていた。そして、その延長で、弟たちは殺されたと信じるようになっていた。
 けれども今、セシリーの中で、その筋が少しずつずれてきているようだ。何を憎み、何を許し、何を信じたらいいのかわからなくて戸惑っている。
 ひたすら憎んでいれば良かったころと、どちらが幸せなのだろう。
「ねえ、セシリー」
「なあに」
「お父さまは、どんなお気持ちだったのだと思う?」
 セシリーがきょとんとした。
「お父さま?」
「亡くなる前のことよ。どんなお気持ちでわたしたちにお別れを言ったのだと思う? 後のことを心配していたかしら、していなかったかしら」
 この数日、さまざまなことを考えてそこに行きついた。すべての始まりは一年前の父の死だった。幼い弟を遺して父が世を去った時、エリザベスの運命も動きはじめたのだ。王の娘から、王の姉へ。そして、王の姪へ。
「それは、少しはしていたと思うわ。エドワードはまだ、王位を継ぐには小さかったもの」
「そうね、セシリー」
「キャサリンやブリジットはまだあんなに小さかったし、あなたとフランス王太子の婚約がこわれたばかりだったし……わたしにはよくわからないけれど、いろいろと難しい問題もあったのでしょう?」
 セシリーの言うとおりだった。
 父が急逝する前年、フランス王はイングランドとの条約を一方的に破り、休戦の条件として支払われていた年金を停止した。エリザベスと王太子との婚約が反故にされたのもこの時だ。激怒した父は再征の準備を進め、その矢先に倒れて帰らぬ人となった。
「あなたはそう思わないの、ベス?」
「いいえ、思うわ」
 父に憂いがまったくなかったとは思えない。百年以上も続く敵国との戦いが再び始まろうとしていた。セシリーは知らないが、母の親族と他の貴族たちとの間には確執があった。身分不相応な地位を得たウッドヴィル一族は国じゅうの嫌われ者で、父が亡くなった時もその評判は変わっていなかった。そして、ランカスター家の傍系ヘンリー・テューダーも、王位をあきらめることなく大陸で機会をうかがっていた。
 父が十二歳の嫡男に遺していったのは、そんなイングランドの王位だったのだ。
 それにもかかわらず、臨終の床で父は娘に、怖がらなくてもいいと言った。リチャードにすべて任せておけば、何も心配はいらないと。
 エリザベスはその言葉を信じ、待ち受ける未来を想像した。弟がエドワード五世として王位につき、叔父が摂政として支えている未来を。少年王の姉という新しい穏やかな日々を。そして、その幻想はまもなく打ち砕かれた。エリザベスは、父を裏切ったリチャードを憎んだ。
 本当にそうだったのだろうか。あの日、父が最期に言ってくれた言葉は、本当にそんな意味だったのだろうか。
 今さら考えたところでわかるはずがない。起きてしまったことは変えられないし、いったん芽生えた感情は簡単には消えてくれない。
 それでも、長いあいだ弟たちのことばかり考えていると、父のあの言葉が手がかりに思えてならない。
「お父さまのお気持ちがなんなの、ベス? それと弟たちのことと、どう関係があるの」
 セシリーが不安そうにたたみかける。
 エリザベスは妹の髪を撫で、ほほえんだ。ようやく考えがまとまりかけているが、セシリーにはあまり聞かせたくない。
 エリザベスはセシリーと違い、弟たちが無事ではないという話を信じてこなかった。王位継承権を失い、幽閉された二人を密かに消したところで、リチャードが手に入れるものは何もないからだ。
 けれど、リチャードが自分のためだけに動いていないとしたら。イングランドのため、そこに暮らす臣民のため、エリザベスの母のためを考えているとしたら、どうだろう。
 そんなことは想像するだけでも怖かった。弟たちがもう生きていないかもしれないことも、それを命じたのがリチャードであるということも、できれば考えずにいたかった。
「エリザベス?」
 セシリーが再び呼んだ。
「だいじょうぶ?」
「ええ、セシリー」
「きっと二人は元気でいるわよ。だから心配しないで、眠りましょう」
 セシリーはらしからぬ口調で言った。姉を励まそうと懸命になっているが、声がかすかに震えていた。
「そうね。おやすみ、セシリー」
 エリザベスは手を伸ばし、妹を抱きしめた。セシリーも寄りそってきて、二人は同時に目を閉じた。寝間着ごしに触れあうと、お互いのあたたかさが一つになっていくようだった。
 聖域にいたころも、よくこうして姉妹で眠った。泣いたり震えたりしながら抱きしめあい、同じ悲しみや恐怖を分かちあった。
 弟たちもこんなふうに眠っているのだろうか。二人のそばには、一緒に眠ってくれる者はいるのだろうか。できるものなら今すぐロンドン塔に飛んでいって、眠っている二人を抱きしめてやりたい。
 どうしているのかわからない、生きているのかもわからない、大切な、かわいい弟たち。



「レディ・エリザベス。陛下からのお返事です。今日の午後、お会いになれるそうです」
 一夜あけてから、従僕が知らせを持ってきた。
 エリザベスは立ち止まり、相手の顔を見つめた。聞きまちがえたのかと思った。
「――今日?」
「ええ。レディ・エリザベスのご都合さえよろしければ、とのことです」
 エリザベスの都合が悪いはずがない。話をしたいので時間を空けてほしいと頼んだのはこちらである。
 しかし、使いを送ったのはつい昨日のことだ。これほど早く返事を、それも承諾をもらえるとは思ってもみなかった。いつもは何度か使いを送っても、忙しいからと相手にされなかったのに。
 自分から申し出たものの、何を話すのかはまったく考えていない。
「陛下にお伝えして。おうかがいいたします、と」


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