テューダーの薔薇 [ 3−1 ]
テューダーの薔薇

第三章 ロンドン塔の王子たち 1
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――おかわいそうな、おかわいそうな、二人の王子さま。
――王位ばかりか命までも、実の叔父さまにとられてしまうなんて!

 持ちかえようとした手がすべり、エリザベスは大きく体を傾けた。そのまま前のめりに倒れこんでいく。
 床に叩きつけられるかと思った寸前、大きな腕に抱きとめられた。
「大丈夫?」
 顔を上げると、驚いた顔の青年が見下ろしていた。従兄のリンカン伯ジョン・ド・ラ・ポールである。
「……ええ、ごめんなさい」
 エリザベスは慌てて体勢を戻した。宮殿の一角で、ダンスの練習をしていたのだった。
 プリンス・オブ・ウェールズの喪が明け、ウエストミンスター宮殿にも少しずつ人気が戻りはじめていた。服喪中も宮廷にいたエリザベスとセシリーを気遣って、サフォーク公爵家の従兄弟たちが声をかけてくれたのだ。
 エリザベスがパートナーの手を取りそこねて倒れかけたのは、踊りはじめてすぐのことだった。
「なんだかふらついているみたいだったよ。具合でも悪いの?」
 リンカン伯の弟のエドワードが、気遣わしげに訊いてくれた。彼の左右にいる者たちも、心配を隠さずに見つめている。
「いいえ。踊るのは久しぶりだから、体が忘れかけていただけよ。もう一度いいかしら」
「いや、顔色も悪いみたいだ。少し休んだほうがいい」
 リンカン伯にも言われ、エリザベスは内心で苛立った。不調を隠しきれなかった自分にである。
 セシリーが駆け寄ってきて、庇うように姉の腕をとった。
「エリザベス、このごろ少しおかしいのよ。おしゃべりしていても、急にぼんやり黙ったり、人の声が聞こえていなかったりするの」
「セシリー。やめなさい」
 エリザベスは妹を制した。けれど周囲はセシリーに同調して、次々と心配の言葉をかけてくる。
「どこも何ともないの。少し夢見が悪かっただけよ」
 エリザベスは正直に答えた。
 本当のことである。気が散りがちなのは体調が悪いからではなく、夢の中で何度も聞いた言葉が、起きている間も頭に響いているせいだ。
 宮廷の外では今日も、同じ言葉がささやかれているのだろう。
 王太子の喪が明けると同時に、リチャードが後継者を正式に発表した。クラレンス公ジョージの遺児エドワードである。
 前王エドワード五世ではないのかと言う者は、エリザベスの知る限り一人もいなかった。弟が後継者になることを密かに望んでいたのは、宮廷じゅうでエリザベスだけだったのだろうか。廷臣たちは当然のようにこの決定を受け入れ、喪に服す以前の様相を取りもどしつつあった。誰一人として、ロンドン塔にいる二人のことに触れようとはしなかった。
 リチャードの甥たちの中で生きているのは、ジョージの息子だけであるかのように。
 エリザベスは、しつこく絡みつく考えを振りはらった。宮廷で弟たちのことが話題にのぼらないのは、王太子が亡くなる前も同じだった。後継者に選ばれなかったことにも正当な理由があるのだから、人々が疑問に思わないのもあたりまえである。
 どれだけ自分に言い聞かせても、夢で聞いた言葉は消えてくれない。頭の中で鈍い痛みのように響き続けている。
 夢はただの夢だ。早く忘れなければ。妹や従兄弟たちに心配をかけてはいけない。
「気にしないで、本当に大丈夫だから。――セシリー、王妃さまの前でこんな話をしてはだめよ」
「え、ええ。もちろん」
 王妃の名前を出すと、セシリーはようやく表情をあらためた。アンの病状が回復してくるにつれ、二人が呼び出されることも増えてきている。
「王妃さま、ずいぶん良くなられたようね」
 二人のやりとりを聞いて、従妹が話題を変えた。
「ええ。すっかりとはいかないようだけれど」
「また公の場にもお出ましになれるといいな。お姿を見られるだけでもみんな安心するから」
「王妃さまもそう仰っていたけれど、なかなかお許しが出ないみたい」
「ご無理はなさらないほうがいいわよね」
 口々に言いあううちに、話は次第に別のところへ移っていった。
 エリザベスは以前の調子を思い出しながら、懸命に会話を続けた。そうしているあいだにも、あの言葉は頭から離れてくれなかった。

「いいお天気ね」
 窓のほうを見つめながら、アンが言った。
 アンは少しずつ体を持ちなおし、床を離れられるようになっていた。少なくとも、訃報が届く前と同じくらいには回復したようである。エリザベスとセシリーが呼び出されて会いに行くと、アンは以前と同じように笑顔で迎えてくれ、ゆっくりと話ができるようになった。
「はい、王妃さま」
「宮廷にも、ずいぶん人が戻ってきたみたいね。あなたたちもお友達と会えた?」
「はい。みなさまに、とてもご親切にしていただいています」
「そう」
 アンは微笑みながら振り返り、エリザベスと目を合わせると、急に真顔になった。
「エリザベス、どうしたの。なんだか顔色が良くないわ」
 エリザベスは一瞬、怯んだ。隣からセシリーが何か言いたそうに見つめている。
 アンにはとりわけ気を遣わせてはいけない。一人息子の早逝から立ち直り、ようやく病状も落ち着いてきたところなのだ。
「なんでもありませんわ、王妃さま」
「具合が悪いのではないの?」
「いいえ。ゆうべ怖い夢を見てしまって、よく眠れなかったのです。子どものようでお恥ずかしいですわ」
「まあ……どんな夢だったの?」
 アンは笑みのないまま訊いた。興味本位ではなく、まだエリザベスを心配してくれているようだった。
 エリザベスは、打ち明けてしまいのを必死でこらえた。アンに言えるはずがない。わたしの弟たちが、あなたの夫に殺されている夢を見たのです――などと。
 本当は話してしまいたい。自分の不安と疑問をすべて伝えて、弟たちは本当に無事なのか、何か知っていることはないか聞き出したい。あの母への伝言はどういう意味だったのか問いつめたい。
 エリザベスは見えないように唇を噛み、笑顔を保った。
「それが、傑作ですの。どのような夢だと思われます?」
 声の調子を上げ、見てもいない架空の夢を話しはじめる。
 ようやく場が和んだころ、侍女の一人がアンに近づいて告げた。
「王妃さま、いらしたようですわ」
「そう。お通しして」
 エリザベスはセシリーと顔を見合わせた。王妃の居所に来客があるのはめずらしい。
 エリザベスは立ち上がり、妹にも促した。
「それでは、わたしたちは失礼しますわ」
「待って。エリザベス、セシリー」
 アンが二人の名を呼び、にっこりと微笑んだ。
「せっかくだからあなたたちにも会ってほしいわ。ロンドンに来るのは久しぶりなの」
「――どなたですか?」
 エリザベスが訊くのと同時に、新たな人物が入ってくる気配がした。
 来客は貴族階級の男性だった。年ごろはおそらく、アンやリチャードと同じくらい。長旅を終えたばかりという雰囲気だが、服装はきちんとしている。入り口からまっすぐに歩いてきて、アンの前まで来ると礼の姿勢をとった。
「王妃陛下」
「久しぶりね、フランシス」
 手をとらせてキスを受けながら、アンはくつろいだ様子で笑った。
「エドワード王子のこと、あらためてお悔やみ申し上げます」
「ありがとう」
「具合はいかがですか、アン?」
「ずいぶん良くなったわ。リチャードにはもう会ったの?」
「宮殿に着いてすぐに。あいかわらず働きづめのようですね」
「あなたにも苦労をかけるわ」
「もう慣れました」
 エリザベスは立ち上がったまま、二人の会話を聞いていた。うちとけた様子で王妃と話す客を、失礼にならない程度に見つめる。たぶん会ったことはあると思うが、なかなか名前が出てこない。父の廷臣ではなかったのだろう。遠方からやってきたらしいところを見ると、リチャードの領地である北部出身の貴族だろうか。
 エリザベスの視線に気がついたように、二人が同時に顔を向けた。
「フランシス。リチャードの姪たちよ」
 アンが言うと、客はエリザベスたちのほうへ歩いてきた。
「お嬢さまがた」
 軽く礼をとったあと、愛想のいい笑みを浮かべる。それを見てようやくエリザベスは思い出した。
「ラヴェル子爵。お久しぶりですわ」
「お会いできて光栄です。レディ・エリザベス、レディ・セシリー」
 子爵は二人の名前を呼びながら、それぞれに笑いかけた。
 フランシス・ラヴェル子爵は、リチャードの即位前からの側近である。ロンドンにやってくることは少なかったが、エリザベスも話には何度か聞いていた。ウォリック伯の居城で、リチャードとともに騎士教育を受けていた貴族の子弟の一人だ。アンとも親しい様子なのは、その当時から互いに見知っていたせいだろう。
「座ってちょうだい、フランシス。エリザベスとセシリーも」
 アンの言葉を受けて、侍女が新しい椅子を用意している。
 エリザベスは立ったままでいたことに気づき、セシリーと並んで座った。
 めずらしい来客のせいか、いつもは静かな場所がどこか明るい雰囲気になっている。アンの侍女たちも子爵のことは知っているようで、気負った様子はなく落ち着いている。何より、アンも古くからの友人に会えて嬉しいようだった。
「ロンドンまで遠かったでしょう、フランシス。戴冠式のとき以来ですものね」
「二回ほど道に迷いかけました。なかなか慣れないものですね」
「あちらで変わったことはなかった?」
「順調です。シェリフ・ハットンにもお寄りしてきましたよ」
 アンが顔色を変えた。
「まあ。二人とも元気かしら」
「ええ、とても。あなたやリチャードに会いたがっていらっしゃいましたよ」
「わたしも会いたいわ。大きくなったのでしょうね」
「手紙をお預かりしています。後ほどお渡ししましょう」
 シェリフ・ハットンにいる二人といえば、王位継承者になったエドワードと、その姉のマーガレットだ。どちらもまだ十歳前後の子どものはずである。
 姉弟の母親であり、クラレンス公ジョージの妃であったイザベルは、ジョージが処刑される前に病気で亡くなっていた。このイザベル・ネヴィルはアンの実の姉である。シェリフ・ハットンの二人は、アンにとっても姪と甥にあたるのだ。
「あなたたちは二人に会ったことはある?」
 アンがエリザベスたちを振り返って訊いた。
「ないと思います、王妃さま」
「そのうち会わせてあげたいわ。とてもかわいい子たちなのよ。二人ともお父さまに似て、きれいな金髪なの」
「ぜひお会いしたいですわ」
 無難に答えているうちに、子爵が微笑みながら見つめているのに気がついた。エリザベスが見返すと、子爵は慌てたように表情を変えた。
「これは失礼を。お懐かしさのあまり、つい」
「――いいえ」
 エリザベスは笑みをつくりながら、子爵の顔を見つめた。くるくると表情が変わるところは子どもっぽいが、微笑を浮かべたまなざしは穏やかで、見るからに親切そうである。
 彼はおそらく、リチャードがもっとも信頼している臣下の一人だろう。他の者が決して知りえないことも知らされているに違いない。弟たちのことも何か見聞きしていないだろうか。
「お二人は三月ほど前からこちらにいらっしゃるそうですね。もうここの暮らしには慣れましたか、レディ・セシリー?」
 ラヴェル子爵は、今度はセシリーを見て尋ねた。セシリーが会話に加わっていないことに気づいて、気を遣ってくれたのだろう。
「はい――まだ、緊張してしまうことも、多いのですけれど」
「じきに慣れますよ。宮廷でお知り合いはできましたか」
「ええ。従兄弟たちが紹介してくれて」
 セシリーは、子爵の穏やかな物腰に安心したのか、たどたどしいながらも自分で会話を続けている。アンも二人を見て微笑んでいる。
 エリザベスは妹の話を聞くふりをしながら、子爵の横顔を見つめていた。なんとか会話を動かして、弟たちのことを訊くことはできないだろうか。いや、アンの前ではその話は避けたほうがいい。ここを去った後で、子爵とさりげなく話をする機会は得られないだろうか。
「レディ・エリザベス。母君はお元気ですか」
 唐突に、子爵が視線を向けてきた。唐突だと思ったのはエリザベスが考えごとをしていたからで、実際は会話の流れに沿った自然な動きだったのだろう。
 とにかくエリザベスはびくりとし、しかし笑みを崩さずに答えた。
「おかげさまで変わりはないようですわ。妹たちも元気にしているようです」
「それは何よりです。母君とお手紙のやりとりは?」
「ええ、よく書いております。わたしとセシリーがこちらで良くしていただいているので、母は安心しているようです」
「お母さまたちも一度、ここに来るといいのにね」
 セシリーがめずらしく口をはさんだ。そのセシリーにアンが尋ね、下の妹たちの手紙の話になっていく。ラヴェル子爵は楽しそうに話を聞き、気の利いた言葉をはさんでいた。弟たちのことは決して話題に出そうとしなかった。
 エリザベスはそつなく会話に加わりながら、子爵とどこかで話ができないか、弟たちのことをどうすれば聞き出せるか、そればかりを考えていた。しかし、会う人物がいるという子爵が先に退室してしまったので、とうとうその機会を得ることはできなかった。

 部屋に戻ると、エリザベスは手紙の束を取り出した。妹たちや祖母からのものもあるが、多くは母から届いたものである。
 エリザベスは机に向かい、何も書かれていない紙を広げた。セシリーも自分の机で、下の妹たちへの手紙を書いている。
 ラヴェル子爵に話したことの中で、事実とは違うことが一つあった。エリザベスはこのところ母に手紙を書いていないのだ。後継者のことはどうでもいい、と、母が書いてきた手紙が届いてから一度もだ。
 後継者が従弟に決まったことは、とうとう手紙には書けなかった。今ごろは母も、正式な発表があったことを聞いているだろう。誰になろうと関係ないとは言っていたが、実のところ母はどう受け止めているのだろう。
 ペンを握って考え込んでも、言葉は一つも浮かんでこなかった。何をどう書けばいいのか、どうすれば母のためになるのかわからない。
 母がいちばん知りたがっている弟たちのことは、何も書くことができなかった。新しい手がかりは一つも得てないし、得られそうなあてすらないのだ。それどころか――また同じ不安が襲ってきて、エリザベスは震える腕を押さえた。
 弟たちが無事だったとしても、母のもとに返すことが本当に正しいのだろうか。母はあれほど王位に執着していたのに、しかもリチャードの嫡男はもういないというのに、エドワードを私生児として育てることに耐えられるだろうか。仮に、今は息子と暮らすことだけを望んでいたとしても、エドワードが健やかに成長していけば考えを変えるのではないか。息子の頭に王冠を載せるために、再び戦おうとするのではないだろうか。
 エリザベスはあることに気がついた。同時に恐怖が体に覆いかぶさってきて、机上に倒れこみそうになった。こんなことを考えた自分が許せない。けれども、動きようのない真実だった。
 母が平穏に暮らしていくためには、弟たちは殺されていたほうがいいのだ。


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