テューダーの薔薇 [ 2−6 ]
テューダーの薔薇

第二章 喪を照らす光 6
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 しばらく様子を見てはどうかというエリザベスの提案を、母は完全に退けた。弟のエドワードが後継者に選ばれるなどと期待していないということだ。母は何よりも早く、弟たちを自分の手元に帰すことを望んでいる。
 それは、王位にはもう興味がなく、ただ弟たちと一緒に暮らしたいという意味だろうか。
「レディ・エリザベス?」
 名前を呼ばれて我に返った。従弟のジョンが向かいに座って、心配そうに見つめている。
「どうなさったのですか。ご気分が良くないのでは」
「いいえ、大丈夫よ」
 エリザベスは急いで笑顔をつくった。ジョンの隣では、セシリーが同じように姉を見つめている。三人で話をしているうちに、考えにふけってしまっていたようだ。
 ジョンは数日おきに二人の居所を訪れ、何時間か過ごしていくようになっていた。服喪中なので他愛ない話をする程度だが、思ったよりも長く続いて習慣のようになっている。
 親しくなってくると、彼は従姉たちが王女だった時のことを聞きたがるようになった。地方の城と土地しか知らない少年にとって、王都ロンドンは興味を引かれずにはいられない世界のようだ。エリザベスは少年が喜びそうな話を選んで、一つずつ順を追って話してやった。
「ごめんなさい。どこまで話したかしら」
「お父さまがあなたを見つけたところよ」
 エリザベスが気を取り直して訊くと、セシリーが隣で助けてくれた。父と狩猟に行った時のことを話していたのだった。
「迷子になっていたのはほんの一時だったのよ。たまたま視界が悪くて、誰の目にも入らない場所に隠れてしまったのでしょうね。本当はわたしはお父さまたちの近くにいたのに、護衛たちが慌てるものだから大騒ぎになってしまって。それでかえって、わたしがどんなに叫んでも聞こえなかったようなの」
「でも、エドワード王が見つけてくださったのでしょう」
「ええ、愛馬に乗られて、お一人で。あの時のお父さまの笑顔をみんなに見せてあげたかったわ」
 今でもはっきりと覚えている。王女がいなくなって慌てふためく側近たちを笑い、はじめから知っていたかのように娘を捜し当てた父。エリザベスを見つけて輝くような笑みを浮かべた、馬上の王の姿。まるで、自分が騎士物語の女主人公になった気分だった――と帰ってから家族に自慢したら、能天気すぎると母にひどく叱られた。
 もう五年も前のことだ。エリザベスは乗馬が好きで得意でもあったので、父の狩猟や遠駆けにもよく同行していた。
「エドワード四世陛下は、本当に物語に出てくる王さまのような方だったのですね。話に聞いていた通りだ」
「お聞きになったことがおあり?」
「ええ。父から少し」
 エリザベスは笑顔を引きつらせた。思い出したくないことを思い出してしまった。このあいだのリチャードの表情が、頭の片隅に浮かんでしまう。リチャードは自分の子に話して聞かせるほど、エリザベスの父を慕っていたのか。
 やはり、父の最期のことは話しておくべきだろうか――今さらどうやって切り出せばいいというのだ――そもそも、なぜエリザベスがこんなことで悩まなければならないのだ。
「陛下がお父さまのことをお話しになったの?」
 セシリーが意外そうな顔をして尋ねた。以前、感情にまかせて陰でジョンを侮辱したことが後ろめたいのか、セシリーはこの従弟にとても優しい。ジョンのほうも素直な気だてなので、二人はすっかり仲良くなってしまった。
「ええ。時々ですが」
「どんなふうに仰っていたの?」
「この世に二人といない、素晴らしい人だと。レディ・セシリーもそう思われるのでしょう?」
「わたしはあまり思い出がないの。お父さまのお気に入りはベスだったから」
「そんなことはないわよ」
 エリザベスは苦笑した。セシリーがこういった引け目を見せることは昔からあった。
「お父さまはみんなを同じように愛してくださったわ。あなたのことも褒めていらしたわよ、セシリー」
「もちろん、わたしにもお優しかったけれど……ベスといる時のお父さまは楽しそうだったわ。いちばん大事にされていたのは弟のエドワードだけど――」
 セシリーがはっとしたが、もう言ってしまった後だった。口をつぐんで従弟のほうをうかがうが、何もとりつくろえずにいる。
 エリザベスは妹のかわりに言ってやった。
「エドワードだけはロンドンから離れて暮らしていて、なかなか会うことができなかったからよ。たまに帰ってくる時は宮廷じゅうが大騒ぎだったわね」
 明るく言ったつもりだったが、セシリーはまだいたたまれなさそうにしていた。打ちとけてはいても、こういう機転にはまだ慣れていないのだ。
 ジョンが二人の従姉を見比べ、にこっと笑った。
「レディ・エリザベス、レディ・セシリー。ぼくに気を遣わないでください。父が弟君たちを閉じ込めているのは事実ですし、お二人がそれを快く思われないのも当然のことです」
 エリザベスは従弟を見つめた。エリザベスとセシリーが決して弟たちに触れなかったことに、この少年ははっきりと気がついていたのだ。
「もうすぐ弟の喪も明けます。早くお会いになれるようになるといいですね」
「ええ。ありがとう、ジョン」
 エリザベスは心から笑った。
 何を考えているのか、今どうしているのかわからない相手が多い中、この従弟だけは裏のない言葉を伝えてくれる。

 しかし、弟たちのことが気になるのは変わりがなかった。
 母の手紙で、二人を取り戻すことを急かされたのだからなおさらだ。ジョンの話を読んで母も少しは安心したと思うが、それに関する言葉は返信には見あたらなかった。王太子が亡くなる前とほぼ同じことしか書いていなかったことになる。
 エリザベスは外を歩きながら、足を自然とロンドン塔のほうへ向けていた。
 弟が後継者になれば母は納得すると思っていたのに、そうはならなかった。リチャードはすでに別の少年を選んだし、母もはじめから期待していなかったようだ。母はもう王位をあきらめていて、ただ子どもたちとの暮らしに戻りたいだけなのだろうか。それはエリザベスが望んでいることでもあるが、本当にそう信じてもいいのだろうか。
 リチャードが王位にある状態で、エリザベスの弟がその後継者になる、という話は、実は以前にもあった。エリザベスたちがまだ聖域にいたころ、母の協力者が持ちかけたのだ。それを条件に聖域を出て、リチャードと和解してはどうかという妥協案である。その時はリチャードの嫡男が健在だったし、父と母の婚姻無効が認められた直後だったので、実現は難しいだろうと結局は立ち消えになった。聖域の外には一度も伝えられなかったので、もちろんリチャードの耳にも入っていないはずだ。
 一年近く前にこの案を聞いた時、母はどんな顔をしていただろう。少しは考える余地を感じていただろうか。
 おそらく、そうではなかった。エドワード王子をリチャード王の後継者に、と言われた時、母はあからさまに顔を歪めていた。そして、こう言ったのだ。
 イングランドに王は一人だけ。正統の王が、僭称王から冠を譲られるなど、あってはならないはず。
 自分の息子に王位を継がせることが、母の悲願であり、長年の苦労の報いだった。それを横から奪った義弟を許すことはできないのだろうか。義弟夫妻が王座にいるイングランドで、グレイ夫人と呼ばれて生きていくことに耐えられないのだろうか。
 それがはっきりしない限り、エリザベスは弟たちを取り戻せない。
 ロンドン塔の前まで歩いてくると、エリザベスはいつものように、テムズ川をはさんでそれに向きあった。
 二人が幽閉されてから、まもなく一年が経つ。エドワードは今年で十四歳、リチャードは十一歳になる。二人ともエリザベスの記憶にある姿より、いくらか大きくなっただろう。そして、これからも大きくなっていくはずだ。
 リチャードは、いつまで二人を閉じ込めておくつもりだろう。弟たちも永遠に子どものままでいるわけではない。王位を継ぐことはできなくても、成長すればそれなりの意志も能力もついてくる。いつまでも叔父の庇護下にいるのは自然なこととは言えないだろうに。
 ジョンが最後に二人と会ったというのが去年の八月。おそらくその後、二人はいっそう外部と隔てられるようになったのだろう。人の出入りを減らし、手紙のやりとりさえも禁じて。二人が逃げ出したり、逃がされたりしないように――本当にそれだけだろうか。
 王座から引き下ろされた王は、エリザベスの弟が最初ではない。失政に次ぐ失政の責を問われ、自分の妃に陥れられたエドワード二世。プランタジネット王家の本流でありながら、傍流のランカスター家に簒奪を許したリチャード二世。そして、父が戦場で追い込んだヘンリー六世。いずれの王も、王冠をとられて幽閉されたのち、生きた姿で公に出ることはなかった。
 エリザベスは自分の考えに身を震わせた。弟たちが無事ではないという噂を信じるつもりはないが、何か悪いことがあったのかもしれないと考えることはある。二人のどちらか、あるいは両方が病気なのかもしれない。怪我をして自由に動けないのかもしれない。長びく幽閉に倦んで、塞ぎ込んでいるのかもしれない。
「王女さま、王女さま」
 すぐそばで聞き慣れない声がして、エリザベスは我に返った。顔を向けると、宮殿の中では決して見かけることのない、粗末な身なりの女が二人立っていた。
「ああ、やっぱり。エリザベス王女さま」
 女たちはエリザベスの顔を見ると、泣き笑いのような表情になった。このあたりを歩いていて、エリザベスの顔を知っているということは、宮廷で働いている者なのだろう。
 リチャードと一緒に街に出た時のことを思い出す。ロンドンの下々の者は、エドワード四世の子女と見るとそれだけでありがたがるのだ。この二人も地面にひざまずき、お懐かしいだのお美しいだのつぶやいている。
 侍女が前に出て追い払おうとしたが、エリザベスは自分で話しかけた。
「わたしはレディ・エリザベスです。何かご用かしら」
「ああ、王女さま。ずっとロンドン塔をご覧でしたから、王子さまがたがご心配なのかと思いまして」
「弟たちは王子ではありません。宮廷にお仕えする者なら、身分の区別はきちんとしておきなさい」
 以前セシリーが話したと言っていたのも、こういったたぐいの者たちだったのだろう。エドワード四世の治世を懐かしがり、今のリチャード三世を嫌い、エリザベスたちに同情を寄せている。好意を持ってくれているのはわかるが、王への反感の象徴にはされたくない。それに、場所と身分をわきまえていないにもほどがある。
 エリザベスは二人から目をそらし、黙って立ち去ろうとした。
「わたしらは前に、ロンドン塔で働いておったのです、王女さま」
 思わず足を止めた。少し迷ってから、向き直って女たちを見る。
「レディ・エリザベスよ。何が言いたいの、あなたたち?」
「あちらで毎日働いていたころ、弟さんがたのお姿をよくお見かけしました。お二人とも、たいそうおきれいな男の子で。お姉さまとよく似ていらっしゃる」
「そう、ありがとう。弟たちは――元気そうにしていたかしら」
 興味のないふうを装っていたが、つい訊いてしまった。弟たちを見たことがあるのが本当なら、その様子だけでも聞いておきたい。
「わかりません。わたしらは、お近くでお話できるような者でもないので」
「窓からお顔を出してらっしゃるのを、何度かお見かけしただけで。前の王さまと同じ、きれいな金髪の男の子たちでしたから、すぐにわかりましたよ。お一人は手を振ってくださることもありました。あれは、小さいヨーク公のほうでしたか」
 エリザベスはどきりとした。ヨーク公位を継いでいた下の弟のリチャードは、人見知りをしない明るい性格である。身分の違う者にも平気で話しかけたりして、母や侍女にたしなめられていたものだ。
「それは、いつごろ?」
「もう一年くらい前ですよ。お兄さまのほうが王さまでなくなったばかりのころは、毎日のようにお姿を見られました」
「でも、ちょっとずつそれが減ってきまして」
「ある日を境に、窓のところにはまったく現れなくなりました。あの大きな乱が起こる前――そう、去年の八月ごろに!」
 女の声が、エリザベスの耳に叩きつけるように響いた。
 去年の八月というと、ジョンが最後に二人と会ったという時期だ。ロンドンを留守にしていたリチャードから言伝が来て、ロンドン塔には行かないようにと命じられた。同じころ、ロンドン塔の窓から二人の姿が見えなくなった。
「ちょうどそのころ、陛下が二人のまわりの警備を増やされたそうよ。だから外の者の目には触れられなくなったのでしょうね」
 エリザベスは抑えた声で言った。自分で言いながら、まるで自分が諭されているような気分になった。
 二人の女は互いに顔を見合わせ、そろってエリザベスに視線を戻した。四つの目が大きく開いてエリザベスを見上げている。
「王女さまは、噂をお聞きになってないので?」
「レディ・エリザベスよ。噂というのは何のことなの」
「もちろん、あのおかわいそうな噂ですよ。お二人がロンドン塔で密かに――」
「黙りなさい」
 エリザベスはぴしゃりと言ってから、自分を恥じた。この二人にしゃべらせたのは自分だ。誰に聞かれているのかもわからない場所で、使用人にこんなことを言わせてはいけなかったのに。
「そのようなこと、二度と口にしてはなりません。わたしの弟たちはロンドン塔で守られているだけです。根拠のない噂を広めたりして、危うい目に遭うのはあなたたちです」
 二人の女は黙って顔を伏せた。
 エリザベスは、自分の足が震え始めていることに気がついた。これ以上ここにはいたくない。弟たちにかかわる暗い話を、もう何も聞きたくなかった。
 エリザベスは女たちに背を向け、歩き出そうとした。
「……でも、殺されてるに決まってる」
 背後から、つぶやくような小さな声が追いかけてくる。
「プリンス・オブ・ウェールズが亡くなったのだって、きっと天罰だったんでしょうよ。甥たちの命を奪った報いとして、今度は自分の息子を――」
「黙りなさい!」
 エリザベスはすばやく振り返り、女たちの正面に立った。全身が震えて熱くなっていた。
「亡くなったのはわたしの従弟で、イングランドの未来の王よ。これ以上、罪深いことを口にする前に、わたしの前から立ち去りなさい」

 エリザベスは足早に歩き続けながら、自分に対して怒っていた。
 なぜあの女たちの話に耳を貸したりしたのだろう。何を言われるのか、言われればどんな気持ちがするのかはわかっていたのに。あの者たちのためにも言わせずにおくべきだったのに。
 根も葉もない噂ばなしをしたがる者は、王太子の喪中でも後を絶たないようだ。表向きは静まり返っているからこそ、陰ではさまざまな憶測が飛び交うのかもしれない。
 リチャードは、なぜそれを放っておくのだろう。
 足を進めるうちに、怒りの矛先が別のほうへ向いてきた。
 あんなひどいことまで言われながら、なぜ何の手も打たないのだろう。弟たちを一度でも公の場に出せば、噂など一瞬で消し飛んでしまうのに。それができなくても、別の人間に証言させれば――それこそ姉であるエリザベスに会わせて、弟たちは無事だったと言わせればいいのに。こんな嫌な思いをするくらいなら、その程度の協力は少しも惜しくない。
 エリザベスはふと立ち止まり、振り返った。遠ざかったロンドン塔を、いつもとは違う角度で見つめる。
 先ほどの女たちは、二人の姿が消えたのは殺されたからだと決めつけていたが、そんなことがあるはずはない。二人は今もあの中で生きているのだ。生きているに決まっている。リチャードには二人の命を奪う理由がない。
 では、なぜリチャードは噂を否定しないのだろう。なぜ二人の姿を誰にも見せないのだろう。なぜエリザベスやジョンに会わせず、使用人の目に触れさせることも避け、ロンドン塔の奥に隠すようにしているのだろう。
 考えを追い払おうとすればするほど、頭の中で勝手に膨れ上がっていく。忘れようとしていた言葉がにわかに響きわたる。
 ――お悲しみをお察しします。わたしに償えることがあれば、なんでもいたします。
 エリザベスは自分の腕を抱きしめた。
 アンはこの言葉を、エリザベスの母に伝えてほしいと言ったのだ。自分の息子を喪って間もない時に。
 エリザベスはロンドン塔を見つめたまま、長いあいだそこに立ち尽くしていた。


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