テューダーの薔薇 [ 2−5 ]
テューダーの薔薇

第二章 喪を照らす光 5
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 エリザベスは一人で宮殿の中を歩いていた。行き先は特にない。歩いても構わない場所をふらふらと進み、あてもなく角を曲がる。入ることのできない部分が近づいてくると、引き返して向きを変える。そんなことを繰り返していた。
 人とすれ違う時は会釈をしあい、相手によっては言葉も交わした。しかし、長く話し込むことはない。誰かが近づいてくるたびにはっとして注意を向けるが、顔かたちを認めるとそれはすぐに落胆に変わる。
 どこかでリチャードに出くわさないかと思っているのである。
 馬鹿げたことをしているのは、自分でもわかっている。けれど、自分の部屋にいてもやることはないし、そのためにどうしても考えてしまうのだ。先日の話の最後に触れた父のことと、その時のリチャードの表情を。
 気にするようなことではないのかもしれない。現に、その話はしなくてもいいと、他でもないリチャードが言っていた。エリザベスは忘れてしまおうと思ったが、できなかった。それどころか、これまで考えずにいたこと、思いもしなかったことに次々と気がついてしまった。
 リチャードは知らないのだ。父が病床で末の弟に会いたがっていたことも、最期は家族に看取られて安らかに逝ったことも。
 父とリチャードの兄弟関係について、エリザベスは詳しいことは知らない。知っているのは、父がリチャードを信頼していたということと、リチャードが父に忠実だったということだけだ。それも、ただ事実として聞き知っていただけで、二人のやりとりを実際に目にしたことはほとんどない。
 父の三人の弟たちのうち、すぐ下のエドマンドは父の即位を見る前に戦死した。次のジョージは野心から父を裏切り続け、六年前に反逆罪で処刑された。
 最後に残った末のリチャードは、少年時代から一貫して父の忠臣であり続けた。父のために努力を重ね、与えられた役割をこなし、それでいて見返りは求めなかった。父が王位を追われた時も決してそばを離れず、大陸への亡命にも迷うことなく同行し、父の王位を取り戻すために戦った。誰もがリチャードを忠実な王弟としてたたえていた。父が息を引き取る前、リチャードを少年王の摂政に選んだのは、あたりまえの自然な流れだったのだ。
 エリザベスにもわかっていたことだ。だからこそ、弟が廃位された時の打撃が大きかったのだ。同じことをしたのがジョージのほうであれば、エリザベスはこれほど傷つくこともなかった。
 父の生前には忠誠を欠くことのなかったリチャードが、その急逝を機に父の信頼を裏切った。この一年間、ずっとそう思っていた。
 先日の、リチャードの表情を見るまでは。
 思い出すごとに気がかりが増し、やはり忘れることはできそうにない。話さなくてもいいと後で言っていたが、あの時のリチャードは明らかに父の最期を聞きたがっていた。
 何を今さら、と思わないわけでもない。自分から裏切っておきながら、今になって慕うような顔を見せるなんて身勝手すぎる。
 けれども、あの時のリチャードの顔を思い出すたびに、エリザベスの中に同情に近いものが湧きおこる。生き残った二人だけの兄弟だったというのに、リチャードは父の臨終に立ち会えなかった。父は弟と話をすることができないまま逝った。せめて最期の様子を伝えたいなどと思うのは、エリザベスの傲慢だろうか。
 即位から一年近くが経つというのに、リチャードはいまだに臣下のように見える時がある。王その人ではなく、王にかわって国を治めている者のように。二度と帰らない本物の王の帰りを、待ち続けているかのように。
 エリザベスは自分の考えに苦笑しそうになった。いくらなんでも考えすぎだ。久しぶりに父のことを思い出したせいか、ずいぶん感傷的になってしまっている。
 そもそも、こうして宮殿の中を練り歩いて、仮にリチャードに会えたとしてどうするのだ。その場で呼び止めて、父の思い出話がしたいなどと切り出すのか。
 考えているうちに自分でも馬鹿馬鹿しくなってきた。時間を持て余してさえいなければ、絶対にこんなことはしなかったのに。
 エリザベスは方向を変え、自分の居所に戻ろうと思った。
「レディ・エリザベス?」
 ちょうどその時、聞き覚えのある声がかけられた。振り向いて声の主を見て、エリザベスは叫びそうになった。
「お久しぶりですわ――スタンリー卿」
「このような場所で、お一人で何を?」
 トマス・スタンリー男爵は、目を丸くして訊いた。
 エリザベスは顔には出さないようにしながら、内心うろたえた。王太子の服喪中のはずなのに、王の姪が一人で宮殿の中を歩いているなど、怪訝に思われても仕方がない。何かいい口実を、と考えかけて我に返った。特に隠すようなことでもないのだった。
「陛下のことを考えていたのです――陛下と、父のことを」
「エドワード王の」
 エリザベスはスタンリー卿の目を見て、はっとした。この人は父の生前に仕えていた忠臣だ。エリザベスが物心つかないころの話も知っているはずである。
「わたしの父と陛下は、仲の良い兄弟だったのでしょうか」
 おそるおそる訊くと、卿は眉を動かした。エリザベスはとたんに後悔した。何を訊いているのかと思われたに違いない。今日の自分は本当にどうかしている。
 取り消そうとした矢先、スタンリー卿が怪訝な表情のまま言った。
「わたしの存じ上げる限り、そうだったと思います。あなたのほうがよくご存じなのでは、レディ?」
「ええ、そう思っておりました。でも――」
 エリザベスは言葉を止めた。ここから先は口に出すわけにはいかない。
 スタンリー卿は左右を見て、近くに他人がいないのを確かめてから、低い声で言った。
「この一年のことで、そう思えなくなったと?」
 エリザベスは短く震えた。視線を落とし、卿と目が合わないようにする。
 宮殿の中でこんなことを話していいはずがない。それも、ヘンリー・テューダーの継父の前で。
 スタンリー卿は、エリザベスの沈黙の意味を悟ったらしい。空気をやわらげるように穏やかに続けた。
「本当に仲の良いご兄弟でした。わたしは、リチャード王がまだ子どものころから存じ上げていますが、そのころから兄君のことをそれはお慕いになって。早く兄君の役に立てるようになりたいと仰っていたのをお聞きしたことがあります。そして後に、実際にそうなられました」
 エリザベスはうなずかなかった。
 スタンリー卿が話しているのは、エリザベスの記憶にない時代のことだ。けれどもそれは、記憶の中にあるリチャードの像とまったく矛盾しない。
 噛みあわないのはむしろ、この一年のリチャードのほうだ。
「レディ・エリザベス、信じられないとお思いですか」
「いいえ――」
 エリザベスは力なく首を振り、またしばらく黙り込んだ。
 スタンリー卿が話している、兄王を慕うひたむきな少年は、成長して忠実な王弟となった。兄のために自分を顧みずに働き、兄の信頼を得て――兄の死後、遺された甥から王位を奪った。それから一年が過ぎた今も、甥たちを幽閉して自分が王のままでいる。ロンドンの市民たちは当然のように彼を嫌っている。
 けれども、エリザベスが父の言葉を口に出した時、彼は見たこともない表情をしていた。まるで、今も父のことを慕っているかのように。
「スタンリー卿は、もし――」
 エリザベスは言いかけて口をつぐんだ。他の廷臣ならばともかく、この人にだけは打ち明けられないことがある。
 スタンリー卿はエリザベスの考えを察したのか、あるいはそうでもないのか、続きを促そうとしなかった。かわりに自分が口を開いた。
「一人の人間のすることを外側から見つめていると、矛盾しているように映るのはめずらしくないことです。むしろ、矛盾のないように見える人間のほうが稀でしょう。このような乱世にあってはなおさらです」
 そのときどきで忠誠を捧げる相手を変えることは、決してめずらしくない。エリザベスの母もランカスター派の騎士と結婚しながら、死に別れた後にヨーク家の王と再婚した。どちらかの王家に忠節を尽くす者のほうが少ないくらいだ。それは廷臣やその家族にとどまらず、王家の一員でも例外ではない。
 スタンリー卿は、誰のことについて話しているのだろう。ヨーク家の王に仕える、ランカスター家の後継者の父。
「おわかりになれませんか、レディ」
「いいえ。状況に応じて考えを変えたり、あらたに決断したりするのは当然ですわ。他人の目には矛盾しているように映っても、その人の中では筋が通っているのでしょう」
「ええ。そして、筋の通しかたというものは一つではないのです」
 エリザベスは黙り、卿の言葉をゆっくりと頭で繰り返した。
 この人は、リチャードが今も父に忠実だと言いたいのか。父の信頼を裏切って王位についたことも、当人にとっては筋の通ったことであると。
「よくわかりますわ。でも――」
 筋の通しかたは一つではない。
 それは、裏切りを正当化する言葉ではないのだろうか。
 エリザベスは反論を呑み込んだ。他の誰よりもスタンリー卿こそが、裏切りとしか言いようのない行為を繰り返しているのだ。思ったことをそのまま言葉にすれば、それはこの人への批難となる。
 返答に困っていると、スタンリー卿がふいにほほえんだ。
「レディ・エリザベス、あなたは慎重で頭の良いご婦人です。時にはもっと正直に、ご自分のお気持ちや疑問を口に出されてもいいと思いますよ」
 近寄りがたい無表情が、笑うと急にあたたかい印象になる。エリザベスの父よりもさらに年上なのだ。向き合うと威圧されるようだった長身も、穏やかに守られているような雰囲気に変わる。
 エリザベスはぼんやりしかけ、あわてて気を引きしめた。社交用の笑みをひかえめに浮かべる。
「ありがとう存じます。また何か、ご相談したいことがあれば申し上げますわ」
「本当に聡明な方だ」
 スタンリー卿が苦笑した。
 エリザベスはその顔を見上げながら、卿の真意を測りかねた。
 この人はエリザベスをどうしたいのだろう。会うたびにリチャードを擁護し、エリザベスの心証を正そうとしている。そんなことをして、どんな益があるというのだろう。スタンリー卿にとってエリザベスは、義理の息子ヘンリーの婚約者である。ヘンリーの即位と結婚を叶えるためには、エリザベスがリチャードを憎んでいるほうがいいはずなのに。
 宮廷の多くの者が信じているように、卿はヘンリーの王位には興味がなく、あくまでもリチャードへの忠誠を貫くつもりだと、受け止めてもいいのだろうか。
「ところで、スタンリー卿。レディ・マーガレットのお具合はいかがですか?」
 エリザベスは思いきって訊いた。
 スタンリー卿の妻でヘンリーの実母であるマーガレットは、昨年の反乱に関わった罪を問われて幽閉されている。閉じ込められているのはロンドンにあるスタンリー家の邸宅で、監視にあたっているのも夫のトマス・スタンリー自身なのだから、罪にそぐわないかなり甘い処分である。リチャードがマーガレットをそれ以上の刑に処そうとしないのは、スタンリー卿の忠義に免じてのことだとも言われている。
 この宮廷で、スタンリー卿に妻のことを尋ねる者はいない。エリザベスの弟たち以上に触れにくい話題なのである。
 しかし、エリザベスはあえて口に出した。こんなことをして卿を試しても意味がないのはわかっていたが、何かせずにはいられなかった。
 スタンリー卿はわずかに目を見開いたが、すぐに微笑を浮かべ直した。
「ありがたいことに変わりはございません。屋敷で慎みながら、自分の罪と向き合っております」
「幾月も外に出られないままでは、お体にも良くないのでは」
「妻はもともと活発な女ではございません。あれが犯した罪を思えば、刑罰とも呼べないような恵まれた処遇です。陛下の寛大なおはからいに感謝しなければ」
 エリザベスはため息をつきたくなった。結局、何を話していても、卿の意図はそこに行き着くらしい。
「あなたがご心配なさっているのは、別の方がたではございませんか、レディ?」
 エリザベスはそらしかけた目を上げ、スタンリー卿の顔を見た。そこにはもう微笑はなく、強く射るような目線がエリザベスを見つめていた。それを見ただけで、卿の言った意味はすぐにわかった。
 エリザベスは気づかないふりをして肩をすくめた。
「何をおっしゃっているのかわかりませんわ」
「ロンドンには、光の入らない部屋を持つ城は数多くございます。妻のような内向的な女ならばともかく、活力に満ちたお若い方がたには、そうしたお暮らしはさぞご苦痛でしょう」
 この人はエリザベスをどうしたいのだろう。エリザベスに何を言いたいのだろう。リチャードを庇うようなことばかり言うかと思えば、彼に幽閉されている少年たちを憐れんでみせる。
「あなたが奧さまをお案じにならないように、わたしも二人のことは何も心配しておりません。母親と会えないのがかわいそうなだけで、他は何一つ不自由なく暮らしていると聞いておりますもの」
「しかし、あなたもお会いになりたいでしょう」
「もちろん会いたいですわ。そして、そう遠くない日にそれは叶うと信じております」
 エリザベスはそつなく言った。
 本音では、近いうちに会えるとはとうてい信じられない。二人が無事に生きているとしても、姿を見られる日がいつになるのかはわからない。母のところに帰してやれる自信もない。
 しかし、リチャードは二人は元気だと言い、必ず会わせると約束した。エリザベスはそれを信じているように振る舞うしかない。
 スタンリー卿はエリザベスを見下ろしたまま、何も答えようとしなかった。その目がわずかに細められたことにエリザベスは気がついた。笑みではなく、悲痛の入り交じった優しい目だった。まるで、自分より弱い者をいたわってでもいるように。
 エリザベスは見つめ返しながら思った。この人は何か知っているのだろうか。その何かを伝えるために、エリザベスに近づいては思わせぶりなことを言っているのだろうか。
 エリザベスは口を開きかけ、尋ねようとした。しかし、なんと切り出せばいいのかわからない。
 迷っているうちに、スタンリー卿が再びほほえんだ。思いやりに満ちた微笑だった。
「レディ、あなたは本当に賢いご婦人です。あなたならばいずれ必ず、真実にたどり着くでしょう」

 結局、スタンリー卿からは何も聞き出せず、リチャードに会うこともできなかった。一人になってからエリザベスはようやく冷静になった。人の心配をしたり、人の言葉を深読みしたりする余裕はないのだ。
 考えなければならないことは他にある。母のことだ。
 母には先日の一通以来、一度も手紙を書いていない。後継者がわかったことを知らせるべきかどうか、決められずにいたのである。弟のエドワードが選ばれなかったことを知れば、母は再び戦うことを考えるかもしれない。しかし、知らせないままでは母に淡い期待を抱かせてしまう。
 迷っているうちに、逆に母からの手紙が届いた。リチャードと話す前に送ったものへの返事だ。エリザベスは母への手紙に、後継者が決まるまで待ってはどうかと書いたのだ。後継者が従弟に決まった以上、その進言は無意味になった。
 しかし母は、息子を亡くしたばかりの王妃には慰めの手紙を送っていた。以前ほど国王夫妻を恨んでいないようにも思える。ならば弟が後継者に選ばれなくても、別のかたちで和解することができるかもしれない。
 エリザベスはすばやく封を開け、目を通してみて愕然とした。
 母の手紙には、後継者が誰になろうと関係ない、弟たちを一刻も早く取り戻すように、と書いてあったのである。


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