テューダーの薔薇 [ 2−4 ]
テューダーの薔薇

第二章 喪を照らす光 4
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 従僕に案内されてエリザベスが入っていくと、数人の男性が立ったままテーブルを囲んでいた。何か大きな紙を広げて、それを覗きながら話し込んでいる。
「陛下、レディ・エリザベスをお連れしました」
 従僕が声をかけると、集まりの一人が顔を上げた。エリザベスはその時はじめて、それがリチャードであることに気がついた。まわりの者とすっかりなじんでいたので、まさかその中に王がいるとは思わなかった。
 少し離れていたが、エリザベスは膝を折って挨拶した。
 リチャードは話し合いを中断させ、テーブルを離れて歩み寄ってきた。
「あちらで話す。ついてきてくれ」
「お忙しいのではありませんか?」
 エリザベスは残された廷臣たちを見た。砲弾がどうの、と聞こえたような気がするので、軍の装備について話し合っていたのかもしれない。割り込んできたのが王の姪だと気づいて、会釈を送ってくれる者もいた。
 一年前まで父の忠臣だったせいか、リチャードは今も臣下の一人のように見えてしまう時がある。エリザベスの父は、長身や輝かしい金髪のせいもあって、どこにいても王の存在を知らしめていたものだが。
「構わない。呼んだのはわたしだ」
 リチャードはエリザベスに背を向けて歩きだした。エリザベスもその後を追う。
 王太子の喪に服して以来、エリザベスは一度もリチャードに話の場を求めていない。そんな時に逆に呼び出されたのだから、願ってもない機会である。もっとも、言いたいことのすべてを口に出すわけにはいかないだろうし、それほど時間が与えられるかどうかもわからないが。
 別室に連れていかれ、向かいあった椅子にそれぞれ腰かける。
「まずは、礼を言わなければならない」
 顔を向けあうや否や、リチャードがさっそく切り出した。無駄な前置きがないのはあいかわらずだが、思いもよらなかった言葉にエリザベスは目を見開く。
「きみたちがアンのためにしてくれたことに、本当に感謝している。ありがとう」
「いいえ、陛下」
 エリザベスはあわてて首を振った。ここまで手ばなしに感謝されるとは思わなかった。考えてみれば、この人には会うたびに、礼を言われたり詫びられたりしている気がする。
「わたしたちは何も。王妃さまがご回復に向かわれたのは、ご本人のお力と、陛下や他のかたがたのお支えがあってのことですわ」
 早口でまくしたてながら、エリザベスはリチャードの顔を見た。以前に会った時と同じく、これといった変化の跡は見られない。疲れがたまっているのか、目もとがさらに老け込んだくらいだ。あいかわらず何を考えているのかわかりづらい。
 あの人のほうが、ずっと悲しんで、苦しんでいるの――アンはそう言ったが、エリザベスにはよくわからなかった。
 とはいえ、ただ一人の嫡男の死がこたえていないはずはない。今日ばかりはエリザベスも、言葉を選んで慎重に話さなければならない。
「今日きみを呼んだのは、あの時のことを聞きたいと思ったからだ」
 リチャードが調子を変えずに切り出した。
「あの時とは――」
「アンがきみたちを病床に呼んだ時だ。あの日、アンが何を話したのか教えてほしい。言える範囲で構わない」
 そういうことかと、エリザベスは悟った。
 アンは体が弱りきっていたにもかかわらず、エリザベスとセシリーにひどく会いたがり、リチャードが止めるのも聞かずに二人を呼んだ。そうまでして何を話したかったのか、気になるのは当然だろう。
 エリザベスはゆっくりと、その日のことを思い出した。
「王妃さまは、陛下のことをとてもご心配なさっていました」
 深く息を吸い、まずは問題のない部分から始めた。
「わたしたちに陛下のお力になってほしいと、しきりに仰っておいででした。もちろん、わたしもセシリーもそのつもりだとお答えしましたわ」
「そうか」
 リチャードはそっけなく答えた。たぶん、このあたりは予想がついていたのだろう。
「他には?」
「他には――」
 エリザベスは口を閉じた。
 この人に言ってしまっていいものだろうか。アンが母に伝えてほしいと言った、あの謎めいた言葉を。
 アン自身はエリザベスに頼んだことも、その内容も覚えていないようだった。深い意味はなかったのだろうと思い、エリザベスも忘れてしまうことにした。もちろん母にも伝えていない。
 しかし、あらためて思い出してみると、どうしても胸に引っかかるものがあった。このまま自分の中で消してしまっていいものか、判断がつきかねている。できることなら、誰かに話して意見を聞いてみたい。一人で考え続けるのは気が重い。
 エリザベスはリチャードの目を見た。長い空白に苛立った様子もなく、エリザベスが続けるのを気長に待っている。
「母への伝言をお預かりしました。必ず伝えてほしいと仰られて、そうするとお約束しました」
 エリザベスは時間を稼ぐように、長い言葉を選んで語った。
「王妃さまはこう仰いました。『お悲しみをお察しします。わたしに償えることがあれば、なんでもいたします』」
 しばらく沈黙が続いた。
 リチャードは宙の一点を見つめたまま、身じろぎ一つせず黙っていた。表情はあいかわらず変わらない。
 エリザベスは、膝の上で手を握りしめた。
「義姉上に伝えたのか」
 リチャードが目線だけ動かして言った。エリザベスの母を、エドワード四世の正妻ではないと宣告された女性のことを、ごく自然に義姉と呼んだ。
「伝えておりませんわ。意味がよくわかりませんでしたし、先日お会いした時は、王妃さまはこのことをお忘れのようでした」
 エリザベスの返答を聞くと、リチャードはまた黙り込んだ。
 心あたりがあるのだろうか。アンが母に負い目を感じているとすれば、やはり王位か弟たちのことだろう。この人にも関わりのないことではない。
 沈黙に耐えきれず、エリザベスは口を開いた。
「どのような意味でしょうか」
「わからない」
 リチャードはあっさり答え、肩をすくめた。
「母に伝えたほうがよろしいですか?」
 エリザベスはさらに訊いた。この人の判断を仰ぐのが正しいのかはわからないが、打ち明けた以上は意向を確かめておくべきだろう。
「伝えなくていい。アンにももうこのことは触れないでくれ。忘れているのならばそのほうがいい」
 リチャードの表情がわずかに歪んだのを、エリザベスは見逃さなかった。アンに心労をかけることを危惧したのだろう。一人息子の訃報を受け取って以来、アンの容態は最悪のことも考えられるほどだったという。リチャードが過剰なほど心配するのも無理はない。
 痛ましいことではあるが、エリザベスは少し感動していた。エリザベスの両親も仲は良かったが、この夫婦もお互いを本当に大切にしている。十年以上前に宮廷を騒がせた噂ばなし、彼らが幼いころから想いあっていたというのは本当なのだろうと、場違いなことを考えた。
「王妃さまのお話はこれですべてです。他に何かございますか、陛下?」
「わたしからはもういい。きみから何かあれば聞こう」
 エリザベスは虚をつかれ、思わず目を見開いた。リチャードが自分から話を聞くと言ってくれるとは思わなかった。
「何度か使いをよこしていただろう。時間をとってやれなくて悪かった。いま言えることがあれば言ってみなさい」
「――ありがとうございます」
 エリザベスはそれだけ答えたが、すぐには話し始めなかった。
 悲報が届く前、エリザベスはリチャードと話したいと使いを送り、確かに何度も跳ねのけられていた。時間がないというのは本当で、避けられているわけではないのはわかっていたが、気にかけてくれているとは思わなかった。
 まさかとは思うが、エリザベスとセシリーが王太子の死後も宮廷に残り、王妃を支えることを選んだことで、この人の中で二人の評価が上がっているのだろうか。
 もしそうだとしても、素直には喜べない。弟たちに会うためにはこの人の信用を得ることが不可欠だが、こんなやりかたでは相手の弱みにつけ込んだようではないか。
 とはいえ、手段にこだわっていられないのも事実である。
「お気遣いいただいて本当にありがたく思いますわ。お話ししたかったのは――すでにお察しかと思いますが、弟たちのことでした。でも、今日は遠慮いたします。今はそのようなことをお願い申し上げる時ではございませんもの」
「確かに、喪が明けるまではきみを二人に会わせてやれそうにない」
 それは、喪が明ければ会わせてもらえるということだろうか。エリザベスは問いただしたくなるのを懸命にこらえた。
 リチャードに訊きたいことは山ほどある。弟たちが今どのように暮らしているのか。なぜ母の手紙に返事が来ないのか。なぜ宮廷の誰も弟たちの話をしないのか。なぜ、ジョンを二人に会わせておきながら、昨年の八月を境にそれを禁じたのか。
 しかし、今日ばかりは深追いはできない。従弟の喪に服していながら、自分の要求ばかり言いたてるのは慎みに欠ける。何よりも、この人がただ一人の嫡男を亡くしたばかりだということを忘れてはいけない。
「わたしが申し上げたいのはそれだけですわ、陛下。お気にかけてくださって本当にありがとう存じました」
「きみの弟たちは、元気にしている」
「ええ。今は二人も喪に服しているのでしょうから、外の人間と会うことができないのは当然です。今後のこともあるのでしょうし――」
「王位継承者のことか」
 リチャードが簡潔に言い当てた。
 エリザベスは一瞬だけ怯んだが、すぐに微笑んでかわそうとした。が、リチャードのほうがわずかに早く先を続ける。
「次の後継者はもう決まっている。シェリフ・ハットンにいるきみの従弟だ」
 クラレンス公ジョージの遺児だ。両親を亡くしてからは今の国王夫妻に引き取られ、イングランド北部のシェリフ・ハットン城で姉とともに暮らしている。
 エリザベスは、唐突に知らされた事実に打ちのめされた。ずっと気になっていたことではあったが、今日こんなかたちで知ることになるとは思わなかった。落胆が顔に出ないように努めるが、うまくいかない。
「きみの弟が指名されると思っていたか」
 エリザベスの考えを読んだらしく、リチャードが低い声で言った。表情は変わっていなかった。
 エリザベスはあわてて首を振った。
「いいえ、陛下」
「二人に王位継承権がないことはすでに議会で認められた。申し訳ないが、それを覆してエドワードを王位につけることはできない」
「ええ、存じております」
 エリザベスは失望を抑えきれず、なかば上の空で答えた。
 弟が後継者になることが、難しいのはわかっていた。前王エドワード五世に王位を譲るとなると、リチャードは自分の議会で決まったことを撤回しなければならない。それに比べれば、父親の反逆罪のために王位につけなかった少年のほうが、いくらかは権利の回復がたやすいだろう。
 わかっていても、なぜという気持ちを抑えられない。なぜ、弟のエドワードを選んでくれなかったのだ。エドワードを後継者に据えさえすれば、リチャードは母と完全に和解することができるのに。
「喪が明けたら正式に公表する。きみの母上には先に知らせてさしあげるといい」
 エリザベスはリチャードの顔を見た。皮肉でも嫌味でもなく、本心から言っているらしい。
 久しぶりに怒りが湧いてきた。相手が大きな不幸に遭ったばかりだということも忘れかけて、思わず強い口調で言った。
「まあ、陛下。母は王位のことなど気にしておりませんわ。ただ、弟たちに会いたいと願っているだけです」
「以前にもきみからそう聞いた」
「それが真実ですもの。どうすれば信じていただけますの? 母は、自分の息子を再び王にしたいなどと考えておりません」
 エリザベスはそこで止めた。
 母は二度と、王位のために反乱を起こしたりはしない。だから弟たちを返してほしいと、はっきり言ってやりたかった。
 けれども、言葉にしないうちから自信をなくす。本当にそうなのだろうか。母はエドワードの王位をあきらめたのだろうか。弟たちを取り戻して、母に再び会わせてもいいのだろうか。
 どれだけ考えても答えは出てこない。エリザベスは誰にも知られずに、この不安を一人で背負わなければならない。
「きみの考えはわかった」
 リチャードは言った。エリザベスの考えをどこまで読んだのかはわからない。
「いずれにしても、きみの弟たちを後継者にはしてやれない。きみや母上に会わせてやることも今はできない」
「ええ、陛下。心得ておりますわ」
 エリザベスはリチャードの目を見て、少し迷ってから続けた。
「二人のことは、陛下のご子息がお話しくださいました。ですから何も心配しておりませんわ」
「ジョンがきみに話したのか」
「弟たちと会ったことも、二人がとても元気だったことも教えてくれました。母にも手紙で伝えましたから、今ごろ安心していると思いますわ。――昨年の夏より後のことは、書きませんでしたけれど」
 エリザベスは抑えた声で言うと、リチャードの返事を待った。
 なぜジョンをロンドン塔に行かせるのをやめたのか、昨年の八月に何があったのか、訊きたくてたまらなかった。危険だからと言われたと、ジョンは話していた。それ以後に二人に会ったという者は、エリザベスの知るかぎり、誰もいない。
 宮廷の外でささやかれているように、弟たちはもう生きていないのだろうか。そう信じそうになる時もあるが、説明のつかないことが多すぎる。ロンドン塔で二人の命を密かに奪っても、今さらリチャードが得るものはほとんどない。
 リチャードはおそらく、エリザベスの言葉の含みに気がついただろう。しかし、何もなかったかのような顔で言った。
「ジョンが言ったことは本当だ。きみの弟たちは二人とも元気でいる。その点は心配しないでほしい」
「――ええ、もちろんですわ」
 エリザベスは声を落とし、湧きあがってくる怒りを懸命にこらえた。
 心配しないでほしいなどと、なぜそんなことが言えるのだ。まるで、弟たちを大切に守っているかのように。一年近くも二人を幽閉して、王位も何もかもを奪っておいて。母のところに帰すどころか、姉のエリザベスに会わせることさえ許さないままで。
「何度も申すようですけれど、わたしは何も心配しておりません。父も亡くなる前に言っておりましたもの。あなたにすべて任せておけば、何も心配はいらないと」
 抑えたつもりだったが、やはり当てつけるような口調になってしまった。
 気まずさに耐えながら見つめていると、リチャードの表情が目に見えて変わった。暗い色の瞳を大きく開けて呆然としている。この人がこれほどはっきりと感情を示すのを、エリザベスははじめて見た。
「エドワードが? そう言ったのか」
 虚をつかれた様子のまま、リチャードが短く訊いた。
 エリザベスは、何かに射られるように気がついた。リチャードは、父の臨終の床に来ることができなかったのだ。父が倒れた時、彼は北部の領地にいて、知らせが届くころにはおそらくすべてが終わっていた。訃報を受けて領地を旅立ち、途中で新王と合流し、ロンドンに到着するまでに一月近く。エリザベスはその時すでに聖域に逃げ込んでいた。その後の騒乱は思い出したくないが忘れることもできない。
 かずかずの野心、陰謀、裏切り、そして流血。無数の人間がそれぞれに思惑を抱えて動いていた。
 そんな目まぐるしい日々の中、誰一人としてこの人に、父の最期の様子を伝えようとしなかったのか。この人は父のただ一人の弟で、父がすべてを託していった人だというのに。
 急に思いがけない感情が湧いてきて、エリザベスはいてもたってもいられず口を開いた。
「陛下、父は――」
 しかし、リチャードが手を動かして遮った。もう表情は元に戻っていた。
「そんなことは話さなくていい」
 リチャードはエリザベスの顔を見なかった。これまでと同じく、感情の浮かばない目を伏せて、何かに耐えるように口元を引き結んでいた。
「昔のことを思い出させて悪かった。他に何もなければ、下がって部屋に戻りなさい」

 エリザベスは、宮殿の廊下を一人で歩いた。後ろに侍女はついてきているが、誰もいないも同然だった。足が宙に浮いたように落ち着かず、まわりの光景がほとんど目に入らなかった。
 父の言葉を聞いた時のリチャードの表情が、目の奥に焼きついて離れない。
 息を引き取る数日前、父は病床で確かに言った。リチャードにすべて任せておけば、何も心配はいらない。おまえたちと別れるのは寂しいが、おまえは何も怖がることはない。エリザベス、わたしのベス、お父さまがいなくなった後も、おまえは幸せに生きていけるよ。
 太陽のように美しくて、強くて、優しくて、大好きな父だった。弟が生まれる前も生まれた後も、エリザベスたち娘を愛してくれた。戦場でいくつもの凱歌をあげ、誰よりも剛健な体に恵まれていた父は、ふとしたはずみに病に倒れ、母の看病もむなしく世を去った。床についてから十日も経っていなかった。
 そういえば父の時は、今のように喪に服すことはできなかった。父が亡くなるとすぐに王位をめぐる争いが始まり、エリザベスたちはわけがわからないまま聖域に連れ込まれた。廷臣たちもロンドンの市民たちもエドワード四世を愛していたが、その死を悼んでいる余裕は誰にもなかったのだ。
 誰からも愛され、誰をも愛したヨークの王。戦の去ったイングランドを照らした、光そのもののような人。
 エリザベスは、黙ったまま廊下を歩き続けた。王太子の喪に服した宮廷は、かつての騒乱を忘れたかのように、ひっそりと静まりかえっている。


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