テューダーの薔薇 [ 2−3 ]
テューダーの薔薇

第二章 喪を照らす光 3
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 アンとの短い面会を終えて、しばらくは変化のない日々が続いた。喪に服した宮殿はあいかわらず静かで、かつての賑わいのほうが幻だったかのようだった。
 エリザベスは久しぶりに、母に手紙を書いた。自分と妹が元気でいること、服喪に入ってからは夜会も王妃の相手もなく、ほとんど二人だけで静かに過ごしていること。母のもとに帰ってもいいと言われたが、宮廷に残ることを選んだこと。
 迷った末に、ジョンが話してくれたことも書いた。弟たちに会ったという人の話を聞きました、二人ともとても元気だったそうです――と。
 昨夏からロンドン塔には行けなくなったという話は書かなかった。母に余計な心配をさせたくない。すべての事情がはっきりしてから、また書いて知らせてやればいい。
 エリザベスはペンを走らせ、最後に一つ、疑問を書き添えた。プリンス・オブ・ウェールズが亡くなった今、自分はこの宮廷で何をするべきなのかと。
 服喪中の今はほとんど何もできない。自分からリチャードに交渉を持ちかけることはできなくなったし、顔を合わせることがあっても弟たちのことを訊くべき時ではない。母ももちろんそう思っているはずだ。
 王太子の急逝により、王位のゆくえもわからなくなった。ヨーク家で新たな後継者が選ばれる一方で、ヘンリー・テューダーも海の向こうで挙兵の機会をうかがっているだろう。
 母にとっていちばん望ましいのは、リチャードが喪った嫡男のかわりに、廃位させた甥を指名してくれることだ。そうなれば、母が乱を起こす必要は二度となくなる。エリザベスもヘンリーとの婚約を解消できる。ヨーク派は再び結束して、ランカスター派を迎え討つことができる。
 少なくとも喪が明けるまでは何もせず、後継者が決まるのを見守ってはどうかと、エリザベスは母に書いてみるつもりだった。
 母が何を考えているのか、あいかわらずエリザベスにはわからない。会いに行って聞き出してみることも考えていたが、王太子の急逝でかえって宮廷を去りがたくなってしまった。
 これまでの母の手紙をすべて集め、一つ一つ読み返してみた。どれも王太子が亡くなる前のものだ。内容は弟たちのことばかりで変化はない。最近のものになるほど文面が短く、簡潔になっていくようだった。まるで、母自身が何かに急かされてでもいるように。
 手紙の末尾には、エリザベス・グレイ、との署名がある。父との結婚が無効とされたので、母は前夫の姓を名乗っているのだ。
 聖域を出てここに来ることが決まった時、エリザベスは、弟たちを取り戻すことしか考えていなかった。二人が母のもとへ帰り、再び一緒に暮らせるようになれば、すべてはうまくいくと思っていた。だが、リチャードはそう思っていない。だから弟たちは今も幽閉されたままだ。エリザベスも、二人を母に会わせるのが本当にいいことなのか、自信を持てなくなってきている。
 考えているうちに不安が襲ってきそうになり、ペンをとって急いで続きを書いた。エリザベスに今できることは、母に手紙を書いて返事を待つことだけだ。それから先のことは、母の考えを確かめてから決める。
 手紙を締めくくろうとした時、ふと思い出すことがあった。病床でアンに面会した時のことだ。アンはエリザベスに、母に伝えてほしいという言葉を託した。
 お悲しみをお察しします。わたしに償えることがあれば、なんでもいたします。
 エリザベスはアンの手を握り返し、必ず伝えると約束したのだった。
 あの時はアンの様子ばかりが気がかりで、言葉の意味を考えたりはしなかった。今こうして思い出してみても、やはりすぐにはわからない。エリザベスはペンを置き、その時のアンの顔を思い浮かべながら、しばらく考え込んでみた。
 アンが母に対して償うというと、王妃の座を奪ったことだろうか。確かに母は、自分にかわってその地位についたアンを、深く恨んでいた。宮廷に姿を見せないのもそのためだ。しかし、アン自身はそのことを知らないし、察しているようにも思えない。
 弟たちが幽閉され、母から遠ざけられていることだろうか。それを強いたのはリチャードであって、アンではない。アンは夫のしたことを母に詫びたいと思っているのだろうか。リチャードを信頼しきって、何もかも従っているように見えるあの王妃が。
 どれも正解に近いようで、正解そのものではないような気がした。何かそう遠くはないような、少し頭を動かせば見えるところに答えがあるようにも思える。けれど目を向けようとすると、視界にもやがかかったように何も見えなくなる。つまり、いくら考えてもわからなかった。
 わからないものを母に伝えるわけにはいかない。ただでさえ母は、エリザベスが書き送る手紙に神経を尖らせているはずだ。エリザベスは迷わず手紙を閉じた。
 あの時のアンは心身ともに弱りきっていた。真に受けるような言葉でもなかったのかもしれない。いずれにしても、今すぐ母に伝えるべきではないし、その必要もないと思う。
 ただ、いったん思い出してしまった言葉を、頭から完全に消し去るのは難しかった。意味がわかりそうでわからない不安が、エリザベスの上に重たくかぶさっている。
 母の悲しみ。アンの償い。
 アンはいったい、何のことを言いたかったのだろう。



 王妃に再び呼び出されたのは、また何日も経ってからのことだった。
 エリザベスとセシリーが居所に向かうと、今度はまっすぐ寝室のほうに通された。前回に比べると女官の数も減り、ものものしい雰囲気がなくなっている。悲報が届く前の、穏やかな空気が戻り始めているようだった。
「久しぶりね。エリザベス、セシリー」
 アンは寝間着のままだったが、寝台に身を起こしていた。長い金髪はゆるく編んで肩に垂らされ、顔色も前ほど悪くはなくなっている。
 ただ、その顔には笑みがなかった。二人を見て笑おうとはしたが、うまく顔が動かせず、また真顔に戻ってしまった。
 エリザベスはセシリーと並んで座った。
「お加減はいかがですか、王妃さま?」
「そうね――良くなったと思うわ」
「わたしたちに何かできることがあれば、いつでもお申しつけくださいな」
「ええ、ありがとう」
 声が弱いのはあいかわらずだが、口調までどこかたどたどしくなっていた。いつもは必ず口にしてくれる、二人を気遣う言葉も出てこない。話しかけてもどこか上の空で、まるでこの場にいないかのようだ。息子を亡くした母親というよりは、迷子になって途方に暮れている幼い子どものようだった。
 エリザベスはこれらの変化に気がつくと、不思議なことにほっとした。たぶん、このほうがいいのだ。前に会った時のアンは生気のない顔に穏やかな笑みを浮かべ、エリザベスの手を握りながら、必死で何かを伝えようとしていた。それがどういうわけか恐ろしかった。
「今日は少し、陽ざしが強いようですわ。お体に障りませんか?」
 エリザベスは、ゆっくりと訊いた。
「光が入らないようにしましょうか、王妃さま?」
 セシリーも懸命に話しかけた。
 アンは聞いているのかいないのか、どっちつかずの返答を繰り返していた。
 しばらくそんなやりとりを続けた後、アンが急にエリザベスを見た。
「エリザベス?」
「はい、王妃さま」
「わたし、あなたにこのあいだ、おかしなことを言わなかったかしら?」
「おかしなこと、ですか?」
 エリザベスは首をかしげた。
「どのようなことでしょう、王妃さま?」
 エリザベスは慎重に訊いた。胸がさわぎ始めるのを感じたが、顔に出すのは必死で抑えた。心あたりがあるともないともとれる、あいまいな表情を浮かべておいた。
 お悲しみをお察しします。わたしに償えることがあれば、なんでもいたします。
 本来ならば、ここでアンの言ったことを繰り返し、その真意を確かめてみるべきなのだろう。その上でアンが再び望むのなら、母にそれを伝えなければならない。
 しかし、エリザベスを見つめるアンの目には、あの時のような強い光は宿っていなかった。子どものような無防備な顔をして、純粋な疑問だけを投げかけている。自分の言ったことを覚えていないのかもしれない。
 アンはしばらくエリザベスを見つめていたが、やがてあきらめるように言った。
「いいえ、いいの」
 エリザベスはほっとして体の力を抜いた。
 やはりアンは、あの時の自分の言葉を忘れているのだ。錯乱した頭が口に出させた、意味のない言葉だったのだろう。一人息子の訃報を聞いたばかりだった上に、自身の病状も最悪のことに陥っていたのだから無理もない。
「おかしなことではありませんけれど、陛下をお助けしてほしい、とはお聞きしました。わたしもセシリーも、もちろんそのつもりですわ」
 エリザベスはアンを安心させようと、微笑みながら言った。こちらの言葉はアンも覚えているだろう。
「ええ、言ったわ――ありがとう」
 アンは答えると、大きく息をついた。しばらくは黙ったままだったが、ようやくその顔に、わずかに笑みのようなものが浮かんだ。
「ごめんなさいね。体が楽になってきたら、なんだかぼんやりしてしまって」
「悪いことではないと思います。これから少しずつお元気になられますわ」
「心配をかけたわね。セシリーも」
 アンに視線を向けられると、セシリーはあわてて表情を引きしめた。今度は泣かないようにときつく言い聞かせておいたので、その目に涙はかろうじて浮かんでいない。
「いいえ、王妃さま」
「あなたたちのお母さまからも、お手紙をいただいたのよ。とてもお優しい言葉を書いてくださったわ」
 エリザベスは、自分でも信じられないくらい嬉しかった。
 母はやはり、義弟夫妻の不幸を喜んでなどいなかった。王妃の座を奪ったアンを恨んではいても、我が子を亡くした女性への思いやりは残していたのだ。
「そういえば、ジョンをお部屋に呼んで、話し相手になってくれているのですってね。ありがとう」
「相手をしていただいているのはわたしたちのほうですわ。彼はいい少年ですね」
 答えながら、エリザベスは少しだけ慎重になった。実子のようにかわいがっているとはいえ、血のつながらない少年の話題は、亡くなった王子のことを思い出させはしないだろうか。
 エリザベスの心配をよそに、アンはにっこり笑った。
「ええ、本当にいい子。あの子にも心配をさせてしまったわ」
 エリザベスは微笑み返した。
 アンの表情は、すっかり元どおりとはいかないまでも、以前の穏やかさが戻り始めていた。エリザベスやセシリーの見ていないところで、どれほど多くの涙を流したのだろう。どんな思いで一日一日を過ごしてきたのだろう。エリザベスには想像することしかできない。
 ただ一人の息子の死は、この女性から多くのものを奪っていった。けれども今、アンはエリザベスたちを見て、以前のように微笑を向けてくれている。失ってしまったものを一つずつ取り戻そうとしている。
「いいお天気ね」
 アンは窓のほうに目を向けて、ゆっくりとつぶやいた。天候に恵まれている今年の春でも、今日は特に陽ざしがあたたかい。
「はい、王妃さま」
「外は、どんな様子なのかしら――エリザベス?」
 エリザベスはアンの顔を見た。アンもエリザベスに目を戻して、微笑みながら答えを待っている。
 王太子の訃報が届く前、アンはいつもこうして、エリザベスに話をねだっていた。あなたはお話が上手だから、と言って、エリザベスが語るのを嬉しそうに聞いていた。
「何をお聞きになりたいですか、王妃さま?」
 エリザベスも、以前と同じように尋ねた。
「なんでも。ここしばらくのあいだ、あなたが見聞きしたことを、おしえてちょうだい」
 エリザベスは少し考えた。
 喪に服している今は、とりたてて新しいことなどそうは起こらない。外出といえば散歩くらいだし、人と会うことも少なくなった。会ったとしても話すことはいつも同じ、王太子への哀悼と、次の後継者のことばかりである。
 使用人たちを通じて入ってくる噂は、あいかわらず暗いものばかりだった。人々が王妃に向けるのは同情ばかりではなく、冷淡な、心ない言葉も次第に増えているようだった。王子が早逝したのは母親の弱さを受け継いだからだ、異母兄のほうは何の問題もなく健やかに育っているのに、そもそも一人産んだだけでは王妃の責務を果たしたとは言えない、宮廷から追い出された前の王妃は、何人もの王子や王女を次々に上げたではないか――。
 エリザベスはふと、思った。アンは自分に対するこれらの言葉に、気がついているのだろうか。もちろん、リチャードや女官たちが気を遣って、アンの耳に入らないようにはしているだろう。だが、アンは本当に察していないのだろうか。王位を左右するほどの大貴族の娘として生まれ、王家に嫁いで十年以上も経つ女性が、自分に対する批難に無関心でいられるものだろうか。
 アンは、病みやつれた顔に微笑を浮かべ、エリザベスが話し始めるのを穏やかに待っている。
「このあいだ、セシリーと二人で、久しぶりに庭園を見に行ったのですが」
 エリザベスは微笑みなおし、ゆったりと口を開いた。
「しばらく見ないうちに、花が始まっているところがいくつもありました。暖かくなってきましたから、あたりまえなのですけれど――」
 エリザベスは、庭園で見た花の名前を一つ一つ挙げ、それがどんなに美しかったかをていねいに語った。自分のいちばん好きな花を明かし、セシリーにも言わせ、アンにも尋ねてみた。
 花の季節だけあって、今日はあたたかな日和である。
 明るい陽ざしが入ってくる寝室で、エリザベスは笑みを絶やさず、庭園の様子をすみずみまで王妃に聞かせた。


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