テューダーの薔薇 [ 2−2 ]
テューダーの薔薇

第二章 喪を照らす光 2
[ BACK / TOP / NEXT ]


 王妃が会いたがっているという知らせが、エリザベスとセシリーのもとに届いた。二人は喪服を整えて、久しぶりに王妃の居所へ向かった。
 出迎えてくれた女官が、これまでに入ったことのない部屋へ導いた。不思議に思っていると、扉の前で女官が二人に言った。
「中で国王陛下がお待ちです」
 エリザベスはぎょっとして立ちすくみ、セシリーも隣で身を強ばらせていた。
 開いた扉から導かれて部屋に入ると、リチャードが座ったままこちらを見た。エリザベスは意を決して進み出て、セシリーと並んで膝を折った。
「二人ともこちらへ」
 声をかけられると、エリザベスは礼をといて顔を上げた。
「陛下、お悔やみを申し上げます。エドワード王子はお気の毒なことでした」
「ありがとう。まずは掛けてくれ」
 リチャードは静かに言い、自分の向かいにある椅子を示した。
 エリザベスはセシリーとともに座った。前を向くと、久しぶりに見る姿がそこにある。何度も何度も話をしたいと申し出て、そのたびに断られていたのに、こんなかたちで機会がめぐってくるとは思わなかった。
 もっとも、今日は弟たちの話をするわけにはいかないだろうが。
 リチャードは、一月まえに会った時とほとんど変わっていないように見えた。やつれがちなのも雰囲気が暗いのもいつもと同じなので、以前と比べて特に弱ったとは思えない。何も知らされずに会えば、この人がただ一人の嫡男を亡くしたばかりだとは、おそらくわからなかっただろう。
 エリザベスは戸惑ったが、すぐに気を取り直した。もともとこの人は、感情を表に出すたちではないのだ。
「変わりはなかったか」
「はい、陛下」
「きみたちが来て間もないというのに、このようなことになってしまって悪かった。母上のもとに帰ってくれても良かったのだが」
 エリザベスは少々むっとした。
 わたしたちはそんな恩知らずではない。宮廷で何不自由ない暮らしをさせてもらい、社交だの何だのと楽しんでおきながら、服喪に入ったとたんそそくさと出ていくなんて。
 言い返すのをこらえていると、隣で別の声がした。
「そのようなことはできません、陛下。わたしたちは王妃さまのお力になるためにここにいるのですもの」
 エリザベスは思わず妹を見た。
 いつも促されるまで口を開かないセシリーが、めずらしく顔を上げて、自分から何かを伝えようとしている。しかも、他の誰でもないリチャードに向かって。エリザベスは目を疑い、話をつなぐことができなかった。
 リチャードも面食らったようで、すぐには答えを返さなかった。少ししてから、元の表情にもどって口を開いた。
「ありがとう」
「――王妃さまのお加減は、いかがですか?」
 エリザベスも気を取り直して訊いた。
「かなり悪い。ずっと人にも会えずにいたのが、今日ようやく医師の許しが出たところだ」
「まあ。では、わたしたちは――」
 今日は遠慮したほうがいいのでは、と言いかけたのを、リチャードに遮られた。
「アンがきみたちに会いたいと言っている。もう少し先にしたほうがいいと言っても聞かないのだ。床を離れずに、短時間でという約束で許した。きみたちがそうしたければ断ってもいい」
 エリザベスはセシリーと顔を見合わせた。
 他に気心の知れた女官もいるだろうに、なぜアンがそこまで二人に会いたがるのかわからない。一人息子を亡くしたばかりで、自身も病の篤い王妃との面会は、荷が重くないと言えば嘘になる。
 だが、断るつもりはまったくない。セシリーも同じ顔をしていた。
「いいえ、陛下。お許しをいただけるのならお会いします」
「そうか。ありがとう」
 リチャードは二人に言った。今日はこの言葉を何度も聞いている。しかしエリザベスには、この人が本心から喜んでいないように、むしろ少し落胆しているように見えた。
 たぶんリチャードは、二人に断ってほしかったのだ。
「わかっているとは思うが、長居はしないでくれ。アンが引きとめても早めに出てきてくれ」
「はい、陛下」
「アンにはあまりしゃべらせないように。決して床から動かさないように。それから、気を乱すようなことは言わないように心がけてほしい」
「もちろんですわ」
 エリザベスとセシリーは何度もうなずき、ようやく王妃のもとへ移る許可を得た。

 いつも会う年配の女官に導かれて、王妃の寝室に向かった。
 歩く途中で、エリザベスは女官に歩み寄り、アンの様子について訊いた。リチャードには詳しいことは訊けなかったが、やはり面会の前に正確なことを知っておきたかった。
「ご容態はたいそうお悪うございました。王子のことをお聞きになった次の日に、ひどい発作を起こされたのです。本来はまだ、人にお会いになれるようなご様子ではございません」
「なぜ、わたしたちをお呼びなのでしょう」
「さあ。存じません」
 女官はそっけなく答えた。彼女もリチャードと同じく、二人をアンに会わせることには反対なのだ。
 寝室に近づくにつれ、エリザベスの足は震え始めた。
 エリザベスたちがアンに会って、いったい何ができるのだろう。自分の子どもを持った経験は一度もない。弟や妹の死は知っていても、息子の死は知らない。アンがどのような気持ちでいるか考えようとしても、しょせんは他人の想像でしかない。会ったところでアンを慰められるどころか、体に負担をかけてしまうだけではないのか。
 震えが止まらないうちに、寝室の扉の前に着いてしまった。女官が先に入り、王妃の寝台に歩み寄る。そのあいだ二人は、開きかけの扉の前でしばらく待たされた。
 エリザベスが隣を見ると、妹も顔を向けた。セシリーも白い顔をして震えていたが、瞳には見たこともないような強い光があった。二人はお互いの手を同時に握りしめた。
「お嬢さまがた、こちらへお越しください」
 二人はアンが眠る寝台に向かった。自分の足もとを見ながら近づき、手前で腰をかがめた。アンの姿はまだ見えなかった。
「ここに来てちょうだい、エリザベス、セシリー」
 かすれた声が聞こえ、二人はそれに従った。寝台のすぐそばで覗き込むと、横たわったアンが見上げていた。覚悟はしていたが、その姿を見ると驚かずにはいられなかった。
 悲しみと病の苦痛が、この小さな女性から、命以外のすべてを奪っていったかのようだった。もともとこれ以上は痩せられないと思うほど細かったのに、今はさらにやつれて衰えている。細い顔にはほんのわずかな色味も見られない。
 それでも、アンは二人を見ると目を細め、口もとに笑みのようなものを浮かべた。
「来てくれてありがとう」
 エリザベスは息がつまった。同時に、突き動かされるようにひざまずき、アンの手を取った。
「王妃さま。心からお悔やみ申し上げます」
 部屋にいた数人の侍女たちも出ていこうとはせず、寝台から少し離れて三人を見守っていた。涙をこらえているらしい者もいる。
 セシリーもエリザベスの隣で身を屈めた。王妃より先に泣いてはいけないと言っておいたのに、すでに嗚咽を抑えきれなくなっている。
「お気の毒です、王妃さま。どうか、お体だけでも、早く良くなられますように」
「ありがとう、セシリー。心配させてごめんなさいね」
 姿も声も弱々しくなっているのに、アンの話し方は以前と変わらなかった。穏やかな笑みを浮かべたまま、一言ずつ語りかけるように口に出していた。
 エリザベスは何も考えずに言った。
「わたしたちにできることがあれば、なんでも仰ってください。どんなことでも」
「ありがとう。でも、わたしはいいの。それより、リチャードが心配だわ」
「陛下は何よりも王妃さまのことを案じておいでですわ」
「ええ。でも、ほんとうはあの人のほうが、ずっと悲しんで、苦しんでいるの」
 アンの顔から笑みが消えた。エリザベスが握っていた手が、逆に強く握り返してきた。
「エリザベス。リチャードを助けてあげて」
「もちろんですわ」
「お願いよ。セシリーも。あの人の味方になってあげて。今のあの人には、それが何よりも必要なの」
「ええ、王妃さま」
 エリザベスは何度もうなずいた。アンの言葉のほとんどは頭に入ってこなかったが、そんなことはどうでも良かった。この小さな女性を慰めたいということの他には、何も考えていなかった。
 アンがふいに目を閉じ、短く咳き込んだ。
 エリザベスはぞっとした。アンの手を握って聞いていた言葉が、まるで遺言のように思えてならなかった。
 女官がアンの背をさすりながら、エリザベスのほうを見た。目が明らかに二人を促している。
 エリザベスはうなずき、アンが落ち着くのを待って言った。
「これで失礼しますわ、王妃さま。またご用があればいつでもお呼びください」
「――待って」
 アンが目を開いたので、エリザベスは立ち上がるのをやめた。
「お母さまに――あなたたちのお母さまに伝えて。お悲しみをお察しします、わたしに償えることがあれば、なんでもいたします」
 エリザベスはアンを見下ろしたまま、返事に詰まった。
 アンの言った意味がわからなかった。なぜここでエリザベスの母が出てくるのだろう。悲しみを察すると言われるべきなのは、むしろアンのほうではないか。アンが母に対して償うとは、いったい何の話だろう。
 しかし、言葉の意味はどうでもいいのだ。本当に母に伝えるのかどうかも関係ない。
 エリザベスがいま言うべきことは、ただ一つだ。
「お伝えしますわ、王妃さま。だからご安心なさってください」
「ありがとう。必ず、伝えて」
「ええ。何もご心配なさらず、よくお休みになってくださいませ」
 エリザベスが繰り返し言うと、アンは再び微笑んだ。
 今度こそ、エリザベスとセシリーは立ち上がり、アンの寝台から離れて部屋の外に向かった。セシリーはその間も泣きどおしで、ほとんど顔を上げられなくなっていた。
 王妃の寝室から出ると、逆にやってきたリチャードの姿が見えた。エリザベスは膝を折り、セシリーにも同じようにさせた。そのまま通り過ぎてしまうかと思ったが、リチャードはいったん足を止め、二人を見た。
「疲れただろう。すまなかった」
「いいえ、陛下」
 エリザベスはまっすぐリチャードを見つめて言った。
「王妃さまのご快癒をお祈り申し上げます。わたしたちにできることがあれば、またお言いつけください」
「ありがとう」
 リチャードは言い置くと、エリザベスたちが出てきた部屋に入っていった。

 王妃の居所を後にしても、しばらく頭がぼんやりしていた。アンに言われたことはすべて覚えているが、一つ一つ思い出して意味を考えられる気力がない。弱り果てたアンの姿と、手を握りながら見つめてくる顔だけが、目に焼きついて離れなかった。
 エリザベスはゆっくり自室へと足を向けた。涙の止まらなくなったセシリーを慰めながら、自分も気持ちが沈むのを抑えられなかった。
 王妃の居所から離れ、人が増えてきたあたりで、呼び止められた。レディ・エリザベス、という声に振り向くと、少年が一人駆け寄ってくるところだった。
「急にお呼び止めしてすみません。レディ・エリザベス、レディ・セシリー」
 控えめに切り出したのは、亡くなった王子の異母兄であるジョンだった。
「いいえ。どうなさったの」
「少しお話できませんか? お疲れだとは思いますが」
 エリザベスはセシリーを見た。従弟を前にして慌てて涙を拭い、呼吸を落ち着けている。エリザベスと目が合うと、小さくうなずいて見せた。
 エリザベスはジョンと向き合った。
「いいわ。部屋まで送ってくださる?」
「はい。ありがとうございます」
 ジョンは少し笑った。はにかみとはまた違う、どこか無理をしているような笑い方だった。彼もまた、かわいがっていた弟を亡くしたばかりなのだ。
 セシリーを右手に、ジョンを左手に連れて、エリザベスは再び歩き出した。
「大変だったわね、ジョン」
 エリザベスは簡単に言った。切り出す言葉がうまく考えられなかった。
「ありがとうございます」
「毎日どんなふうに過ごしているの? お勉強は続けている?」
「はい、少しずつ。あとは弟のために祈っています」
 ジョンは答えた。本当にいい子なのだ。この少年が弟を亡くして悲しんだことを思うと、エリザベスまで胸が痛くなる。
「レディ・エリザベス、お話ししたいことがあるのですが」
 歩きながら、ジョンがあらたまって切り出した。
「ええ、何かしら」
「このあいだのお話の続きです。弟君たちのことで」
 エリザベスは息を呑んだ。
 今ここでその話が出るとは、思ってもみなかった。弟たちのことはもちろん忘れていなかったし、ジョンから聞いたこともずっと気になっていた。けれども、ジョンのほうが覚えているとは思わなかった。
 セシリーも急に出てきた話題に驚いて、エリザベスの横から従弟のほうをうかがっている。そういえば、セシリーには何も伝えていなかったのだった。
 エリザベスは息を整えて、答えた。
「ええ、どうぞ」
「去年の八月にお会いした時、お二人はとてもお元気でした。お住まいになっていたのも立派なお部屋でしたし、使用人たちも行き届いていて、ご不自由はなさっていなかったと思います。きっと今も、同じように過ごしていらっしゃると信じています」
「そう。ありがとう」
「喪が明けたら、ぼくは父に頼んでみるつもりです。弟君たちにまた会いに行きたいと。その時は、レディ・エリザベスにもご一緒していただけるように言ってみます」
 エリザベスは驚いて少年の顔を見た。なぜ彼がここまでしてくれるのだろう。
「ありがとう。でも、そんなことは気にしなくていいのよ。陛下には他にも大変なことがおありなのだから」
 エリザベスが言うと、ジョンは返事に詰まったようだった。しばらく迷ってから、ためらいがちに続きを口にした。
「差し出がましいことでしたらすみません。ただ、ぼくは、レディがご心配なさっているのだと……」
「何を?」
 言ってしまってから、エリザベスは後悔した。訊くまでもないことだ。
 以前に会った時、エリザベスはこの従弟を問いつめてしまった。あの時の態度を目の当たりにすれば、エリザベスが弟たちの無事を信じていないと受け止めるのも無理はない。
 つまりジョンの耳にも、嫌な噂は入ってしまっているのだろう。
 エリザベスは急いで首を振った。
「ごめんなさい、ジョン。本当に気にしないで。わたしは何も心配していないから」
「本当ですか」
「ええ。陛下のご負担を増やすようなことはしないでね。でも、ありがとう」
 エリザベスは心から言った。弟の死を悲しんでいるはずのこの少年に、他のことを考えさせた自分が許せなかった。
 セシリーが話についていけず、不安そうに姉と従弟を見比べている。後で説明してやらなければならない。
 エリザベスは歩き続けながら、話を変えた。
「王妃さまが心配ね、ジョン。とてもお悪かったのでしょう」
「はい」
 ジョンは前を見たまま、ひとりごとのようにつぶやいた。
「弟だけでなく、義母上まで――と、少しだけ思ったこともありました」
「これから良くなられるわ。あなたがおそばにいることが支えになるのでしょうし」
「いいえ。ぼくには何もできません」
 ジョンが首を振った。
「弟のエドワードはただ一人だけでした。たしかに病気がちでしたが、大きくなったらきっと丈夫になって、ロンドンにやって来るのだと信じていました」
 エリザベスは返す言葉を見つけられなかった。黙り込んでしまった従弟を、横目で静かに見つめ続けた。
 王の嫡男であった少年は、ロンドンに来ることさえできないまま天に召された。その一方で、王位を継げない非嫡出の異母兄が、今もこの宮殿の中を歩いている。弱々しいところは少しも見られない、健康な姿で。
 おそらく、ジョンを目にしたすべての者が同じことを考えているだろう。この利発な少年も、自分を見つめる無数の目に気づいているに違いない。
「ジョン、もし良かったら――」
 エリザベスは自然と切り出した。
「時間を持て余すようなことがあったら、わたしたちの部屋にいらして。亡くなった王子の思い出話くらいならいいでしょう」
 ジョンは顔を上げた。宮廷に友達はいると話していたが、社交界に出るような年上の貴婦人に招かれたことはないのだろう。しかも、今は彼の異母弟の服喪中である。
 余計な申し出だっただろうか、とエリザベスが後悔しはじめたころ、ジョンが口を開いた。
「いいのですか」
「ええ、もちろん」
「ぜひいらして、ジョン」
 エリザベスをはさんで反対がわから、セシリーも応じた。
 ジョンはまだ少しためらっていたが、二人の従姉に見つめられて、ゆっくりと表情を変えた。この日はじめて見せる笑顔だった。
「ありがとうございます。ぜひ伺います」


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.