テューダーの薔薇 [ 2−1 ]
テューダーの薔薇

第二章 喪を照らす光 1
[ BACK / TOP / NEXT ]


 リチャード三世の嫡男エドワードは、立太子から一年を待たずに世を去った。両親の住むロンドンを訪れることは、ついに一度も叶わなかった。
 悲報を受けた宮廷は、いっせいに喪に服した。
 エリザベスも、一日のほとんどを自分の部屋で静かに過ごしていた。夜会も他の行事もすべて取りやめられ、侍女や友人たちと談笑したり、ゲームで遊んだりすることもできなくなった。宮殿じゅうが墓所のように静まりかえり、どんな音楽も明るい声も聞かれなくなった。季節も天候もいいというのに、誰も狩猟や遠駆けに出ることはできない。許されるのは簡単な散歩くらいだ。
 王妃からの呼び出しも途絶えていた。アンは一人息子の死を聞いてから、ずっと臥せっているという話だった。
 服喪に入ってから何日かした後、エリザベスは侍女を連れて、久しぶりに宮殿の外へ出た。天気がいいので、川沿いには練り歩く姿が少なくない。宮廷での見知った人物ともよく出会い、何人かとは立ち止まって言葉を交わした。誰もが王太子の死を悼み、国王夫妻を案じる言葉を口にした。
 ロンドン塔が見えてくると、エリザベスはいつものように足を止めた。
 あの中にいる弟たちも、王太子の訃報は聞いているのだろうか。だとしたら、どんなことを感じているのだろう。宮廷にいる姉たちと同じように、二人も喪に服しているのだろうか。
 王太子が早逝した今、イングランドは王位継承者を失った。亡くなった王子の異母兄であるジョンは、非嫡出子なので王になることはできない。国王夫妻には、王位を継がせることのできる息子がいなくなってしまった。
 誰もはっきりとは口に出さないが、エドワード四世の遺児たちのことを考える者は多いはずだ。
 ロンドン塔に目を向けたまま再び歩き出した時、前方から近付いてくる人影に気がついた。
 はじめて見る顔ではなかった。父の生前には何度か話したこともある。しかし、聖域を出てこの宮廷に来てからは、遠目に姿を見かけたことしかない。トマス・スタンリー男爵だった。
 言葉を交わせるほどの距離まで近付くと、エリザベスはこれまで行き会った人にしたのと同じように、立ち止まって軽く膝を折った。
 スタンリー卿は違った。エリザベスの前まで来ると、膝をついて深く頭を下げた。騎士が王族の女性にするように。
「お立ちください、スタンリー卿。わたしはもう王女ではございません」
 エリザベスは驚いて言ったが、スタンリー卿はエリザベスの手を取って口づけた。
「それでも、エドワード四世陛下のご息女でいらっしゃる。敬愛すべきお方に変わりはありません」
 スタンリー卿はゆっくりと立ち上がった。
 以前に会った時よりも、いくらか年を重ねて、小さくなったように見えた。それでも、大柄でたくましいことに変わりはない。近くで向き合うと、威圧されるような存在感がある。表情に乏しく、考えていることが読み取りづらいところは、リチャードに似ているかもしれない。
 エリザベスは何を言っていいのかわからなかった。父にずっと忠誠を捧げてきた騎士。リチャードを一度は裏切っておきながら、再びその宮廷に戻ってきた廷臣。ランカスター家の血を引く女性の夫。
 万に一つでも運命が狂えば、エリザベスの義父になるかもしれない人だ。
「プリンス・オブ・ウェールズはお気の毒なことでした。レディ・エリザベスもお従姉でいらっしゃるのですから、さぞお悲しみでしょう」
 スタンリー卿が口に出したのは、他の宮廷人とまったく同じ言葉だった。エリザベスはなぜかほっとした。
「エドワード王子とはほとんどお会いしたことがございませんが、とてもおかわいらしい方だったと存じます。わたしも妹も、王妃さまをご心配申し上げているところです」
「本当に、おいたわしいことです。ただ一人のご子息をこんなに早く亡くされるとは」
 スタンリー卿は目を伏せて言った。もともとの雰囲気がどこか寂寥としているので、哀悼の言葉が深く響く。幼い王子の死を心から悲しんでいるようだった。
 ヨーク派の王位継承者の死は、ランカスター派には朗報である。スタンリー卿にとっては、義理の息子を王にする機会が近づいたはずだが、それを喜んでいる様子は少しも見られなかった。
 エリザベスは、卿の真意を測ろうとしている自分に気がついた。そんなことをしても、何の意味もないというのに。
 しかし、スタンリー家の勢力はいまだに大きい。その動向で王位のゆくえが変わるといっても言い過ぎではない。ランカスター派に王冠を奪い返されるようなことがあれば、弟たちはいま以上に無事ではいられなくなるだろう。エリザベスの未来もまた、大きく揺れ動くことになる。
「今日は、ロンドン塔にはお行きにならないのですか」
 スタンリー卿が急に話を変えたので、エリザベスは考えていることを見抜かれたような気がした。
「服喪中ですもの。それに、陛下のお許しをいただいていません」
 今日どころか、宮廷に入ってから一月以上、一度も弟たちには会わせてもらっていない。二人がどんな様子で暮らしているのか聞くことすらできず、こうして外からロンドン塔を眺めているしかない。
 そんな恨みが声に出てしまったのだろうか。スタンリー卿は眉をひそめ、エリザベスにきいた。
「お二人がご無事でいらっしゃるかどうか、ご心配なのですか」
 エリザベスは卿の顔を見た。ウエストミンスターで話したどの廷臣も、弟たちのことを持ち出そうとはしなかったのに。
「心配はしていません。スタンリー卿は、二人の様子をご存知なのでしょうか」
「いいえ。ロンドン塔にお住まいを移されて以来、お二人にはお会いしていません。根も葉もない噂が流れていることも存じています。しかし、わたしは、お二人がご無事でいらっしゃることを確信しております」
「なぜですか?」
「リチャード王のお人柄を存じ上げているからです。陛下は決して、王位のために甥御がたを傷つけるようなことはなさいません」
 エリザベスは思わず、スタンリー卿の目をまじまじと見つめた。
 この人は何を言っているのだ。この一年でイングランドで起きたことを、見ていなかったとでも言うのだろうか。エリザベスの弟が家族からも味方からも遠ざけられ、王位を奪われて囚われの身となるまでのあいだ、卿はリチャードの間近にいたはずなのに。
「驚かせてしまったようですね」
 スタンリー卿は続けた。
「エドワード王とレディ・エリナー・バトラーの件は事実でした。――あなたにお聞かせするのは酷なことですが」
 エリザベスは肩をすくめそうになった。そんなことか、と心の中でつぶやいた。
 セシリーや母の前では言えないが、エリザベスも父の重婚に関しては、ありえない話ではないと思っている。父は廷臣の目の届かないところで母を見初め、秘密裏に式を挙げた後もしばらくその事実を隠していたのだ。同じような女性が他にいても不思議ではない。エリナー・バトラーは何年も前に亡くなっているが、二人を結びつけたという司教が証言したことも聞いている。
 だからと言って、リチャードが正しかったと思う気にはなれない。甥を守ると誓った後で兄の秘密を知って、しかたなく自分が王位についたとでも言うのか。そんなことを信じる者は、この国のどこを探してもいないだろう。
「議会が決めたことに異を唱えるつもりはございません。わたしは今の身分に満足しておりますわ。母も、妹たちも、弟たちも」
 エリザベスはいつものように本心を隠し、注意深く言葉を選んだ。この人には本心を読まれたくない。エリザベスがリチャードを憎むあまり、ヘンリーの王位を望んでいるなどと思われては困るのだ。
 しかしスタンリー卿の意図は、そのようなところにはないようだった。継子の名前などは一言も出さず、まっすぐエリザベスの目を見つめて言った。
「ええ。そして、これだけは確かです。陛下が王位につかれた過程がどうであれ、それはご自分のためではございませんでした」
 エリザベスは卿の目を見返した。
 ヘンリー・テューダーの継父の口から、リチャードへの擁護を聞こうとは思わなかった。まさか、これを言うためにエリザベスに声をかけ、弟たちのことを持ち出したのだろうか。



 祈り、聖書を読み、時おり散歩に出るだけの日々が続いた。エリザベスは時間を持て余し、一人でさまざまなことを考えた。
 喪が明けてしばらくしたら、王位継承者が新たに指名されるだろう。王の嫡男がいなくなったとなると、次は親族の誰かということになる。
 ヨーク家にはもう一人、嫡流の男子が残っている。六年前に処刑されたクラレンス公ジョージの長男である。エドワード五世が廃位された時、本来なら王位はこの少年に渡るはずだったが、議会がそれを認めなかった。ジョージが反逆罪で私権を剥奪されていたからだ。プリンス・オブ・ウェールズがいなくなった今、リチャードはそれを覆すことができるだろうか。
 それとも、自分が廃した別の甥のことを考えているのだろうか。
 弟たちがエドワード四世の嫡男ではなく、王位継承権を持たないということは、すでに議会で法文化されている。今さらそれを反故にしたりすれば、議会も王も信頼を失うことになるだろう。それに、エドワード五世が再び王位に近づけば、母やその親族に力を与えることになってしまう。
 母のところにも、王太子の訃報は届いているはずだ。かつて別のプリンス・オブ・ウェールズを長男に持っていた母は、今ごろ何を考えているだろうか。王位を取りもどす機会がめぐってきたと喜び、再び乱を起こす計画を立てはじめているだろうか。
 まさかそれはない、と思う。母も過去に自分の子を、エリザベスの弟妹たちを亡くしている。いくら義弟を恨んでいても、何の咎もない少年の死を喜んだりはしないはずだ。喪に服して以来、母とは一度も手紙を交わしていないが、エリザベスは自分の母を信じようと決める。
 しかし、ランカスター派の者はそうはいかないだろう。スタンリー卿はああ言っていたが、彼の妻とその息子が何を考えているのかはわからない。今ごろヘンリーは海の向こうで、王位が自分に近づいたと喜んでいるのかもしれない。
 後継者のない王家は不安定で、隙をつくりやすい。リチャードは次の後継者を一刻も早く定めなければならない。エリザベスの弟か、ジョージの長男か、あるいは――。
 エリザベスの頭はふと冷めた。従弟が幼い命を失ったというのに、こんなことばかり考えていてはいけない。
 ただ、同じことを考えている人間は、他にもおおぜいいるだろう。宮廷の中でも外でも、王太子の急逝を知ったイングランドじゅうの誰もが、ロンドン塔にいる二人の少年を思い出しているに違いない。

「エリザベス」
 宮殿の部屋にいたある日、久しぶりにセシリーの声を聞いた。外に出る機会がなくなれば、部屋で二人になることが自然と多くなる。セシリーはあいかわらず姉と話そうとしなかったが、今日はじめて、おずおずと声をかけてきた。
「どうしたの? セシリー」
 エリザベスは座ったまま顔を上げた。できるだけ、何事もなかったかのように、以前と同じように応じたつもりだった。
「そこに座ってもいい?」
「いいわよ」
 セシリーはエリザベスと少し離れて座ったが、そのまま口を開こうとしなかった。エリザベスも何も言えなかった。妹が何か話したがっているのはわかっていたが、いつものように促してやることができなかった。
 セシリーはおとなしく、沈黙にいたたまれなさそうにしていた。いつかのような激しい感情は見られなかった。エリザベスがよく知っている、不器用でかわいい妹に戻っていた。
 エリザベスは深く息を吸い、やっと口を開いた。
「何か気になることでもあるの?」
 セシリーは顔を上げ、ほっとした様子で姉を見つめた。
「エドワード王子が、亡くなったでしょう」
「ええ」
「これからどうなるの? イングランドは」
「別にどうもならないわ。王がちゃんといるのだから」
「でも……みんなが、いろんなことを言っているわ」
 それはエリザベスも知っていた。宮廷では、王太子の死を悼む声に紛れて、さまざまな噂が流れていた。エリザベスと同じように、誰もが次の後継者を気にしていた。ただ一人しか息子を産まなかった王妃を責める声も、エドワード五世の廃位がそもそもの間違いだったという声もあった。ランカスター派に絶好の機会を与えてしまったと憂う者も、少なからずいるようだった。
「心配しなくても大丈夫よ。みんな退屈だから、いろんな話をしたがるのだわ」
 エリザベスは気休めを言ったが、セシリーの顔は晴れなかった。
「怖いの? セシリー」
 セシリーは小さく首を振った。
「王妃さまが心配なの。ご子息を亡くされて、ただでさえお悲しみでしょうに、ひどいことを言われてお気の毒だわ」
 エリザベスは思わず微笑み、同時に少し胸が痛んだ。妹の肩をそっと抱き寄せた。
 セシリーは嫌がらず、素直に頭をもたげてきた。
「本当は、少し怖いの」
「ええ、セシリー」
「また戦になるのかと思うと、不安で眠れないの」
「わたしもよ」
 エリザベスは答えた。妹の言葉に同意することで、はじめて自分の気持ちに気がついた。心の底では不安だったからこそ、あれこれ考えなければ落ち着かなかったのだ。
 口に出して認めてしまうと、かえって気持ちは楽になった。セシリーも同じだったようで、前よりは落ち着いた声で続けた。
「でも、やっぱり王妃さまのほうが心配だわ」
「ええ」
「ここに来る前は、こんなふうに感じるなんて、思ってもみなかったけれど」
 セシリーが何を考えているのかは、エリザベスにもよくわかった。この宮廷に招かれる前、あるいは王妃と話すようになる前、自分がどんなに国王夫妻を憎んでいたかを思い出しているのだ。
 あの時の気持ちが変わっていなければ、王太子の訃報がこれほど響きはしなかっただろう。まさか喜びこそしないものの、悲しみを感じたり、王妃の心を案じたりすることはなかっただろう。ただの政治的な変化の一つとして受け止め、自分たちの今後のことだけを考えていたかもしれない。
 けれども、アンの人柄を知り、それに救われたこともある今は、そう単純にはいかなかった。整理のつかないさまざまな感情が入り乱れて、自分が辛いのかどうかもよくわからなくなっていた。
 リチャードから伝言が来て、エリザベスとセシリーは母のもとへ帰っていいと言われたが、そのつもりはまったくなかった。ここで皆とともに喪に服し、アンに呼ばれることがあればすぐに応じるつもりだった。
 エリザベスはセシリーの頭を撫でながら、亡くなった王太子のことを考えた。プリンス・オブ・ウェールズに叙せられながらロンドンへ来ることができず、両親と遠く離れて一人で天に召された少年。
 彼と会ったことは一度もなかった――と思ったが、よく思い出してみると、ずいぶん前に一度だけあった。もう何の機会だったかも覚えていないが、リチャードとアンがロンドンに来る際、一人息子を連れてきていたことがあった。華やかな宮廷と年上の従姉たちを見て、怯えたようにかたまっていた、痩せっぽちの男の子。エリザベスの下の弟と同じ、今年で十一歳だった。
 エリザベスは妹とともに、従弟の安らかな眠りを祈った。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.