テューダーの薔薇 [ 1−5 ]
テューダーの薔薇

第一章 宮廷 5
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 エリザベスは部屋で手紙と向き合っていた。今日、母から届いたものである。
 内容は、いつもと同じ。弟たちには会えたのか、何か様子はわかったのかというものだ。
 返事の文面を考えていたが、書き出せずにいた。また同じことを書いて母を失望させるのだと思うと、ペンを持つ手が重くなる。
 あいかわらずリチャードからの沙汰はないし、こちらから使いを出しても多忙だと一蹴されていた。予定を調べてその場所に赴けば姿は見られるのだろうが、まさかイングランド王を呼び止めて立ち話をするわけにもいかない。根気よく交渉を続けて、なんとか会って話をするしか道はない。
 エリザベスはもう一度、母からの手紙を読み直した。母自身や妹たちの話は書かれておらず、エリザベスやセシリーのことを尋ねる言葉もない。娘たちについては何も心配いらないと安心しきっているのだ。
 あとは弟たちを取り戻しさえすれば、母は平穏な生活を手にすることができる。これまではそう考えていたし、今もそう思っている。けれど、それはあくまでエリザベスの考えだ。
 手紙の返事で、さりげなく訊いてみようか。弟たちを取り戻した後はどうするつもりなのかと。エリザベスや妹たちの望みどおり、野心は捨てて静かに暮らしてくれるのかと。
 それとも、おそらくリチャードが疑っているように、王位のために再び戦うつもりなのかと。
 リチャードは、過去の反乱のことはいっさい問わないと約束してくれた。母は義弟に従いさえすれば、亡き王に愛された女性として何不自由なく生きていける。妹たちも王家の血を引く娘として良い嫁ぎ先を見つけてもらえる。弟たちも非嫡出とはいえ、エドワード四世の息子たちなのだ。王位を継ぐことはできなくても、相応の地位にはつけてもらえるだろう。
 母はそれで納得するだろうか。あれほど執着していたエドワードの王位を、あきらめることができるだろうか。
 エリザベスたちの母、エリザベス・ウッドヴィルは、本来は王妃になれるような身分ではなかった。下級貴族の娘で、王より五つも年上で、二人の息子を持つ未亡人。それも、ランカスター派の騎士の妻であった女性。エドワード四世はそんな母と恋に落ち、廷臣たちに一言の相談もなく結婚してしまったのだ。反発が起きたことはエリザベスにも容易に想像がつく。
 侮蔑と嫉妬、そして憎悪を雨のように浴びながら、母は王妃にふさわしくあろうと懸命に努めていた。常に神経を張りつめていたことは、幼いエリザベスにもよくわかった。
 そうまでして守ってきた地位を、義理の弟に奪われたのだ。再び奪い返したいと思うのも無理はない。リチャードもそれがわかっているからこそ、弟たちを手元に残しておきたいのだろう。
 リチャードを説得し、弟たちを返してもらうためには、母が恭順を示すことが不可欠だ。エリザベスの憶測から出た言葉だけでは信じてもらえない。手紙で母に確かめることもできなくはないが、会いに行ってじかに訊いてみるべきだろうか。母は、娘に本心を明かしてくれるだろうか。
 堂々めぐりになりかけていたところへ、エリザベス、と名前を呼ぶ小さな声がした。振り向くと、出かけていたセシリーがいつの間にかそこに立っている。
「セシリー、早かったのね。散歩はどうだった?」
「変な噂を聞いたの」
 セシリーは姉の問いを遮るように、早口で答えた。顔から血の気が引いて青白くなっている。
「どんな噂?」
「弟たちが殺されたって。陛下の命令で」
 エリザベスは小さく口を開けた。立ち上がって妹の前に歩み寄り、その顔をすみずみまで見つめた。セシリーはすっかり怯え、胸の前で握った手を震わせている。
 何を言っているのだろう、この妹は。
「知っているわよ、そんなことは」
 エリザベスはため息をこらえながら言った。
「聖域で何を聞いていたの? お母さまのところに知らせが来るたび、あなたも一緒に聞いていたでしょう。弟たちがロンドン塔で殺されたとか、わからないように遺体を隠されたとか。どれも嘘だったみたいだけれど」
「今度のは本当かもしれないわ。ロンドン塔に出入りしている下働きから直接きいたのだもの」
「セシリー、あなた、そんな人と立ち止まって話をしたの?」
 呆れた声を出すと、妹は気まずそうに目をそらした。
「だって……はじめてだったのよ。弟たちの話をしてくれたの。わたしたちが庶子にされたことをすごく悲しんでくれて、王になるべきはエドワード王子だったのにって言ってくれたわ。リチャード王のやりかたはいろいろ気にくわないって」
「あなたが聞かされたのはただの愚痴よ。その使用人は今の王への不満と、わたしたちへの同情を混同しているだけ。そういう話が出た時はあなたが黙らせてやらないといけないわ。万が一にでも人に聞かれたら、誰よりもその者にとって悪いことになるでしょう」
 セシリーは顔をこわばらせて、何も答えようとしなかった。言いたいことはありそうだったが、言葉が見つからないようだった。しばらく黙ってから、声色を変えて訊いてきた。
「ベス、本当に嘘だと思う?」
「弟たちのこと?」
 エリザベスはため息をついた。妹にあたっても仕方がないのはわかっているが、苛立ちを抑えきれない。
「セシリー、よく考えてみて。弟たちは王位を継ぐ資格がないと、議会ではっきり決められたのよ。どうして今さら殺されなければならないのよ」
「でも……お母さまがまだあきらめないと、陛下が考えたとしたら」
「火種になる前に消してしまう? それなら二人は棺に収まって、とっくにお母さまのところに帰っているわ。陛下が二人を返してくれないのは、人質として生かしておく価値があるからよ」
「でも……」
「でも、何?」
「アンソニー叔父さまと、お兄さまは殺されたわ」
 セシリーは顔を上げ、めずらしくはっきりと言った。
 エリザベスは首を振った。
「殺されたのではないわ。二人は争いに負けて、処刑されたのよ」
 リヴァーズ伯アンソニー・ウッドヴィルは母のすぐ下の弟で、ラドロウ城で王太子エドワードの教育を任されていた。父が亡くなったという知らせを受けて、エドワードを連れてロンドンに向かったのもアンソニーだった。
 しかし、彼がロンドンにやって来ることはなかった。道中で合流したリチャードに逮捕されたのである。
 エドワードはリチャードの保護下に置かれ、他に付き従っていた何名かの側近も捕らえられた。その中には、母が前夫との間にもうけた息子、つまりエリザベスたちの異父兄もいた。彼らはすべて、エドワード五世の廃位とほぼ同時に処刑された。エリザベスたちは聖域にいる間に、母方の叔父と兄を失ったのである。
 これは政治的な争いの結果なのだ。父が亡くなった直後、宮廷は少年王を間に挟んで、王太后である母の一派と、摂政となったリチャードの一派に分かれていた。そして、母が負けた。エリザベスはそう理解している。
 セシリーにはそれができないようだった。肩をふるわせ、今にも泣き出しそうな顔をして、エリザベスに感情をぶつけてきた。
「殺されたのとどう違うの? アンソニー叔父さまが生きていたら、エドワードは今も王だったのに。わたしたちも庶子なんて呼ばれたりしなかったのに。どうしてあの子と同じ身分にならなければならないの」
「あの子?」
「このあいだ、王妃さまのところで見た子――ジョンとかいう男の子。どうしてあんな子がここにいるの。わたしたちの弟はロンドン塔に閉じこめられているのに、どうしてあの子が宮廷に住んで、王子みたいに大切にされているのよ。庶子のくせに」
「セシリー!」
 エリザベスは叫んだ。
 セシリーは普段はおとなしいが、時々こうして感情を爆発させることがある。怒りから我に返ったあとで、自分の吐いた醜い言葉を悔やんで傷ついてしまう。
「そんな言い方をしてはだめよ。あの子はわたしたちの従兄弟なのよ」
「でも――」
「わたしたちは法律で庶子にされたけれど、お父さまは娘として愛してくれたわ。今もロンドンのほとんどの人たちが、わたしたちを王女だと思ってくれている。それで充分だと思えないの?」
「じゃあ、どうしてお母さまは宮廷に来ないの? 今の身分を屈辱だと思っているからでしょう。わたしだって同じだわ」
「セシリー、聞いて」
 エリザベスは妹の肩に手を置き、ゆっくりと言った。
「あなたは覚えていないと思うけれど、わたしたちは前にも、王女ではなかったことがあったのよ」
 セシリーは顔を背け、突き返すように言った。
「知っているわ。何度も話に聞いたもの」
「それならわかるでしょう。今のわたしたちが、どれだけ恵まれているか」
 エリザベスは四歳、セシリーは赤ん坊と言ってもいい年のころだった。平和だと思っていた父の治世で反乱が相次ぎ、ランカスター家のヘンリー六世が担ぎ上げられて復位した。王位を追われた父は大陸に逃げ、妹の嫁ぎ先であるフランドルに亡命した。身重だった母と、娘のエリザベスたちをイングランドに残して。
 今はエリザベスもセシリーも、庶出とはいえ元王の娘で、現王の姪だが、あの時は王を騙った逃亡者の娘だったのだ。
「あの時、お父さまが王位を取り戻せなかったら、わたしたちは宮廷に戻るどころか、殺されていたかも知れなかったのよ。王位争いで負けるというのはそういうことなの。ここでこうしていられるだけでも、幸せだと思うべきよ」
「とても思えないわ。家族を殺した人に養われて、どうしてありがたいなんて思えるのよ」
「セシリー、また聖域に戻りたいの? 食べるものにも着るものにも困るような場所で、いつ軍が攻めてくるか怯えながら暮らしたいの?」
「それでも、ここでずっと生きていくよりはましだわ」
 セシリーの目から涙が溢れた。聖域にいた時は毎日のように泣いていたが、この宮廷に来てからははじめてのことだった。
 エリザベスは妹を抱きしめ、あやすように背中を撫でてやった。それ以上どうしたらいいのかわからなかった。

 二人の言い争う声を聞きつけたのか、しばらくして侍女がなにごとかと訊きに来た。エリザベスは妹の具合が悪いのだと言い、自分だけで世話をできると侍女を追い払った。他の誰にも話を聞かれてはいけない。
 セシリーをなだめるのはたやすくはなかった。泣きやむまで肩を抱き、背中をさすり、慰めの言葉をかけてやった。泣き疲れたセシリーが寝台で眠ってしまった時は、エリザベスもぐったりと疲労していた。もともとエリザベスは、この気むずかしい妹の扱いがあまり得意ではない。
 エリザベスは妹の寝顔を見下ろした。閉じられた瞼の端には、まだ涙が残っている。
 セシリーは三女である。エリザベスと年子だった次女のメアリは、父より一年ほど早く病気で亡くなってしまった。エリザベスといちばん仲が良かったのはこのメアリで、それに比べるとセシリーとはやや距離があった。セシリーは一人の時間を過ごすのが好きで、姉や妹ともあまり打ち解けないのだ。
 それでも今は、一緒にいることのできるただ一人の家族である。
 どう言ってやれば良かったのだろう。何を言って慰めてやれば、この妹は泣きやんでくれたのだろう。
 セシリーだけでも、母のところに帰してやるべきだろうか。エリザベスとセシリーがここにいるのは、エドワード四世の寡婦と弟が和解したという証だ。招かれて間もないうちにその一人が去れば、他人の目には何か問題が起きたかのように映るだろう。母と王との関係に亀裂が入れば、弟たちを取り戻す日が遠のくことにもなりかねない。
 それに、ここでの暮らしそのものには何ひとつ不足はない。エリザベスもセシリーも名目上は王妃の女官にすぎないのに、実際はこうして他の女官にかしずかれて、王女だったころと同じように扱われている。命を取られなかっただけでもありがたいと思うところを、宮廷で何不自由ない暮らしをさせてもらっている。エリザベスたちも母も、リチャードに感謝しなければならないのだ。
 考えながらエリザベスは、自分がまったく感謝していないことに気がついた。セシリーに言ったことは正論だが、すべて嘘だ。本当はエリザベスも、ここで暮らすことを幸せだとは思えない。
 リチャードは父の信頼を裏切って弟から王位を奪った。母の親族とエリザベスの兄を処刑した。エリザベスたちを庶子の身分に落とした。
 仕方のないことだとわかっていても、澱んだ感情が胸の中に溜まったまま、なくなってくれない。
 それでも、耐えるしかないのだ。リチャードを頼らなければ、エリザベスも母も妹たちも、この国で生きていけない。弟たちを取り戻すこともできない。リチャードに従えないのなら、聖域に戻ってまた戦うしかない。
 背筋が冷たくなった。ウエストミンスター寺院で過ごした一年間のことが、頭の中に襲いかかってくる。光の入らない冷たい場所。外で兵士たちが動く音。エリザベスにとってはじめての経験ではなかった。十四年前、父が生きていて王位を追われた時も、母は同じ場所に庇護を求めたのだ。
 幼かったエリザベスは、わけのわからないまま母についていった。なぜ宮殿から去らなければならないのか、なぜ寺院に隠れなければならないのか、何もわからなかった。父が今は王ではなく、ランカスター家の王が再びその座についたと聞いても、まったく理解できなかった。エリザベスが生まれる前から父はイングランド王だった。太陽が空にあるのと同じくらい、父が王座にいるのはあたりまえだと思っていた。
 あたりまえではなかった。父が大陸に亡命して、何もかもが一瞬で変わってしまった。慣れ親しんだ宮殿の部屋から去らねばならず、お気に入りの玩具とも仲の良かった侍女たちとも離れなければならなかった。聖域にいれば安心だと言い聞かされたが、それが確実ではないことは子ども心にもわかった。エリザベスを王女として愛してくれた人たちが、今は僭称者の娘として憎んでいる。そんな空気が外に満ちているのを感じていた。
 お父さまは必ず帰ってくるわ。
 母は、何度もそう言った。いま思えばあれは娘たちにではなく、母が自分自身に言い聞かせた言葉だったのかもしれない。
 イングランドに帰ってきたら、お父さまは必ず勝つわ。必ずまた王になって、あなたたちを家に帰してくださる。だから泣いてはいけないわ。あなたたちはこの国の王女なのよ。今はここに隠れていなければならないけれど、必ず王女として宮殿に帰れる時が来るわ。その日まで心を強く持っていなさい。
 エリザベスは母の言葉を信じ、父の帰りを待ち続けた。聖域の中はとても寒く、昼間でも月のない夜のように暗かった。エリザベスは寒さや恐怖を忘れるために、妹たちをあやして遊んでやった。
 そして、その日々の中で、弟が生まれた。
 ヨークの王の長男エドワードは、王宮ではなく暗い寺院の中で、父王に見守られることなく誕生した。
 それから数ヶ月後、母の予言どおり父は戦に勝ち、再び王となってエリザベスたちのもとに帰ってきた。エリザベスは王女としてまた宮殿に暮らし、弟のエドワードはプリンス・オブ・ウェールズになった。
 聖域のエドワード。人々は弟をそう呼んだ。神に見守られて生まれてきたこの王子には、生涯、神のご加護がついてまわることでしょう。
 今、そのエドワードはロンドン塔にいる。もう一人の弟王子とともに、王位からも母親からも引き離されて。


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