テューダーの薔薇 [ 1−4 ]
テューダーの薔薇

第一章 宮廷 4
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 ロンドン市街に出た翌日、エリザベスはリチャードに呼び出された。
 案内されて入った部屋は、これまでとは違っていた。リチャードはやりかけの仕事も持たずにただ座っており、エリザベスが近くに来て一礼すると、「掛けてくれ」と前の椅子を示した。
 エリザベスが言われたとおりにすると、リチャードはすぐに口を開いた。
「昨日はわたしの配慮が足りなかった。きみを危険な目に遭わせてすまない」
 エリザベスはとっさに返事ができなかった。確かに市街地に連れ出したのはリチャードだが、話をする場を求めたのはエリザベスのほうである。まさか謝られるとは思わなかった。
「いいえ、陛下」
「今後はあのような場所に呼び出したりはしない。きみのほうでも、人目の多いところに出るのは控えてほしい」
「そのつもりですわ」
「セシリーにも伝えておいてくれ」
「かしこまりました」
 エリザベスは唖然としながら、それを顔に出さないように答えた。
 昨日の一件からリチャードが考えたのは、エリザベスとセシリーの身の危険だけなのか。もちろん、リチャードは分別のない子どもではない。市民たちが王である自分よりも姪に歓声を浴びせたからといって、機嫌を損ねるようなことはないに決まっている。
 ただ、あまりに無頓着なのも考えものだ。
 エリザベスはリチャードの顔を見た。瞳はいつも何かに悩んでいるように暗く、口元にはほんのわずかな微笑もない。
 少しは笑えばいいのに、と思う。近くで見ると顔だちは整っていて悪くないのに、まったく人好きがしないのはこの表情のせいだ。市民たちの前で少しでも笑みを、あるいは愛嬌のある顔を見せれば、彼らの反応もだいぶ違ってくるはずである。それなのにこの人は常に無表情を崩さない。ただでさえ、年端もいかない甥から王位を奪ったことで、街での心証は良くはないだろうに。
 エリザベスの知ったことではないと思いたいところだが、そうもいかない。リチャードが王位を守りきれなくなった時、まっさきに担ぎ出されるのは弟たちなのだ。
「それで、きみの話は」
 リチャードが話を変えた。
 弟たちを争いに巻き込みたくないから、臣民にもう少し愛想良くしろ、とも言えずにいたエリザベスは、すぐに反応できなかった。
「話――」
「昨日はそれどころではなくなってしまっただろう。呼び出したのは続きを聞くためだ」
 エリザベスは再び唖然として、リチャードの顔を見た。リチャードもこちらを見ていたので、真正面で見つめあうかたちになってしまい、慌てて目を伏せる。
 これは、誠実に扱われていると思って、喜んでいいのだろうか。
 いずれにしろ、降ってわいたようなせっかくの機会だ。エリザベスは姿勢を正して微笑み直し、今度はしっかりと、リチャードの目を見た。
「昨日も申し上げましたけれど、わたしとセシリーに弟たちの世話をさせていただきたいのです。王妃さまがご回復なさるまでの間だけで良いのです」
「アンはだいぶ持ち直してきている。数日のうちにきみたちにも会うことができるだろう」
 エリザベスは苛立ち、それを表に出さないよう必死でこらえた。
「――まあ、それは良うございましたわ」
「話はそれだけか」
 リチャードは見下したり勝ち誇ったりした様子もなく、あくまで生真面目な表情を崩していない。それがかえって癇にさわり、エリザベスは微笑を保つのに苦労した。エリザベスの話はわかっていて、答えも決まっていただろうに、何のためにわざわざ時間をつくって呼び出したのだ。
 苛立ちを抑えながら、続きを考えた。弟たちの件が通らないのはわかっていた。ならば今日は、もう一つの話だけはしっかり伝えておこう。
「別のお願いもあるのです、陛下。こんなことを申し上げていいのかわかりませんけれど」
「構わない。言ってみなさい」
「わたしに、縁談を世話していただけないでしょうか」
 エリザベスはわざと軽々しく笑みを浮かべた。あからさまに過ぎるかもしれないが、政治的に無知な小娘を演じるにはちょうどいい。
 思っていたとおり、リチャードは眉をひそめた。
「きみが自分から言い出すことではないだろう」
「存じておりますわ。でも、わたしももう十八ですもの。このまま年ばかりを重ねていくのかと思うと、いてもたってもいられなくて」
「きみには婚約者がいたはずだが」
「フランスの王太子さまには袖にされてしまいましたわ」
「ヘンリー・テューダーは」
「――ああ、あの方」
 エリザベスは、いま思い出したのだと言わんばかりに、そっけなく肩をすくめた。
「母の気まぐれにも困ったものですわ。ウェールズから出て来た、ランカスター家の使用人の子孫だなんて。父が生きていたら激怒したに違いありませんのに」
「きみは、ヘンリーの妻になりたくないのか」
「なりたいはずがございません。わたしの望みにはまったく構わず、母が決めたことですもの」
「相手がイングランドの王でも?」
「ヘンリーは王ではありませんわ」
 エリザベスは思わず本音を言った。
 ヘンリーは敵方ランカスター派の、それも母方から庶流の血を引いているだけの後継者だ。ヨーク家の王女として育ったエリザベスが、彼をイングランド王として認められるはずがない。
 エリザベスにとって正統のイングランド王は、目の前にいるリチャード三世でも、かわいそうな弟のエドワード五世でもない。太陽のように強く美しかった父、エドワード四世ただ一人だけだ。
 父が生きていてくれさえしたら、エリザベスはこんなところで、こんな立ち回りを演じずに済んだ。母と弟たちが引き離されることもなく、妹たちも内乱の恐ろしさを知らずに、宮廷で伸びやかに育つことができたのに。
「あいにく、きみの望みは叶えてやれない。きみを嫁がせるには母上の賛成が必要だ」
「――ええ、そうでしたわ」
 聖域を出る際に、母がリチャードと交わした約束の一つだ。リチャードは母の許しを得ずに、エリザベスやセシリーを結婚させることはできない。
 エリザベスは残念そうなそぶりを見せつつ、心の中で一息ついた。ヘンリーとの結婚に興味がないことは、なんとかリチャードに伝わったはずだ。



 王妃の部屋に招かれたのは、一日のうちでいちばん暖かい時だった。エリザベスとセシリーはこの日のために準備した正装で、年配の女官に導かれてそこに向かった。
 王妃はロンドンに移り住む以前から健康を害しており、宮殿でもほとんどの時間を病床で過ごしている。そのため、居所は宮殿でもっとも静かな場所にあった。使用人は年配の落ち着いた者ばかりで、主人の目がないところでも無駄口はいっさい叩かない。調度や内装は質素で清潔に保たれている。その場所に近付いただけで、独特の澄んだ空気が感じられた。
 エリザベスとセシリーは王妃の居間に通された。日当たりのいい場所に置かれた長椅子に、小柄な女性が座っているのが見える。二人はその手前で立ち止まり、膝を折った。
「王妃さま、レディ・エリザベスとレディ・セシリーです」
 女官が二人を紹介してくれた。
「顔を上げて、掛けてちょうだい。エリザベス、セシリー」
 エリザベスは伏せていた目線を上げ、セシリーもそれにならった。
 王妃アンはやわらかそうな長椅子の上に腰かけて、微笑みをこちらに向けていた。寝間着ではなくきちんとした衣装をまとい、くすんだ金髪もていねいにまとめられている。
 エリザベスとセシリーは順に歩み寄って、王妃の手にキスをした。小柄な王妃は遠目には幼い娘のように見えていたが、近くで顔を見ると疲れや病みやつれが目立っていた。頬にキスを返されて軽く抱きしめられた時は、痩せた体の骨があたって痛いほどだった。
「来てくれて嬉しいわ。二人とも、とても綺麗になって」
 二人が向かいに腰を下ろすと、アンはさっそく口を開いた。部屋の中には他にも数名の侍女がいて、少し離れたところで会話を見守っている。
 エリザベスはにっこり笑った。
「お目どおりが叶って嬉しく存じます。お加減はもうよろしいのですか? ずっとご心配申し上げておりました」
「ありがとう。だいぶ良くなったのよ。なかなか会うことができなくてごめんなさいね」
「いいえ。臥せっておいでだったというのに、たびたびの贈り物をありがとうございました」
「せっかくあなたたちが来てくれたのに、こちらに呼べなかったお詫びのつもりよ。喜んでもらえたのなら嬉しいわ」
 アンは微笑みを絶やさずに、穏やかに話を続けた。二人を懸命に気遣おうとしているのが、言葉の端々から伝わってくる。エドワード四世の娘たちに不快な思いをさせてはならないとわかっているのだ。
 アンは、イングランド北部に広大な所領を有していた大貴族、ネヴィル家の令嬢である。アンの父、ウォリック伯リチャード・ネヴィルはエドワード四世の従兄にあたり、その即位にあたって最大の助力となった。王がいるのではなく、ウォリックが王をつくったのだ、と言われたほどの実力者である。
 その娘であるアンは、見たところ穏やかで控えめな、平凡な貴婦人だった。物腰はやわらかく、目線も仕草もどこか弱々しい。病に倒れる前もさほど快活ではなかったのだろう。口に出す言葉には険がないかわりに、目立つような機知もない。相手の顔色を見ながら懸命に話し続ける様子は、田舎から出てきたばかりの娘のようだ。
 宮廷にいる限り、王妃とは良い関係を保たなければならないが、この様子ではそれほど難しくはなさそうだ。
「何か困っていることはないかしら。身のまわりのことは足りているの?」
「もちろんですわ。とても良くしていただいています」
「それなら良かったわ。あなたたちが来てから、宮廷が明るくなったと聞いているのよ」
「それは陛下のおかげです。わたしたちのために夜会や行事を増やしてくださったからですわ。ねえ、セシリー」
 エリザベスは隣の妹に目をやった。セシリーは声をかけてやらないと、すぐに一人で黙り込んでしまう。
「――はい。とても楽しいです、王妃さま」
「嬉しいわ。ほんとうは、小さい妹さんたちや、お母さまにも来てもらえると良かったのだけれど」
 エリザベスは苦笑しそうになるのをこらえた。
 母がこの宮廷に来ないのは、アンに会いたくないからだ。自分のものだった王妃の座に他人がいるのに耐えられないのだ。などということを、この弱々しい王妃に言えるわけがない。
 エリザベス自身も、何も含むところがないと言えば嘘になる。母は低い身分から王妃になったぶん、その名にふさわしくあるよう常に気を配っていた。もともとの美貌にさらに磨きをかけ、廷臣や外国人の視線を惹きつけた。フランスやブルゴーニュの文化を取り入れて宮廷を華やがせ、社交界の女主人として人々をもてなし、王家の評判を上げようと心を砕いた。そして、いつも父の隣に連れ添い、それを誇りにしていた。
 エリザベスは懸命に感情を抑えた。ここにやって来たただ一つの目的を忘れてはいけない。
「王妃さま、一つお願い申し上げてもよろしいでしょうか」
 良い返事は期待できないが、王妃にも一度は伝えておくべきだろう。
「もちろんよ、エリザベス」
「ロンドン塔にいる弟たちに会いに行きたいのです。もう一年かそれ以上、顔を見ていないものですから」
 アンは微笑から真顔になった。戸惑うのでも、うろたえるのでもなく、落ち着いた様子で何か考えているようだった。
「リチャードには頼んだの?」
「はい、王妃さま」
「あの人はなんて?」
「都合が整いしだい、会わせてくださると」
「それなら大丈夫よ。リチャードがそう言ったのなら、必ず会いに行けるわ」
 アンはこの時だけ、妙にきっぱりと言い切った。

 やはり、これといった収穫はなかった。
 アンは、弟たちには一度も会っていないと言っていた。アンがロンドンに着いた時、二人はすでにロンドン塔にいたし、アンは疲れから具合を悪くしていて、義理の甥たちに構うどころではなかったようだ。
 エリザベスたちが王妃の居所を出た後、入れ違いにやってきた一人の少年の姿が見えた。身なりからして使用人ではないが、供は連れていない。
「どなたですか?」
 エリザベスは小声で女官に訊いた。すでに歩き出していたので、件の少年からはやや離れている。
「ジョンさまです。陛下のご子息でいらっしゃいます」
 エリザベスは足を止めた。
 少年の顔はここからはよく見えないが、背丈からすると十代の前半だろうか。エリザベスの弟たちと同じ年ごろだ。
 アン王妃には子どもは一人しかいない。王太子としてプリンス・オブ・ウェールズに叙せられたその子は母親と同じく病弱で、ロンドンではなく北部のミドゥラム城で養育されている。
 そうすると今そこにいるのは、王太子の異母兄弟ということだろう。めずらしいことではない。エリザベスにも――いやエリザベスたちにこそ、母親の違う兄弟や姉妹が大勢いるはずである。
「王妃さまのお見舞いに来られたのでしょうか」
 エリザベスは再び歩きながら訊いた。少年の姿はすでに見えなくなっている。
 セシリーも気になるらしく、何度もその場所を振り返っている。
「ジョンさまは母君を亡くされてから、王妃さまに引き取られてお育ちになったのです。王妃さまも実のお子さまのように慈しまれて、お加減の良い時には必ずお呼びになるのですわ」
「そうなのですね」
 エリザベスは適当に相槌を打った。
 王に庶子がいるのはめずらしくはないが、それを我が子のように扱う王妃というのは、どうなのだろう。エリザベスの母は、他の女性のことは気にしない風を装っていたが、内心はおそらく穏やかでなかったと思う。自分がただ一人の妻であり、息子が嫡男であることを、常に意識していた。
 しかし、母は王妃でも妻でもなくなり、弟は王太子でも嫡男でもなくなった。今はエリザベスも弟妹たちも、あのジョンという少年と同じ立場だ。父が王であるという理由だけで、宮廷で養われている私生児なのだ。考えまいとしていたことを考えずにはいられなくなる。
 エリザベスとセシリーはほとんど口をきかずに、王妃の居所を後にした。


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