テューダーの薔薇 [ 1−3 ]
テューダーの薔薇

第一章 宮廷 3
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「レディ・エリザベス・プランタジネット。お入りください」
 エリザベスは従僕に案内されて一室に入った。宮廷に来てすぐリチャードに会ったのと同じ部屋である。再びここに来る許可を得るために、何度も使いをやって交渉しなければならなかった。
「陛下」
 エリザベスはリチャードの前まで来ると腰をかがめた。
 リチャードは以前ここで会った時と同じように、机の向こうに座ってこちらを見ていた。羊皮紙が置かれたままになっているのも、エリザベスの掛ける場所が用意されていないのも同じだ。政務の合間に、従僕から伝言を聞くようなかたちである。
 そのほうがいい、とエリザベスは思った。姪だからといって、別室に通されて歓待されては調子が狂う。ゆっくり時間をとって、天候の話から始めるような間柄でもない。このくらい徹底して事務的に扱われるほうが、これからの話にも取りかかりやすくなる。
「お時間を割いていただいて感謝いたします。王妃さまのお加減はいかがですか?」
 エリザベスは姿勢を正し、まずは礼儀正しく切り出した。
「変わりない。きみたちに会えないのをすまなく思っている」
「お気遣いは無用だとお伝えくださいませ。わたしもセシリーも、王妃さまのご快癒をいちばんに願っております」
「わかった。本題は?」
 あくまでも用件だけで終わらせるつもりらしい。
 エリザベスは、王妃の位にいたころの母の顔を思い出しながら、あらためて笑みを浮かべた。
「母から手紙が参りました」
 リチャードがエリザベスを見た。こわばったような表情の中で、目線だけが鋭く動いている。
「弟たちに宛てたものが同封されていました。手渡してやりたいので、ロンドン塔に入るご許可をいただきたいのです」
 嘘ではなかった。母からエリザベスに届いた手紙には、弟たちにはもう会えたのか、せめて何か聞き出せてはいないのかと、せき立てるように書き連ねてあった。二人の弟それぞれに対する手紙が添えてあったのも本当だ。
 エリザベスは微笑を崩さなかったが、リチャードはそっけなく視線を外した。
「使用人に届けさせてくれ。二人に宛てたものはロンドン塔にじかに送ってくれればいい。母上はご存じなかったか」
「わたしの手で届けてやりたいのですわ。弟たちがどんな顔でそれを受け取り、どんな顔でそれを開け、どんな顔でそれを読むのか、この目で確かめて、母に書いて知らせてやりたいのです」
「なぜ?」
「わけをお話ししなければなりませんの? 母親は、離れて暮らしている息子のことなら、食事の内容から爪の長さまで知りたがるものですわ」
 弟たちからの手紙をいちばん読みたがっておりますが――という言葉は、寸前で止めた。聖域にいたころから母が送り続けていた手紙に対して、なぜ弟たちからの返信がないのかという問いは、後のカードとして取っておくことにする。
 リチャードはすぐには答えようとしなかった。その間もエリザベスは、思案にふける顔を見つめ続ける。
 本当に、見れば見るほど父には似ていない。
 父は長身でがっしりとしていたが、この人はどちらかというと線が細い。
 父は輝かんばかりの美しい金髪を持っていたが、この人の髪は暗闇のような黒である。
 六年前に亡くなったもう一人の叔父、クラレンス公ジョージは、父によく似ていた。金髪で背が高く、人なつこい笑顔でまわりを惹きつけていた。
 似ている兄弟というものは、かえっていくつかの相違が気になってしまうものなのだろうか。ジョージは兄の王位を妬んで欲しがり、そのために背信を繰り返し、最期は反逆罪で処刑された。彼もまた、ロンドン塔で命を落とした王族の一人だ。
 皮肉なものだ、とエリザベスは思う。王位を求めて父を裏切り続けたジョージは、結局それを手に入れるばかりか命さえ失った。一方で、父に忠誠を尽くし続けたリチャードが、父の死後こうして王位についているのだから。
「――手紙を渡すだけでいいのか」
 長い沈黙のあと、リチャードは低い声で訊いた。許してもらえるのかと思いかけたが、すぐに次の問いが続いた。
「二人に手紙を渡して、母上にその様子を知らせてさしあげる。きみが望んでいるのはそれだけか」
 エリザベスは微笑んで肯定しようとしたが、少し迷ってやめた。どうせ見透かされているのだ。
「正直に申し上げますわ。ロンドン塔で二人に会うだけでは足りません。わたしは弟たちを、母のところへ返してやりたいのですわ」
「母上がそう仰ったのか」
「いいえ。でも考えていることくらいわかります。もう一年も会っていないのですもの。母も弟たちの顔を見たいに決まっております」
「――顔を見たい」
 リチャードは何気なく繰り返した。
 エリザベスは少し焦った。すらすらと話し続けるうちに、余計なことを口に出さなかっただろうか。弟たちの身を案じ、母の心情を思いやる、無知な娘の枠からはみ出た言葉はなかっただろうか。
 エリザベスは急いで続けようとしたが、笑みを浮かべ直してから、落ち着いて口を開いた。
「陛下は、誤解なさっているのではないでしょうか」
 ゆっくりと会話の向きを変えた。
 リチャードは押し黙ったまま、暗い目だけをこちらに向けている。エリザベスの言葉の一つ一つを、その目で見て確かめるかのように。意に染まないものは混ざっていないか、どこかに穴が隠れていないか。
「母が望んでいるのは、弟たちとまた一緒に暮らすことだけです。用意していただいたお屋敷で、下の妹たちと幸せにしておりますもの。あとは弟たちが帰ってきてくれればいいのですわ」
 だから、もう二度と乱を起こすことなどないのです。言外にそれが伝わることを祈って、エリザベスは再び微笑んだ。
 これは母ではなく、エリザベスが望んでいることだ。母が本当に何を考えているのかは、エリザベスにもわからない。
 だが、それをリチャードに悟られてはいけない。
「手紙は使用人に渡してくれ。必ずすぐにロンドン塔に届けさせる」
 エリザベスは笑みを消し、悲しげな顔をつくった。
「会わせていただけませんの?」
「その機会はまたあらためて設ける。手紙だけでも早く読ませてやりたいだろう」
 エリザベスは外から見えないように、軽く唇を噛んだ。言い返す言葉がいくつか浮かんできたが、どれも呑み込んだ。議論になっても勝てる見込みは薄いばかりか、逆にこちらの弱みを見せてしまいかねない。
 リチャードはエリザベスの反論くらい易々と片づけてしまえるだろう。父が亡くなった後の混乱の中、戦闘に持ち込むこともなく王位を手に入れた人なのだから。
 エリザベスの中に、ここしばらく鎮まっていた怒りがよみがえってくる。
 父はこの人を信じて弟のエドワードを託したのに、この人はその弟から王位を奪い取ったのだ。エドワードは当時たったの十二歳だったのに。武器をとって戦うことも、陰謀をめぐらせることもできない子どもだったのに。
「かしこまりました。お沙汰をいただける日を楽しみにしておりますわ」
 エリザベスは微笑むと、膝を折って立ち去ろうとした。
「エリザベス」
 が、リチャードに呼び止められた。翻していた裾を戻し、再び向き直る。
「はい、陛下」
「妹と一緒でない時は付き添いを連れてきなさい。宮殿の中とはいえ一人で歩き回るものではない」
 エリザベスははじめ、何を言われたのかわからなかった。
 しばらくしてその意味がわかってくると、先ほどとは違うたぐいの、もっと他愛ない怒りが湧いてきた。なぜこの人に、こんな小言を言われなければならないのだ。
「お気遣いありがとうございます。でも、それには及びませんわ。もう人目を気にするような高貴な身分にはありませんもの」
「そういう問題ではない。――婚約者のある身だろう、きみは」
 エリザベスは肩をすくめた。
「ええ。おかげさまで物心ついてから、婚約者を切らしたことは一度もございませんわ」
 結婚の意味もわからない幼いころから、エリザベスは父の政略の駒として、婚約と解消を繰り返してきた。相手は大貴族の親戚筋であったり、敵国フランスの王太子であったりした。
 政治情勢によって結婚相手が変わることはめずらしくない。いま現在エリザベスの夫候補となっているのは、ランカスター派の後継者と目され、そのために大陸のブルターニュに亡命中の、リッチモンド伯ヘンリー・テューダーである。
 エリザベスはさらに皮肉を言おうとしたが、やめた。憎まれ口を叩いてリチャードに嫌われては元も子もない。かわりに、今日いちばんの笑顔を見せた。
「わかりました、陛下。気をつけますわ」
 エリザベスは再び膝を折り、立ち去ろうとした。その時、急に一つの疑問が浮かんできて、足が止まる。机上に落とされたリチャードの目をじっと見つめる。
 ――わたしがヘンリーと婚約しているから、信用していただけないのでしょうか。
 頭の中で言葉にしてみたが、それを口に出すことは結局しなかった。

 居室に向かって歩きながら、先ほど浮かんだ疑問について考えてみた。
 リチャードは乱を起こした母のことは信用していないが、姪であるエリザベスのことまでは疑っていないはずだ。だからこそ母は、弟たちを取り戻す交渉のために、エリザベスを宮廷に入れたのだから。根回しや駆け引きに長けた他の親族ではなく、ただの小娘に過ぎないエリザベスを。
 ヘンリーとの結婚は、母親どうしが勝手に決めたことだ。エリザベスは彼と会ったことはもちろん、手紙を交わしたことすらない。結婚とは当人が、それも女が自分で望んでするものではないのだ。これまでの婚約もそうだった。リチャードにもそれくらいわかっているはずである。
 リッチモンド伯ヘンリー・テューダー。
 エリザベスは、久しぶりに思い出した婚約者の名前を、頭の中で繰り返した。
 ヘンリーはランカスター家の傍系だが、今や唯一の後継者と呼ばれている。ランカスター本家のヘンリー六世とその嫡男が、先の内乱ですでに世を去ったからだ。
 去年のクリスマス、エリザベスがまだ聖域にいたころ、ヘンリーはブルターニュの大聖堂で、自分こそが正当なイングランド王であると宣言した。同時に、王位についた暁には、ヨーク家のエドワード四世の長女――エリザベスを王妃にすると誓いを立てた。この結婚を、ランカスター家とヨーク家の和平とするのだと。
 これはエリザベスの母と、ヘンリーの母親――ランカスター家の庶流の血を引くマーガレット・ボーフォートが謀ったものだ。母はリチャードに対する反乱を成功させるため、少しでも多くの助力を求めていた。ランカスター家の縁者であろうとためらわなかった。
 去年秋に起きた反乱の際、ヘンリーとその支持者は大陸から船を出し、反乱に与するためイングランドに上陸しようとしたそうだ。だが結局、不利を悟って断念し、ブルターニュに引き返していった。反乱は失敗に終わり、首謀者であった公爵は処刑された。その直後に起きたいくつかの反乱も鎮圧された。エリザベスの母は敗北を認めて聖域から出てきたし、ヘンリーの母マーガレットは反乱に関わったかどで幽閉されている。
 リチャードの王位は、ひとまず安定したと言っていいはずである。再上陸の兆しも見せていないヘンリーのことは、それほど警戒していないと思ったのだが。
 ましてや、取引道具に過ぎないエリザベスのことまで疑わなくてもいいはずだ。リチャードはすでにエリザベスを自分の手元に置いている。その気になれば他の相手に嫁がせることもできなくはないのだから。
 エリザベスはため息をついた。こんな理由で弟たちに会わせてもらえないのではたまらない。次にリチャードと話す機会が来たら、ヘンリーとの結婚は少しも望んでいないとほのめかしておこう。実際にその通りなのだから。



 次の機会はなかなか訪れなかった。
 リチャードは社交の場にはほとんど姿を見せないし、自分の時間というものをほとんど持たないようである。会いたければ使いを出して約束を取り付けるしかないが、それにもなかなか良い返事がもらえない。はじめのうちは避けられているのかとも思ったが、どうやら本当に多忙なようだ。
 あきらめるわけにはいかなかった。とにかく、弟たちを取り戻すには、身内の情に訴えるしかないのである。
 幾度もの落胆を経てエリザベスが苛立ち始めたころ、使者はようやく、それまでとは違う返事を持ち帰ってきた。
「陛下は明日の午後、ロンドン市内を視察なさるので、同行したければ許すとのことでした」
「外で席を設けていただけるということ?」
「いいえ。騎馬でご移動の間だけお話しになれるそうです」
 そんなに時間が惜しいのか、と呆れたが、ようやく手に入れた交渉の場である。市民や護衛の目と耳があるだろうが、その中で話せるだけのことを話すしかない。

 馬に乗るのは宮廷にやってきて以来だった。
 ロンドンの市街地を通るのも、父が亡くなってからはじめてのことだ。エリザベスたち家族が聖域にいたころ、この街も大変な騒ぎになっていた。一年の間に二人の新王を迎え入れ、内乱の再発に怯えていたであろう都は、しかし、テムズ川のほとりの光景と同じくらい、以前と変わらずに穏やかだった。
「陛下」
 エリザベスは馬を操って、リチャードの隣に並んだ。
「馬上から失礼いたしますわ。でも約束ですから、お許しいただけますわね?」
「構わないが、到着までに済むように頼む」
 エリザベスはにっこり笑った。もちろん、切り出し方は考えてある。
「わざわざお時間をいただいたのは、心苦しく思っていることをお伝えしたかったのです。わたしたちは王妃さまにお仕えするために宮廷に参ったのに、まだ何ひとつお役に立てていません。それなのに、良いお部屋をお借りして、夜会に出していただいて、まるでお客さまのようですわ」
「そんなことは気にしなくていい」
「そういうわけにも参りませんわ。それで、思ったのです――わたしとセシリーでお役に立てることが、他にないものかと」
 リチャードは前を向いたまま、まったく顔色を変えない。だが、この先の話はわかっているはずだ。
「ロンドン塔には、弟たちの世話をしてくださる方々が、たくさんいらっしゃるのでしょう?」
「そうだな」
「その中に、わたしとセシリーを加えていただけないでしょうか。手のかかる弟たちですけれど、姉であるわたしたちなら慣れておりますわ」
「きみたちが気にすることはない。アンの容態が落ち着くまで、宮廷でゆっくりしていればいい」
 エリザベスは笑みを崩さなかった。予想していた通りの返事だった。
 ここで引くわけにはいかない。まわりに聞かれているぶん話せることが限られてくるかわり、約束を得ることができれば大勢の証人も同時に得られるのだ。
 エリザベスは先を続けようとして、にわかに上がった歓声に遮られた。路地のあちらこちらに人だかりができて、エリザベスたちのいる騎馬の列を見て、興奮した様子で声を上げている。
 エリザベスは話すのも忘れて、集まってきた市民たちを見つめた。リチャードが即位してから半年以上経っている。市街に出るのははじめてでもないだろうに、いまだにこれほど歓迎されるものなのか。
「手を振ってやるといい。あれはきみに対する歓声だ」
 エリザベスはぎょっとして隣のリチャードを見た。よく聞いてみると、確かに彼らはエリザベスという名を叫んでいた。エドワード四世の名前も聞こえる。おそるおそる手を挙げてみると、歓声はさらに大きくなった。
「エリザベス王女、おかえりなさい」
「おかえりなさい!」
「ロンドンの街に祝福を!」
 歓声が歓声を呼び、多くの人が次々に飛び出してきて叫んでいる。みな、エリザベスのことを王女と呼び、父が生きていたころと同じように敬愛を示してくれた。
 市民たちは素直だ。父エドワード四世は、人目を惹く容姿とおおらかな人柄で、宮廷の外でも愛されていた。ここにいる人々はその父のことを覚えていて、娘であるエリザベスにも歓声を送ってくれるのだ。
 弟たちの話どころではなくなってしまった。いつのまにか路地の両端に、ずらりと市民が並んでいる。騎馬の列は速度を落として、その間を進むはめになった。
「エリザベス王女!」
「王女さま、ああお懐かしいこと」
 馬を止め、リチャードが建物の中に姿を消しても、人々は散ろうとしなかった。むしろエリザベスが馬から降りたことで、その場所めがけていっせいに押し寄せてくる。護衛の兵士たちがまわりを囲んでくれなければ、エリザベスは人の海に溺れていただろう。
「王女さま。お父上のエドワード王のこと、お悔やみ申し上げます」
 近くにいた一人がそう言うと、同情の色がいっせいにまわりに広がった。
「大変でしたね、王女さま」
「お気の毒に」
「怖い思いをなさったでしょう!」
「本当におかえりなさい、エリザベス王女」
 王女ではなく、レディと呼ぶようにと命じたかったが、群衆の声が大きすぎて遮れそうになかった。
 そもそもエリザベスは、これほど多くの市民を前にしたことがない。実際に王女だった時でさえ、ここまでの歓声は上がらなかったと思う。庶子に落とされたことへの同情と、エドワード四世の治世への懐かしさが、彼らをいっそう煽っているのだろうか。
「ヨークの白薔薇に幸あれ!」
「ロンドン塔の二人の王子さまにも、神さまのご加護がありますように!」
 寒気が走った。
 この興奮した人々が、エリザベスたちの味方であることは間違いない。すぐ近くにリチャードが、エリザベスの弟に代わって即位した王がいるというのに、エリザベスを王女と呼び、弟たちを王子と呼んでいる。ヨークの白薔薇を讃えている。
 それは弟たちの身にとって、良いことなのか、悪いことなのか。
 エリザベスは護衛の一人に頼み、建物の中に入ることにした。護衛たちの間に隠れるようにして歩き始めると、惜しむような歓声がどっと追いかけてくる。
 とにかく、もう市街地に出るのはやめようと思った。


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