テューダーの薔薇 [ 1−2 ]
テューダーの薔薇

第一章 宮廷 2
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 雲の厚い、気の滅入るような朝だった。エリザベスはセシリーと一緒に宮殿を出て、テムズ川に沿って散歩に出かけた。
 庶子の身分に落とされたのも、悪いことばかりではない。妹とこうして二人で出歩けることもその一つだ。
「変わっていないわね」
 川やそれに沿って続く景色を見つめて、エリザベスはつぶやいた。
「そうね。昔のままだわ」
「昔と言っても、まだ一年も経っていないのよ」
「そうなのね。とてもそんなふうに思えないけれど」
 セシリーは首を動かして、吸い寄せられるように景色に見とれている。
 父が亡くなってすぐ、エリザベスとセシリーは宮殿を出て、母や妹たちと寺院に身を寄せた。上の弟のエドワードが、摂政に指名されたリチャードに捕らえられたと聞いたからだ。エドワードは当時ウェールズのラドロウ城で教育を受けており、父の訃報を受けてロンドンに向かう道中だった。
 庇護権を持つ寺院は、武力や政治権力の及ばない聖域である。母は以前にも戦乱から身を守るために、その庇護を頼ったことがあった。エリザベスはまだ幼かったが、その時のことはよく覚えている。
 下の弟のリチャードも聖域に入った時は一緒にいたが、ロンドンに到着した摂政の使者がやってきて、彼だけを連れ出していった。エドワード五世が廃位されたのはその後しばらくしてからのことだ。
 それから一年近く、エリザベスと妹たちは一度も外に出ることなく、寺院に身を潜めていた。弟たちの王位を取り戻そうと戦った母とともに。その母が負けを認めてはじめて、エリザベスたちは聖域を出ることができたのだ。
 一年ぶりに目にするロンドンの風景は、父の生前と何も変わっていなかった。国王が二人も入れ替わり、その過程で何人もの人間が命を散らしたというのに。
「外は、いいわね」
 セシリーが飾りのない声でつぶやいた。
 エリザベスも思わずうなずいた。出られることになった理由が母の敗北でも、外の空気の魅力には屈せずにはいられない。一年近くもの聖域での暮らしは長すぎたのだ。下の三人の妹たちも、母とともに郊外に移れることを喜んでいた。今なら声を上げてはしゃぐことも、外で遊び回ることもできる。
 エリザベスは歩き続け、やがて無意識に足を止めた。テムズ川を挟んで向こうに、石造りの堅牢な城が建っているのが見える。
 ロンドン塔である。
 ウエストミンスターとはまた別の、ロンドンでの王族の住居である。エリザベスも幼いころ暮らしたことがある。
 それにもかかわらず、こうして外から見ると暗い印象を受けるのは、この場所で死んだ何人かの王族のことを思い起こさせるせいだろうか。
 ランカスター家の王ヘンリー六世もまた、十数年前にここで生涯を閉じた。在位中から心の病を患っていた元王は、内乱のさなかで病状を悪化させ、最期は自分がどこにいるのかさえわからない状態だったという。
 そのヘンリー王の死で、父の王位は安泰となったはずだった。それなのに今また同じ場所に、かつてのイングランド王が幽閉されている。
「弟たちのことを考えているの? エリザベス」
 セシリーが隣で足を止めて訊いた。
「ええ」
 エリザベスとセシリーは、並んでロンドン塔を見つめた。弟たちはあの中にいるのだ。ウエストミンスター宮殿から歩いて来られる距離だというのに、姉であるエリザベスたちが会いに行くことができない。
 リチャードに希望は伝え、その場で承諾はもらった。ただし、あちらの都合が整ってからという条件付きで。王位から遠ざけられた二人の少年に、どんな都合があるというのだろう。
 それから三日が過ぎたが、リチャードからはなんの音沙汰もない。すぐに会わせてもらえるとは思っていなかったが、二人がいる場所を外から見ていると、どうしても考えてしまう。
 上の弟エドワードは今年で十四歳、下のリチャードは十一歳になる。王位より何より、外に出て母に会いたいはずだ。特にエドワードはロンドンから離れて暮らしていたので、父の死後一度も家族と会っていない。
「どうして陛下は、二人を返してくださらないのかしら。もう王位を奪われる心配はなくなったのに」
 セシリーが言った。
 エリザベスは向きを変え、再び歩き始める。
「お母さまが、エドワードの王位をあきらめていないからよ」
「そ、そうなの?」
「少なくとも陛下はそう思っているわ。エドワードを取り戻したらすぐに軍を起こして、王位を奪い返すつもりでいると」
「でも、エドワードにはもう王位を継げないのでしょう。わたしたちは私生児だもの」
 セシリーがエリザベスを追いかけて尋ねた。小さな声ながら、押し殺したような怒りが含まれている。
「そうよ。お母さまもそれはわかっているわ」
「それならもうあきらめるのではないの? お母さまは、リチャード王の統治を一度は受け入れたのでしょう? 今さら嫌がったら、また戦になってしまうわ」
「セシリー、声を落として」
 エリザベスは周囲に目をやり、近くに他人がいないことを確かめた。
「あなたはどうしたい? セシリー。弟をまたイングランド王にしたい?」
 セシリーは目を見開き、慌てて答えた。
「いいえ。エドワードはかわいそうだと思うけれど、危険な目に遭わせるよりは今のままのほうがいいわ」
「わたしもそうよ。お母さまだって、あなたと同じように考えていると思うわ」
 エリザベスはにっこり笑ったが、頭の中では別のことを考えていた。
 王妃から愛人の地位に落とされ、息子たちの継承権を奪われても、母がすぐにあきらめるはずがなかった。実際、この一年間に起こった反乱のほとんどに母が関わっていた。母はもともとヨーク家の人間ではない。自分の息子を再び王位につけるために、宿敵ランカスター家の者と手を結ぶことさえ厭わなかった。
 そうまでして企てた反乱も相次いで失敗し、そのつどリチャードの王権がかえって安定していくと、母は次第に疲れていった。聖域から出られずにいたエリザベスも妹たちも同じだった。
 そこへリチャードから協定の申し出が来た。母が反乱に加担したことは問わず、娘たちともども無条件で宮廷に迎え入れるというものだった。母が別の住まいを望めばそれも許され、年長のエリザベスとセシリーだけが宮廷に入ることになった。すべてエリザベスの母が希望したことである。
 リチャードの立場としても、エリザベスとセシリーを無体に扱うわけにはいかない。エドワード四世の妻子と和解したことを示し、ヨーク派の結束を強めるためだ。エリザベスたちは宮廷で作法を学び、社交を楽しみ、そのうちリチャードが決めた相手と結婚するのだろう。
 母が何を考えているのかは、エリザベスにもわからない。弟たちを取り戻したら、セシリーが恐れているように、再び戦が起こるのかもしれない。
 ただ母は、一年間の義弟との戦いに疲れ果てていた。夫の死と、息子たちとの別離、幼い娘たちを連れての聖域での暮らし。絶え間なく持ち込まれる陰謀と駆け引き。そして敗北の知らせ。
 郊外での下の妹たちとの暮らしが、母を一時でも休ませてくれればいいと思う。そして弟たちが戻ってくれば、母は王位争いからも憎しみからも離れて、子どもたちとの穏やかな暮らしに戻ってくれるのではないか。
 だからこそエリザベスは、弟たちを取り戻したいのだ。弟たちを母に会わせたいのはもちろん、母を弟たちに会わせたい。そのためならなんでもできる。
 何も恐れることはない。聖域で外の状況もわからず、次に何が起こるのか怯えていた時よりも、今のほうがずっといい。



 エリザベスとセシリーが宮廷に来て五日目、二人を歓迎するための夜会が開かれた。エリザベスにとっては一年ぶりの、セシリーにとってははじめての社交の場である。エリザベスは緊張している妹の手を引いて、広間の中心を進んだ。
 国王夫妻の姿はない。リチャードは始めはいたようだが、エリザベスが確かめる前に消えてしまった。政務が忙しいのか、単に社交が嫌いなのか。あるいはその両方かもしれない。
 エリザベスとセシリーが並んでいると、見覚えのある廷臣が次々に声をかけてくる。
「レディ・エリザベス」
 にこやかに呼び止めた若い貴族を見て、エリザベスも笑顔になった。
「ごきげんよう、スクループ卿。ご無沙汰しておりましたわ」
「またお会いできて幸せですよ。妹君とははじめてお目にかかりますね」
 スクループ卿がセシリーを気遣ってくれたので、エリザベスはほっとして妹の背を押した。セシリーもつっかえながら言葉を押し出す。
「こ、こんばんは。セシリー・プランタジネットです。お会いできて、光栄です」
「トマス・スクループ。男爵です。お見知りおきを、レディ・セシリー」
 スクループ卿はセシリーの手を取って軽く口づけた。石像のように固まっているセシリーを見て、気さくに笑う。
「可愛らしい方ですね。それに姉君と同じくらいお美しい」
「妹は今日がはじめての夜会ですの。今後もお声をかけてやっていただけるとありがたいですわ。奥さまにもよろしくお伝えくださいませ」
「もちろんです。楽しい夜を。レディ・エリザベス、レディ・セシリー」
 スクループ卿が去っていくと、セシリーはエリザベスに寄りかかって、大きく息を吐き出した。まるで今まで呼吸を止めていたかのようだ。
「緊張した? 今ので良かったのよ」
「何を言ったのかほとんど覚えていないわ。どう答えればいいのかわからなかったし」
「ちゃんとできていたわよ。次からもわたしがまず最初に話すわ。それからお互いに紹介する。さっきのように直接あなたに話しかけてきたら、普通に答えればいいのよ」
「普通にって?」
「礼儀正しくしていればいいだけよ。無理に気の利いたことを言わなくていいわ。褒められたら素直にありがとうと言う。相手が女性なら、あなたもです、と褒め返すの。あとはとにかく、人の顔と名前と身分を覚えること」
「エリザベス、ここにいる人の名前をぜんぶ言えるの?」
「言えるわよ」
 エリザベスは父が亡くなる前年から社交界に出ていた。王家の長子として廷臣はもちろん、地方の領主やその家族、外国からの使者と話したこともある。
 きちんと社交を学んでおいて本当に良かった。そうでなければ、父も母もいないこの宮廷で、人見知りの妹を連れてとてもやっていけない。そう思うと同時に皮肉な気分になる。両親がエリザベスを社交界に出したのは、嫁ぎ先で王族としての務めを果たすためだ。同じイングランドの宮廷で、元王の庶子として立ち回るためではない。
 エリザベスは舞踏には加わらず、声をかけてくる出席者の相手をした。ほとんどの者はにこやかに話しかけ、二人が宮廷に戻ったことを喜んでくれたが、それ以上の会話はできなかった。また会えて嬉しいと口では言いながら、慎重にあたりさわりのない話題を選んでいた。かつては王女と呼んでいた庶子を、廃位された少年王の姉たちを、どこか扱いかねているようだった。
 弟たちのことを持ち出す者もいなかった。正直なところ、それを目当てに出席したのだが。二人の近況を知る者がいないか訊いてみたかったが、嗅ぎ回っているように思われそうでできなかった。会わせてもらう約束を得た後でそんなことをしては、リチャードを信用していないと取られかねない。
「レディ・エリザベス」
「ノーサンバーランド伯。ごきげんよう」
 エリザベスは話しかけてきた貴族に向かい、何度目かの礼をとった。
「ロンドンにいらしたのですね」
「ええ。おかげで、お二人を歓迎する場に居合わせることができました」
 ノーサンバーランド伯ヘンリー・パーシーは、使い込んだ社交用の笑みを浮かべた。パーシー家はエリザベスの父が王位につくはるかに前から、イングランド北部で優勢を誇っていた大貴族である。
「妹を紹介しますわ、伯爵。セシリーです」
 エリザベスは負けじと微笑み、妹を前に押し出した。
「レディ・セシリー。あなたがまだ幼いころ、お見かけしたことがございますよ。母君やご姉妹とともに庭園を歩いていらした」
「まあ」
 懐かしさで緊張がとけたのか、セシリーが嬉しそうに微笑んだ。
 反対にエリザベスは思わず身構えた。父が生きていたころの話を切り出されたのは今日はじめてだ。
「お美しいご婦人になられましたね。お二人がお戻りになったとあれば、宮廷もまた華やぐことでしょう」
「そうであることを願っていますわ。わたしたちは王妃さまにお仕えするために上がったのです。王妃さまの宮廷に少しでも華を添えることができれば幸いですわ」
 エリザベスは注意深く言葉を選んで、世辞をかわした。病気がちの王妃を押し退けて宮廷の女主人の座を奪うつもりなどないと、はっきりさせておかなければならない。
 伯爵は笑った。
「またお目にかかれることを願います。咲き初めの白薔薇のようなお嬢さまがた」
 最後の呼びかけに、エリザベスの全身がこわばった。
 白い薔薇はヨーク家の記章である。その言葉をエリザベスとセシリーへの賛辞に使ったのは、もちろん偶然ではないだろう。
 それは、エリザベスとセシリーが、つまりエドワード四世の子どもたちこそが、ヨーク王家の正嫡であるという――現王権への非難と取られかねない言葉である。
 何か気の利いたことを言ってかわそうとしたが、その前に伯爵は去っていってしまった。
 エリザベスは苦い後味を噛みしめて、去っていく背中を見つめた。味方であるという意志を示されたのに、まったく嬉しくなかった。むしろ不安を掻き立てられる。
「どうしたの、エリザベス? 今のは何だったの?」
 セシリーが顔を近付けて訊いた。姉の穏やかでない表情には気付いたものの、その意味まではわかっていないらしい。
「……なんでもないわ。お世辞ばかり言われてうんざりしたのよ」
 エリザベスは肩をすくめて、苦笑して見せた。ノーサンバーランド伯の姿はすでに群衆の中に消えていた。広間に集うおびただしい人々を見て、軽い寒気を感じる。この中に、伯爵と同じような考えを持つ者が、他にもいるのだろうか。
 ヨーク家のエドワード四世が、ランカスター家のヘンリー六世から王位を奪ったのは、もう二十年以上も前のことである。プランタジネット王家の血を引く分家どうしの争いは、イングランドを真っ二つに引き裂いた。いずれかの家に忠誠を誓う者もいないではないが、多くの者は時機を見て勝者の側に、自分に富と力をもたらす王に付きたいと思っている。ランカスター家の本流が途絶え、王位がヨーク家の内部で争われるようになっても、それは変わらない。
 現王権に不満を持つ者の中から、エドワード五世の復位を求める者が出てくるのだろうか。年端もいかない弟たちを担ぎ上げ、エリザベスの母や妹たちも巻き込んで、イングランドを二分する戦いが再び起こるのか。
 エリザベスは暗い考えを振り払った。宮廷に来たのは弟の王位を取り戻すためでも、社交界の注目を集めるためでもない。弟たちの無事を確かめ、母のところに返してやるためだ。
「レディ・エリザベス、レディ・セシリー」
 エリザベスは新たな呼びかけに振り向き、よく見知った顔を見て、ほっとした。
「お久しぶりです、サフォーク公――叔父上」
 最後の呼びかけは、少し迷ってから付け加えた。サフォーク公ジョン・ド・ラ・ポールは気を悪くした様子もなく、にこやかに答えてくれた。
「お久しぶりです。元気そうなお顔を見られて良かった」
「わたしたちもですわ。今日は叔母さまはご一緒ではありませんの?」
「あいにくでした。お二人にお会いできるとわかっていれば、領地から呼び寄せていたのですが」
 サフォーク公爵家は父の妹の嫁ぎ先である。エリザベスもセシリーも、彼とは父の生前から面識があった。老年に達してはいるが王家の外戚の一人として、宮廷ではそれなりの存在感を保ち続けている。
「お会いできて嬉しいですわ、叔父上。セシリーははじめてお会いする方ばかりで、ずっと緊張しどおしでしたの」
「それは無理もありませんな。でも、泰然と構えていらっしゃれば良いのですよ、レディ・セシリー。今夜はあなたや姉君と一言でも交わすために、ここに詰めかけた者ばかりなのですから」
「はい。ありがとう存じます」
 セシリーはぎこちなく微笑んで答えた。
 エリザベスはその隣で、先ほどから気になっていたことを口にした。
「サフォーク公、今日の夜会は出席者が多いのでしょうか。いつもこれくらいではないのですか?」
「いつもはもっと寂しいものですよ。というよりも、夜会そのものの数が少なくなってきているのです。王妃陛下がお出ましになれないためでしょうな」
 サフォーク公は頭を動かし、上座を見た。国王夫妻がつくはずの席は、どちらも空いたままである。
 リチャードの妃アン・ネヴィルの病弱は、彼女が王妃になる以前からよく知られていた。父の在世中、リチャードが公用でロンドンに来る時も、アンを伴って来ることはめったになかった。王妃としての公務にもほとんど出られていないらしい。エリザベスとセシリーも宮廷に来てから五日間、まだ一度もアンには会っていない。
「ご病状はかなり重いのでしょうか。わたしたち、まだ一度もご挨拶に上がっていないのです」
 サフォーク公は笑みを消し、軽く首を振った。
「あまり良い知らせはお聞きしません。ロンドンにお移りになる前からの長患いのようです」
「そうですか」
 エリザベスはぼんやりと答えた。人の不幸を嬉しいとは思わないが、ろくに知らない相手なので悲しいとも思えなかった。
 エリザベスが考えなければならないのは、この宮廷をどう泳いでいくかということだ。時勢を見極め、味方になる人間を選び、父や母の評判を落とさず、セシリーを庇いながら、弟たちを救い出す道を見出さなければならない。


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