テューダーの薔薇 [ 1−1 ]
テューダーの薔薇

第一章 宮廷 1
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 物心つく前からずっと、エリザベスは王女だった。父はヨーク家の最初のイングランド王エドワード四世。母は美貌の王妃として知られたエリザベス・ウッドヴィル。内乱や政争に巻き込まれることがあっても、十七年間ずっと王の娘として生きてきた。一年前に父が亡くなった時は、王の姉になるのだと思っていた。
 しかし今、イングランドの王位についているのは、エリザベスの父でも、弟でもない。
「セシリー、宮殿が見えたわ」
 エリザベスは馬の足をゆるめながら、かたわらの妹に声をかけた。
 三つ年下の妹セシリーは、エリザベスと速度をあわせて隣に並んだ。エリザベスが示したほうに目を向ける。
 ウエストミンスター宮殿は、一年前の父の死まで、エリザベスたちが暮らした場所だ。
「変な感じ。わたしたちがいない間も、あの宮殿は普通にここに建っていたのね」
「懐かしいと感じるかと思ったけど、そうでもないわ」
「家に帰ってきた気分?」
 セシリーはうなずいたが、すぐに首を振った。
「でも、もうわたしたちの家ではないのね」
 二人は母のもとを離れ、騎馬で宮殿に向かうところだった。一年前まで自分の家だった宮殿に招かれているのだ。
「それはそうだけれど、歓迎はされると思うわ。礼儀を守っていれば、それなりに楽しく過ごせるはずよ」
「……そうかしら」
「セシリー。お母さまが言ったことを思い出して。わたしたちは宮廷に作法を学びに行くのよ。貴婦人として扱われたかったら、不満をすぐ顔に出してはだめ。もう子どもではないのだから」
「そうね」
 セシリーは答えたが、沈んだ表情のままだった。
 エリザベスも妹には言えないが、心の底では緊張している。宮廷でどのように扱われるのか、さまざまな想像が浮かんできては消える。
 一つだけわかっていることは、父がいたころのようにはいかないということだ。自分たちはもう王女ではなく、先々代の王の庶出の娘に過ぎないのだから。
「セシリー、顔を上げて」
 エリザベスは笑顔をつくり、うつむいていた妹に笑いかけた。
「背筋を伸ばして、微笑むのよ。怖がってもいいけれど、怖がっていることを悟られてはだめ。いいわね?」
 セシリーがうなずいた。
 エリザベスは正面を見た。ウエストミンスター宮殿の全体が視界に入り始めている。

 馬に乗ったまま城門を通り、しばらく進んでから二人は足を止めた。待ち構えていた従僕が駆け寄ってくる。
「レディ・エリザベス」
 エリザベスは差しのべられた手を見つめて一瞬かたまった。今日からこの宮殿ではレディと呼ばれるのだ。王女ではなく。
 従僕の手を借りながら地面に降り立った。馬を預け、セシリーと並んで歩いていく。出迎えにそろっていた大勢の使用人の中から、年配の女官がひとり歩み出てきた。
「お待ち申し上げておりました。エドワード四世陛下のお嬢さまがた」
 女官はエリザベスの手を取り、短くキスをした。同じことをセシリーがされるのを待ってから、エリザベスは口を開いた。
「陛下のお招きに感謝します。すぐにご挨拶に上がれますか」
「国王陛下は明日お会いになるそうです。今日はお部屋にご案内し、ゆっくりお休みいただくよう承っております」
「王妃さまは?」
「アン王妃はお加減がよろしくありません。ご回復なさるまではお会いになれないと存じます」
「そうですか」
 女官の言葉は淡々としていた。丁寧だが必要以上に媚びへつらうことはなく、かといって見下しているふうでもない。長い宮廷仕えで鍛えられた表情からは、本心を読みとることはできなかった。
 彼女の顔には見覚えはないが、その後ろに控えた使用人の中には、エリザベスが見知った者もいる。父の存命中から宮廷にいた者たちを、そのまま雇い続けているのだろう。二人を見て懐かしそうに顔をほころばせた者もいたが、自分から歩み寄って声をかけようとはしてこない。誰もがしきたりの中で窮屈に縮こまっていた。
 セシリーが隣で身をこわばらせているのがわかった。エリザベスは妹の手を握り、前にいた全員に微笑みかけた。
「丁寧なお出迎えをありがとう。今日からまた世話になります」
「お二人に快くお過ごしいただけるよう、陛下より仰せつかっておりますので」
 女官はあくまで冷静な態度を崩さない。
 エリザベスは少し考え、試してみることにした。
「わたしたちも、母も、陛下のご厚意にはたいへん感謝しています。宮廷に置いていただく以上は、きっとそれに報いてお役に立てるよう努めます。あなたがたも力を貸してくれますか?」
「もちろんです、レディ」
「心強いわ。弟たちのそばにも、あなたのような者がいてくれると良いのですが」
 セシリーがびくりと震えた。エリザベスは妹に微笑み、再び女官の顔を見た。
 女官は表情を崩していなかったが、その後ろにいる数人の中には、動揺を隠せない者もいた。弟たち、とエリザベスが口にした瞬間に肩を揺らし、視線を動かして隣の者と顔を見合わせている。
「エドワード前王とその弟君でしたら、もちろん、ご身分にふさわしいお暮らしをなさっておいでです」
「ええ、そうでしょうね」
 エリザベスは答えながら考えた。イングランドの前王にふさわしい暮らしとは、どのようなものだろう。きっとその言葉を使った女官自身も、よくわかっていないに違いない。
「近いうちに顔を見に行けるかしら。弟たち――特に上の弟のエドワードとは、もう何年も会っていないのです」
「陛下がお許しになれば、すぐにもお会いになれましょう」
「お許しくださるかしら?」
「もちろんですとも」
 エリザベスは笑顔をつくった。これ以上は追わないほうがいいだろう。それに、隣ではセシリーが不安ですっかり硬くなっている。
「ありがとう、安心しました。まずは旅の汚れを落としたいので、中へ案内してくれますか?」

 エリザベスとセシリーは同じ部屋に通された。着替えや身のまわりの整理を一通り終えると、ようやく気を休めることができた。
 案内されたのは、一年前まで使っていたのと同じ部屋である。
 何名か残っていた侍女はすべて下がらせた。明るく親切な娘たちだったが、一度は妹と二人になっておきたかった。セシリーも同じ気持ちらしく、侍女たちがいなくなるとあからさまにほっとしていた。
「疲れた? セシリー」
 エリザベスは妹の隣に腰を下ろした。セシリーは初めての場所や初対面の人間が苦手なのだ。エリザベスが出迎えの女官と話している間も、無言のままずっと戸惑っていた。
「少し。でも、ここに来たら安心したわ」
 部屋の中は家具も調度も、以前のまま変わっていなかった。小さなテーブルにはかごが置かれ、さまざまな果物が宝石のように飾りつけてある。王妃からの贈り物ということだった。
 部屋まで案内してくれた者も、着替えを手伝ってくれた侍女たちも、丁寧で愛想が良かった。エリザベスとセシリーを気遣いながら、慎重に言葉を選んでいた。形式上、二人は王妃の話し相手ということになっているが、これはまるで客人の扱いである。
 宮殿に着くまではさまざまなことを考えたが、今のところは杞憂だったと言わざるをえない。
「ねえ、エリザベス」
 セシリーが隣から顔を近づけてきた。思い切って声をかける時の、この妹の癖である。
「なあに、セシリー」
「本当だと思う? あのお話」
「どのお話?」
「だから――お父さまが、お母さまより前に――」
「レディ・エリナー・バトラーのこと?」
 エリザベスがさらりと当てると、セシリーは深くうなずいた。
「本当だったかどうかということには、あまり意味がないわ。議会が認めたのだから、公にはそれが真実なのよ」
 エリザベスは考えながら、ゆっくりと答えを探した。
「でもね、セシリー。王妃としてずっと宮廷にいたのはわたしたちのお母さまだし、お父さまはわたしたちを心から愛してくださったわ。それを覚えておかなくてはだめよ」
 セシリーは素直にうなずいた。姉とこの話をしたいとずっと思い続けていたのだろう。母のいるところでは、このことは口に出せなかった。
 父エドワード四世が、母と結ばれる前に別の女性――エリナー・バトラーと結婚の約束をしていた。そのことを知らされたのは、一年前の父の死後まもなくのことだった。
 セシリーはショックを受けていたが、エリザベスは実はそれほど驚かなかった。父が外でどのような人間と過ごしているのかは、誰に知らされなくてもうすうす感じ取っていた。母との結婚後もそういった女性は何人もいたはずだ。
 問題はそのエリナーの存在のために、父と母の結婚が重婚とみなされたことだ。つまりエリザベスの両親は正式な夫婦ではなく、エリザベスや妹たち、弟たちは、非摘出の子どもということになる。
 イングランドの王位を継げるのは、神の前で誓い合った正しい夫婦の子どものみ。エリザベスの小さな弟は、エドワード五世として戴冠する前に、王座から引き下ろされた。
 代わりに王位についたのは、弟の摂政を務めていた叔父リチャード――エドワード四世の年の離れた末弟である。
 彼こそが、エリザベスとセシリーを宮廷に招いた人物であり、これからエリザベスが向き合わなければならない相手だ。
「エリザベス?」
 妹の声に我に返った。いつの間にか考え込んでいたらしい。隣から、セシリーが不安そうな顔で覗き込んでいる。
 エリザベスは笑顔をつくった。セシリーは内気な上、社交界に出たことがないので緊張している。この妹の前では難しい顔をしないと決めている。
「――だから、あなたは何も気にすることはないわ。さっきの侍女たちの態度を見たでしょう。お父さまがいらした時と同じくらい良くしてもらえそうよ」
「……ええ」
「心配しないで宮廷生活を楽しめばいいわ。社交界に出るのは楽しみにしていたでしょう?」
 妹はうなずかなかった。セシリーは、父の重婚は叔父がつくり上げた虚構だと信じたがっている。両親の名誉を汚し、弟の王位を奪った人物の宮廷で、楽しめというのは無理のある話だ。エリザベスも気持ちの上ではセシリーとほぼ同じである。
 だが、事はすでに起こってしまった。エリザベスたちは父を亡くした私生児であり、王となった叔父を頼らなければならない身の上だ。郊外の屋敷で下の妹たちと暮らしている母も、王から生活の援助を受けることになっている。
 けれども母は、ただ礼儀作法を学ばせるために、エリザベスを宮廷に送ったわけではない。


「エリザベス・プランタジネットと妹のセシリーです、陛下。お招きいただきありがとう存じます」
 エリザベスはセシリーと並んで、深く腰をかがめた。
 ウエストミンスター宮殿の、さほど広くはない一室である。装飾はほとんどなく、大きな家具といえば書き物机が一つだけ。その上には羊皮紙が何枚か、きちんとそろえて置かれている。
「よく来てくれた。二人とも楽にしてくれ」
 エリザベスは礼の姿勢をとくと、机を挟んで向かいに座っている人物、イングランド王リチャード三世を見た。
 もちろん、初対面ではない。父の生前に何度も顔を合わせ、言葉も交わしている。エリザベスたちはロンドンの王宮で、リチャードは領地であるイングランド北部の居城で暮らしていたので、会うことは多くはなく、それほど親しくしていたわけでもなかった。
「昨日のうちに会えなくて悪かった。部屋や使用人に不自由はないか」
「ございません、陛下。ご親切なおはからいにとても感謝しております」
 リチャードは机の前に座ったまま、言葉少なに訊いた。立ち上がってエリザベスたちの肩を抱こうとも、手にキスさせようともしなかった。彼の前には一枚だけ書きかけの羊皮紙が置いてある。たぶん執務の最中なのだろう。
 父には兄弟姉妹があわせて六人いたが、リチャードはその末子である。だからまだ若い――確か三十を過ぎたばかりのはずだが、そうは見えない。暗い色の瞳は無感動に伏せられており、笑いかたを忘れたような表情のせいでいっそう老けて見える。輝くような美貌で知られた父エドワード四世とは対照的だ。
 こんな人だっただろうか、とエリザベスは考えた。記憶をめぐらせてみても、以前のリチャードがどんなふうだったか、どこがどう変わったのかわからない。この一年間でさまざまなことがあり過ぎたのだ。
「王妃さまからもお気遣いをいただきました。お加減が良くないとのこと、ご心配申し上げております。お見舞いに上がれるでしょうか」
「回復してからで構わない。アンもきみたちには宮廷で楽しんでほしいと思っている」
 リチャードは言った。
「きみたちはわたしの姪だ。ここが自分の家だと思ってくつろいでほしい。きみたちの母上とも約束してある」
「ありがとうございます、陛下」
「夜会にも出ていいし、母上にも好きな時に会いに行けばいい。足りないものがあれば言ってくれ。何か希望はあるか?」
「――セシリー」
 エリザベスは妹を促した。一度は口をきかせたほうがいいと思ったからだ。セシリーは緊張した体をいっそうこわばらせて、なかなか声を出そうとしなかった。焼き付けるような目でリチャードを見つめ返していた。
 セシリーの考えていることは、エリザベスにもよくわかった。この一年で自分たちが失ったもの、奪われたもの。
 セシリーは答えた。
「――いいえ、陛下。何もございません」
「そうか。エリザベスは?」
 エリザベスは背筋を伸ばし、リチャードの目を見て微笑みかけた。
「わたしの願いはただ一つですわ、陛下。お聞き届けいただければたいへん嬉しく思います」
「言ってみなさい」
「弟たちに会いたいのです。ただそれだけですわ」
 リチャードがエリザベスの目を見つめ返した。
 エリザベスの二人の弟は、リチャードが即位する前に彼の手もとに置かれていた。廃位されたエドワード五世と、その下のリチャードだ。王位継承権を奪われた今も解放されることなく、幽閉されるように暮らしている――と聞いている。
 エリザベスは二人のためにここに来たのだ。弟たちに会い、二人を自由にするために。母のもとに帰してやるために。


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