濫読令嬢の婿えらび [ 15 ]
濫読令嬢の婿えらび

15.あなたとあなたの書斎
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 アマリエは再び馬車に揺られている。
 伯爵家の馬車ではなく、貸本屋の近くで拾った辻馬車である。向かいには優雅な笑みを浮かべるエドワードではなく、不機嫌そうに黙り込んだキースが座っている。
 アマリエは口を開くことができなかった。興味津々でふたりを見つめている人々から逃れ、貸本屋を出て馬車に乗り込んだのはいいが、それからお互いに一度も口をきいていない。アマリエとしては、さっきお店で言いかけたことは何だったの、と聞きたくて聞きたくて仕方がないのだが、キースの様子を見るととても切り出せる雰囲気ではない。
「キース、まだ具合が悪い?」
 だんだんそちらのほうが心配になってきて、アマリエはとりあえず尋ねた。
 キースがようやく目を上げた。
「いや、もう大丈夫だ」
「そう。良かった」
「なぜあんなことをした」
 口を開いたついでといった体で、キースはアマリエに言った。
「あんなこと? どのこと?」
「ベアリングさんが見せてくれた書類だ。きみが署名した、寄付の申し込みの」
 エドワードが去った後、ベアリングが声を落として、キースに自分が見聞きしたことを話してくれた。アマリエたちが貸本屋に現れてからの出来事だけだが、キースはおおよそのいきさつを把握したらしい。
 そこなのか、とアマリエは少し呆れた。
「決まっているでしょう。あの財産をエドワードに渡さないためよ」
「伯爵がきみを教会に連れ込んでいたら、どうするつもりだった」
「エドワードは財産のないわたしと結婚する気はなかったわ」
「結婚してから何か理由をつけて寄付を撤回されたかもしれない。そこまでは考えなかったのか」
 アマリエはむっとした。自分なりにうまく機転を利かせたつもりだったのだ。キースに褒められると思っていたわけではないが、少なくとも非難されるいわれはなかったはずだ。
「心配させてごめんなさい、キース」
「きみは何よりも自分を守るべきだった。財産なんかよりも」
 低く押し殺したような声を聞いて、アマリエはキースが怒っていることに気がついた。
 五年前、アマリエを見つけ出して家に連れていく時もそうだった。今と同じように、キースは馬車でアマリエの向かいに座り、一言も口を開かなかった。十二歳のアマリエとしては、キースがいったい何者なのか、自分をどこへ連れていこうとしているのか、なぜ自分を下町での労働から救ってくれたのか、知りたくてたまらなかったというのに。
 あの時もキースは怒っていた。何に対してなのかは今でもよくわからない。
「何に怒っているの? キース」
 アマリエが素直に問いかけると、キースは目をそらした。
「別に怒っていない」
「ねえ、たまには自分の気持ちをちゃんと話して。キースが何も言わないから、わたしは五年前にけっこう怖い思いをしたのよ」
 キースの自分の話を長々と続けないところは好きだが、ときどきはじっくり話を聞かせてくれてもいいと思う。特に今のように、重要な話を中断して放ったままにしてある時は。
「自分に怒っていた」
 キースがアマリエから目をそらしたまま、重い口を開いた。
「五年前? それとも今?」
「どちらもだ。今はきみを助けるために何もできなかったから怒っている。五年前は――それよりもっと前のことで怒っていた。きみの父上のことで」
「父のこと?」
「サー・ジョサイアが全財産を失って亡くなったのは、わたしのせいだ」
「キースの事業を助けようと決めたのは父でしょう。キースが悔やむようなことじゃないわ」
「断るべきだった。サーにまだ幼い娘がいたことは知っていたのに、お嬢さんのために財産を残しておいてくださいと言わなかった」
 なぜ今ごろになってキースがそんなことを言うのか、アマリエにはわからなかった。
 父の破産と死については、キースには何の責任もないと思っている。サー・ジョサイアは遅い結婚でアマリエをもうけたので、キースとも親子以上に年が離れていた。海軍で名を馳せた元士官であり、勲爵士の位と社交界での名声を持つ老紳士だった。その父から是非にと出資を持ちかけられて、若いキースが断れたとは思えない。ましてや、娘のことに口を挟めたなどとは。
 そもそも、キースが最初の事業でつまずいたのも、父が桁外れの資金を出して計画を狂わせたせいではないかと、アマリエはひそかに思っているのだ。
「わたしが父親と家を亡くしたことで自分を責めているの? それならもう終わったことよ。キースはわたしを見つけ出して、今までいい暮らしをさせてくれたじゃない」
「わたしもそう思っていた。きみを家に引き取って不自由なく暮らさせて、結婚する時に持参金としてサーの財産を返せば、すべてが終わると思っていた」
 キースは馬車の揺れに身を任せながら話を続けた。アマリエからそらしたままの目はどこか苦しそうに見えた。
「でも、きみが寄宿学校をやめた時、そうではないと気がついた。きみは四年間を労働者の子どもとして過ごしたせいで、本来の居場所だった上流階級には馴染めなくなっていたのだと」
 アマリエは五年前のことをゆっくりと思い返した。
 学校をやめてもいいと言われた日は、キースに引き取られた日と同じくらい重要な日だ。あの日にアマリエははじめてキースの書斎に入り、本を読みはじめた。学校の小さな教室にはおさまらない世界の広さを知った。社交界に出てからも自分らしく振る舞えたのは、あの日があったおかげだ。
 キースはそう思っていないようだった。視線を動かしてアマリエと目をあわせると、あがなうようにその目を伏せた。
「わたしがきみの人生を狂わせた。本来ならきみは勲爵士の令嬢として、何の疑問もなく上流階級で生きていけるはずだったのに。許してほしい。きみが嫁いでいく日に謝ろうとずっと思っていた」
「だから、わたしを貴族の方と結婚させたがっていたの?」
 結婚相手の身分にこだわるのは、父であるサー・ジョサイアとのつりあいを考えてのことだと思っていた。アマリエ自身の生き方をそこまで案じてくれていたとは思わなかった。
「上流階級の夫人になれば、きみが本来の人生を取り戻せるはずだと思っていた。父親と家を亡くしてひとりで働いていた時のことなど、すぐに忘れられるはずだと」
 どうしてキースがエドワードと同じことを言うのだろう、とアマリエは思った。
 アマリエを書斎に入れてくれた人が、あの広い貸本屋を築いた人が、どうしてかわいそうなエドワードと同じ、小さな世界の小さな尺度にこだわっているのだろう。
「キース。わたしはね、子どものころのことを忘れたいとは思っていないわ」
 アマリエが口を開くと、キースが再び目を上げた。
「確かに辛かったけれど、あの四年間はわたしの人生の一部だもの。なかったことにはできないし、したいとも思わない。上流階級だけが地球上のすべてだと信じて暮らすよりも、今のちょっとややこしい生き方のほうがずっと気に入っているのよ」
 自分がどこに属するのかわからずに生きているのは苦しい。でも、それも含めたのがアマリエの人生だ。両親が上流階級の出であることも、労働者として子ども時代を過ごしたことも、どちらもアマリエの大切な一部だ。
 それに、あの四年間がなければ、キースとは出会えなかった。両親のことを知るモーズリー夫人とも再会できなかった。ミランダやベアリングや、貸本屋に出入りするさまざまな人々と語りあうこともなかった。今ほどたくさんの本を手にとって、世界の広さに思いを馳せることもなかっただろう。
「ありがとう」
 キースがアマリエの目をまっすぐに見つめて、言った。
 アマリエは微笑んだ。窓から見える風景は見慣れたものになってきており、もうすぐキースの家があるスクエアに着くはずだ。
 キースもそのことに気づいているらしく、不機嫌な表情を消して座席でくつろいでいる。
「――え? 終わり?」
 我に返ったアマリエは、思わず間の抜けた声を出した。
 すっかり心の内を話しあったような気分でいたが、まだ肝心なことをキースから聞いていない。
「他に何かあったか?」
 キースは落ち着いた表情で訊き返してきた。とぼけているわけではなさそうだ。そもそもキースはそんな性格ではない。
「あったっていうか、あの――」
 貸本屋でアマリエの気持ちをはっきりと聞いたはずなのに、キースは忘れてしまっているのだろうか。近くで目をあわせた時、もしかしたらキースも同じ気持ちではないかと思ったのは、アマリエの勘違いだったのだろうか。
 アマリエが再び口を開こうとした時、無情にも馬車が大きく揺れた。スクエアに入ったのだ。
 馬車が停まり、扉を開けようとしたキースの腕に、アマリエは手を伸ばした。
「待って、キース。あのね――」
 あせって言葉を探すアマリエを見て、キースは目をそらした。アマリエが言おうとしていることを察したようだった。
「その話はまた、家に入ってからあらためて」
「あらためないで。キース、わたしはずっと片想いをしてきたのよ」
「片想いというなら、わたしのほうが」
「――え?」
 意外な言葉を聞いてアマリエは目を丸くする。
 背けたままのキースの顔が、心なしか赤くなっている。
「きみは昨日やっと気づいたと言っていたが、わたしはもう少し早かった」
「本当なの?」
「本当だ。求婚者たちのことをきみにいちいち相談されていたわたしの身にもなってほしい」
 首にかじりついて唇を重ねたい、とアマリエは思った。思うだけではなく実際にそうした。
 未婚の令嬢がそんなことを考えるなんてという人もいるようだが、知ったことか。アマリエの心はアマリエのものだ。
 キースは落ちかけた帽子を手に取り、アマリエの目を覗きこんで言った。
「サー・ジョサイアが今のきみを見たら驚かれるだろう。誰が娘をこんなふうにしたのかと」
「あなたと、あなたの書斎」
 キースは今日はじめて笑い、すぐ真顔になってアマリエを抱きしめ、耳もとでささやいた。
「愛してる」
 たっぷり一分間は置いてから、ふたりは馬車の扉を開け、並んで降り立った。



 ティム・ベアリングはヘイゼルダイン貸本屋の貸出受付に座り、今日も恍惚として立ち並ぶ書架を見上げていた。
 談話会は無事に終わったが、まだ社交期は続いている。店内にはロンドンに滞在中の上流階級の姿がちらほらと見られ、本を選ぶよりも噂話に花を咲かせている者たちもいる。
「まったく、とんだ茶番につきあわされたものだ!」
 おや、とベアリングが目を向けると、閲覧席に座ったひとりの紳士が、連れのもうひとりの紳士にぼやいていた。本人は声を落としているつもりなのだろうが、カウンターまで筒抜けである。
「後見している娘の花婿を募集するようなことを言っておいて、結局は後見人である自分が結婚します? だったら最初からそうすれば良かったのに」
「ということは、きみもミス・ヘイゼルダインに言い寄る予定があったのか」
「候補のひとりに考えていたくらいだ。それにしても、まわりくどいことをしてくれる」
 ベアリングは客たちから見えないように微笑んだ。
 アマリエ・ヘイゼルダインとキース・ダンフォードが婚約したのは、つい一週間前だ。新聞各社がこぞって書き立てる前から、貸本屋の社員や常連客はこのことを予想していた。アマリエがこの場所で繰り広げた騒動を目撃していたからだ。
 あの日アマリエが書いた寄付の申込用紙は、当然ながら不受理となった。アマリエの財産は手つかずのまま残されている。
 ふたりを知る社員たちは婚約をおおむね祝福している。中には、自分は最初からこうなると思っていたなどと得意げに言う者もいる。もっとも、結婚そのものは四年も先になるらしい。アマリエが成年に達するまで待ったほうがいいと、キースが主張したのだそうだ。
「――この世は地獄だ。妖精のように美しいと思っていた女性が、まさか公衆の面前で伯爵と大喧嘩するなんて」
 呪文のようにつぶやきながら現れたのは、紀行作家のローマン・ヴィンセントだった。彼は返却の本をベアリングの前に差し出した。
「新しいのは借りて行かれないのですか?」
「そろそろ次の旅に出るから」
「そうですか、良いご旅行を」
「ありがとう。それにしても、わたしの理想の女性はどこに行けば見つかるのだろう?」
 ベアリングが答えずに笑顔だけ返すと、ヴィンセントは額を押さえ、また呪文を唱えながら去っていった。
「残念だったな、クレイグ。ミス・ヘイゼルダインは年上好みだったようだ」
 貸出受付にほど近い閲覧席では、マクローリン出版の三兄弟が話し込んでいる。どうやら兄ふたりが末弟をからかって楽しんでいるようだ。
「おまえのことだから、どうせ彼女といながらろくに口もきかなかったんだろう」
「そんなんじゃ女性をものにできないと何度も言ってるのに。そろそろ本気で口説き方を教えてやろうか」
「うるさい黙れ」
 クレイグ・マクローリンは兄たちを一蹴し、読んでいた大型の本で顔を隠す。
 ベアリングは苦笑して、二階の壁一面に広がる書架に目を移した。
(やれやれ、もうしばらくはこんな話ばかり聞くことになりそうだ)
 ここにもし、当のアマリエ・ヘイゼルダインが現れようものなら――
「ベアリングさん、こんにちは」
 愛らしい声がすぐ前で聞こえ、ベアリングは視線を戻した。近くにいた他の社員や客たちもいっせいに振り向いた。
 ボンネットからこぼれた琥珀色の髪に、深い紫の瞳。あいかわらず絵画から抜け出てきたような美しさだが、以前よりもいっそう生き生きと輝いている。
「こんにちは、アマリエお嬢さん。お決まりで?」
「ええ、これをお願い」
 ベアリングはアマリエの会員証を確認し、続いて三冊の本を手に取った。
 経済学の入門書、商業理論、教育史――また妙齢の令嬢とは思えない選択である。
「キースがね」
 台帳を記入するベアリングの耳もとに、アマリエが小声で打ち明けた。
「わたしに持たせてくれるはずだったお金、わたしの好きにしていいって言うの」
「ほほう」
「わたし、そのお金で、キースみたいに事業をやってみようと思うの。だからこうして勉強を始めているのよ」
「何の事業です?」
「学校よ」
 声の量はそのままに、アマリエはにこりと笑った。
「学校に行けない子どもや行けなかった大人に、安い授業料で読み書きを教えるの。貸本屋の隣に学校があれば、字を覚えた人が本を読みに来てくれるかもしれないでしょう?」
「いいですね、それは」
 ベアリングは心から微笑んだ。それこそ、ベアリングが敬愛するヘイゼルダイン貸本屋の精神そのものだ。
「ありがとう。まだまだ先になりそうだけど、その時はベアリングさんも相談に乗ってね」
 アマリエは花のような笑みを残し、本を抱えて受付から去っていった。
 ベアリングは椅子の背もたれに身を預け、再び書架を見渡した。世界のあらゆる知恵と真理が詰め込まれた、宝の山を。
「それにしても、ベアリングさん、あんたの予想は当たらなかったな」
 隣に座っている年の近い同僚が、ベアリングに声をかけてきた。
「うん?」
「アマリエお嬢さんの婿えらびだよ。文豪より面白い話ができる紳士がいいと言ったが、そうでもなかったようだ」
 アマリエが実際に選んだキースは、どちらかというと口数の少ないたちだ。
「確かにそうだったね」
 ベアリングは穏やかに答え、微笑んだ。
「世界広しと言えども、本よりも面白い人間なんて、そう見つからんさ」



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