濫読令嬢の婿えらび [ 14 ]
濫読令嬢の婿えらび

14.花嫁は三ギニー
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「貴族というのは、何かと物入りな家業なのですよ。あなたにはわからないでしょうが」
 エドワードは結婚許可書をたたみながら話し続けた。
 馬車はあいかわらず速度を変えず、ほとんど揺れることもなく、素晴らしい乗り心地を保って走り続けている。カーテンは閉められたままなので、どこを走っているのかアマリエにはわからない。
「この馬車も、使用人も、夜どおし踊ったり飲み交わしたりする習慣も、体面が大事なら捨てることはできないのです。領地に帰ればさらに多くの使用人を抱えた屋敷があり、独り身には広すぎると感じても手放すことは許されない。まったく馬鹿げていますよ」
 言葉とは裏腹に、エドワードの表情はどこか楽しげだった。はじめてアマリエと話したころと同じ、そつのない雰囲気が戻りはじめていた。
「あなたの養父のように身を粉にして働ければいいのですが、そんなことをすればオクリーヴ伯爵家は地に落ちたと蔑まれるだけです」
「前にも言ったけれど、キースはわたしの養父じゃないわ」
「口を挟むのはそこですか。まあ、養父とは結婚できませんから、あなたにとっては重要なことなのでしょうね」
 いちいち癇に障る言い方である。しかし思い返してみれば、彼はもともとこのように話す人だった。
 自分の善行に照れ笑いをし、ぼくは見栄っぱりなんです、などとうそぶいていた時よりも、今のほうがよほど生き生きとしている。
「言い直しましょうか。あなたの養父ならぬ後見人のように稼ぐことができない我々には、生まれにふさわしい暮らしを続けるための手段はひとつしかありません。裕福な令嬢を妻に迎え、息子にその財産を相続させること。貴族に課せられた唯一にして最大の仕事です」
「それでわたしに狙いを定めたということ?」
 適齢期の女子相続人と、その財産めあての美貌の悪党。馬車での誘拐に結婚許可書。みごとなまでに、ミランダが好きな扇情小説そのものだ。
「だったら、どうして、最初からわたしに求婚しなかったの」
「真っ向から勝負に挑んでも、あまたの求婚者たちの中に埋もれるだけでしょう。あなたはぼくのような男は好みではないようだし。どうすればあなたの心を射とめられるか、自分なりにいろいろと研究してみたのですよ」
「研究?」
「第一印象が悪い人間ほど、後に忘れられない相手に昇格しやすい。かりそめの関係を結んでいるうちに、どちらからともなく本気で惹かれあう。こういった知恵を仕入れるために、いまだかつてないほど読書に励みました。ぼくはこう見えて勤勉なたちでして、女性が好みそうな小説や戯曲を山ほど読みましたよ」
「――貸本屋で?」
 アマリエが低い声で切り返すと、エドワードは喉の奥で笑った。
「あなたもそういう皮肉を言うんですね。ええ、貸本屋も使いました。あいにくあなたの後見人の店ではありませんでしたが」
 どうせならキースの店を使ってくれれば良かったのに、などとせせこましいことを考えながら、アマリエは呆れ半分に感心していた。
 財産つきの妻を得るために、せっせと本を読み、女性が喜びそうな恋愛の型を学び、それを実践に移す。本人も言っているとおり、涙ぐましいほど勤勉な努力家ではないか。稀代の女たらしの名が泣きそうだ。その根気と実行力があれば、妻の持参金などあてにしなくても伯爵家を維持していけそうなのに。
「あなたの努力は素晴らしいと思うわ。でも、どうしてわたしだったの? わたしよりお金持ちで、あなたのことを好きになるご令嬢はたくさんいるでしょう」
 それこそ、社交場で彼を取り巻いていた女性の中にも存在しそうだ。
 アマリエが問いかけると、エドワードは肩をすくめた。
「ぼくが名狙撃手でもあることはご存じでしょう。狩りの妙味はね、みずから罠にかかってくる小物で満足することではなく、誰も見たことのない大物を狙って危険を踏むことなんですよ」
 アマリエは鹿か猪か何かか。まわりくどい上に失礼なたとえにアマリエはげんなりする。
 しかし、彼にまんまと仕とめられかかっていたのは事実だ。地下書庫での出会い方が最悪だっただけに、かえって彼のことが記憶に刻みつけられた。自分との思いがけない共通点を見つけて気持ちが揺さぶられた。正餐会で彼のパートナーを装うのはスリルがあって楽しかった。一緒にロンドンの街を歩いた時は、探し求めていた相手かもしれないとさえ思った。
「わたしは、あなたは友達だと思っていたわ」
 アマリエは皮肉に皮肉で返さず、正直に言った。口に出した瞬間、自分が思いのほか傷ついていることに気がついた。
 愛しあうことはできなくても、この人は友達だと、仲間だと思っていた。社交界でもてはやされる美貌の伯爵が、アマリエの話を熱心に聞き、一緒に考えてくれた。そのことに救われるような思いでいたのは確かだったのに。
 エドワードはせせら笑った。
「友情なんてものが何の役に立つんです? 愛せるか、愛せないか、それだけですよ」
「妻になるか、ならないか?」
「そのとおりです。それ以外の何のために女性の長話につきあう価値があるんです」
「――かわいそう」
 アマリエはエドワードの目を見つめ、心からの言葉を口にした。
 エドワードの笑みがはじめてひきつった。
「どういう意味です?」
「そのままの意味よ。あなたは、かわいそう」
 アマリエより九つも年上なのに。生まれた時からたくさんの人や物に囲まれて、豊かな環境で育ってきたはずなのに。この人はなんて窮屈な場所で、広い世界を知らずに生きているのだろう。
 本を読むのは裕福な妻を射とめるため。妻を得るのは持参金で伯爵家を潤すため。たったそれだけのことに時間も財産も、恵まれた容姿も才覚も費やしている。他の生き方があるかもしれないなどとは考えもしない。これがかわいそうでなくて何なのか。
「同情しているのか、ぼくに」
 エドワードの顔が、笑みを浮かべたまま歪んだ。そうしてなお美しい表情だった。
「きみのほうこそどうかしている。それだけの美貌と莫大な財産がありながら、貸本屋の妻として生涯を終えて満足なのか」
「キースには、わたしを妻にしてくれるつもりはないわ」
「よくよく考えれば、どれだけ愚かな選択をしているかわかるはずだ。ぼくを受け入れさえすれば、きみは伯爵夫人として上流階級に復帰できる。子どものころのみじめな生活など忘れて、何ひとつ不自由のない暮らしを送れるんだ。社交界の面々はぼくが遊蕩をやめて身を固めたと知って、ミス・ヘイゼルダインの魅力がそうさせたのだと噂するだろう。まともな淑女なら誰もがうらやむ地位を袖にするつもりなのか」
「わたしはきっと、まともな淑女ではないんだわ」
 アマリエはエドワードの目を見つめ、静かに言った。
 この人は最悪だ、と思った。ローマン・ヴィンセントよりも、クレイグ・マクローリンよりも、はるかに悪い。
 彼らはアマリエを、絵に描かれた美しい妖精や、自分の知識を披露する受け皿と思っていたわけだが、この人はアマリエの内面を知った上で、自分の思いのままにそれを変えられると思っている。
「だったら、ぼくがあなたを、まともな淑女にしてさしあげますよ。もうすぐ教会に着きますから」
 エドワードはカーテンの端を持ち上げ、外の景色を覗いた。優雅な笑みと口調が戻ってきていた。
 アマリエは深く息を吸い、吐いた。逃げ場を失ったことはわかっていたが、意外にもそれほどの打撃を感じなかった。エドワードの言葉を借りるのは嫌だが、キースと離れて他の男性に嫁がなければならないなら、それが誰であれ大した違いはない。
「わかったわ、ロード・オクリーヴ」
 アマリエはエドワードをまっすぐ見つめた。
「あなたの言うとおりにするわ。ただし、あなたもわたしの言うことを聞いてくださるなら」
「交換条件ですか。内容によっては呑みますよ」
「教会に行く前に、ヘイゼルダイン貸本屋に寄って、あなたの会員証を作ってほしいの」
 エドワードは訝しそうに眉を動かした。当然である。場違いな申し出であることはアマリエがいちばんよくわかっている。
「わたしを妻にした後もヘイゼルダイン貸本屋と懇意にして、キース・ダンフォードの娘婿として、お店を支持していくことを約束してほしいの」
「その証明として、会員になれと」
「そうよ。オクリーヴ伯爵が会員になったことが知れ渡れば、お店の評判はますます上がるわ」
 この場での思いつきとはいえ、アマリエは本気だった。
 キースの側にいることが叶わないのなら、せめて彼の役に立ちたい。
「貸本屋で馬車から降りて、助けを求めるつもりなのですか?」
 エドワードはゆったりと座席の背にもたれ、微笑んだ。アマリエが観念したのを見て、余裕が出てきているようだ。
「そんなことはしないわ。お店に行っても、わたしは絶対に口をきかないから。心配なら馬車に置いていってくれてもいいわよ」
「そこまで疑っていませんよ。一緒に行きましょう、ひとりで残して逃げられては困りますし」
 やっぱり疑っているじゃないの、と言いたくなるのをアマリエは抑えた。エドワードがこちらの条件を認めてくれたことは確かなのだ。
「では進路を変えましょう。まずはあなたの愛するヘイゼルダイン貸本屋へ」
「その後が教会ね」
 馬車がエドワードの指示を受け、走った道を引き返しはじめた。

 貸本屋の店内には、いつもと変わらず多くの客と社員の姿があった。
 出入り口の側にいる案内員や、貸出受付と書架を行き来する担当者は、アマリエの姿を見て目を丸くしていた。昨日、アマリエが血相を変えて飛び出していったことを覚えているのだろう。
 女性を中心にした利用客たちは、アマリエの隣にいるエドワードに目をやり、さっとそらす。これは今まで彼と一緒にいた時と変わらない。
 アマリエは無言で貸出受付へ歩いた。エドワードはやや離れてついてきている。
「わたしが手続きを頼みましょうか?」
「いいえ、けっこうですよ」
 アマリエが約束をやぶって口を開いても、エドワードは怒らなかった。やんわりと、短い言葉で、アマリエの口を封じた。
「会員証を作りたいのだが」
 エドワードはカウンターに体を預け、向かいに座っている担当者に言った。
 声をかけられた者も、左右に並んでいる別の社員たちも、戸惑ったような目をエドワードとアマリエに向けている。
 アマリエがエドワードとともに店に来たのははじめてではないし、新聞記事に端を発した婚約の噂もまだ消えていない。客観的に見れば、エドワードがアマリエの勧めで会員になりにきただけであって、特におかしいことではない。それでも視線を送ってくる者がいるということは、何か不穏な空気がふたりを取り巻いているからだろうか。
「こちらにご記入をお願いします、ロード」
 担当者の男性が、戸惑った表情のまま一枚の紙を差し出した。
 会員になるにはまず、氏名や住所などの必要な情報を記入する。それから年会費の三ギニーを払い、担当者が作った名刺型の会員証を受け取れば、その時からヘイゼルダイン貸本屋の会員である。一年間、この建物の中にある本という本を、好きなだけ借りて読むことができる。
 エドワードは長身をかがめ、担当者から紙とペンを受け取った。彼が自分の氏名を書き込むのを、アマリエは横目でしっかりと見届けた。
 カウンターのまわりに、さらさらとペンが走る音が響く。
 やがてエドワードが顔を上げ、真新しい会員証を手ににっこりと笑った。
「終わりましたよ、アマリエ」
「わたしも終わったわ」
 アマリエはカウンターに寄りかかったまま横を向き、エドワードに答えた。それから、書き終えたばかりの書類を、向かいにいる顔見知りの社員に手渡した。
「――え?」
「ベアリングさん、それを読んであげて」
 アマリエから書類を受け取ったベアリングは、それを読んでぎょっと目を見開き、アマリエの顔を見上げた。
「アマリエお嬢さん、しかし、これは――」
「いいから、お願い」
 ベアリングは途方に暮れたような顔をしたが、やがて再び書類に目を落とした。
「私、アマリエ・ヘイゼルダインは、ヘイゼルダイン貸本屋ならびに系列の全事業に、――ポンドを寄付することをここに申し込む。支払方法は――」
 ベアリングが金額の部分を口にした瞬間、カウンターのまわりが小さくどよめいた。
 以前キースに教えてもらった、アマリエの全財産の概算だ。
「前に話したわよね。ここの受付では、年会費の三ギニーの他に寄付金も募っているって」
 何が起こったのかわからない様子のエドワードに、アマリエは淡々と続けた。貸本屋の経営や制度についてはキースに何度も聞いているので、すらすらと説明することができる。カウンターに置いてある寄付の申込用紙も難なく見つけられた。
 もっとも、これほど高額の寄付がこの書類一枚で受理されるのかは知らない。ベアリングに訊いても前例がなくてわからないと言われるだろう。
「これでわたしの全財産はヘイゼルダイン貸本屋のものよ。さあ、次は教会だったわよね。無一文のアマリエ・ヘイゼルダインを妻にしたいのなら、どうぞ連れていって」
 我に返ったエドワードの目に、じわじわと怒りのようなものが浮かんできた。手に入れかけた財産をすんでのところで失ったことに、ようやく気づいたらしい。
 美しい唇が笑みの形に歪む。
「なるほど、これがあなたの本心ですか。ぼくとの結婚から逃れるためなら、自分の財産を投げ捨てても構わないと」
「わたしの財産じゃないわ、キースのよ」
 アマリエは本音を叫んだ。
「父がキースを見込んで出資して、キースが努力で増やしたお金よ。あなたになんて一ペニーだって使わせない」
 そこまでまくしたてたものの、エドワードの手に作りたての会員証が握られているのを見て、さすがに気の毒になって付け加えた。
「でも、あなたを騙したのは事実だから、年会費の三ギニーはお返しするわ。なんなら、結婚許可書の申請にかかった費用も」
「余計なお世話だ!」
 エドワードははじめて声を荒げ、周囲の視線を集めていることに気づいていずまいを正した。それからあらためて微笑んだ。
「そんなにあの養父のことが好きですか。事業を成功させるだけの才覚と、妻の持参金をあてにしなくていい財力と、ただで手に入る誠実さしかない男と、そんなに結婚したいのですか」
「……その三つがあればじゅうぶんだと思うけど」
 キースはアマリエの養父ではないし、アマリエと結婚してくれる見込みはないと、この人は何回言ったらわかるのだ。
 だいたい、アマリエはつい昨日失恋したばかりなのに、どうしてこう何度も傷口に塩を塗られなければならないのだ。
「それからキースは見た目もいいわよ。あなたみたいにきらきらしていないけど」
「これは生まれ持った資質ですからね。一介の商売人には手に入りませんよ」
「別に手に入れてほしいとも思っていないわ」
「そのままのあなたが好き、ですか。そんな歯の浮くような台詞がよく言えるものだ」
「言っているのはあなたでしょ」
「ぼくは女性に喜んでいただくためなら、もっと恥ずかしい台詞も真顔で言えますよ。あなたの養父にはできそうにありませんけど」
「養父ではないし、あなたみたいな言葉をキースから聞きたいとも思わないわ。キースはあれで優しいし、言うべきことは言ってくれるし、何よりわたしの話をちゃんと聞いてくれるんだから!」
「――お嬢さん、アマリエお嬢さん」
 たしなめるようなベアリングの声が割り込んできた。
 周囲の注目を浴びていることは知っているし、気にもならないと言おうとしたが、彼が指し示している方向を見て凍りついた。
 キースがそこに立っていたのである。
 いつも仕事に出ていく時と同じ、質素だがきちんとしたコートを着て、黒い髪を整えて、しかし普段は見られない呆然とした表情を浮かべて。
「キース、どうしているの」
 いつからいたの、という言葉は喉まで出かかったが抑え込んだ。
 貸出受付やその近くにいる社員たちは、療養中のキースが店にいることに驚いている。聞き耳を立てていた客たちはキースがここの経営者だと知らないので、彼の登場が何を意味するのかわからず首を傾げている。どちらにも共通するのは、事の顛末を是が非でも見届けたいという執念だ。
「きみの帰りが遅いから……いや、どこかに寄っているだけだろうとは思ったが、どうしても嫌な予感がして。しかし心あたりの場所はそうないから、ひとまずこの店に……」
 全員の注目を集めているキースは居心地悪そうにしながら、しかしアマリエの目を見て説明した。
 キースの声を聞いて、姿を目にして、アマリエは泣きそうになる。
 アマリエは助けを求めようと試みさえしなかったのに、心配になったというそれだけでキースは捜しに来てくれた。捜すあてがほとんどないにもかかわらず、病みあがりの体で。
 キースは底なしに優しいのだ。サー・ジョサイアの娘に対しては。
 嬉しさと苦しさが同時にこみあげてきて、アマリエは何を言ったらいいかわからない。
 何を言ったらいいかわからないアマリエの隣で、エドワードが意気揚々と口を開いた。
「お話するのははじめてですね、ミスタ・ダンフォード。たったいま、あなたの店の会員になったところですよ」
「それは、どうも――」
「聞いていたでしょう。ミス・ヘイゼルダインは、あなたのことが好きなのだそうですよ。どうです、大恩人のお嬢さんに愛されているお気持ちは」
 ――ころす!
 アマリエは言ってはならない言葉を心の中で吐き、エドワードを睨みつけた。
 自分の口からもはっきりとは伝えていないのに、死ぬまで胸に秘めておこうと思っていたのに、どうしてよりにもよってこの人からキースに言われなければならないのだ。
「え? でもアマリエ、きみには好きな人がいると――」
「だから、それがキースなの!」
 アマリエはやけになってキースを遮った。
 昨日ほのめかした時に気づかれたかと思ったが、そうでもなかったらしい。キースはきょとんとした顔でアマリエの言葉を聞いている。
「わたしが好きなのはあなたよ。でも、あなたがわたしに、早く結婚相手を見つけろって言うから」
「そんなことを言ったか?」
「言ったわよ。談話会に出席して、花婿を選べばいいって」
「社交界でいい縁が見つかればいいとは言ったが、結婚を急げと言った覚えはない」
「同じことじゃないの! キースがそう言うから、わたし、早く結婚してあの家を出て行こうと思ったのよ」
「そんなことは気にしなくていいと、何度も――」
「もう、そんなふうに優しくしないで。サー・ジョサイアの娘だからって大事にされるのは、わたしには辛いだけなの」
 抑えようと思ったのに、目に涙が溢れてきた。キースにここまで心の内を明かすつもりはなかったのに、いったん口を開くと言葉も感情も止まらない。
 キースはアマリエの前まで歩いてきて、顔を覗きこんだ。瞳と瞳が吸い寄せあうように近くにある。
「サー・ジョサイアの娘だから大事にしていたわけではない」
「嘘ばっかり。だったらどうしてわたしを捜して引き取ったのよ」
「はじめはサーから受けた恩をきみに返すためだった。あの時のきみは子どもだったし。でも、五年も一緒に暮らした今は――」
 キースが言葉を途切れさせ、アマリエからさっと目をそらした。
 今度はアマリエがきょとんとする。
 何か、とんでもない言葉を聞いた――というか、聞いているような気がする。
 キースは横を向いたまま、閉ざした口を開こうとしない。アマリエはそのキースを見上げ、次第に大きくなっていく自分の胸の音を聞く。
 先を促すべきか、それとも何か別のことをするべきか。
「――おい」
 アマリエが迷っていると、離れたところから不機嫌な声が割り込んだ。
 顔を上げると、すっかり輪の外に追いやられていたエドワードが、ひきつった笑みでふたりを見つめている。
「そういうのはぼくが退場してからやってくれ」
 自分がキースに話をふったくせに、彼はアマリエたちに背を向けてその場から歩きだした。作られたばかりのヘイゼルダイン貸本屋の会員証を手にしたまま。
「またのご利用を、ロード」
 間が持たないのを心配したのか、ベアリングがカウンターの向こうから穏やかな声をかける。
 エドワードの後ろ姿がぴたりと止まった。しかし、彼はけっきょく振り返らず、そのまま貸本屋の店内から去っていった。
 三ギニーを返さなくて良かったのだろうか。


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